私の名を呼ぶまで【23】

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私の名を呼ぶまで:第六話

 テオドラの話を聞いたバルトロは、皇国をヨアキムに預けることに決め、両親の説得に取りかかる。
 以前よりバルトロよりもヨアキムを後継者に定めたかった皇帝マティアスと、自分は皇后になるはずの女性ではなかったという思いの強いシュザンナは、バルトロの意見に耳を傾ける。
 その頃、皇帝夫妻の次男エドゥアルドが成人して、後宮を持つことを許された。

 ヘルミーナの喪失と、カレヴァとの確執、そして手元に残された「悪夢師の本」

 ヨアキムは落ち込み、自暴自棄になり、未来を悲観していたが、人に知られることはなかった。泣くことも助けを呼ぶことも出来ぬほど、彼の精神は疲弊していた。
「ヨアキム殿下!」
「くどい、カレヴァ」
 カレヴァは娘ヘルミーナの遺体の返却を求めたが、ヨアキムは拒否した。
 遺体をカレヴァの元へと返せば、先祖代々の墓を掘り返して埋葬することになる。墓は新しいものを、前に死んだものの隣に並べる作りになっている。
 ヘルミーナの前に死んだのは彼女の母パウラ。
 隣に並べるということは、隣の棺も土が取り除かれてしまう。そのとき、棺が破損し、パウラの遺体が生前のままの姿であったら?

 ヨアキムはカレヴァに遺品一つ返さなかった。

 ヨアキムはヘルミーナがいなくなってから、休むときはいつも仮眠室に入っていたが、後宮へ足を運ばないようなことはなかった。
 ヘルミーナの侍女であったカタリナ。彼女が虫に寄生されていないかどうか? ヨアキムは気になり、目が届く範囲に彼女を置いた。
 殺せば簡単だが、目覚めが悪い。
 その頃の精神が衰弱していたヨアキムは、確証なく鋼の意志で疑わしきを処分できるような支配者の気力はなかった。
 確証を得るために、次にテオドラと会う際には、カタリナをも見てもらおうと考えながら、黒い厚紙表紙の、なにも書かれていないノートを開く。

**********

 その日も後宮ではなく、夜半に仮眠室へと向かった。古書の匂いしかしないはずの部屋に広がる、白粉と爽やかな香水が混じった香り。
 頼りない明かりの隣に座っていた、鮮やか過ぎない赤いドレスを着た”女性”が立ち上がり、微笑む。
「ヨアキム皇子」
「ここは女性は立入禁止だぞ。どうやってこの部屋まで」
 柔らかだが薄暗く、頼りないことに怒りを覚えそうになる明かりの下、しばらく二人は見つめ合う。ついに耐えられなくなった”女性”がいつもの声と口調で呼びかけた。
「ヨアキム」
「……お前、ベニートか」
 従兄の変わりぶりに驚き、そして呆れる。
「そう」
「なんて格好をしている」
「見ての通り女性の格好だ」
「ベニート。お前にそんな趣味があったとはな」
「趣味と言えば趣味だが……それで相談なのだが、私をお前の側室として後宮に入れてくれないか?」
「私の後宮に側室として入りたいだと?」
 言われたことを鸚鵡返しし、ベニートの頭の天辺から足の先までを見直す。
「ああ。ヨアキムですら女だと思ったんだ、気付かれはしない」
「ベニート」
 薄い明かりだったから――言い返そうとしたが、実際に女だと勘違いしたのだ。そんなことを言っても虚しいだけのこと。
「後宮に足を運ぶのが嫌なのだろう?」
「……」
「後宮で、女性と寝るのが嫌なんだろう。だが後宮には通っているという実績は必要だ。皇帝になるのなら尚更。だから私の部屋に来ればいい」
 皇帝になるためにはしっかりと後宮に通う必要がある。それは引かれた道で険しくもない。いまのヨアキムに、皇帝にならないと叫び拒否し、違う道を模索するような力は残ってはいない。
 空っぽにちかい体を動かしているのは、呪解師テオドラからの「訪問理由」
 呪いの”かけ直し”がどのようなものか、ヨアキムにもベニートにも、それらに詳しいバルトロにも分からないが、彼女が本物であることだけは実感していた。

 皇位に就こうが就くまいが、与えられた地位を放り出すにしても責任だけは果たす。

「……分かった」
 ヨアキムはその日まで、皇帝の後継者を目指して行動する必要があった。
「ヨアキム」
「その代わりに、私の後宮に新たに収める女を選別しろ。お前を含めて十名」
 手元に届いていた身上書の束をベニートの足元へ投げつける。衝撃で散らばってしまったそれを拾い集めながら、主の意志を尋ねる。
「条件や希望は?」
 ヨアキムが”病死”したヘルミーナのことをもっとも気に入り、愛していたことは多くの者が知っている。そのせいか、新しく勧められた女性の多くは武術の腕が立つ者が多かった。
 似たような女を薦めてどうするのだろう? 比べられて粗を捜されて苛立たせるだけだろう――ベニートはそう考えた。
「過去に男性と肉体関係があった女だ」
「男性経験があった女性を後宮に収めるの? 収めないの?」
「収める。処女は除外しろ」

―― ご自身の近親者男性以外の体液です。この虫は処女の体内でしか育つことができません。男性の体液を摂取した場合、例え成長していなくても孵化します ――

「……分かった。大変な仕事になるな。普通は生娘であることが側室の条件だと考え、娘の男性関係は必死に隠すからね」
 ヨアキムの心でも感情でもない部分に深くついた傷。ベニートはその傷を癒やすつもりはないが、こじ開ける必要もないだろうと、面倒な仕事を自分の趣味のために行動を開始した。

 王宮と後宮は各々独立したもので、一本の通路だけで繋がっている。とは言え、庭の境は明確ではないので、知らない者がみるととても警備が甘く、誰でも侵入できるように感じられる作りであった。
 仮眠室に面していない通路を通り、側室として後宮に入ることが許されたベニートを含めた十人が出入り口にたつ。
 初めて後宮に入る際には、両親や親族の立ち会いも認められているが、必要ではない。必要なのは主である皇族と、神官位を持っている聖職者と警備担当者のみ。
 側室になるということは、仮初めながら結婚なので神官が、警備担当者は出入りしているのが側室であるかどうかを知っておく必要がある。総責任者でないのは、現場入りしない者が立ち会っても無駄なことから。
 最後に主が立ち会うのは、前述通り仮初めの結婚なので、新郎が不在では式が執り行えないためである。
「ヨアキム」
「陛下。どうなさいました?」
 初めて後宮を授かり、数名の女性を収めた時に皇帝マティアスは”慣れていないだろう”立ち会った。以降立ち会うことはなかったのだが、ヘルミーナの死から塞ぎ込んでいたヨアキムが、吹っ切れるためだとしても新しい女性を迎えたことに安堵し、こうして足を運び直接ではないが心配していることを伝えにやってきたのだ。
 側室になろうとしていた女性たちや、その家族などが膝を折り頭を下げる。
「時間が空いていたので、立ち会おうと思ってな」
「わざわざお時間を割いてくださり、ありがとうございます。陛下」
「あいかわらず、堅苦しいなヨアキムは」
「申し訳ございません」
 ヨアキムと皇帝マティアスの間には、小さな溝がある。
 誰かによって刻まれたものではなく、ヨアキム自身もどうして溝があるのか分からないのだが、両者の間にたしかに小さな溝があった。
 側室やその家族が立ち上がり、決められた通りに後宮へ繋がる通路の前に立つ。

 後宮へと繋がる通路に、皇族男子以外の種で身籠もった女が”爆ぜる”仕掛けが施されているのは、貴族の間では有名な話で、ここに連れて来られた貴族の娘たちも言い聞かされていた。
 連れて来られたのは全員が男性関係がある女性。
 己の身に過去があるため、恐れ足を踏み出すことができない者ばかり。ベニートは彼女たちを尻目に、あっさりと通路を抜けて振り返り、皇帝マティアスに頭を下げ、他の女性たちが来るのを待つ。それに勇気付けられたわけではないだろうが、この場に立ち尽くしていてもどうにもならないと、側室になった者たちが足をすすめる。

 そして五人目の女性が後宮に足を踏み入れたとき――彼女は肉片となった。

 ヨアキムは頬についた血肉を手で拭い、皇帝マティアスに頭を下げた。
「お見苦しいところをお見せいたしました」
「構わん」
 皇帝マティアスの表情は変わらず、残り四人の側室たちの親兄弟は、怯えて逃れようとする娘を手を掴み、女性が爆ぜた部分目指して突き飛ばした。幸い四人とも無事に通過することができ、神官が略式の祝福を述べて血腥い仮初めの式は終わった。
「ヨアキム」
「はい、陛下」
「あとで私のところへ来なさい」
「畏まりました」
 皇帝マティアスが去ったあと、爆ぜた娘の両親がヨアキムに詫びていたが、ヨアキムはその言葉をほとんど聞かず、後片付けの人員を用意しろと命じてその場を立ち去った。
 汚れを洗い流し、服を着替えて皇帝マティアスの後宮へ行く。皇帝の後宮は人がいない。かつては側室が多数いた後宮だが、いまは華やぐこともなくひっそりとしている。
「来たか、ヨアキム」
「はい」
 皇帝と卓を挟み向かい合って座る。
「ヨアキム。私も先程の場面に一度だけ遭遇したことがある。それも仮初めの式の時ではなく、身籠もった側室が自ら飛び込んだ」
「それは……」
「その側室の名はラトカ。ラトカ・クニヒティラ」
「ラトカ・クニヒティラ……まさかカレヴァの妹?」

 それは皇帝マティアスと皇后シュザンナが長く二人きりで抱えていた秘密であった。


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