目的地には直ぐに辿り着けた筈。
だがその時、何故彼女は時間を掛けて海を馬車で越え、朽ちた道を登って行こうとしたのだろう?
本人に尋ねた時、
「時間を費やして全てを語り、告げ、そして終わらせる為に」
人に必要なのは何時だって時間だと彼女は言った。そして人よりも移動に時間を必要としない、全てを理性で解決出来る者こそ、この無駄とも思える時間が必要なのだとも。
クナ様にその事を伝えた時、微笑まれた。
俺には解らなかったけれども、クナ様には何か思うところがあったのだろう。
**********
空気の薄さに喘ぎつつ山を登り、途中で ”野生原種の山羊だ! 捕まえて捌いて食うぞ!” ”やっほぉ! 家畜の山羊とは味違うんですよね!” 狩りをしつつ ”高地は水が沸きやすいんだ” 桶に水を汲んで湯に変えて身体を洗いながら、目的地に到着した。
緑色の稜線と空のが、誰のためでもなく、唯そこに存在していた。
ヒルダは手で影を作りながら空を見上げ、冷たいが痛いような日差しを前に、
「空が近いってこういう事を言うんですね」
足で立つことの出来る、この地上で最も高い場所に来たことを実感していた。
「だろうな」
ドロテアは向かい側の山に見える小さな城を眺めていた。
海岸線にあった寂れ朽ちている霊廟とは違い、美しく廃墟と化してゆくセロナード城。
その滅びはドロテアの故郷とは正反対の、安らぎに満ちた物に見える。
小さな花々が風で揺れるのに目を細めた後、
「景色でも眺めてろ!」
ドロテアはそう言うと、何時も通り躊躇い一つ無く湖に飛び込んでいった。
「では行ってきます!」
「役に立たないけど、行ってくるわ」
ドロテアの後について湖に飛び込もうとしている二人と、
「俺は付いて行かなくても平気だよね」
一人居残りを宣言するエルスト。
「意味無くても来て下さいよ、エルストさん」
何を言っているのですか? と真顔で言い返すヒルダと、
「そうよ、役立たずでもついてきてよ、エルスト」
何馬鹿な事言ってるのよ! とあきれ顔で言い返した後、
「ヤロスラフ! そのドロテアの駄目亭主連れてきてね!」
振り返りもせずにそう言い、マリアは湖に飛び込んだ。
「行くぞ、エルスト」
「俺本当に要らないと思うんだが」
「私もそう思う。だが、来い!」
ドロテアを追って飛び込んだ二人の後を、エルスト強制同伴で飛び込むヤロスラフ。
「俺、本当にいら……」
飛び込んだ音と飛沫で、エルストの主張なのか? なんなのか? 良く解らない言い分はかき消された。
勢いをつけ過ぎた感のあるヤロスラフの飛び込みの後、湖の上に虹がかかる。
【今回は俺達も一緒にはいかなかったが……エルスト、必要あるか?】
【……さあ】
本当に必要なのかエルスト?
誰もが声を上げずに虹を眺め、
「私、文章の解読手引き書の解読を」
「俺はスケッチでもするかなあ。こんな場所、滅多来られないしさ」
「今日はここで休んで、明日から下山といっていたな。では天幕でも張っておこうか」
「手伝う、警備隊長」
「ありがたい、元親衛隊長」
無理矢理現実に立ち戻った。
その人の環から外れた所に佇むオーヴァートと、
「無駄な事を」
「同意する」
「セツ」
彼を追ってきたセツ。
正確には追ってきた訳ではなく ”何かヤバイ行動を取ったら、どうにかして下さい……” と全員に依頼されて、平素ヤロスラフが行っている見張りに来たのだ。
「お前にセツ呼ばわりされると、気味が悪いな皇帝」
セツが見張った所で、オーヴァートが狂った行動を取りだしてしまったらどうにもならない上に、自分の利にならない国で皇帝が暴れようが、何とも思わないセツ。その態度はエルスト並に事態を静観すること間違い無しなのだが。
二人並べて置いておくと、その場にいる下々(王や名家や色々居るが)の力弱き存在達(闘技場伝説の男や、元魔王の霊体など居るが)の心が安らぐのだ。
そんな明かに邪魔にされている二人は、斜面に佇み表情を変えずに話続ける。
「皇帝をお前呼ばわりする男に言われたくないが」
「あの女がお前を呼び寄せた際に初対面した、その時何故か初対面とは思えなかった。初対面な筈なのに、不思議なものだ。皇帝よ」
「海の底に沈んだ棺をこじ開けた。そこには何もいなかった」
「何の話だ?」
向こう側に見える、自然の傾斜に唯一存在する建築物セロナード城を眺めながら、オーヴァートは笑った。
「あれは皇統に対して忠実だ。三十年近く前に、あそこに見えるセロナード城で人が消え去った。怪異として有名な事件、その真犯人は ラ・セロナード・プリンス・エルスト=カルヴィェロッサ=デ=ネーセルト・バンダ 皇統名で言えば ラシラソフ=エルスト=フェールセン=ディ=フィ=ランブレーヌ 現在はアレクサンドロス四世と名乗らされている」
「……」
「忠実な男だ。あれの補佐にお前を置き、選帝侯として皇帝に仕える為に神の国から出た」
「ヤロスラフは知っていたのか」
「勿論。気付かないわけがないだろう、気付けない筈がないだろう。あれは選帝侯」
「あの男の声が神に届かない事を知っているか?」
「この私が知らないとでも? だが、ヤロスラフが祈りを捧げる神には届いたはずだ。アレクサンドロス=エド、その子孫である最高枢機卿セツ。お前には確かに届いていただろう」
***** あの男の祈りは確かに知っている。届いたのか? 俺があの場に残った事で、届いたと *****
誰かが祈る声で堕ちた意識が、強引に浮上させられた。
「……」
俺に背を向けて、夜空を映し出す大きな窓に向かい膝をつき祈る男。祈りの言葉に淀みはない。
見た目の年齢から考えて、ここまで流れるように、そして正確に祈る事のできる人間はいないだろうと思いながら、俺は身体を越した。
「目が覚めたか」
男は振り返る事なく、祈りを捧げる姿勢を保ったまま俺に話しかけて来た。
「……」
「俺は僧正ヤロスラフ。この年齢で俺が顔を隠していない理由は解るか」
俺は頷く。
”未来の”選帝侯がいる事は誰でも知っている。
「そうか。お前は今日から司教だ。司教の間俺が色々と教えてやる。それが終わったら大司教になり、俺の母にあたるバルミア枢機卿に付く。そこからは順当に位が上がっていくだろう」
「……」
「言いたい事があるんだろう。言えば良い、俺は答える。何でも答えよう」
罵倒する気にはならなかった。そんな事をする気力がなかった訳ではなく、その男に背は罵倒を浴びせかけて良い物には見えなかった。
選帝侯だからではなく、夜空に向かい祈りを捧げるその姿が美しく、俺の憎悪の全てを封じ込める。或いは霧散させたのかもしれないが、俺は選帝侯に対し害心を持つことはなかった。
「他の死せる子供達の時も……聖騎士が殺害したのか」
「全てとは言わないが、そういう場合もある」
「言い切るな」
「俺は聖騎士にも属している。そして俺より強い聖騎士はいない」
「殺しに行ったりはするのか?」
「しない。俺は人間くらいなら出向かずとも、この場で念じれば殺害する程度のことは容易に出来る。まして今集めている力のある子供ではない、無力な者達。造作もない」
「そうか」
「お前は本来、最初から俺の母にあたるバルミア枢機卿に付けろとの法王の命令だったが、それは拒否させた。お前は強い。純粋な強さ、そう剣を合わせる等と言う能力は俺よりも高い。それらを制御できるようにしてやる」
決して振り返ろうとしないが、その表情は磨き込まれた窓に映っていた。
「何故だ?」
無表情だった。
ヤロスラフはエド法国にいた頃は、全く表情に動きがなかった。皇帝の元にゆき、随分と……
「お前はジェラルド派の僧正リクの対抗になる。ザンジバル派のセツとしてな。そうなった時、お前は有りとあらゆる物から排斥される。……最も恐ろしいのは味方だと言う事は、今この瞬間から魂に刻み込め」
「お前は?」
「俺が仕えるのは皇帝だ、法王ではない。俺は自らの意志で僧正になった訳ではない。母親が勝手に洗礼を受けさせ、そして勝手に僧籍においただけのこと」
「そうじゃない、お前は俺の敵に回るかと聞いたんだ」
この瞬間、微笑んだ。だがそれは直接見たわけではない。
闇に差す微かな明かりの下で映し出された、少しの表情の変化。それが本当に微笑みだったのか。
「お前がこの国で位を上げる事に関し、俺が害意を持つことはない。だが俺がこの国を出た後にお前と敵対することがあったら、お前は迷わず俺を敵と見なせ」
「敵対する日が来るのか?」
「来ないと思いたい。だが……もしかしたらな。俺に決定権はない」
ヤロスラフの語った敵対とは 《皇帝》 と 《法王》 の対立ではなく……
俺はヴェールを被る。ヴェールの下に隠れた表情。
他人には見えないのだから、どんな表情をしても良いはずだ。
「来たか、セツ」
ヤロスラフに連れられ法王の前に出た時、俺は無表情だった。いや、もしかしたら憎しみに満ちた表情を浮かべていたのかもしれないが、解らない事だった。
ヴェールを被ったままの生活は、徐々に俺から表情を奪っていった。無くなった所で、俺自身困りはしない。
最早人の顔を見て話す事はなくなった。
ヴェールの色、着衣そしてエトワールの紋様、聖印の形、聖書の装丁、それだけで相手を判断し話す。
顔が見える相手はヤロスラフを除いては、命じるだけの存在になった。
そうなった時、俺は自分が割と教会での生活が好きだった事に気付いた。あの教会で過ごした日々が、幸せな物だったのだと。
「ラ、ランド」
「セツだ」
「ごめんね!」
「何を謝る」
「私が……」
「用件は手短にお願いしたい、リク大僧正閣下」
ヤロスラフの前に封じ込められた恨みは、俺が法王庁に足を運ぶ切欠となり ”みつかる” 原因になったリク大僧正の前では、封じ込められているはずの ”それ” は簡単に敵意となり、悪意となり、相手を傷つける。
怨んだ事が無いと言ったことなど一度もない。口を開けばリク大僧正に対しての恨みが零れ落ちる。
それが表情と感情の消えていった俺の中に残った唯一の感情だった。
あいつはどれ程俺に無視されようとも、俺の前に現れた。俺は生まれ持った能力が高いだけで、精神面では特別優れた子供ではない。
だから表面上で無視を装っていても、あいつが目の前に現れると感情が溢れてきた。
あいつが目の前に現れなければ、縋ってこなければ感情は消え去っていただろう。
自分では随分と感情のない男のつもりだったが、
「あんた本当に十四歳かい?」
娼館で抱いた女が言った言葉。
「そうだ」
ザンジバル派の年寄り連中が俺を娼館に連れて行くように命じたそうだ。
俺は敵から見ても ”身内” から見ても、可愛げのない子供だったようだ。敵も味方も全て排除する子供、それは否定はしない。
生き方を強いたのが誰なのか? 胸に手をあてて聞いてみろと思うこともない。
操りやすくするために、女で堕落することを望んだようだが、女は俺を堕落させるほどの物ではなかった。悪くはないが、悪くないだけだった。
女に溺れることができるなら、俺は最高枢機卿になっていなかっただろうが……溺れることが出来なかったのだから、言ったところで仕方のないこと。
「随分と冷静な男だねえ。初めてって、嘘だろう?」
”上客” の中でも飛び切りの上客だった俺は、最も有名で普通の者は立ち入れない娼館の、最も高い女を与えられる。
「年齢も行為も嘘を言ってどうする」
その娼館で最も美しく、男を魅せる女は溜息混じりに笑った。
「冷静な男だねえ」
「感情がないんだろう」
言った俺に、女は声を出して腹の底から笑う。あまりに笑った女に不機嫌な眼差しを向けると、
「ほぉら、あんた今、不機嫌だろ?」
「お前が笑い過ぎるからだ。娼婦が客の気分を損ねるのは褒められたものじゃないだろう」
「感情がないヤツが不機嫌になんてなるかい」
抱いた女は多数いたが、話をしたのはその女だけだった。
今は娼館の女将になった女。
一度 ”自由にしてやる” と言ったが、女は拒否した。俺も強く勧めたわけでもない。
女が拒否した理由は ”あんたにこの国に残って、あの子を支えろって言ったあたしが、此処から出ていく訳にはいかない。あんたを見張ってるのさ” 本当かどうかは解らない。
今はあの娼館の女将になった女が残る事を勧めてくれたお陰で俺は長い間、魔帝配下の選帝侯崩れ共からの追撃を避けて生きる事ができた。
各国との腹の探り合いと、選帝侯崩れとの戦い。あまり変わりはない人生だろうが、後者を選んでいたら俺は今もあの水槽の中だったろうな。
***** あの女が欲しかったのは聖地神フェイトナ。俺は ”ついで” だ。アレクスに依頼されて *****
「お前が今生きているのはアレクスのお陰だ」
セツの感情の流れを読んでいるかのように、オーヴァートはタイミング良く話掛ける。
「迷惑以外なにものでもない」
だがセツはオーヴァートの言葉に表情を動かすことも、慌てる事も、照れることもない。読まれていようが構わない、それがセツの正直な感情だった
「枢機卿にされなければ、妹とともに故郷に戻っただろう」
斜面に腰掛けながら、視界から入り込む筈の景色を無視し、オーヴァートは存在しない未来を語る。かつてオーヴァートは存在しない物を認める事はしなかった。
だが今はそれを認める。
あり得ない未来を語ることは、在る未来を観る事が出来る彼の全てを否定してしまう行為なのだが、それを知りながらも彼は見続ける。
「そうだな。だがそれで妹が殺害され、俺が捕らえられて新たなる魔王になったとして、俺は何も困りはしない」
セツは眼前に広がる景色を己の記憶に焼き付ける為に細部まで見つめながら言い返す。
「前者は嘘だろうが、後者はお前の本心だろうな」
渡る風の冷たさと揺れる花と草、そして流れの速い雲の下、その言葉は交わることなく真実を語り合う。
「そんな物だろ、破滅を望む皇帝よ。俺の中にある貴様の狂気がそう謳っているぞ」
「私の狂気、返してくれないか?」
「持って行けばいい。だが本当の狂気は永遠に手に入らないのだな皇帝」
セツが差し出した掌にオーヴァートは一本の指を添える。
「亜種如きにそう言われるとは 《皇帝》 も堕ちたものだ」
セツの身体に居座っていたそれは、あっけなく消え去った。
「亜種か、懐かしい呼び名だ。あの時は何を言われているのか解らなかったが、いまならば解る。そして……それ程高みにいたのか? 皇帝」
「高い場所にいたさ。地上に生きる者達が見えない程の上空に。だから見失った……それにしても、ヤロスラフはお前のこと亜種と呼んでいたのか。色気のない……」
力無く消え去った語尾に ”ヤロスラフらしい” と聞こえたような気もしたが、それは無視し手を握りしめる。
「色気なんぞあってたまるか。直ぐに名で呼ぶようになったがな。名前といってもセツだが」
「お前はレクトリトアードという柄ではないな」
「お前こそ皇帝という柄じゃない」
高原の背の低い草が風に揺れた。
「だが私は皇帝で在るのだよ。あの娘が皇帝のために破滅を謳ってくれるのならば、私は皇帝で在らねばならぬ」
「お前にとってあの女は、まだ娘のままなのか? お前の手元に現れた当時の、そして手放す寸前までの」
皇帝は笑い、頷き、そして首を振る。
「私が手放した訳ではない、あれは立ち去ったのだ。私は縋ったが、振り払われた」
それは歪めようのない絶対の真実。