私の名を呼ぶまで【22】
私の名を呼ぶまで:第五話
夜はまだ深いが、明け方は確実に訪れる。
ヘルミーナの死体や部屋を片付けるとしたら、暗い間に終わらせたほうが良いとヨアキムは判断し、椅子から立ち上がり判断をテオドラに仰いだ。
「死体や持ち物は焼却処分で大丈夫だろうか?」
「とくに焼く必要はありませんが、それでお心が落ち着くのでしたらどうぞ。焼いてもなんら問題はありません」
「呪解師テオドラ。用件をお聞きしたいのだが、まずはこれらを片付けてからでよろしいか?」
「はい。少々お待ち下さい。たしか鞄に血を落とすのによい石鹸があった……あった、あった」
テオドラが鞄からなんの変哲もない白い四角い石鹸を取り出し、ヨアキムに手渡す。
「感謝する」
「呪解師殿。本来なら私の邸に案内するところですが、夜明けまで時間がないので……失礼ですがこれから王宮を抜け、大聖堂でお待ち下さい」
「わかりました」
テオドラは大聖堂までの道順が書かれた地図を渡され、それを頼りに王宮から外へと出て大聖堂を目指した。
ヘルミーナの遺体は仮眠室に置いたままにし、二人は後宮へと急いで戻り、掃除用具入れからバケツを二つ取り出し、その中に水と乾かしていた雑巾を数枚放り込む。
まずは空中庭園へとむかい、手渡された石鹸をつけた雑巾で拭う。石畳を汚していたねっとりとした蜂の体液が、またたくまに落ちてゆく。
白くきめ細やかな泡が立ったところで、ベニートが水を撒き、新しい水を汲んで再び撒く。巨大蜂の痕跡があらかた消えたことを確認し、二人は次ぎにヘルミーナの部屋へと向かった。
「私一人で片付けようか? ヨアキムは呪解師殿のところに……」
「いいや、片付ける」
ヨアキムが扉に手をかけて開く。室内は血肉により赤く染まっているが、とても寒々しかった。早くに片付け終えようと、ベニートは無言で手を動かす。
ヨアキムはマットを引き剥がし、持ち運びやすいように剣で切り、力任せに折りたたむ。
カーテンも外し、割れた花瓶も、ヘリオトロープの花もすべてまとめ、衣装箱の中身を放りだし詰め込む。
「ベニート、運び出しに入れ。あとの掃除は私がする」
「……わかった」
ベニートは六回ほど王宮と後宮を行き来し、最後にベッドを破壊して部屋を出た時には、他の側室たちが目を覚まし、大きな音に何事か? と部屋からでて様子を見に来ていた。
「全員下がれ」
ヨアキムの声に、側室たちは疑問はあったが部屋へと帰った。
最後に扉を閉めるとき、
―― ヨアキムのこと、シャルロッタと一緒に守ってあげるから。ねっ! シャルロッタ
―― もちろん!
―― 期待してる
ヨアキムには昔の他愛ない約束が聞こえてきた――ような気がした。
**********
乗合馬車に揺られてカタリナはヘルミーナの実家へと向かった。
邸の最寄りの停留所で降り、街でヘルミーナが勧めていた食堂で食事を取って、花屋へと立ち寄る。
「花をお願いしたいのですが」
「なんの花……ああ、あんたかい!」
顔見知りになった花屋の女主人は、カタリナの顔を見て、奧へと入り用意していたヘリオトロープを抱えて出てくる。
「花束を作るのに時間がかかるから、ちょっと街を散歩してきなよ」
「はい。ではお願いします」
「お嬢様、元気かい」
「はい、とっても」
カタリナは笑顔で答え、花屋から出て街を少し歩いて見てまわってから、馬車屋の戸を叩いて馬車を用立てた。
「一人乗りの馬車を一台、お願いします」
「カタリナさんだったね。もうそんな時期か。お邸行きでいいんだね?」
花屋同様、顔馴染みになった馬車屋の主が自ら鞭を持ち、馬車を引く。
花を受け取ったカタリナは、一人乗りの馬車に乗り込み、荷物を足元に置き、膝にヘリオトロープの花の花束を置く。
邸に到着し、御者の手を借りて馬車から降り料金を渡す。邸の手前にある、警備の詰め所から、長いプラチナブロンドが目を惹く若い女性が現れた。
「カタリナ。来るの待ってたわ」
「アンジェリカ。久しぶり」
二人は半年ぶりの再会に、親愛の抱擁を交わす。
「ヘルミーナさまはお元気ですか」
アンジェリカは邸付きの女騎士だが、邸の主カレヴァの部下でもあるので、年に何度が王宮へ伴われることがある。
その際は、必ず後宮に足を運びヘルミーナと会い、そしてヘルミーナに連れられて街へと出て楽しんでいた。
「お元気ですとも。毎日剣を担いで素振りしてと」
「それでヨアキム殿下と試合をしていると」
「はい」
「あのお二人、変わらないね」
「そろそろ変わって貰わないと困るような気もしますけれども」
アンジェリカはカタリナの荷物を持ち、邸へと案内する。
”旦那様からうかがっております”と、執事が出迎え侍女がアンジェリカから荷物を受け取り客間へと運ばれ、カタリナは応接室に通される。
そこで冷たい水で喉を潤したカタリナは、早々にアンジェリカと執事と共に墓参りに向かった。
「パウラさま、ヘルミーナさまはお元気です」
いつもと変わらない墓参りを終え、一泊してからカタリナは王宮へと戻った。
**********
「夜分遅くに失礼します」
テオドラは地図に書かれた通りに夜の街を歩いた”つもり”だったのだが、慣れぬ街の夜は中々の強敵で、何度か道に迷いやっと大聖堂に到着した頃、既に空は白み始めていた。
「旅の方ですか?」
テオドラを出迎えたのは、朝の務めをしていたバルトロ皇子。
「あなたは……失礼ですが、皇族の方ですか?」
「はい。現皇帝の息子、バルトロ・ラージュ・ヒエタミエスと申します」
濡れたような光沢を放つ長い黒髪と、深緑色の瞳。
瞳は大きいが眦がやや鋭角で、甘さだけではない落ち着きがある。
鋭さが感じられるヨアキムや、抜け目無さそうなベニートとは違い、穏やかさを感じさせるバルトロの容姿。
物腰も静かで丁寧で”本当に優しい”彼は、テオドラに一夜の宿を提供しようと、奧の宿泊所に案内しようとしたのだが、
「テオドラ」
それはいつの間にか大聖堂に居た人物によって阻まれた。
「あなたは?」
バルトロの問いかけに相手は答えず、無言のままテオドラへと近付く。相手の態度にただならぬものを感じたバルトロは、テオドラの前に立ち相手に立ちはだかった。
「お名前は?」
「……ロキ」
テオドラは仕立てのよい聖衣をまとっているバルトロの背中を軽く叩き、
「ご心配をおかけしました。それは知り合いですのでご安心を」
頭を下げてから前へと出る。
「大急ぎで戻れ。まずいことが起きた」
テオドラはロキに理由は聞かず、バルトロへ向き直る。
「初めまして、バルトロ皇子。私の名はテオドラ。呪解師テオドラと申します」
「……あなたが?」
「私はヨアキム皇子に用がありこの国にやってきました。ヨアキム皇子と昨晩お会いしたのですが、お忙しい御方のようで、最後まで話ができませんでした。ここで待つように言われたのですが……急用ができてしまいました。後日また来ると伝えてもらえるでしょうか?」
驚いているバルトロと、急かすロキ。
「必ずや戻って来るという約束に、この本を置いて行きます」
テオドラは鞄から黒い厚紙表紙の本を取り出し、バルトロに手渡した。
「これは?」
「悪夢師の本。エストロク教団の教えに詳しいバルトロ皇子でしたら、これが一番の身分証になると思いまして」
バルトロは震える手で悪夢師の本を受け取り、
「ヨアキム皇子に渡すのですか?」
震える声でその処遇を問う。
「はい。それを目当てに帰ってきますので。大丈夫、ヨアキム皇子は”血の呪いの原石”を持った方です。悪夢師の本は、例えどのような状況になっても読むことはできません。ですから、安心して預けてください」
「わかりました」
テオドラは――お騒がせしました――と言い残し、ロキと共に走って大聖堂を出てゆく。震えた手で本を持っていたバルトロ皇子は、開いたままの入り口扉を見つめたまま、長い時間立ち尽くしていた。
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