ビルトニアの女 外伝1
貴方を抱いた日
 マシューナル王国ゾフィーの結婚が隣国ベルンチィアに嫁いだ年、ドロテアは十九歳になっていた。

第十五話・皇后に捧げる歌

 マシューナルの国王夫妻は、ゾフィーをオーヴァートの後妻にしようと考えていたのだが、数々の騒ぎの結果『大寵妃を押しのけると起こりうるだろう惨事』を考え、娘を隣国の王太子の元へと送り出した。
 その先で待ち構えていたのが、王太子ではなく王弟で、その王弟の後妻となるなどとは、この時国民の誰もが思っていなかった事だ。それが後々事件に発展する事も。

 ゾフィー最後の挨拶に、ドロテアも列席していた。
 ドロテアに取ってゾフィーは、マシューナル王族内では年齢も近く、ゾフィーも良く話しかけてきたので、顔見知りではあったが婚前の式典に列席する事になるとは思ってもいなかった。オーヴァートと共に上座で、婚礼に向かう前の儀式を行っているゾフィーを観ながら、ドロテアは煙草を吸いながらワイングラスを傾けていた。
 昼に行われたその式典後、ゾフィーは花嫁行列をなしてベルンチィア公国へと旅立っていった。その行列の最後尾を見届け、二人は城へと戻る。青く染められた革のソファーに腰掛けて、式典用の着衣のカフスを乱暴に取り外していたドロテアに、オーヴァートが話しかけてきた。
「俺が結婚したのは二十三歳の時だ。結婚前まではパーパピルス王国に住んでいた、それはお前も知っているだろ? ドロテア」
 知っていて当然の話だった。ドロテアが八歳の頃「皇帝陛下のご成婚!」そんな号外が出て、両親が買ってきたその号外を読んでいた。当時のドロテアが読んだ号外に書かれていた『皇帝陛下』と、此処にいる『皇帝陛下』は別人だと思われる程、綺麗に書かれていた事をドロテアは思い出せる。
「知ってるけど、突然なんだ?」
「昔話をしたくなった。もう十年以上も前に別れた妻の事を」
 十年以上前にその妻と別れた後、マシューナル側は再び自らの王族の中から、新しい妻を準備しようとした。その望みを託されたのが、ゾフィー王女であったのだが、思うようには進まなかった。進まないうち、ドロテアが現れ遂に国王は諦めた。
「特に聞きたいとも思わないが」
「嫉妬か?」
「はぁ? 嫉妬ねえ……それがどんなモンかも解からないような男に言われるとは、俺も落ちたもんだな」
「言うな、お前は」
「で、はいはい。十年以上前の新妻との新婚生活の何を語りたいんだ? ボケないうちに言っておけば? 覚えておいてやるぞ」
「お前、その態度だと刺されるぞ」
「別に。刺されるのは俺の落ち度だしな。お前の妻ってのは、マシューナル王妃の妹だよな」
 マシューナル王は女婿で、マシューナル王妃が前王の娘である。その王妃の年の離れた、母親も違う(違ってはいるが両方とも正妃)王女こそ、オーヴァートの妻であった。
「そうだ、名前は……おい! ヤロスラフ! 名前何て言った?」
 覚えていて『わざと』ヤロスラフに問うオーヴァート。そして、
「私が覚えているわけなかろう、お前の妻の名など」
 間違いなく、本当に覚えていないだろうヤロスラフ。
「おいおい、仮にも皇后だったんだろ? 主の妻だったんだろ?」
「知らん。覚える気にもならなかったし、何よりオーヴァートが“后”として私に通達しなかったので、后だなどとは思っていなかった」
 “通達”というのが、ヤロスラフらしい。
「あ〜ヤロスラフらしいなぁ……」
 これ以上ヤロスラフに何を言わせても無駄だと、ドロテアは理解した。最も三日で別れたと言われている后だ、選帝侯に『皇后』として認められていなくても仕方ないのかも知れない。
 ドロテアはマリアに手伝ってもらい、着替えを終えた。何時もの動きやすい格好に着替え、再びソファーに座ろうとした時
「会いに行くぞ。ドロテア」
 オーヴァートを凝視するが“誰に”とは聞かなかった。この話の流れ。
「何で俺がお前の妻に」
 その人しかいなかった。ドロテアとしては、それこそ嫉妬も何もない。
「妻ではない。“前妻”」
 別れてもいるのだから、後ろめたい事もない。先に述べたように、ドロテアが八歳の時に結婚して、八歳の時に離婚しているのだ。二人の関係に亀裂を入れるような事もドロテアはしていない。
「手っ取り早く済ませろよ」
 だから、会いに行く理由も何もなかった。強いて理由を上げるのならば、オーヴァートが“会いに行く”と言った事くらいだろう。

**********

 首都から一番近い地方都市の外れに彼女はいる。
「カティーニン修道院な。お前と別れてから、修道院に入ったって聞いてたが。ここマシューナル王家の霊廟を祀る所だよな」
 王家の霊廟を祀る修道院。離婚後の王女が身を寄せるのには、この場所が一番適切だろう。赤煉瓦の高い塀と、その向こうに見える木造建築。周囲には人は住んでおらず、明るい緑色の下草が刈り込まれ拡がっている。此処にいたる迄の街路樹も剪定されており、簡素な佇まいの修道院ではあるが王家の霊廟がある場所としては、相応であった。
 鳥のさえずりしか聞こえないその修道院の塀の前に降り立った。ドロテアを連れてオーヴァートが飛行し、この場所へと来た。暫くそれを見上げていると、オーヴァートが語り始める。
「名はダーフィト」
「男名前っぽい名前を持つ、王女だったよな」
 周囲から鳥の声が消えた。先ほどまで微風に乗って聞こえていた柔らかな葉音も消えた。両手をポケットに入れて歩くオーヴァートの後を、ドロテアはついてゆく。
「男名だ。先のマシューナル国王は男児が欲しかった。女児であっても継承権はあるが、男児を欲し王妃が死んだ事を幸いと……殺したようだが、居なくなった王妃の代わりに新しい娘を添えた。その娘が男児を産む事を期待した。期待して、名前は男名しか準備していなかった。それがダーフィト。生まれてきたのは国王の希望に反して王女。ダーフィトと名付けられた王女は、王女として生まれただけで父王の不興を買った」
 自分が土を踏む音も聞こえない。
 耳が痛くなる程の真昼の静寂の中、質素な扉が開かれる。修道院まで続く中庭に、修道女が居た。動が一切停止している修道女達が。
「ダーフィトは考えた、どうしたら父王に振り向いて貰えるか? ダーフィトは結婚で父王に振り向いてもらおうと考える。誰の妻になろうか? だが、国を背負っている父王に好まれていない王女を貰いたがる国はなかった。嫁ぐ“国”はない、だが国のない王ならば? 私だ」
「最後、俺じゃねえのか? 私になってるぞ」
 木造の廊下を歩き、奥へ奥へと入ってゆく。
「中々難しいな。俺だ……私といったら頭の中で訂正しておいてくれ。そしてダーフィトはやってきた『妻にして欲しい』と。父王に振り返ってもらう為に」
 昼でも暗い廊下を、何度も曲がっていると、規則正しく並んだ扉が見えてきた。修道女達の私室区域。ドロテアは何も言わずに後をついてゆく。
「ダーフィトの結婚を父王は喜び、生まれて初めて賛辞された」
 何の音もしない廊下に、ドロテアは歩いている感覚すら失われていた。
「結婚を申し込みに来たのは、私が二十二の頃。ダーフィトが結婚の報告をした翌月、父王は死んだ。一年間喪に服して婚礼が行われる事が決まった時、私は言った。“婚約は破棄する”」
 私室区域の突き当たりの扉にオーヴァートが手をかける。厳重な鍵がついている扉を二つほど抜けて立ち止まった。
「“お前の望みはかなえた、最早私と結婚しても父王が振り向く事はない。死んでいるのだから”そのように告げてもダーフィトは引かなかった」
 木造の中に突如現れた鉄の扉を見上げる。最近になって作り変えられたらしい鉄の扉と鉄の壁。
「泣きながら縋るダーフィトの中に“父王に振り向いてもらう”気持ち以外の物が芽生え始める。その縋る女の内部の変遷を、私は黙って覗いていた。私が他人の心の裡が覗ける事を、ダーフィトは知らなかったようだ」
 立ち止まったオーヴァートの隣に立ち、ドロテアも見上げる。
「その心の裡に“子が出来れば”という、私が最も嫌う考えが浮かぶのは何時か? それが知りたくなった私は、拒否しつつ式の準備を進めさせた」
 この扉の向こう側に『ダーフィト』が居る事は解かった。そして、噂も思い出す。
「あの女の心の中にその考えが生まれたのは、結婚式当日の事」
 結婚して三日で離婚。『どうも精神的な病が原因らしい』そんな噂も一部にあった。
「ダーフィトとの初夜に私は言った。“お前に私の子など産ませる気はない。抱く気すらない”」
 十一年前に自らの望みの為に、その自分の“欲望”の為にオーヴァートの妻になろうとし、そしてなってしまった女。
「言われた時の顔色の変化の具合は、面白くはあった。その後、ダーフィトは怒り狂い拳で殴りかかってきた……殴りかかってきたつもりなんだろうな」
 他の道を考えろなどとは、ドロテアは言わない。だからこの終幕も、諦めろとドロテアは言うしかない。
「他人に対する、あまりの卑屈さ。自分は悪くなく、悪いのは全て他人だという考え方に……自分の考え方を見ているかのような気分に陥り、気分が悪くなった。私は殴った」
 そこにいる、かつての王女がどんな状態なのか? ドロテアには推測できた。
「私も……温室育ちの王子だったからな、直接手を下した事はなかった。手を触れずに殺した事は何度もあったが、直接己の手で殴ったのはその時は初めてだ。人間の女だという事を考えて、それにあった力を調整して殴ってやった。それが悪かったのだろう、思い切り殴ればダーフィトは死ねたものを。私に殴られたあれは、脳が破損して壊れた」
 精神の病ではなく、脳の破損。それを知っていながら、治せるのに治さなかったオーヴァート。
「焦点の合わぬ瞳と、閉まらなくなった口の端から流れ出す涎。初夜の見届けについていた者達が、先に殴ったのはダーフィトだと証言した為、私は何の責任もなかった。……証言などなくとも私は罰せられないが」
 開かれた扉の向こう側に居た、修道女の服を着せられている女。




「かつての我妻、ダーフィト王女だ」




 全てが止められている中で、彼女だけが動いていた。呻き声としか取れぬ声で、焦点の合わぬその目で部屋の隅を見つめている。椅子に手足を紐で縛られ固定され、痩せこけた頬と伸び放題の髪。“これが”かつて王女であったとは、誰も思わないだろう。
「……それで?」
 『あーあーうーうー』しわがれた声で、そんな単語にもならない言葉を言う彼女を前に、ドロテアは聞いた。
「十一年前このままで修道院に放り込んだ妻を、治してやれば良いものか?」
 ダーフィトの隣に立ち、手を顔の前に持ってくると彼女は怯えた。何も覚えていなくても、彼女の記憶の中にオーヴァートに殴られた事だけはあるようだった。
「……」
「どうしたら良いと思う? 私には判断がつかない。治した所でダーフィトは此処から出られる訳でもない、行くあてもなければ、私も引き取るつもりはない」
 ドロテアは目蓋を閉じた。彼女の呻き声と、椅子の上で暴れる音。
「……オーヴァート」
 ドロテアは息を吸う。
「何だ?」
 『もう二度と俺は、自分の身体と引き換えに人類を救おうなんて思わねえけどな』
 ドロテアは一年前にそう決めたのだ。十一年前にオーヴァートの怒りを買った女を助ける事など、ドロテアは“したくなかった”。
「治してなどやる必要はない! その女は自業自得だ! 生かされている事だけでも、解からぬ頭で主に感謝してりゃあいいんだよ! ……これが嫉妬というものだ、お前は感じ取れるだろ?」
 自分が“言えば”オーヴァートが叶えてくれる事にはっきりと気付いた。それが、人間にとって怖ろしい以外の何物でもない事をドロテアは理解している。
 オーヴァートに過去を『修復』させてはいけない。自分の思い描く過去を作らせてはいけない。
「人が言うものとは随分違うな。お前の嫉妬は涼やかで寂しげだ」
「嫉妬だと言っているだろ」
「そうか」
「そうだ」
「涼やかで寂しげだが……女を嫉妬させるのは、あまり良いものではないな」
 これが嫉妬ではない事を、オーヴァートは気付いているだろう。顔に手を当て目を閉じて、暫くダーフィトの呻き声を聞いて目を開く。
「女を嫉妬さたりしたら、ロクな事にならねえぞ」

「この女に嫉妬できる程度に狭量だったら良かったのにな、お前も」

 そのオーヴァートの言葉に、ドロテアは何も返しはしなかった。そして殺せとも言えなかった。目の前にいる、十九歳で修道院に収められた彼女に、祈る言葉もかける言葉も何も十九歳のドロテアは持ち合わせていなかった。
 少しだけ唇を噛み、小さく歌う

ギュレネイスの雨は皇帝の涙
暖かな空気の中落ちる雨は後悔の涙
世界を支配せしめて何を後悔したのでしょう?
世界に生まれた事を後悔してしまったのでしょうか?
それとも罪を犯したことを悔いているのでしょうか?
フェールセンに落ちる雨
青空から落ち虹を幾重にもかけるその涙
救われてくださいと  救われたいと  救いたいと  救いましょう  と

「誰から聞いた?」
「マルゲリーア」
「そうか」
 風の音も、草の音も何も存在しないその場所で、ただ呻くだけの声を後に歌ったそれを聞き、彼女は何を思っただろうか? 
 治してくれなかった二人に憎悪しただろうか?
 殺してくれない二人に涙しただろうか?
 それとも、やはり何も考える事なく虚ろな声を上げているだけだろうか?

人はそれを知る術がないので幸せであり、それを知ることが出来る貴方は……どうなのだろう?

「帰ろうぜ。修道院なんて居ても面白くもない」
「戻るか。じゃあなダーフィト、お前の大好きだった父上の霊廟を守り続けな」

俺は一度たりともお前のこと、愛してはいなかったさ、ダーフィト。お前もそうであり続ければよかったんだよ『勝手な言い分』だが

 ドロテアが修道院から一歩足を踏み出すと、鳥の声が響き風が流れ、青空は青空のまま。葉の擦れる音と、土を踏みしめる音、そして
「ドロテア」
「何だ?」
 空は高く美しく、大きく開かれ濡れたような鳶色の瞳は真直ぐに、通り過ぎる風は癖の強い短い亜麻色の髪を舞わせ、形も色合いも薄く儚げな唇は、鳥の囁きなどとは正反対の硬く尖った言葉を紡ぎ出す。雪などよりも白く、冷たそうに思える肌とその四本だけの左指。
 木造の聖なる館を背後に立つ、すらりと伸びた細身の身体。その奥に眠る、造られた金属と邪な術の塊。
「帰るから、思いっきりしがみ付いてくれ」

両手を広げ、そして抱きしめる

 見下ろした眼前に広がる世界が、美しい事をオーヴァートは知る。それを知ったのが、既に遅かった事も

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