私の名を呼ぶまで【64】
[64]私の名を呼ぶまで:第三十七話
帰宅したヨアキムを出迎えた妃の表情は、昨晩とは違い上機嫌であった ―― 本当はレイチェルと庭で話ているのを見ていたので、にやついているだけなのだが ―― ともかく地味な顔に笑顔らしきものを浮かべヨアキムを出迎える。
向かい合い、カタリナが並べた料理を食べながら、ヨアキムは今日の出来事を聞いた。
皇帝夫妻は妃を虐めることなどはなかったようで、妃の言葉のどこからも不満は感じられない。離婚しても皇帝夫妻との関係は続くので、互いの印象が良いことは喜ばしいことである。
「皇帝夫妻はお前のことを気に入ったようだ、マーヤ」
次に妃はベニートから聞き、カタリナに調べて貰った「メアリー姫のところに、クローディア王女らしい人がいる」ことをヨアキムに伝えた。
ヨアキムは予定通りだと、クローディアについてアンジェリカに調べるように指示を出す。侍女の入れ替えがあったことは、すでにヨアキムは聞いていた。
わざわざこの場で妃に言うように仕向けたのはアンジェリカがどれほど使えるかを試すため。
ヨアキムはアンジェリカから騎士の位を剥奪しようと考えていた。
彼女の腕その物は問題ないのだが、精神的に不安定なところがある。もと主でおそらく愛していたであろうカレヴァを失ったことが関係しているのかもしれないが、そこまでヨアキムは斟酌してやるつもりはない。
カレヴァに依頼され、推薦したリオネルの顔を立てて今まで騎士待遇で扱ってきただけのこと。そのリオネルももういないので、彼女を武器から離そうと考えていた。
アンジェリカが部屋を去ってから妃はヨアキムの母から嫌がらせを受けたことを正直に告げる。妃はそういったことに”私さえ我慢すれば……”と、無駄に耐えるような性格ではない。
話を聞いたヨアキムは肯定する。
「そういう人かもしれないな」
そんなことはない ―― 息子ながらヨアキムは言えなかった。ヨアキムの中で母アイシャは、そういう人なのだ。
ヨアキムがあっさりと信じたことに妃は驚いた様子であった。そして妃は姑なんてそんなものですよとフォローのような言葉を続ける。
妃の生い立ちをベニートから聞いていたヨアキムは、無理矢理連れてきた妃を姑で煩わせるわけにはいかないだろうと、自分で対処することにした。
「ではな、マーヤ……私が対処する」
**********
「では本当に手元が狂っただけだと?」
ヨアキムは翌日、すぐさま事実確認へと向かった。
問われたアイシャはヨアキムがいままで見たことがないほどに表情を憤怒に染め、怒りを抑え込み声を震わせながら答えた。
「とうぜんです。あなたは自分の母親が、そんなことをするような女だと思っているのですか!」
ヒステリックな叫び声に惑わされることなく、ヨアキムはまっすぐにアイシャを見つめ、はっきりと答えた。
「はい」
「……帰って!」
「答えをきいてからです」
”子どもでもあるまいし”
アイシャの叫び声に怯むような歳でもない。母親に嫌われたからといって、困ることもない。
「だから手元が狂っただけだと!」
「そうですか。……ではベニートに聞いてみますので」
もともと正直に答えるとは思ってはおらず ―― 手元が狂ったというのも信用していない。ヨアキムにしてみれば、本人の言い分を聞いてやっただけのこと。
第三者の立場にいるベニートに聞けば分かることである。ヨアキムがアイシャの部屋を出ようとした時、
「紹介してくれなかったから、腹が立ったの!」
アイシャの子どもじみた理由を叫ぶ声が届いた。
ヨアキムは振り返り、世間では潰れたと言われている右側の目蓋を薄く開く。
「私に対して腹を立てたということですか?」
「違うわ!」
「どうして? 妃のことを教えなかったのは、私の判断。そんなことが分からないあなたではないでしょう」
「そ、そうだけれども……」
「正直に答えたから許します。これからは賢い側室と控え目な皇太子の母の他にもう一つ、優しい姑を上手に演じてください。地に落ちた評判はなかなか戻りませんよ。維持するよりも大変です」
皇帝の母になるべく、いままで必死に賢く嫉妬せず、控え目な側室を演じてきたことが無になるどころか、負債を背負うことになるぞと注意してから、執務室へと戻った。
そこには妃とヨアキムの揃いのドレスを作ったブレンダが待ち構えていた。
「最低!」
「悪かった」
ヨアキムはアイシャを怒鳴りつけかねないブレンダに、必死に謝っていた。
渾身のドレスを下らない嫉妬で汚されたとベニートから聞いた、ブレンダは怒りに怒って……
「しっかりとお妃さまのこと守ってくださいよ! ヨアキム皇子」
ヨアキムに散々文句を言う。
「分かっている」
「分からなくてもいいんです。守るんです、分かります? 理解とか必要ないんですよ。分かっていても守れなかったら意味ないんです!」
「……ああ、そうだな」
自分の身くらい自分で守れ ―― 言いたいところだが、ヨアキムが勝手に連れ帰った妃にそれを言うわけにはいかない。
そしてレイチェルを妃に迎えたら、彼女に同じことを言えるかと問われると……言えてしまう自分がいることにも気付いた。
同時に死んだヘルミーナが同じような目に遭っていたら”後宮を解散する”くらいのことはしそうだと。
ヨアキムはこのとき、レイチェルを妃に迎えたら、ヘルミーナと一生比べてしまうであろう自分に気付き愕然とした。
レイチェルに好意を持っていることは確かなので、彼女を傷つけないようにするためには、やはり妃として迎えない方がよいのだろうかと考え出した。ではレイチェル以外で妃にするに相応しいのは誰か?
ヨアキムには該当者が一人しか浮かばなかった。その唯一が現妃。
そんな話をしながら、ヨアキムが考えていると ベニートが妃の部屋にあった、昨日アイシャに染みをつけられたドレスを持って訪れる。
「この濡れている部分か?」
袖と太股の上あたりが濡れているだけで、染みらしい染みは見つからなかった。
「お妃さまが染み抜きしてくれたらしいよ」
部屋に戻りヨアキムとレイチェルの逢瀬を見ながら、そしてカタリナの報告を聞きながら、妃は必死に染み抜きをしていた。
「これならまた着られるのでは?」
「だろうね。結構大きな染みだったんだけどね」
「お妃さまに、是非とも染み抜きの方法聞かなくちゃ!」
上機嫌になったブレンダが部屋から出て行ったのを、ヨアキムとベニートは力なく見送る。
「ところでアイシャさま、白状した?」
ベニートはアイシャが必ず嫌がらせをするだろうと確信しており、その通りになったことで……昨晩はひどく上機嫌であった。
「した。私は生まれて初めてあの人の本音を聞いた気がする」
「……」
「ところでベニート。メアリーの侍女がクローディアというのは確実なんだな?」
「間違いない。そして、アンジェリカは”側室リザ”にそれについて聞きにきた……あまり調査とか得意じゃなさそうだよ」
元側室リザの専任女騎士だったので、そのつながりを生かし、後宮の情報を仕入れようとした。
「それでも騎士の位を剥奪するつもりだ。あの女は感情的過ぎる」
噂話に耳を傾けるのを嫌うアンジェリカは、情報集めがあまり得意ではなかった。
「そうか。それで、クローディアのこと、どうする?」
「直接メアリーに会って話す」
メアリーはヨアキムの訪問を喜び、そして新しい侍女はクローディアではないと言いきった。
一瞬だが妃にしようと考えた「小国・普通顔・代理側室」という条件が揃っていたメアリーだが、ヨアキムはこの嘘で妃にしないことに決定する。
「あの国は私に嘘をつくものばかりだ」
侍女クロードは背後にロブドダン王族特有の死霊がとりついていた。
あの時あの場に居なかったので、原因である彼女の死霊は千切れ消えていなかったのだ。
ヨアキムは自分が彼らの背後にいるものを見ることができると公表するつもりはないので、メアリーの両親を呼び寄せ、この状況を見せて、後始末をつけさせることにした。
「ベニート」
「なに?」
それらの指示を出したあと、
「妃にメアリーのことを探れと命じる。手助けや、危ない場合は助けてやれ」
「どうして?」
不必要ともとれる指示を出す。
「妃が好奇心に満ちあふれた女だと困るからだ」
好奇心が強いのは個人の自由だが、後宮にいる間は大人しくしてもらわなくては困る……それがヨアキムの妃に対しての言い分だった。
好奇心が強くオルテンシアのことを探られたりしたら厄介だと。
「お妃さま、そんなこと興味なさそうだけどね」
「一応餌のようなものだ。食いつかなかったらそれでいい」
ヨアキムも妃が好んで謎解きをするような女には見えなかったが、念には念を入れて餌を撒いてみることにしたのだ。
「ヨアキム。今日、お妃さまに”皇子に調べるように言われたんですけれども調査方法が分からないので、ベニート殿の持っている情報を教えてください”と言われたよ」
妃はその粗悪な餌に食いつくことはなかった。
「そうか」
「興味本位で人の謎とかを探るような方じゃないようだね」
「そのようだな」
離婚まで後宮に留めおいても積極的に問題は起こさないだろうと、メアリーとは正反対だと判断した。
「そのメアリーに関して問題が」
「メアリーという女は問題を起こしてばかりだな」
「そうだね。その問題なんだけれども、メアリーとエドゥアルドが接触した」
「……なんでまた」
メアリーその物は怖ろしくもなんともないのだが、エドゥアルドが絡んでくると、そう楽観視してもいられない。
「さあ。メアリーはすぐに何をしているか分かるけれども、エドゥアルドは簡単には分からない」
「側室のリザ絡みだろうがな」
根本の理由は分かるが、なにをするのかは分からない。
「私に嫌がらせ?」
そう言ったベニートだが”側室リザ”に危害が及ぶとは微塵も思っていない。身に危険が差し迫るとしたら、それは妃。
「側室リザに嫌がらせだろう」
ヨアキムは自分の襟元を指でなぞりながら笑う。
「泣いてヨアキム皇子に助けを求めればいい?」
「自分で対処しろ」
「お妃さまに今まで以上に注意を払うことにするよ」
「頼む」
一人の人間を一人の人が守るというのは限度がある。万全を期すとなると、少なくとも三人は必要。
リオネルの葬儀と後片付けを終えたシャルロッタが妃につくので、一応安心はできるが、注意を払っておくに越したことはない。
ベニートはそこで、
「私が近くで見守って居ることを教えるのはどうだろう?」
自分が女装してヨアキムの後宮にいることを教えるのはどうだろうか? と提案してきた。
「……」
無言で”やめろ”とヨアキムが訴えているのは分かるが、いつもの悪戯心が無視するように囁く。
「本物のお妃さまなら言わないけれど、離婚するんだろ? それならいいじゃないか」
「口外したらどうするんだ?」
「ヨアキムのお妃さまじゃなくなってから、そんなこと口外したら、死ぬから大丈夫じゃない?」
「私は妃を呪い殺すつもりはないぞ」
「それは分かってるけれどさ。それに、お妃さまは無闇に口外するような人じゃないだろうし」
”離婚するが、正式に離婚するまで他者に喋らないように”
妃はヨアキムから指示されて、言われた通りに沈黙を保っているので、ベニートの言葉にも頷けた。
「まあ……そうだろうな」
―― 何か大きな問題がおこった際、まっさきに駆け込める場所を用意しておくのも良いだろう
「オルテンシアのこともあるから、許可はする。できるだけ衝撃を与えないように説明しろ」
万が一虫が孵化した場合、最初に狙われるのは妃。なにかあったら直ぐに駆けつけるつもりだが国内に確実に居られるとも限らない。
ヨアキムは妃と離婚するまでは国外に赴く仕事は控えるつもりだが、戦争などがはじまればそう言ってもいられなくなる。
「衝撃を与えないよう説明できるかどうかは分からないけれど……オルテンシアがどうかしたの?」
「……妃に危害を加えるかも知れん。何せ妃はもっとも無力な皇族だ」
「彼女一人じゃ、無理だろ。日中はシャルロッタもつくことになるし」
命じられてオルテンシアのことを調べ、ヨアキムに報告したベニートは、心配するほどのことだろうかと首を傾げた。
オルテンシアには武術の心得はなく、体力も人並み程度。後宮に収められてからは、行動を制限されており、滅多部屋から出ることなく体力は下降の一途を辿っている。
そして全てを諦めていた。
未来も、ヨアキムの瞳に映ることも。
「念の為にだ」
―― ああ。でも女は嫉妬で女を殺すか
肩に掛かり二の腕に流れる白銀の髪と、一つだけになってしまったが青玉よりも鮮やかな青い瞳。
「分かった」
その瞳で虜囚である彼女を見下すヨアキムに好意をもっている。寄る術のない彼女にとって、憎悪だけが拠り所となっていた。
Copyright © Iori Rikudou《Tuki Kenzaki》 All rights reserved.