君が消えた六月三十一日
[08]<F>私のはなし・名状しがたき 〜 サバイバルからカルテルへ
大学時代の私のあだ名は「迷子の日本兵」でした……笑うなよ!(笑わずにはいられない・タバサ)
なんでそうなったかと言いますと、寮から学舎までの道のりが名状しがたいんですよ。
どのくらい名状しがたいか?
普通に歩いていると、途端に次元の狭間に落ち込むくらい。
異世界トリップ経験者 ―― と言えば聞こえはいいが(いいのか?)決定的に違うのは、C.A..スミスの「地図にない島」状態ということ。
私はここではない世界にいるのだが、その世界の人たちは私が見えない状態。霊感がない人に必死に話しかける幽霊……の幽霊が私のポジション。最初は話しかけても答えてもらえないものだから”コレは夢だ”と解釈して街中を歩き回った。
でも夢ではないので腹は減るはトイレに行きたくなるわ ―― 夢でトイレで用を足したら、それは現実において尊厳に関わる死亡フラグなことは長年の経験で知っている ―― だが実際は”現実”なので我慢にも限界がありトイレを勝手に拝借させてもらったのです。
トイレは洋式便座だったが水洗ではなかった。トイレその物は陶器製で模様などが描かれて綺麗だった。
どこの時代のトイレかは不明だが、すっきりとした私は……覚悟を決めた。リアルでやっちゃっただろうから、不快感で目を覚ますに違いないと。
でも一向に濡れを感じない。
最後に夜尿かましたのは、それこそ十年以上も前のことなのではっきりと覚えているわけではないが、襲い来る冷たさがあるはず ―― だが無かった。
感じるのは空腹と疲労、そして夜の訪れとともにやってきた冷たさ。私はトイレを拝借した家から幾つか食品と大判の布を拝借して表へと出た。
夜空から降り注ぐ星の光。だがそれは私が知っているものとは違った。だが離れてもいない。世界としてはまったく違うわけではなかった。歪んだ星座がかろうじてこの世界とつながっていることを教えてくれていた。
なんかこう……微妙に歪んでるんだ。
以前ヘブライ語に到達する前段階で星座に興味を持ったと書いたと思うが、それもそれなりに極めたので星をみて方向を割出したりは得意。だから星図が歪んでいることにも気付くことができた。
でもまあ自分が夢を見ながら星空を歪ませているのではないか? と思ったりもしたが、とにかくその歪んだ星図を見ながら学舎を目指した。
寮から見て学舎は西側にある。だから西と思しき方向につき進み、途中でまたトイレに行きたくなったので、この世界の人たちには見えないことを良いことに不法侵入を試みたら ―― その先は学舎のトイレだった。
なにが起こったのか? 理解はできなかったが、ほんの少しだけ重なっている世界から抜け出せたことに安堵して、講義へとむかった。
もっと大喜びするもんじゃないのか?
言われそうだが驚くよりも先に呆然としたし、これ以降何度も迷い込んだから、初めて逃げ出せた時の感動は覚えていない。
そう、私はかなり頻繁に、この名状しがたい歪んだ世界を行き来しながら、講義に向かうことになる。
星図が歪んでいる世界(勝手に命名)に頻繁に迷い込むわけだが、その都度、食べ物を勝手に拝借し、寝るために枕らしいものを強奪したりと ―― 私の薄っぺらい良心が痛むわけですよ。
こんなに頻繁に迷い込んでいるのなら、トイレは拝借させてもらうにしても、それ以外は自分で用意すべきだと思い当たり……ながら、その時は焼き鳥みたいなのを食ってた。これがなかなか美味しかったことは覚えている。
何肉かは知りませんが癖のない淡泊な肉と、香りの良い木で作られた串と、特性ソースが絶妙なバランス。味を再現しようと努力したのだが、塩や胡椒、味噌や醤油では到底できない味で……あの調味料を売り出せたら大金持ちになれそうな。
それはさておき、美味しいし料理に興味はあるものの、商売の品にそうそう手を出すわけにもいかないので、実家から送ってもらうことにした。幸い夜空を眺めるのが好きだったので、自前のキャンプ用品を持っていたのは良かった。
メールでキャンプ用品の事細かな指定と、それ以上に細かい食料の指定をしたところ、すぐに送ると両親から返信があった。
同時に何故かお高い国際電話まで ――
「アメリカみたいな危険な国で、外で寝泊まりするつもりなのかい? 殺されちまうんじゃないのかい?」
「大丈夫だって、ばあちゃん」
キャンプ用品を使う場所はアメリカですらないから!
もちろん言いませんでしたけれどもね。
荷物が届き(学生がそんなに迷うのに、どうして荷物は簡単に届くの? については、また後日)両親の愛情 ―― 主に食い物 ―― に感謝する。
星図が歪んでいる世界で二日ぐらい迷うこともある。トイレは勝手に使わせてもらうが、さすがに風呂は使えないので、戻って来てから大学のシャワー室を使って講義に向かうことにし、直ぐに乾くようショートカットにする。こうして汚れが目立たないカーキ色の丈夫な服を身に纏い、近距離だったら銃よりもナイフという言葉を信じて、色々妖しげなものを取り扱っている大学の購買では珍しいくらいシンプルなナイフを購入し靴に仕込み、食糧と水とあまり使い道はないが方位磁石と、使い方が分からないのに購入した六分儀に一人用テントをリュックサックに入れ、それに寝袋を縛りつけて講義に出るわけです。それと石鹸も忘れない。髪含む全身を洗えるちょっとお高い石鹸と歯ブラシと歯磨き粉。
その姿は「迷子の日本兵」
教室ががらがらだったのは……私以外の学生もどこかに迷い込んでいたのだろう。
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そんな迷子の日本兵こと私<F>はある日、別の扉を開いてしまったのですよ。比喩であり比喩ではない。講義を受けるために扉を開いて踏み出したら意識が遠退いて ―― 目覚めたら白い天井が。普通ならここは天蓋付きベッド……かどうかは不明だが、私が目覚めたのは診療所。
「目覚めたか? 日本兵エフ」
もちろん<エフ>と呼ばれたわけではないが、……こう書くと登場してすぐに地雷踏んで死にそうなポジションだなあF<エフ>って。
「日本兵ではありませんが」
白衣を着て首から聴診器を下げているという、一目で医者と分かる人物。日本人の医師で人には言えない事情 ―― 噂じゃあ人体実験していたのがばれたとか ―― でミスカトニック大学の保険医になったそうだ。
本人に迷惑がかかるといけないので二宮(仮名)医師としておこう。二宮医師は三十代で……ああ容姿も年齢も諸事情から詳しくは書けないが、日本人男性医師ということで納得してくださいな。
医者がよくやる、目にライトをあてて瞳孔反応を見てから手首を掴み脈を測って、聴診器で心音を見て、血圧も確認後 ―― 見たことのない機械を指に装着された。
「私はなんで倒れたんですか?」
「高山病だ」
指先に装着された機械は血中濃度を測るものだったらしい。
「……」
だが私は普通の標高の大学で、教室に入っただけなのだが……なぜ高山病?
「良かったじゃないか。単位は取ったも同然だ」
「?」
私の驚きをガン無視して二宮医師はカルテに色々と書き込み、封筒に入れて私に差し出した。
「メキシコに行って蕃神の儀式を執り行う資格を与えられた。これ学務課に持って行け」
蕃神 ―― 無限の深淵の復讐 ―― 賢人バルザイがそう言い残した地獄の神々。
「メキシコ……」
「コカの葉、あんまり食うなよ」
「ちょっ! メキシコ語とか知らないから無理です!」
二宮医師は悍ましいほどに残念そうな眼差しを私に向け、教えてくれた。
「メキシコ合衆国の公用語は、定められてはいないが一般にスペイン語」
ええ、私。もの凄い馬鹿ですとも ―― あの時のことは今思いだしても顔から火が出るほど恥ずかしい。
なんということでしょう! 私は麻薬カルテルからの依頼をこなすために、単身メキシコへと向かうことになったのです。
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