「猊下?」
大僧正とクナ枢機卿に囲まれていた法王が、動きを一瞬止め
「……来る」
それだけ言うと、アレクサンドロスは首都全体の地面に耐火魔法を施した。吸血大公などではない
「猊下。無理をなさっては!」
「……これが……」
その言葉が言い終わる前に、首都を横断するかのように炎の輝きが辺りを覆った
神が舞うと称される炎。その”蒼さ”
”火の玉を最初に送る”
”ああ”
”普通の火の玉だ。シャフィニィを知らないヤツの隙を作るのは簡単だろう”
”了解”
吸血大公が消え去った事など誰も気付かぬ程、辺りは雷光以上の青さに包まれ、そして一瞬にして暗がりに戻った。
「これが……シャフィニィ……」
ドロテアはシャフィニィに尋ねた。吸血大公というのを知っているか? と。シャフィニィは知らないと笑っていた。
ドロテアはシャフィニィに尋ねた。自分が使ったより前に地上でシャフィニィを使ったのは何時か?
人は見たことがないだろうと、シャフィニィは言った。
吸血大公は神の炎を見たことは無い、が三人は一度だけ見た事がある。だから、あの火の玉を見ても怯まなかった。
神の炎は赤でもオレンジでも無い、限りなく白に近い蒼。
「もう、結界を解いても平気よ。一瞬で元通りになるそうだから」
盾をヒルダに渡し、マリアは投げ捨てた槍を拾う。
「そう……か」
”よく防げたな”くらいはドロテアに言ってもらえるかもしれない。
「あれ? 何か音がしませんか?」
盾をベルトに通して背負いながら、ヒルダが先程までの緊迫した状態など最早忘れたかのように話しかける。
「……確かに、崩れるような音が」
「吸血城ごと壊したのかしら?」
マリアとエルストも顔を見合わせ、辺りをみると剥げ落ちてくる壁や確り伝わってくる振動。そして、立っている床に入る亀裂。
「何チンタラしてんだよ」
途轍もない力を放った後とはとても思えない、全く疲れていない口調で全員の前に降り立った
「ドロテア!!」
バラバラとあたりを埋め尽くすかのような音に、焦るわけでもなく手を回し
「どうする? 俺のゲートで良けりゃ入れ」
セツ枢機卿の手から剣を取り移動魔法を唱える。暗がりに淡い光を放つぽっかりと開いた穴を指差す。
「全員入れ」
セツ枢機卿の指示で、聖騎士や僧侶達全員が駆け込むと
「それじゃあ、後でな」
それだけ言い残し、ドロテアはゲートを閉じた。
崩れてゆく吸血城の音も、全く遮断され、暗いゲートの中で”出口”を開けてもらうまで待つ事となる。
「セツ枢機卿でも出来るんじゃないの?」
マリアが辺りを見回しながら、一番近くに居たセツに声をかけた。
「私のは駄目だ。自分移動専用で、これ程大多数を移動させるのはやったことが無い。それに正直に言えば、ゲートの移動計算は難しくて嫌いでな。やるとしたら単体移動しかやりたくない」
「へえ。そうなの」
複雑な計算が必要なのね、とマリアは暗いあたりをまだ見回していた。移動空間の中はで火をともしたりするのは、あまり歓迎されない。炎を使えば使っただけ、空間の歪みがかわるので、そんな叱られる材料は作らないのが得策だ。相手が相手なだけに、チョットでも何かをすると、酷くしかられるのは明らかだ。
「……マリア嬢」
セツ枢機卿がマリアに声をかけた
「何かしら?枢機卿」
「あの時、怖くは無かったか?」
「どのときかしら?」
−貴様等も死ぬぞ、絶対にな−
「ああ……。枢機卿は?」
「正直自信は無かった。私は……自分以上の魔力の持ち主と対峙した事がなかったからな。法王とは喧嘩もしないしな」
ヴェールの内側で苦い笑いを浮かべたが、それは誰の目にも止まらない。そして、誰も思うはずもないだろう、法王と喧嘩など
「そう。そうね、でも私あの魔法で焼き払われても後悔しないから。ドロテアならね」
「仲が良いな」
「……そうね。退屈だったら昔話で良ければ聞く?」
「ああ。あの距離だ。いくらあの女が早く飛んでもまだまだ時間がかかるだろう」
セツはマリアに笑った。マリアは気付いていないだろうが、あのマリアが盾で覆っていた部分に炎が到達する寸前、耐火魔法がかけられた。かけたのは恐らくドロテア=ランシェ。何処までも口が悪く、どこまでも優しい女。
「今から十年前になるわね。当時十七歳だった私が……」
弟と街の反対側にお使いに出された。別に変わった事じゃないけれど。弟は三歳年下で、仲は悪くはないわ、二年前に結婚したけど。
街中を歩いていたら、少し腕に自信にある破落戸に裏路地に引き込まれてね
「何だか解るでしょう?」
大して身体の大きい訳でもない弟が、必死に助けようとしてくれたんだけど相手は四人で腕に自信のあるヤツラばっかり、闘技場に出ている奴等。闘技場のレベルだと最低なんだけどね。そいつらに弟は殴り飛ばされて、私も逃げたんだけどどうして人って、行き止まりに逃げ込んじゃうのかしら。
服も引き裂かれて、卑下た笑いの前で”助けて”の声一つ上がらなかった。
「そしたら、来たのよ」
後で聞いたら、殴られて顔中から血流してやっとの思いで表通りに弟が辿り着いたの。そこで助けてと叫んだんだって
−誰を助けりゃいいんだよ
−姉さんが
−連れて行け、小僧
「曲がり角から飛び出してきて、あの黒い手甲で。私に圧し掛かってこようとしていた男を殴り飛ばしたのは……今でも忘れないわ」
吹き飛んだ男が驚いた顔で見つめた相手。
−何だ!テメエ
−誰だっ!!
−会った事なんかねえよ! この俺の顔忘れるようじゃあ、頭、医者に見てもらったほうがいいぜ
鋭い目と、信じられない程整った顔に、低い声。そして挑発する態度に長い手足
−こ! コイツ!!
−かかってきなよ。一生立てなくしてやるぜ、足腰
四対一だったし、身体の大きさも桁違いなのに強かったわ、本当に。相手にもならなかったもの。そして覚えてやがれ!と言って逃げ去ったわ
−大丈夫か?
黄色みを帯びた褐色の癖の強い髪。黒みを帯びた茶色の瞳。ピンクのガーベラより薄い色合いの口元に微笑を浮かべて
−大丈夫だったみたいだな。ま、弟の方も無事って所だろうよ、あの程度ならさ
もう立ち上がれなくてね。何もされてないんだけど、疲れ切っちゃってて。後で聞いたら、ドロテアも首都に辿り着いたばっかりで疲れてたでしょうけれど
−仕方ねえな
弟の怪我も治してくれて、荷物持たせて背中向けてしゃがんでくれた。当然回復の魔法も使えるのよね、ドロテアって……滅多に使わないんだけどねえ
−送っていくよ
「おんぶされて初めてドロテアが女だって気付いたんだけどね。格好良かったわ、髪も今よりずっと短くて」
格好良いなと思ったのは後にも先にもドロテア一人
異国の服を着た、異国の少女。低い自信に満ちた声に余裕の笑み。背中に乗って、肩に顔を乗せたら急に涙が出てきて止まらなくなった。
−俺が泣かせたみてえじゃねえか
そうよ、ドロテア。アナタが来なかったら泣く事も無かったわ
「背負われて、ボロボロになった服を何とかつかんで、背負われて街中を移動していたら”覚えてやがれ!”って叫んで逃げたヤツラが戻ってきてね。ご丁寧に仲間まで連れて」
「それはそれは。助かったなら黙っていればいいだろうにな」
暗闇の中でセツが、心底笑いを込めて言う。多分誰でもそう思うだろう。運良く逃げられたというのに
「本当にね。私を背負っているから、あの邪術一閃で胴体が真っ二つよ。それも人がたくさんいる道のど真ん中で」
背負われている私が見たのは、ドロテアの髪が揺れただけ。身体の内側から何かが鋭い矢になって飛び出して、後は叫び声だけで。怖くて肩口に顔をうずめて”目の前で殺しても良かったが、人の死体は見慣れてないだろう。目は閉じてな”小さな声が、頭に直接響いてきた。
それが邪術だと知ったのは、大分後の事。
『私も使える?』
『やめておくんだなマリア』
美しき華よ、咲き誇り散りゆくだけになろうとも
奇蹟とはそんなモノだ
毒を知る花のように
「あの女らしい」
−まだ、やるか?
異国の少女の目付きに誰もが後退りして、馬車が通りかかったのよ。八頭立て馬車、王族とか偉い人とかが乗る馬車ね。降りてきたのがオーヴァートだったわ。
褐色の肌に紫かかったような黒髪、色の付いた片眼鏡から下がる宝石の付いた鎖。青みかかった鈍色の鋭い瞳が笑っていた。笑っている口元は、いつも色の悪い紫だった。てっきりアレは紅を、特殊な紅でも差しているのかと思ったけれど。あれが地色だと、後に笑いながらドロテアは言っていたわ。
− 消えぬ男の悲しさだ −
−凄まじいな、美姫よ。名前を聞きたい
馬車から降りて、近寄ってきた長身の男に臆する事もなく
−オーヴァートだな?
−ああ、そうだよ
−ドロテアだ。テメエに話がある、その屑ども片付けやがれ
そう言ってオーヴァートの馬車に、私を乗せて弟と荷物も乗せて
「洋服買ってくれたわ、私と弟に。私が泣いているのが、服がボロボロになったせいだと思ってたらしいの」
−服買ってやるから泣くなよ。良いじゃネエかよ、弟だって無事だったんだし、ちゃんと治したし
裕福な商家の娘、そのままオーヴァート邸に住む事になった才女。
「強かったか」
「そうね……それから、ね。ドロテアが場所と機会をくれて槍術を学ばせてくれたわ。最もその後は、ドロテアが怖いのかオーヴァートが怖いのかで誰も何もしてこなかったわ。意気地なしよね、腕試ししたかったのに」
そう笑ったマリアに、エルストが笑う
「マリア嬢には何時もヤロスラフが付いてたからね。彼も怖いから」