今の法王、当時のリクが最高枢機卿に決定した後、ディス二世はギュレネイス皇国やイシリア教国に『アレクサンドロス』の使用許可を求め働きかけた。
ディス二世はリクが他の二教にも認められ、いずれ始原の 《エド正教》 に戻る事を期待しての事だった。
リクがアレクサンドロスの名をもって法王に就ける事が決定した時、ディス二世は周囲の目など憚らずに喜びを露わにしていた。
俺達のような死せる子供達とは対照的な、感情が解り易い法王、それがディス二世。
使用を認めた二国だが、ギュレネイス皇国にはギュレネイス皇国側の目論見が、イシリア教国にはイシリア教国側の目論見があったからこそ認めたのだが、ディス二世にはそれは見えなかった。
俺はリク枢機卿が 《アレクサンドロス四世》 の名を得るに際し、少しばかりの迷惑を被りはした。その名を持ってしまえば、ジェラルド派から法王の座を奪えないという同派の者達から ”殺害” を持ちかけられた。
俺は捕まえられた時に暴れた事、ヤロスラフが強さを認めている事で、殺害という暴力行為で位を奪えると考えた者が多数存在した。
生憎と俺は法王の座に興味はなく、同派が嫌いだったので、その誘いには乗らなかったが。
誘いに乗らない俺に痺れを切らし、俺に ”リク最高枢機卿殺害” を持ちかけた同派の数名は、ジェラルド派のリク否定の面々と手を組み殺害を目論む。
かつてヤロスラフが言った通り、真の敵は味方の属する者達。それは俺もリクも変わらなかった。
「大丈夫か?」
足下に転がる死体の数々。
「あ……助けてくれてありがとう」
村を出た時とは全く違う、制御された力と技。
「別に。お前が死んだら、俺が法王になる事になる。それは御免だ」
俺が何故それを知っているか?
俺は同派がジェラルドのリク否定派と密会している情報を掴み、そして暗殺を排除したからだ。
法王の座に就きたくなかった俺は、同派に注意を払うと同時に、リクを排除しようとするジェラルド派の動向をも探った。
リクを法王の座に就けたら、俺は此処から去るのだと考えるようになったのもこの頃。
そしてディス二世は死ぬ。
そのディス二世が死ぬ一年ほど前に国が滅んだ。
この国を作ったアレクサンドロス=エドの盟友であったシュスラ=トルトリアが建てた国が魔物によって滅ぼされ、逃げ延び故郷を失った者達は、安寧と定住を求めてこの神の国へと流れてきた。安念と定住の引き替えに亡国の民は信仰を受け入れる。
ディス二世は言った。
トルトリアが滅んだのは、エド聖教だけを信じなかった罪だと。
根幹を同じくする三つの宗教の存在を認めた国は、かつての盟友の国といつの間にか袂を分けていた。
いや滅んだ国は袂を分けたつもりはなかったのだろう。
盟友を奉じていたからこそ、全てを受けいれたのに、もう一方は排除しかなかった。
その言葉を残し、ディス二世は死んだのだ。
死せる子供などという事を考える宗教狂人らしい思想だなと俺は思いながらディス二世、奴の故郷へと戻る棺を見送った。特別な感情はなかった、あるはずもない。
ディス二世が去って直ぐにヤロスラフもエド法国から出て行くと告げられた。
「そうか」
「これからの事、よろしく頼む」
俺も去ると言うことは無かった。言う必要もないだろうとな。
去るヤロスラフを見送る為に、エド正教ザンジバル派の重鎮がずらりと並んだ。重鎮の一人に俺も当然並ぶ。
《顔》 があるのは二人だけ、元の名を名乗っているのは四人だけ。バルミア枢機卿とハーシル枢機卿。前者の息子は此処を去り、後者の姪の娘は顔を隠しているが王女と知られている。
この四名以外は、顔もなければ名も無い。
馬車に乗り込んだヤロスラフは母であるバルミア枢機卿が伸ばした手を払いのけ、クナの差し出した贈り物を受け取る。
聖騎士が道に並び、去ってゆくヤロスラフを見送った。
エド法国から僧正ヤロスラフは去り、パーパピルス王国に選帝侯ヤロスラフが到着する頃、俺は自分の予定ではエド法国にいなかった筈なのだが、その場に残っていた。
留まり続け、そして一年前ついにあの女に出会った。最後の皇后と呼ばれ、学者と名乗る娼婦と言われるその女に。
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「法王が羨ましいな」
皇帝で在らねばならぬと言った男は、風に舞う髪をかき上げながら言う。
「何がだ?」
「言っただろう、私は縋った。だが捨てられた。法王は縋った、そしてお前は残った」
遠くの鳥の囀り、そして小さく見える巣の中で待つ幼鳥。
「俺はあの女ほど強くはなかった。だから皇統の前に跪いただけだ。あの女は皇統を振り切るだけの力があった。その程度の男が残っただけのこと。皇帝の座につくことの出来なかった男から逃れられない程度の男と、真の皇帝とそれを退けた女を並べるな」
円を描き巣の上を飛ぶ親鳥。
「そうだな……そうだろうなあ。それと誰も教えてないようだから教えておく。アレクスはあと五年で死ぬ」
目を細め微笑みながら告げるオーヴァートは、セツが悲しむ事を望んでいた。だが悲しまない素振りを見せることを知っている。
セツは視線を逸らす。
「そうか。本当にお前達は特殊な生き物だな。あの力の去り方はなんだ? もう少し虚勢を張ったらどうだ」
アレクスの身体から全てが失われてゆくのを、セツは目の当たりにて驚いた。あれ程の力が何処に消えてゆくのか? 他人事ながら恐怖を感じる程の勢いで消えてゆく。
「そこまで私が責任取らなくてはならないのか」
オーヴァートのせせら笑いを含んだ声に、腕を組み肩をすくめて視線を下げ、セツとは思えないような小さな声で尋ねた。
「その事、アレクスに告げて良いのか?」
「構わない。まだ私がこの世界である間に告げるが良い」
背の低い色の濃い草に覆われた、何処までも続く静かな渓谷は嘗て此処にいた者達を覚えているのであろうか。
セツは無言でオーヴァートから離れ、天幕を張ったり食事の用意をしている集団で、最も役に立っていない男の襟を掴む。
「おい」
「な、なんでございましょうか、枢機卿さま」
指だけで持ち上げられたグレイは、縮こまりながら強制的に視線を合わせてきたセツに震えながら答える。
「貴様は絵を描いて身を立てているのだそうだな」
「い、いや。まだ、そんな売れてないんで……」
画家を目指して故郷を捨てて挫折して盗賊に戻った男は、最近自分が絵に対して夢見がちだった事を責めていた。
黙って故郷で盗賊をしていたら、死んだかもしれないが此処まで怖い目に遭わなくて済んだのではないかと。
「仕事依頼だ。来い」
返事も聞かずにグレイを連れたまま、セツは立ち去る。
その場にいた者達は、少しだけ立ち止まった後、何も無かったかのように動き出した。そう、先ほどエルストが無理矢理連れて行かれた後のように。
無意識のうちに手を伸ばし助けを求めようとしたグレイだが、誰に助けを求めれば良いのかと考えた時、視界に入ったのは斜面に寝っ転がっている皇帝オーヴァート。
あの人に助けを求めるくらいなら、助けを求めない方がマシだと、それだけは理解できるようになっていた。
「降ろしてくださいましー! 枢機卿さまー!」
叫んで地に足を付けた後、セツの依頼を聞いた。
依頼は 《ここから向かい側の斜面にある、朽ちた城を描け》 と言う物だった。
スケッチブックを取り出し斜面に座ったグレイに、
「一枚寄越せ」
「へい」
セツは一枚紙を貰い、クラウスとミロを呼び契約書を製作する。
「この金額は最低限だ。出来によっては上乗せする。半分は証書としてパーパピルス国王に預けた」
半分に切った、料金の書かれた紙を前にグレイは絶句したが、
「その料金分は描けよ。それが仕事だ」
セツの前に言葉を失い、生まれて初めて本気で 《絵》 に向かう事となる。他の誰もなし得ない程の精密な描写と、誰にも作り得ない絵の具調合の妙でその名を残す事になるグレイ、初の正式な仕事依頼。
寝っ転がっているオーヴァートの隣でスケッチを始めたグレイを眺めながら、天幕張りを終えたバダッシュの元に、証書を持って戻って来たミロ。
その金額に『結構な額だ』とバダッシュは頷く。
これ以上高額報酬を要求する画家をバダッシュは知っているが、無名でここまでの金額を身分ある者から提示された画家が居ない事も知っている。
強い風に千切れて流れる雲と、途切れない緑の渓谷。
薄い大気と濃い影。
人の声はあるが、静かだった。視界に広がる世界に比べ存在する者達の数はあまりにも少ない。
炎を紡ぎ出す音も、食器の触れ合う音も、馬のいななきも、誰もいない高地ではあまりにも小さなものだった。
その静けさを切り裂く形を持ったような鳴り響く。透明な湖水が吹き上がり、そして轟音と飛沫、そして渓谷を無数に交差する虹の下、
「待たせたな」
その女は戻ってきた。
四つの精霊神を従え、腕を組み上にいる彼等を見上げる。
「人間にはとても見えないな」
空にかかる虹だけを観て居る筈のオーヴァートが呟いた言葉に、グレイは無言のまま頷いた。
自分の眼下にいるドロテアという女性は、最初から人には見えなかったが、今は完全に人から遠離った。
「だが人間だ。神を従えるのは何時でも人間だ」
「……」
語り続けるオーヴァートから、グレイは荷物を置いて離れた。
オーヴァートの横顔があまりにも恐ろしかったのだ。オーヴァートがドロテアを見つめる眼差しは、明かに狂っていた。
オーヴァートはドロテアに近寄ろうとはせず、ドロテアも近寄ろうとはしなかった。互いに視線を交わすが、何を語ることもない。
上着のポケットに手を差し込んで、食事を作る手を止めているイリーナ達の所へと歩いて行き、作りかけの料理をつまむ。
張り詰めていた空気がそれと共に緩み、献立を語りはじめ、テントはどこを使えば良いのかなどを語り出す。
誰もドロテアに 《聖風神を支配下におけたのか?》 とは聞かなかった。聞く必要もないほどに自信に満ち、そして誰の目にも明らかだった。
その女は何一つ変わらないように見えて、全てを変異させた。この大陸に呼び出せる全ての神を支配下においた女は、今までと変わらず美しい。
ドロテアに遅れて調理している所に駆け寄って来たマリアとヒルダも手伝いを開始して、その高地は少しだけ騒がしくなった。
グレイは一人離れ城を写し取る。オーヴァートはドロテアが移動した方向に向き直ることはなく、現れた時の場所を凝視し続けていた。
そして、
「お前に言いそびれていた事がある」
神の力を手に入れることが叶わなかったヤロスラフは、地に手をついて動けないままでいた。
その姿はオーヴァートの視界にも入っている。
「何だ? セツ」
そこへセツが近付く。
「ありがとう」
ヤロスラフは驚きのあまりに声を出す事は出来なかった。
「……」
ただ無言のままセツが差し出して手を掴み立ち上がる。
「お前が選帝侯であった事が良かったのか、悪かったのか俺には何も言えないが、ありがとう、それだけは変わらんな」
手を握られ引っ張られて立つ形になったヤロスラフは、それ以上何も言う事はなかった。
大陸に干渉できる神の全ては、ドロテアというたった一人の女に支配された。普く神を支配した女が目指し、それが叶った先にあるものは何か?
その結末を見ることができるのは、ドロテアとそれに従うことを誰一人疑うことのないエルストだけである。
その世界の最果て、未来の先にある世界を見る事が叶うたった一人の男、エルストはと言うと……
「エルスト! 何をしている!」
クラウスはそのように叫ぶが、誰が観ても何をしているのかは容易に判断が付く。
「泳いでる……さむ……」
一人で飛び出しそびれ、泳ぐはめになっていた。
「真水は泳ぎ辛いんですよ」
ミゼーヌは要らぬ注釈をいれ、
「そうなのか。俺はあまり変わらないな」
人間の為の注釈を聞きながら、人間とは全く能力をもつレイは見当外れな返事を返す。
「掴まれ、エルスト!」
クラウス隊長が武器である棒を差し出す救出活動により、最も透明度の高い湖の深い湖底に沈むことは避けられた。
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