ビルトニアの女 外伝1
貴方を抱いた日
 エド正教第十六代法王・アレクサンドロス四世
 学者になるとエド法国には良い印象を抱かないものである。だが現エド正教法王、アレクサンドロス四世は学者にも評価が高い。特に何をしているわけでもない、むしろ何もしていない。そこが周囲の評価の高さであった。先代、先々代と、常軌を逸した法王の跡を継いだ穏やかな法王は、冷酷な枢機卿や権欲にまみれた枢機卿に囲まれ、評価が良かった。

第十六話・海底に花を

「現法王って、本当に何もしねえんだな」
 最近のエド法国で発布された法、書類などの写しを手に入れドロテアは目を通していた。卒業論文に宗教も関係する事を書く為に、集めてもらったものだ、ヤロスラフに。
「お前の妹もエド正教徒だろ」
 ヤロスラフは十代の頃エド正教の重鎮で、尚且つエド法国の土地の所有者でもあるので、欲しいと言えば向こう側から大急ぎで届けてもらう事ができる。勿論、人が急ぐよりならばヤロスラフが直接往復したほうが早いのだが、ヤロスラフはあまりエド法国へと近寄らなかった。
 評価の高い現エド法王との確執があるのだとか、色々と言われているが定かではない。ただ、ヤロスラフの母親であった(既に鬼籍に入っている)バルミア枢機卿とアレクサンドロス四世の間は険悪で有名だった
「人口の七割はエド正教徒だぞ」
 妹がエド正教徒と言われたドロテアは、特に何の含みもなく総数を口にした。総人口の七割はエド正教徒だが、内部の派閥が色々とあって七割エド正教徒と言い切っていいのか? というくらいの違いもある。
「お前はエド正教徒には見えないが」
「心の中ではイシリア聖教徒のつもりだ」
「トルトリアには多かったな」
 肩肘を張るわけでもなく、そう言った後ドロテアは、書類を机に投げ視線を上げて、突如話始めた。
「そういえば、ヤロスラフはエド正教徒のお偉いさんだったよな。俺二歳の頃、エド法国の首都に行ってふらついてたんだが、見れなかったよな」
 ドロテアはトルトリアが崩壊する前にも、幾つかの国に行った事があった。その中の一つがエド法国である。
「最外層には殆ど行かなかった」
 勿論、五重層になっているエド法国の最外層にしか居なかったが、ドロテアはそこで高僧に出会った事がある。
「やっぱり偉い人でフラフラしてるのって、変わってるモンなのか?」
「それは、まあ。お前が二歳くらいといえば、法王選出戦が激化していた頃だ。気を抜けば殺されるような毎日を送っていただろう。私以外の者は、だが」
 サラリと言っているが、このヤロスラフも『法王候補』の一人であった。最も早い段階で“皇帝の元へ行く”と宣言して(選帝侯なのだから当然だが)オーヴァートが皇帝となって直ぐ後に聖職者の位を返上して、エド法国を去った。それでも確かに法王候補であった。
「信じるかどうかは知らないし、証拠ももう残ってねえんだが」
「お前が嘘を言うことはなかろう。こんな時に」
「二歳の時に滞在してたのは、弟が生まれた時でな。生まれたばっかりの弟が入った籠を引張って、フラフラ歩いてたんだ」
「何故、そんな危険な事を仕出かしていたのだ」
「俺としては散歩に連れて行ったつもりだったんだが、傍から見てりゃ親に捨てられた赤子二人だよな。そう勘違いした、偉い坊さんが声をかけてきたんだよ」
 ドロテアとしては弟が出来た事が嬉しくて連れて歩いていたつもりなのだが、周囲から見ればそれは異様な光景だったに違いない。
「偉い?」
 それを思い出して、少し自嘲気味に笑ったあと、
「二歳の俺でも瞬時に“偉い人だ”って理解できるくらいに、派手だった。相当派手なそのお人が、震える声で『ご両親は何処に?』二歳児に“ご両親”って。全く幼児と話した事無さそうな坊さんと、色々話をして。その流れで洗礼がまだだった事を知った坊さんは、弟に簡易ながら洗礼をしてくれた。やってもらった後に残された印を見て“皆のと違うね”と俺は呟いた。そしてその、幼児相手に敬語を使ってしまった坊さんは“気がつかなくて済まなかった、ジェラルド派なんだ。そうだよね、大体の信徒はザンジバル派だよね”って泣きそうになってた、顔見てたわけじゃないけどな。泣かせないようにするに慰めるのに、非常に苦労した。そして洗礼の印と法衣からジェラルド派の枢機卿リクだって知ったのは、故郷に帰ってからだった」
 誰にも言っていなかった、思い出話を聞かせた。隠していたわけでもなく、ただ今まで誰にも言う機会がなかっただけの出来事で、それほど重くは考えてはいなかった。ドロテアの中では、軽い思い出話の一つだったのだが、
「……」
 言われた方は、ドロテアが思っている以上に深刻であった。元々、顔つきが深刻というか、悲愴というか、幸薄そうなヤロスラフ。それに困惑を浮かべても、全く気にされずドロテアは話続ける。
「あの人、フラフラしているタイプなのか? 派違うだろうが、最大の敵だったから噂くらいは知ってるだろ」
 最大派閥ザンジバルの貴公子であったヤロスラフは、眉間に皺を寄せて語りだす。
「ランド……セツ枢機卿を知っているか?」
「知ってるも何も、この書類全部代理のセツの印だけど」
 エド法国が国家として動いているのは、法王の力量ではなく全てセツ枢機卿の裁量なのは有名だ。もう一人枢機卿、ハーシルが居るものの、判断力や駆け引き、そして押しの強さなど、どれをとってもセツ枢機卿の方が上であった。そのセツ枢機卿、現法王とは“派”が違うのだが、法王が最もその手腕を高く評している。
「そのセツを拾ってきたのも、リクだ。確かあの時も供を連れずに歩き回っていた筈だ」
「え? セツって確か現法王が法王になるのに、最大の敵にして障害だったって聞いてるが」
 当人同士の仲は良いが(この当時はドロテアも、世間一般と同じに考えていた。真実を知るのは七年も後の事)敵対していたのは有名。最大派閥が誇る、最強の『子供』。それを連れてきたのが、法王本人だったとは。
 当時集められていた『子供達』は何処から来たのかを、隠されていた。抹殺されていたと言っても過言ではない。よって、セツ枢機卿が何処から来たのかなど、部外者には到底見当もつかないのだ。
「その通り、最大の政敵だった。セツの一件で叱られて以降、しているようには見えなかったが。続けていたとはな……似ているのだろうな」
「何の事だ?」
「今の話、オーヴァートにしてみてくれ」
「あ……ああ」
 ドロテアは、自分の話を聞いたヤロスラフの表情を解析した、その結果『オーヴァートを憂いている時の表情』だと出てきた。これが後に『皇統全体を憂いている時の表情』なのだと気付く。

**********

 ドロテアが同じ事を語り終えると、オーヴァートも奇妙な表情をした。奇妙というか絶妙というか、微妙というか珍妙というか……とにかくドロテアが初めてみた、オーヴァートの表情。
「意外な所で接点があるものだな」
 そして言い振り。
「さっきから二人で、何言ってんだ?」
 ドロテアも自分で語りながら、考えてみるものの、特に可笑しい事を言っているとは思えなかった。少し間を置いて、オーヴァートは
「私には従弟がいる」
 当たり前の事を言い出した。
「そりゃたくさん居るだろうな。王家か旧家とか縁繋がりだし」
 ミロともその繋がりである。最も従弟ではないが。
「王族側ではない、皇統側だ」
「へえ、知らなかったな」
「知らないか?」
「おう、生きてるのは知らないな。その言い方だと生きてるヤツだろ? 死んでるヤツなら知ってるが」
 ドロテアがオーヴァートの元に来た当時、アンセロウムが尋ねてきた事。
「……そうだな」
「お前の従兄弟って事は、並外れた力の持ち主なんだろうな」
 どこにそんな力を持った奴が、隠者のように人目を避けて過ごしているのだろうか? ドロテアは首をかしげてオーヴァートを見つめる。
「それはもう、何せ神と袂を別った一族だから」

 神と決別したという下りを聞くのは、もっと後の事。

 オーヴァートは、右手を窓でも拭くかのように動かす。部屋全体が海の中に移動したらしく、周囲はゴツゴツとした岩と、魚、そして色の暗い海草が漂っている。モーションをつけなくとも出来るのだが、ワンクッション置くという意味で、最近オーヴァートは人間では行えない事をする際に、動きをつけるようになった。
 深い海の底、一年前の海の底とは景色の違うそれをドロテアは見回す。
 そしてある物を見つけた。すっかりと色褪せてしまった赤っぽいクッション材が見えている長方形の箱。棺であった。
「死んだはずの従弟が一人いるんだよ、ドロテア。一目で解ったよ」
 よくよく見れば、周囲にも幾つか転がっている。他のものとの違いは、最初に見た……見えるようにされていた棺以外は、全て確りと蓋が閉じている事。閉ざされた蓋に凝らしている意匠、そしてそこにある紋章。
「何だ? 死んだはずの従弟って?」
 見慣れない紋章に、ドロテアは記憶を探る。それが辿り着く前に、開いている棺の中に居た筈の人物の名前が現れた。
「お前が生まれる前の話だもんな。二十三年前の話になるか……」
 “二十三年前に死んだ筈の従弟”それが指し示す出来事は、ただ一つ。
「まさか“死せる子供達”か?!」
 エド法国の、狂乱の時代の一つでもある『子供の蒐集』。周囲の権力を除外する為に、力のある子供の背後関係を全て抹消した時代。
「そう言われている時代だ」
 まさか“それ”に引っかかっているとは、ドロテアも思いもしなかった。だが確かに、思い当たるフシはあった。三年前、此処に来た当初のアンセロウムとの会話


「まあのぅ……御主学者を目指しているのなら、オーヴァートの母親の事は知っておるな」
「ラシラソフ=リシアスの事かい」
「そうじゃ。ではもう一つ聞くが、リシアスの妹を知っておるか?」
「……ラシラソフ=ランブレーヌだろ」
「ランブレーヌに子がいたのは?」
「あっと……ネーセルト・バンダ王国にいたが? 死んだって記憶しているぞ」
「ふむ、間違っておらんのう。宜しい宜しい」
「何だ……よ」



「エルストが生きているのか?」
 “あのジジイ、裏を知ってて聞きやがったな!”ドロテアは心の中で毒づきながら、開いている棺をよく観た。ボロボロではあるが、中のクッションの窪みが小さい事が見て取れる。棺の中に入るはずだった人物は、小さかった事を意味している。ドロテアの記憶が正しければ、ラシラソフ=エルストは、オーヴァートより年下で“死んだ”とされた年齢は五歳前後だったはず。
「そうだ」
 “死んだ”とされている皇統が、己の家臣の僕を“主”とする、宗教を奉じる高位聖職者とは……悲惨だ。だが、何故唯々諾々とソレに従ったのだろうか? 自らが皇統だと名乗れば、あの当時のエド法国であってもラシラソフ=エルストは解放しただろう。
 そして、そこにいるのだとしたら人など足元にも及ばない、多種多様な力を持っているラシラソフ=エルストの事だ。能力、特に法力(魔力)至上主義時代と相まって、高位についているのは間違いなかった。
 ドロテアがオーヴァートを観て、ヤロスラフを思い返して真先に思いついたのは、噂に聞くセツ枢機卿。現在高位聖職者は性別まで不詳にされているのだが、その雰囲気といい体格といいどうやっても『男』である事を隠せないでいる、冷静かつ的確な判断力を持つ男。競い合ったリク枢機卿は、此方は女だという噂がある。
 意外とそのどちらでもないか? と思いドロテアは尋ねた。
「オマエの従弟は何て名だ、オーヴァート?」
「覚えてどうするんだ?」
「知っててもいいだろ? 語ったんだ、そこまで教えろよ」
「そうだな、覚えていてくれ」



「アレクサンドロス四世」



「なっ! 法王がラシラソフ=エルストなのか」
「死んだはずの従弟が生きていた、可哀想にな。もう戻る場所もないだろう」
「だから神の代理人か? ……だってあの“神”は……お前の祖先が遣わせたんだろう?」
 皇帝が遣わした代理人を人は“神”として崇めた。時代が下り、まさか皇帝の一門に連なる人物が、代理人に仕える事になるなど…… 
「ああ、自らの祖先が遣わした、特殊兵を神体とする宗教の代理人」
「てっきり冷酷無比で有名な、セツ枢機卿の方かと思ったが……特殊兵? あの勇者三人の事か」
 歴史には『皇帝の代理人』と記されているものの、皇帝から観れば『兵士』という位置づけなのだ。それに仕える事となった皇統の末裔の矜持は、いかなるものなのだろうか?
「そうだ。此処にも特殊兵の亜種がいる。今度観に行こう」
「あ、ああ……所で何で死んだ事になったんだ? お前の親戚なら皇統だろう?」
「皇統だ」
「簡単に死なねえだろ?」
「だからさ」


 彼は罪を犯した。罪という程の罪でもないのだが。
 実父に殺されかけた時、城の人全員を消滅させてしまった。歳は五歳で、まだ上手く力を制御する事ができなかった。城中の人を消し去ってしまったラシラソフ=エルストの処遇に、ネーセルト・バンダ国王は困った。そこで当時の皇帝・リシアスに相談したのだが全く取り合ってもらえず終い。
 名君でも英邁でもない彼は、処遇に困り果てて彼を死んだ事にした。そして、身分も何も無くなったラシラソフ=エルストは、船に乗せられエド法国へと連れられていった。
 リシアスが国王に取り合わなかったのは、エルストが彼女が管理する「代」ではないからだ。その時、オーヴァートに依頼すれば、オーヴァートは躊躇わずにエルストを殺害しただろう。皇帝は全ての代を取り仕切るわけではない。”自らが定めた後継者の生まれた日”以降に生まれた“皇統”に関しては、皇帝であっても処遇を決めてはならないのだ。
 話を全く聞かされていなかったオーヴァートは、一人で“死んだ”とされるエルストの棺を探しに向かった。海中で、真新しく小さめの棺を見つけて、熔接されている蓋を開いた。中に誰もおらず、彼がまだ生きている事を知った。知った後に、探しエド法国で時期法王候補となっている彼を探し当てた。


「皇統としての立場は元々正反対だが、エルストが法王に選ばれそうだと聞き、学者になる事にした。反目しあう存在だからな」
「仲直りとかしたいわけか?」
「無理だな。そんな感覚がない」
「だったら何で反目しあうんだ?」
「反目というかフェールセンは一人だけだ、何時でも」
「選ばれなかったヤツって」
「ああ、殺されるよ。全員。今の時代は違うけれど」
「じゃあ殺せば」
「そうだな……」
「死んだというのなら、死なせておけばいい」

 彼は表の歴史から既に消えている。そして自身もいずれ消える。幼い日の悲惨な場景を、細大漏らさず彼は覚えている。忘れられない性が、全てを覚えている。
 自分を生んだ女の嬌声に、断末魔。相手の男の艶声に、自分への罵倒。それは彼にとって、恐怖以外の何物でもなく、それを恐れて彼は皇統としては考えられない『法王』という座に就く事を決めさせた。最高の聖職者であれば、同衾する事を拒否する事ができるから。その恐怖心は全ての矜持を打ち砕いた。

「あれは、あれで終わりだから……本当は殺してやったほうが楽だと理解していたから、生かしておいた。誰が、お前だけを楽にしてやるものか……」

 ヤロスラフは、出歩いているという法王の詳細を知る為に秘密裏にエド法国へと向かい、調べ上げてオーヴァートに報告した。
「まだ治ってはいない。一生治りはしないだろう」
「フラフラと出歩いているようだな……だが、女に興味がないのならば不問としておくか」
「安心しろ、男にも興味は無いようだ」
「それは笑う所か、ヤロスラフ」
「……さあ? それにしても驚いた、まさかドロテアが会っているとは」
「俺も気付かなかった。さすがは向こうも皇統というべきか? 皇統同士は探り辛くて仕方ない」
「それにしても、ドロテアは余程皇統に、フェールセン王朝に縁があるのだろう。会っていないのは、リンザードくらいのものだろう」
 オーヴァートに会い、ヤロスラフに会い、マルゲリーアに会い、かつてエルストにも会った。
「そうだな。本当にフェールセン王朝に縁がある女だ、あれは。エルスト……か……。私に会う前にエルストに会っていて、私と別れた後にエルストと出会うのか……」
「”俺”と”私”が交互になっているぞ」
「苦労しているのだが」
 そんな苦労しなくてもいい……ヤロスラフはそう思ったが、言わないでおいた。言っても聞かないのだから、無駄というものだと。

**********

 エド法国の通信施設を借りて、煙草を咥えて相手を待った。
 見慣れたオーヴァートを前に、セツから依頼された言葉を告げる。
「テメエに会いたいそうだぜ、法王猊下が」
『……そうか』
 困ったような表情を浮かべた、オーヴァートに
「学者も紹介して欲しいらしい」
 用件を告げる。学者紹介なんざ、本当はどうでもいい。学者と聖職者の七十二年間のすれ違いが修復できるなら、それ以上に
『解った』
 お前達の仲が、フェールセン王朝最後で、今までに無いものになれば良い。それ以上でもそれ以下でもない。
「じゃあな」
 俺は言うだけいって、通信を切った。切ったが……切れなかった。オーヴァートの野郎、無理矢理繋いでやがる。
『これから何処に行くんだ?』
 何を言いたいのやら。
「ベルンチィア」
『金はあるか? エルストが散財してないか?』
「ヤツの散財は何時もの事だ。ま、気前のいい法王と枢機卿からいいだけ金貰ったから」
『そうか』
 懐かしい、昔の表情。今じゃあ表面陽気に笑ってる顔がくっ付いちまってるからな。懐かしい……いい思い出の少ない表情だぜ、それ。
「じゃあな」
『元気で戻ってこい』
「ああ」
 通信が切れた後、俺は暫く煙草を咥えたまま、その映らなくなった画面を眺めていた。灰を落ちるに任せ、唇に熱さを感じたところで法王庁の磨かれた輝く綺麗な白い床に吐き捨てて、踏みつける。

『ああ』とは言ってみたものの、それは肯定ではない。

「戻ってこいって、お前……俺が帰る場所は……全く……」
 帰る場所は、お前の傍ではない。帰る場所は、此処にある。帰らなくとも……それでも、お前は帰って来いというのか?
「言うんだろうな……」
 俺は近ラグオール形画面に背を向けて、図書館から持ち出した本を片手に其処を後にした。

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