私の名を呼ぶまで【65】

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[65]帰還:再会

「……は?」
 ”戻ってきた”テオドラは、ロブドダン王国でヨアキムが侍女と結婚したと小耳に挟み、間の抜けた声を漏らしてしまった。
「ヨアキム皇子の妻?」
 宿屋で一人きりになり、鞄からトウマの本を取り出して名前を確認するも、
「ありませんよね。読み替えても、別の読み方も……”その名前”にはなりませんね」
 その名はトウマの本には載っていなかった。
「載っていない理由でもあるのでしょうか?」
 テオドラは首を傾げながら、しばらくの間、本を眺めていた。
「部屋に篭もっていても、解らないようですね」
 トウマの本を鞄に入れて部屋を出る。
 道沿いに進んでいると、覚えのある気配が残っている酒亭に出くわした。悪夢師ローゼンクロイツが飲み食いした酒亭。
「このあからさまな悪夢の気配……”また”ツケを払えということでしょうか?」
 何ごとだろうかと思いながら、テオドラは入り口の扉を押し開いた。
「いらっしゃい」
 給仕の女性の声を聞きながら、テオドラはまっすぐカウンター席を目指す。椅子に腰を降ろし、主人に声をかける。
「済みません」
 主人は当然ながら声のする方を向き、テオドラと目が合った。
 しばらく動きが止まり、そして、驚きを隠さずに話しかけてくる。
「いや、あんた……」
「どうしました? あ、お勧め料理もらえますか? お腹が空いているので。そうだ、酒亭で酒を飲まないもの失礼ですね。私の好きな……」
「黒ビールでいいかい?」
 主人がカウンターに置いたのは大ジョッキになみなみと注がれた黒ビール。
「大好きです」
「こいつは奢りだ」
「ありがとうございます。お話聞きますよ」
「いやあ……特にこれといった話はないんだが。最近夢で見た人に似てた……ような気がしてな。いやあ、違ったかもしれないが」
 酒亭の主人に未だ悪夢師の痕跡が残っているのを確認し、

―― 私になにを知らせようというのでしょうかね?

 彼を夢から解き放つために、話を聞くことに専念した。
「私少しばかり”この世の中から外れた場所”にいましてね、話題に付いて行けなくて困っているんです。なので、最近の出来事教えてもらえると嬉しいのですが」
 酒亭の主人は”知ってるかい?”とばかりに、ヨアキムに見初められた下働き……の話ではなく、
「へえ……王女さまが駆け落ちですか」
 自分の国の命運が空前の灯火になりかけた出来事を話はじめた。
「立候補しておきながら駆け落ちだからな」
「それで王女さまは?」
「まだ見つかってないらしい。もしかしたら見つかったのかもしれないが、公式には死んだって発表されたからな。葬式もしてないし、喪に服してもいないけれどな」
「喪に服していない?」
「王女の従姉妹が側室として一ヶ月くらい前に出て行った。喪に服してたら側室として送り出せはしないだろ」
「側室? ……えっと、ラージュ皇国へ?」
 他に用事があったとはいえ、大国の皇子が立ち寄って側室として連れて行く……という厚遇を踏みにじった国の王族を、わざわざ迎え入れるなど、考えられない状況である。
「それもヨアキム皇子の側室になったらしい」
「よく受け入れてくださいましたね」
「まあなあ。裏がありそうで、ちょっと怖いけどな」
 下働きからヨアキムの妃になった女性について、酒亭の主人はローゼンクロイツに語ったのと同じことをテオドラに教えてくれた。
「その遺産を欲しがっていた息子さんは諦めたんですか?」
「諦めたらしい。相手がラージュのお妃さまじゃあな」
 酒亭の主人が入って来た男を指さす。同時に主に潜んでいた悪夢の欠片が消え去った。
 振り返ったテオドラは、男が呪われていることに気付いた。正式には「呪い返し」を食らった顔。
 おまけに呪いを返した相手を知ってもいた。

―― リュディガーじゃないですか……ってことは、この男が先に呪いをかけたということですか

「本当に諦めたんでしょうかね?」
 テオドラは向き直り、料金をカウンターに置き立ち椅子から降りる。店を出て息子から繋がっている呪いの線を辿り、中流家庭の玄関の扉を叩いた。息子が呪いを依頼した相手がここにいるのは確実。
「どちら様ですか」
 対応に出た召使いが、見知らぬ来訪者に警戒を示す。
「体調が悪い方に会いに来ました」
「お引き取りください」
「そうですか。まあ、あなたもその人と死ぬのですから関係ありませんよね。それでは」
 テオドラは踵を返して歩き出した。
 呼び止める声を無視して歩き続ける。”待って……”叫び声の主は途中で諦めた。

「ラージュ皇后を呪えるのはラージュ皇族のみですよ。それ以外からはリュディガーが全力で守っていますからね……それにしても、リュディガーの呪いの跡を見る分には、お妃さまの名前が安定していませんね」

 リュディガーが呪いを返す際に使ったのは、ヨアキムの右目にある冥界の凍えた水。そこにはヨアキムの意志も紛れており、妃の名がなぜか定まっていないことが気にかかった。

 宿に戻ったテオドラは、床に入り、
「ヨアキム皇子に話を聞いてみますか」
 両手で自分の両目を隠し夢の領域へと踏み込んだ。
 テオドラは育ての親が悪夢師であったため、多少なりは夢を操ることができるので、その技を使いヨアキムを強引に夢の中に誘い込む。
『ヨアキム皇子』
『呪解師テオドラ?』
『夢の中です。現実ではありません。ですが実際話しています』
『あ……ああ』
『ヨアキム皇子に、どうしても急いで一つお聞きしたいことがあったので、普段は使わない手段を用いました』
『なんでしょうか?』
『ヨアキム皇子のお妃さまのお名前は?』

 起き上がったテオドラは、遠く離れたヨアキムを夢の呪縛から解き放ち、首を傾げた。
「お妃さまが私と同じ名前……ヨアキム皇子がそう言うのですから、そうなのでしょうかね。改名したのでしょうか? でも……改名したとしても、私の名は使わなさそうな気がするのですが。でも私がそう思っても。気にしないでおきましょう」

**********

「こんにちは」
「あんた」
「今日ここから発つので、ご挨拶に参りました」
 酒亭の主に挨拶をする。
「そうかい」
「それではお元気で」
 町を出る際に少々遠回りをし、呪術士の家の前を通り、そして呪いの線を辿り息子の家を目指す。
 死相が濃くなった息子とその家族の姿を確認して、

「さて、クニヒティラ家の領地に行くとしますか」

 鞄の中の蛆に声をかけてテオドラは死霊の消えたロブドダンを後にした。


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