君が消えた六月三十一日

[13]<F>私のはなし・名状しがたき 〜 白い蝶の如き月

 基本私はなにもしていないので、下山”も”楽だった。
 この蕃神の儀式で酸素のありがたさを実感したね。酸素最高! 私はこれからもずっと平地で生きていこう! 過酷な大地になど、二度と赴くものか!

 こういう決意をすると、大体……そういうことさ!

 トニオの家に辿り着いたところで、連れて来られた普通の人たち(カルテルに奴隷の如く使われているが)は、給金を受け取りまた大麻畑の見張りに向かわされることに――うん、彼らが話していた内容を盗み聞いて分かる単語を組み合わせたら、そんなこと言ってたよ。

 それとトニオの家には後から届けて欲しいと頼んでおいた私の荷物があった。トニオの部屋で保管されており、誰も触れていなかった。まあうっすらと埃被ってるあたりからして、本当に誰も触らなかったんだろう。
 気持ち分けるけどね。
 私は荷物の一つを開き、連れてこられた末端の人たちように用意した煙草を一箱ずつ渡した。発がん性がどうだとか、副流煙がどうだとか……色々あるが、長生きできなさそうな場所に住んでるし、見張ってる時は周囲に人はいないし。ともかく煙草はまだ感謝の気持ちを表したり、労をねぎらう贈り物として使える。
 あとは100円ライターも。
 これらの品はもちろんカルテルから貰った資金など使っていない。私が治験アルバイト(二ヶ月周期薬)で得た金で用意したものだ。
 カルテルの金使ったら、あとでごちゃごちゃ言われたらいやなので。

 最後の最後で彼らはとても喜んでくれた――のだが、金を配りにきた奴が私が見ていないところで彼らから煙草とライターを奪ったんだそうだ。
 なぜ私が知ったかというと、奪った奴が殺されたから。
 とつぜん「パンッ」ですよ。
 ホセが金を配る役の奴を撃ったんですよ。致命傷ってか即死。
 取り上げた煙草とライターを拾って、取り上げられた人に手渡した ―― 初めて人が射殺される現場を見たんだけれども、元々SAN値がマイナスな私はトラウマに苦しむこともなく……普通に現実だとは思えない光景だからね。
 呻き声を上げることもなく、血もほとんど出ていなかった。
 一応私のことを気遣って、即死で血を見せないように殺してくれたのだと。さすが紳士的な暗殺者、なんという気遣い! ……おかしいことを言っている自覚はあるが。
 金もホセが配ってやり、彼らを輸送するトラックの運転手の頭にベラスコが銃突きつけて、死体を助手席に押し込んだ。
「おねがい するね」
 金を配る人やトラックの運転手分の煙草とライターもあったのにねー。足りないと困るから余るくらいの分量運んでもらったのに。
 もちろん運転手に煙草とライターを手渡して見送った。

 残りはトニオが欲しいと。トニオあたりになると、健康に気を使っているので自分で吸うわけではなく下っ端にくれてやるとのこと。
 場所代として、それにこれ持って帰るの面倒なので引き取ってくれるのなら、これ以上ありがたいことはないので全部トニオへ。

 このトニオの家で四日ほど過ごしてから下山して、カルテルのボスのところまで行くのだが、ここで出てきた。
 世に言う這い寄る混沌ってやつですよ。
 ネクロノミコンの影響だったと思われるのですが、ついに遭遇することになった。
 トニオの家にいた人たちが全員、ベラスコやホセも姿は分からないが「見た」
 到着した日の夜、突如明かりがすべて消え去った。
 ホセとベラスコ、あとトニオが武器を持って辺りを窺うが……音が一切しない。ヤバイ事態になったことに気付いた私たちは、悲鳴が聞こえるほうへと向かった。
 ”ここに残るように”なんて言われはしなかったよ。
 蕃神の儀式を三度見たことがあるホセが、これは”ミスカトニックの領分だ”と即座に判断したのだ。
 外に出ると月明かりどころか星の明かりすらなく、本当の闇に私たちは包み込まれた。
 だがどこからソレが現れるのかは分かった。
 闇よりも暗いソレが、隙間からはみ出している。隙間からはみ出しているだけではなく、ついに物置のような建物の扉がゆっくりと開く。そのゆっくりさ加減が、怖ろしいの。ホラー映画の技巧で使われる開き方とは違う。
 トニオの家の人たちも(誘拐生業・反政府組織)カルテルから来た人たちも、動けなくなった。私は御大のような語彙も表現力も持ち合わせていないのであの時の恐怖を皆さんに伝えることはできないが……

―― やばい、塩になる

 私の頭を過ぎったのは「塩になる」だった。もうね「塩になる、やばい、塩になる。やべええ、塩になるぞ、これは。塩だ、塩になってしまう。塩になってまうんやああ!」こればかり。
 何故か自分やホセやベラスコ、トニオやその他の人たちが塩になるという妄想に取り憑かれた。脳内で自分たちが塩になる姿、そして自分が塩になっていく状況。毛細血管から徐々に白い結晶化してゆき、体内が硬くなりそして意識あるまま塩の塊となり――崩れる。
 とにかく「塩になる」という恐怖。思い出すだけで呼吸が苦しくなり、自分が吐き出す呼気に塩が混ざっているかのような感覚。
 このまま塩になるのか……と思った時に【きづいた】
 死ぬわけではなく塩になる――塩になったら死ぬことが【できない】
 人間なら苦痛から逃れる為に自殺することも可能だが、塩になったらそれすら不可能だ。塩となり結晶となり粉々になったとしても意識があったら、それは死んでいない。
 諦めかけていた私はこれに気付いたとき焦った。同時に死ぬためにも生きのびることを決意し、足りない頭脳をフル稼働させることに。
 まずは私に巻き込まれた形になっている、カルテルやら反政府組織やらの皆さんを助けるべく、

「いあいあ さけぶ つづける いあいあ」

 讃美させることにした。本当は「いあいあ」の後に讃美するべき神の名を続けるのだが……唯一幽閉を逃れているナイアルラトホテップ(這い寄る混沌)であることは、ほぼ間違い無いものの、もしかしたら別の……ということがある。
 それに彼らにいきなり「ナイアルラトホテップ言え! ニャラルトホテプでもいいから叫べ!」指示したところで、言えるような気がしない。
 スペルを書いたら読めたのでは? と言われそうだが、暗闇なので書けたとしても読めない。それと海外の貧困層の識字率の低さを考えると、書いたとしても無理だったと思う。ちなみにスペルはNyarlathotep……私は知らなかったら読めない自信があるよ!
 私の意図を理解してくれたホセとベラスコが号令をかけ、トニオが「もっと大声で叫べ」と怒鳴りつつ「いあいあ」叫ぶ。
 旧支配者は基本、対象者以外には手を出さない(ハーバード・ウェストなど)ものの、真意が分からないうちは油断してはならない。
 闇夜よりも濃いそれは私の前で止まると、話しかけてきた。
 一瞬「いあいあ」の声が止まった。全員にその話し声は聞こえたのだ。その声に恐怖し倒れる者、より一層大声で叫ぶ者。
 混乱の坩堝のなか、私はその言葉に耳を傾け、脈打つような脳内から必死に記憶を手繰り寄せる。
 使用されていたのはピクト語。
 幸い私は大学に入ってからピクト語の授業を取っていたので、なにを言われているのか理解することができた。
 ソレは私に”どこから来た人間か?”を聞いてきた。
 ピクト語を習って理解できたのはいいのですが、ピクト語には「日本」なんて単語はないわけで……そもそもピクト語が使用されていたころは、現在と大陸の配置も違う状態なわけだから、あるわけがない!

―― 私詰んだ! 塩になる!

 絶望しかけたのだが、ある詩の一節を思い出し、それにすべてを賭けて答えた。

日本の空に浮かぶ月
白い蝶のごとき月
重たげに目蓋をたれる仏陀が
郭公のさえずりを聞きながら夢を見る……
月の蝶の白い羽が
(以下省略・ラヴクラフト全集7/詩と神々)

 伝わるかどうか? 可能性にかけて……そして私は勝った!「白い蝶のごとき月」でソレは理解してくれたのだ。
 どうして理解されたのか? 私の勝手な予想だが、暗黒神ダゴン(フレッド・チャペル)の主人公の最後のように、クトゥルフの神々とある種の人間は融合し意識を共有することがあるのではないだろうか? ソレは誰かと融合し、記憶の片隅にあった……のではないか? と私は考えた。
 その融合相手が誰であったのかは分からないが、この種類の世界に興味を持っていた人物であるなら、この一節でその人の記憶が呼び起こされて伝わった……と考えている。真相は定かじゃないけれどもね。

 ともかく、この詩を書いてくださった御大、ありがとうございます!

 無事にソレは引いてくれ、夜空に星が戻り――恐怖に満ちあふれた表情の皆さんが可哀想で見てられなかったです。

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余談――
 この話を大学に戻ってから友人の一人にしたわけだが「ずるい」って言われた。
 言ってきたのはベトナム人。
「その詩、中国(空の河にかかる疲れた月)と日本(白い蝶のごとき月)と熱帯(天の湾曲した月の花弁の下)しかないじゃないかあ! 僕が聞かれたらどうすりゃあいんだよおぉぉ!」と。

そんなこと知るか――

 そんな彼は無事にミスカトニック大学を卒業し、現在は旧支配者たちにベトナムを有名にすべく、日々頑張ってます。努力の詳細は知りませんが。

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 翌日起床し、顔を洗って歯を磨き、
「刺身が食いたいなあ。あと炊きたてご飯」
 さんまの蒲焼き(缶詰)を開けて温めて、パウチご飯と共に簡単な朝食を取って、部屋から出た。
「F<えふ>さん?」(日本語テイストを出すために、あえて平仮名にしてみた)
 明かな日本発音で声をかけられた。
 口調や声の種類から優しく落ち着いた雰囲気の男性と感じたのだが、振り返るとそこには声と顔が分離してるというか、近くに腹話術師でもいるんじゃね? と言いたくなるような一目で分かるヤクザがいた。
 ヤクザというか極道というか任侠というか……暴力団幹部というか。
「あ、はい。私がF<えふ>です」
 ホセとベラスコに挟まれた形で立っている、若い日本人男性。一般の紳士服店では見たこともない色合いのスーツに、先端が尖っている感じの革靴。
 この高地にまでその格好できたことは評価してもいいだろう――彼は見た目通り日本の暴力団の若頭? とか言っていたような。軍階級は好きで覚えるが、ヤクザの階級は分からんし、覚えるつもりもない。
 取り敢えず彼のことは「大塚(おおつか)の若頭」としておく。もちろん仮名だ。
 この大塚の若頭、メキシコのカルテルと業務提携というか、色々としている人だったらしく ―― 日本のヤクザってアジア圏だけで生きてるもんだとばかり。香港か中国のマフィア関係には、必ず一人はユエっていうお決まりの……(私が大学生の頃の流行りです) ―― 801ヤクザはいいとして、日本の暴力団幹部がこんな所まで食指を伸ばしているとは……かなり驚かされた。

 事業(どんな事業かは聞くなよ)拡大のためにメキシコのまでやってきた大塚の若頭。彼単身でがこんなところまでやってきたのは、私の通訳のため……事業提携の切欠になると踏んで、半ば無理矢理来た ―― というのが本当のところらしいが。