私の名を呼ぶまで【63】
[63]私の名を呼ぶまで:第三十六話
ヨアキムは妃に同行し、皇帝の元へと向かう予定だったのだが、急な用事が入ったため、ベニートの後宮で着換え皇帝の元へ単身赴き、妃と共に来られない理由を告げ、妃の同伴はベニートに任せた。
皇帝に妃を紹介する以上に大切なもの ―― 皇都を流れる川の一つにかかっている橋の一部が崩落した。皇都の交通要所に数えられるので、急ぐ必要があった。
馬に跨り、部下を連れて街に出たヨアキムは、市民たちから祝福の花びらをまかれた。
花びら舞い散る大通り「ご成婚おめでとうございます!」の歓声の中、伝統の連理の枝が刺繍されたマントをたなびかせ、黒馬を走らせる白銀の妙と謳われる皇子。
その様はこの上なく美しかった。
―― 妃とは離婚するのだがな
容姿とは裏腹の彼の情けない内心はさておき、都は次の皇帝と噂されているヨアキムの結婚に沸き立っていた。
祝福の花びらを受けながら目的地に到着すると、すでに工事をさせてもらおうという貴族たちが、いつもにまして大勢集まっていた。
公共の建物を直すのは基本国が行うが、大貴族たちもこぞって自分の資産を投じて行う。
理由は名誉――
貴族たちはその潤沢な資産で人々の尊敬をあつめるべく、建物の改修・修理などを自分たちの資産で行う。
むろん建物には「家」の名前が記され、皇帝から表彰され、その栄誉により娘を欲しいと請われ、是非とも嫁にしていただきたいと願われ、このご領主さまは良い人だと尊敬され……そのような効果を望み彼らは集まる。
皇都の交通要所となると、宣伝効果も大きいので誰もが工事をしたがる。誰が工事を担当するか? それを決定するのがヨアキムである。
橋の破損状況と、貴族たちの何家はどのような工事が得意であったか? 均等に事業を割り振らねば皇家に対して不満を持ちかねない。
今回は一家に任せられる程度の破損だが、工事の規模によっては二つないし三つの家に任せるが、その際に敵対関係にないことなどを考えなくてはならない。
だが、それにしても貴族が多かった。公共事業に携われる身分の貴族、ほぼ全員がやって来ているといっても過言ではない。
「ヨアキム殿下」
「ミケーレにグラーノまで来ていたのか」
ミケーレはベニートの父で、ラージュ皇国でも有数の貴族。グラーノはベニートの弟である。この弟はベニートとは違い「皇族の誓い」はたてていない。
兄のベニートが皇族であると認められたことで、弟のグラーノは誓わずとも皇族の血を引いていることが証明されたことと、弟まで皇族になってしまってはミケーレの家を継ぐ者が居なくなってしまう可能性があるので。
もっとも大きい理由は母であるリザが、グラーノを後宮に連れて行くつもりがなかったこと。線が細く美少女のようであったベニートとは違い、グラーノは夫のミケーレ似の厳つい男で、幼少期からドレスで飾ろうと思えるような子ではなかった。
「はい!」
その厳ついグラーノの胸元には小さな花。
「だがディッカーノ家には先日別の工事を許可したはずだが」
ベニートの実家であるディッカーノ家は、息子が皇族であるということもあり、他の貴族より優遇されている。少々の優遇は貴族たちも目を瞑るが、あまりでしゃばると――”それが分からないお前たちではないだろう”とヨアキムは言葉にせずに注意したのだが、
「いえいえ。今回ばかりは引けません。是非ともディッカーノ家にこの工事を請け負わせてください」
そう言うミケーレの後に、他の貴族の声が重なり騒ぎが大きくなる。
ヨアキムは部下たちに工事の査定をさせ、貴族たちを宥めた。
「どうしてこの程度の工事に集まったのだ?」
馬上のヨアキムと、地上に降りている貴族たち。
彼らの言い分は ―― ヨアキムの妃に紹介してもらうためにこの工事をどうしても請け負いたいのだと。
ヨアキムは先日、妃を皆にお披露目したが、個々の挨拶は許可しなかった。”まだ陛下にご挨拶をさせていないから”
お披露目は避けて通れないことだが、妃とは離婚するつもりなので、誰々がどうだ――などと教えるつもりはなく、貴族たちに紹介するつもりもなかった。そこで皇帝に挨拶を済ませていないという理由で、まさに”見せるだけ”で切り抜けたのだ。
貴族たちは会が終わってから皇帝に本当に挨拶していないのかを尋ね ―― ドレスがまだできあがっていないそうだ。ベニートが急いで作らせていると言っていた。近いうちに会って話をする。その後にお前たちに紹介だろう ――
次期皇帝の座が内定しているヨアキム。公表されるのは妃を迎えてから。いままさにその時が訪れ、貴族たちは妃に自分たちの顔と名前を覚えてもらわねばと考えていた所で、皇都の橋の崩落。
この工事を請け負えば、皇帝から褒美を受けることができ、その際にヨアキムの妃にお目通りできると考え、貴族たちが集まったのだ。
話を聞いたヨアキムは、
―― なにもこのタイミングで橋が壊れなくても
貴族たちを妃に紹介せずに離婚するのは無理だと判断し、角が立たぬように治めることにした。
「では全員に出資を申しつける。各家が担当する金額は資金調査後に言い渡す」
名誉ある仕事なので、己の家の台所事情が多少悪くても無理をして、結果破産ということも稀にだがある。
そんなことが起こらないように資産状態を調べるのがヨアキムの部下たちであり、それらを見て工事を割り振るのもヨアキムの仕事。
「ですが、それではほんの僅かしか……」
ある程度金額を出資しなければ、格好がつかないと声を上げる者がいた。
「橋の工事にかかる費用は少額だろうが、お前たちには別の作業を命じる」
「なんでございましょうか」
「この橋、補修完了後、私の妃の名を与える。お前たちの持つ地図に妃の名を刻み、すべての地図を手直しし、皇都の新しい地図を一枚私に献上するように。もっとも美しき地図を作製した者に、私が即位した暁に最初の栄誉を与えよう」
離婚する妃の名を、一つくらい残しておいてやろうとヨアキムはこのように宣言した。
橋の被害状況が分かるまで、ヨアキムたちは街にある食事ができる高級店に入った。そこで被害状況が届くのを待ちつつ、高級料理に舌鼓――とはいかなかった。
「兄から言われた、邸のリストです」
グラーノがヨアキムに差し出したのは、妃に与える邸の候補。
離婚した妃に風光明媚な荘園を与えるのだが、一生荘園で暮らせとは考えていない。この皇都に出てきたいときもあるだろう。もちろん王城の一室を貸し出すのは問題ないが、本人がいやがるかもしれないと考え、邸を一つ用意することにした。
その選別をベニートに任せたのだが、ベニートはその仕事を弟に横流しした。
他の貴族が悔しがっているのを横目で見ながら、邸の見取り図と購入・維持費用を読む。
「グラーノ」
「はい!」
「周囲の治安状況が抜けている。お前が選んだのだから、どこも安全だとは思うが、念には念を入れて、それらの調査も申しつける」
そんなやり取りをし、橋の被害状況を調べた部下たちがやってきて、被害総額を提出する。ヨアキムは金額を見て、その場で全員に出資金額を通達した。
資産状況を調べる必要もないほど、一人に対する金額が微々たるものであったのだ。
ヨアキムは帰りがてらにもう一度橋の状況を見ようと立ち寄ったところ、異国人でごった返し、
「ここはお妃さまの橋だよ!」
妃と同名の花を売る者まで現れていた。半日もしないうちに、橋は皇都の観光名所となっていたのだ。
グラーノが胸に挿していた小さな花も妃の名と同じものである ――
馬で通りを抜けると祝福の声をかけられ、花が舞う。
王城へと戻ったヨアキムは皇帝に橋の件について説明し、同時に皇帝となる宣言をしたことも報告した。
そして皇帝から妃について話を聞き、無難に皇帝夫妻との対話を終えた妃に労いの言葉でもかけようと、一度執務室へと戻ったところレイチェルがいた。
男装して部屋で待っていた彼女は、はっきりと別れを告げて走り出す。
ヨアキムは彼女を追いかけて、また後宮へ。
「お許しください、ヨアキム皇子」
「なにがだ? レイチェル」
「私は人々に恨まれたくはありません」
「……」
レイチェルが拒否する理由が、ヨアキムにも徐々に分かってきた。民衆の妃人気が凄まじいのだ。
何も悪いことをしておらず、身分低く、さほど優れた容姿でもない。完璧ではないことが、逆に完全をもたらす ―― 妃はその好例であった。
この妃と離婚して侯爵令嬢レイチェルと結婚するとなると……侯爵令嬢というだけでレイチェルが嫌われることは確実だった。
「私には無理です」
ヨアキムは妃を殺すつもりなどはないが、間違って死んだらレイチェルのせい。
子どもがいないまま離婚すれば、子どもができなかったからだと、みなが憐れみ、身籠もったレイチェルを白い目で見る ―― など、なにがどう転んでも、レイチェルには分が悪すぎる。
レイチェルのことを思えばヨアキムは身を引くのが最良の選択。レイチェルとしても、自分と結婚したことでヨアキムの人気を落とすのは避けたい。
ちなみに今回も妃が窓から見ていることに、ヨアキムは気付かなかった。
レイチェルの手を解き、ヨアキムは後宮入り口へと向かう。
―― 妃とは離婚で、レイチェルは無理か。となれば誰を妃に……ロブドダンのメアリーあたりでもいいか
国王の死霊がなくなったことで、国を維持する『師』の力が失われた国家ならば、併合しても良いだろうかと考えながら、後宮入り口詰め所に待機させていたアンジェリカを連れ、部屋へと向かった。
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