ビルトニアの女 外伝1
貴方を抱いた日

第十四話・水の溜め息

「クレハモノン家? そこの当主殿が?」
 実家を飛び出した。その際、乳母が付いてきてくれたので、乳母と共に今は小役人となった乳母兄の元に転がり込んだ。
 ヴァルキリア=エルム=ラーイ
 貴族の娘……だったって言うべきね。
 乳母と共に転がり込んだ家は当然小さいけれども、ハロム(乳母の子)は私を追い出しはしなかった。乳母もハロムも優しくて……家族は最悪だったけれども。
 何をしたものかしら? そう思っていた所に、ある依頼が来た。依頼というよりは『貴方の生活を保護したい』と申し出てきた貴族。怪しい、怪しすぎるわ! 相手はクレハモノン家の当主サイボルド卿。この方、クレハモノン家の一人娘とご結婚して当主に収まった、いわば女婿。マシューナル王国国王と同じね。そして、国王夫妻と同じく、非常に恐妻家だって聞いているわ。
 そんな人が、没落貴族の娘の生活支援なんて……ラーイ家とは全く繋がりもないし。ラーイ家はそれ程の名家じゃないから。
「いい話には裏がある事くらいは。理解していますわ、サイボルド卿」
 ハイハイとその申し出を信じられるくらいなら、今こうして乳兄弟の家に私いたりしないわ。私の物言いに怒った素振りもなく、軽く笑うと口を開いた
「貴方の事を調べさせていただいた、ミルメス・ヴァルキリア。ラーイ家が両親の散財で破産、資金提供の条件としてヴァルキリアかハルメリア、どちらかを寄越せと言い寄ってきた。その資産家・エマゼット氏の申し出を断り、実家を出て、乳母の家に身を寄せている」
 言っている事に間違いは一つもないわ、ただ随分と綺麗な言い方をしていらっしゃるけれど。
 その通り、私の実家であるラーイ家は破産した。破産した理由は両親の散財、先祖伝来の土地も何もかも取られてしまった。破産して困り果てていた所に現れたのが、エマゼット。成金だと召使達は言っていたけれど、自分でお金を稼げるだけ大したものよ。
 私の両親のように、先祖の遺産だけで生きてきた人に比べれば。
 最も大したものと、嫁ぐのは別。
 ……なんていうのかしら、両親が苦労してその結果、エマゼットに資金援助と引き換えに結婚だったら、それは引き受けたわ。私だって貴族の娘ですもの。でも、先に言った通り、両親は自分では何もせず、借金をしてまで豪奢な生活にふけって、愛人に贈物をしたりと好き勝手な生活をしていた。
 貴族の常らしく、子育ては乳母にまかせっきり。
 こんな両親、救ってやる気にもならないわ。
 ハルメリアは妹なんだけれど、コレも黙っていればいいものを「私はアーティボルドと恋人同士だから、恋人いない姉さんが成金の妻になってよ!」
 これが人に物頼む態度かしら? 自分勝手に散財した挙句、資金援助が欲しいから結婚しろと言う両親と、自分には恋人がいるからアンタが結婚すればいいのよ! 言い放つ妹。でも、私もこの家族の一員だった訳だから、当然思いやりの気持ちなんてないわけ。
 解かるでしょう? 物語の心美しい清い姫君じゃないんだから。家族全体が“こんなの”で、一人だけ心が広い、気が弱いなんてありえないものね。私だって自分勝手に生きるわよ、此処まで言われたら。
 それで勝手に家を出たの、で今に至ってる訳。
「何をお望みですの? サイボルド卿」
「是非とも、娼婦として弟に近付いて欲しい」
「娼婦ですって!」
「普通の女では近付く事はできないから」
 貴族から身を落として娼婦になるのは聞いている……確かに没落貴族だし、そのくらいしか仕事もないでしょうけれど。弟君でしょ、クレハモノン家の……弟君はいらっしゃらないわね、いないから女婿なのよね。
「私の弟。ロートリアス家の末息子。バダッシュ=シン=ロートリアス」
「知ってますわ、バダッシュ卿でございましょ?」
 貴族の間では相当有名ですものね、その方。フレデリック三世とバダッシュ卿、同い年で同じ時期に王学府に入学なされたって。……ただ、バダッシュ卿は留年しているそうですけれど、それも王学府では珍しくはないとか、なんだとか。
 私の両親も『お前がロートリアスの息子の誰かに見初められないかなあ』などと言ってましたわ。私、顔形やスタイルはそれなりに良いの。だからエマゼットが資金提供を申し出てきたんでしょう。少なくとも、金持ち成金が最後に欲しがる『貴族』の血筋を選ぶ際に、相当額を払っても良いと思わせるくらいには美しいわ。
「そう、バダッシュ。このバダッシュが“結婚をしない”と言い出してしまってね。マシューナルのゾフィーやら、ヴォンペル家のホリンやら縁談が多数きているのだが」
 さすがロートリアス家の自慢の息子。相手も遜色ない姫君。
「でもご結婚させてしまうのでしょう?」
 貴族はそこら辺は、強硬姿勢を取りますから。
「貴方が嫌った以上に嫌っていてね。何せ結婚させようというなら“一生卒業しないで、王学府に在籍する”とまで言い出した。これには打つ手がないのだよ」
「そうでしょうね。ですが何故ですの? 誰か心に決めた方がいらっしゃるのですか?」
「ああ。心より愛した、絶望的な片想い」
「絶望的? お家柄などに問題が?」
「いいや。バダッシュは性格といい行動力といい、その気になればロートリアス家を捨ててでも生きていけるから。どんな相手でも否定する事はない、だがあの方だけは無理なのだ」
「成さぬ相手?」
 最初は男性なのかな……って思ったんだけど、聞いたら男性の方がまだマシ。
「この世で誰一人として愛してはならない相手。大寵妃ドロテア」
 尋常じゃない相手よ! それは!
「私に何をお望みですの?」
「諦めさせてはもらえないだろうか?」
「さあ、なんとも。私はその大寵妃殿のお顔を拝見した事はありませんので」
「私も見たことはないから、一緒に行こう」
 私はサイボルド卿の手を取った。

*


 エルセンからパーパピルスまでの旅。乳母は付いてきてくれたし、馬車は別々。何と別々かというと、サイボルド卿とその奥様と。
 奥様の方には「バダッシュの元に届ける」と説明してらしたわ。旅の途中で、サイボルド卿と奥様から色々と教えられた。
「高級を名乗るなら、それなりの立ち居振る舞いが出来なければならない」
 娼婦にも色々あって、私が目指すのは『高級娼婦』と呼ばれるもの。娼婦に高級も低級もないと思うけれど。
 家にいた頃は、大して好きではなかった貴族の礼儀作法が、此処に来て役に立つとは思いもしなかったわ。刺繍やピアノも一通りマスターしておいて良かった。旅の途中「男性知らないんですが、宜しいのでしょうか?」とサイボルド卿にお尋ねした所、それで良しと言われてしまった。
 食うに困って身を落すわけだけれども、唯落すよりからな目標があったほうが良いわね! そうやって奮い立たせて私はマシューナルの首都・コルビロへと到着した。
 王学府は原則的に寮生活で、外出も非常に制限されているとの事。それでも、バダッシュ卿は色々と手筈を整えて舞踏会に参加しているそう
「元来、舞踏会が苦手で王学府に入ったんだけどね」
 サイボルド卿は苦笑いしながら、そう教えてくださった。マシューナルにあるバダッシュ卿の滅多に帰ってこない自宅で私達は少しの間生活する。そこで、初めてサイボルド卿は奥様に“ヴァルキリアは私の愛妾として紹介する”と教えた。ショックで顔色が悪く……土気色になったのだけれども、奥様は耐えた。
 実質的な行為がなくたって、噂だけでも気分は良くないとは思う。でも、ロートリアス家としてもどうしても諦めて欲しいらしいの。
 ただ好きなだけなら別にいいんだろうけれど、間違いでも起こして一族郎党をフェールセン陛下の大粛清にかけられたら困るので。確かにあの粛清は凄かったけれども……アレを知っていても好きなのが変わらない程なのだから、かなり厳しいと思う。
 舞踏会当日、授業を全て終え外出許可を得てバダッシュ卿は自宅に戻ってきた。確かにロートリアス家が自慢するだけの事はある、うん。私が今まで見た貴族の男性の中で、最も高貴な雰囲気があって
「はじめまして、ミルメス・ヴァルキリア」
 喋り方も良い。気障ったらしくなくて。
「理由は前もって連絡していたから解かっているだろ」
「ああ。それにしても兄上が愛妾を囲うとは。その上、愛妾を義理姉上と共に旅行させるとは」
「そう言うな」

 詳細はこう
 サイボルド卿は愛妾を囲っていました(嘘)
 恐妻家の奥様にばれました(これも嘘。でも恐妻家は本当)
 奥様が、別の国に囲うなら許すと言われた(これまた嘘)
 本当に遠くに囲っているのか自分の目で確かめなくてはならない(またまた嘘)
 その為にマシューナルまで共に来た(これは本当)
 こんな遠くに囲われたら、年に一度来られるかどうか? くらいだけれど。遠くに住まわせる際に、丁度遠くにあまり使っていない家がある、弟バダッシュ卿の家。此処ならば、安心して置いていける。その旨を手紙で確認した所『どうぞ。兄上の愛妾のお気に召すように、家を改造してください』の一言。

「お前も興味があったなら、相手してもらうと良い」
 さらりと言った。
「兄上と同じ女性を抱く気はないが」
「抱くだけでなくとも、偶に遊びに行けばいい。それに全く男がいないと、綺麗だから色々な男に声をかけられてしまうんだ、彼女」
「虫除けですか? 兄上」
「そう、虫除け」

 サイボルド卿は奥様と共に舞踏会に出席なさるので、私のエスコートはバダッシュ卿、勿論計算済み。
 サイボルド卿も雰囲気の良い方でしたけれど、このバダッシュ卿、本当にとても良いカンジの男性。この人の愛人にならなれそうな気がする。
「バダッシュ卿は大寵妃殿のご学友なのでしょう? ご紹介していただけるかしら」
 何にせよ、相手を見てみない分にはバダッシュ卿の好みも何も解かりませんから。
 美しさもそうですが、相当『気が強い』人なんだそうで。なので没落貴族で家を飛び出した私にサイボルド卿が目をつけたのだそう。容姿はある程度なら綺麗に見せる事は、出来ますし協力もしてもらえるのですが、気の強さだけはどうしようもないので、最初から気が強いのを選んだのだとか。
「ドロテアの事か? 興味あるのか」
「それは。勿論ありますわよ」
「綺麗な女だ。その位しか言えないな、俺に詩人としての心得がないからでもあるが」
 差し出された腕に手を添えて、舞踏会会場へと足を運ぶ。会場は比べる事が出来ないからなんとも言えないけれど(私は社交界に出る前に没落したの)多分あの椅子だけは、他の国には存在しないはず。玉座とは違う、高い位置に設置された大きいソファー。両側には大きな陶磁器の花瓶が置かれて、見慣れない花が溢れるほどに生けられている。
「あそこに座られるの? オーヴァート様」
「そうだよ。後で挨拶に行こうな」
「ええ、嬉しいですわ」
 私は『美しい』というのを、軽く考えていたのだと思う。だから……その
「オーヴァート陛下の御成」
 会場に声が届くと、一瞬にして中央が開いて、国王夫妻が席から立ち上がる。バサァァ! その重いマントが翻る音に振り返った、腕を払った音だったらしいオーヴァート様の。褐色の肌、濡れているかのように光る黒髪、それだけでも普通の人とは違う。白に緑と蒼の宝石で飾り立てたガウン調の服、その大きな袖の向こう側に居たのが、ダイヤの錫杖を持って、飾り立てられたトーク帽を被った目付きの鋭い女性。

無理! 絶対に無理!

 完全に無理だった。何が違うのかは解からないけれども、私くらいじゃあ相手にならない! 綺麗綺麗とは聞いていたけれど……
「どうした? ヴァルキリア」
 あの人に対抗するの? そう思った瞬間に震えが来た。
「ちょ、ちょっと驚いてるだけ。あ、あの方が、あの方が……大寵妃、なのよね」
 彫刻や絵画とは違うの、そんな表現じゃないの。バダッシュ卿が“詩人の心得がないから”と言った意味が解かる。何ていうのかしら、その存在は確実に生きていて『絵画のような人』『彫刻のような人』その表現が最も遠い。
「怖いのか?」
「え、ええ……そ、その、美しさが」
 あの美しさが怖かった。
「燃え盛る炎を見て、美しいと感じるのと同じ事かな」
「恐らく」
 多分、そういう事。その燃え盛る炎を絵に残しても“炎が綺麗に燃えている”しかないけれど、直接見ている時は自分自身まで焼かれてしまう恐怖を覚える。
 錫杖を持った大寵妃は近付いてきた。
「珍しいな、お前が女連れとは」
 少年のような声をしている、でも喋り方はどこかに艶があった。荒い口調だというのに。
「此方は、サイボルド兄上の御愛妾さ。今日は俺がエスコート代理」
「サイボルド? 恐妻を持つお前の兄だな」
「お前に恐妻と言われる程の人じゃないよ、義理姉上は」
「まさか! 俺より怖いだろ。俺は何人愛人いたって許してやるぜ」
「そりゃ、お前の絶対の自信だろ」
「自信? そんなモン必要すらないだろが。見たところ、貴族のような仕草だが……着ているものは違うな? 娼婦なのか?」
「は、はい……」
「同じ娼婦同士、仲良くやろうじゃないか」
 ダイヤの錫杖を持つその左手と、差し出された右手。爪の先まで切れるかの如き美しさを前に、私はバダッシュ卿の袖に掌の汗を拭って手を差し出した。
「面白いな、あんた。オーヴァートの所にも顔出すか?」
「行ってみる? ミルメス・ヴァルキリア」
 私は二人に連れられて、ソファーに座っているフェールセン陛下の前まで来る。背後に立っている、紫色の瞳の男性……選帝侯よね、多分。
 なんと挨拶したのかも覚えてない。そして初恋だった、随分と遅い初恋を叶わない相手にしてしまった。フェールセン陛下に……


大寵妃に勝てというのは無理


 職を失ったなあ……舞踏会の帰りに、溜め息を付く。とてもじゃないけれど、勝てそうにない。私は正直にザイボルド卿に告げた。
「無理だと思います。私程度では話になりません」
「君は自分自身を知る、賢い方だ」
 ザイボルド卿も初めて大寵妃を間近でみて、無理だと悟ったのだと。これならば、実家の両親や一族を説得した方が早いので、その方向に進めるとの事。
 やっぱり職を失った。でも仕方ない、
「貴方に無理を言いましたね。ですが生活の方は此方で整えます、娼婦とまで名乗っていただいたのですから。故郷のエルセンのほうに館と荘園でも」
「あっ! あの! 実は」

私の意見をザイボルド卿は聞いてくださった。

 最後まで良い方だった、娼婦にしようとした事は別としても。私は乳母に息子の元へと帰るように告げた。
「此処に残らせていただいたわ」
 そして私は決めた。高級娼婦になるのだと、大寵妃にはなれなくとも高級娼婦にはなる。
「どうしてまた……」
「オーヴァート様に一目惚れしたのよ」
「来るの遅かったな。もっと前なら、何人も愛人を持ってくださったのに」
「別に良いのよ。ねえ? そうでしょバダッシュ。傍で見ているだけでいいのでしょ」
「……。どうして此処に来た?」
「多分今貴方が考えた事で正しいわ。貴方はドロテアが好き、私はオーヴァート様が好き。それでいいでしょ? 会いに来てなんて言わないから、偶には一緒に大寵妃を誘って会いましょう」

 大きな屋敷に男と女。男が愛しているのは大寵妃、女が愛しているのは皇帝陛下。

「俺が誘ってもお前乗らなかっただろが!」
「お前、俺誘ってる暇があったら勉強でもしてろよ」
「二人とも喧嘩しないで」
「喧嘩なんてしてねえよ。コレがいつもだ! 気にするなヴァルキリア」

 大きなお城に、皇帝陛下と大寵妃。皇帝陛下が愛しているのは大寵妃、大寵妃が愛しているのは皇帝陛下。

 ドロテアがオーヴァート様の元を去ったのは彼女が二十歳の時。誰もが驚いた、誰もが信じなかった。でも私は信じた。ドロテアは私の所に来て
「愛人になりに行けよ。ヤロスラフには話を通してある。愛人から先は、お前の度量次第だぜ、ヴァルキリア」
 そう言って、笑った。
 ああ、この笑顔がバダッシュを魅了してオーヴァート様を狂愛させたのだと。永遠に敵う事のないその笑顔を前に、私も精一杯の笑顔で返した。
「ありがとう」

 なりたいとは確かに言った、紹介してくれる? とも言った。でもそれは……そんな事は永遠にないからと思っての事。

 私は通いの愛人となった。オーヴァート様の愛人の中でも最も古く、そして気に入られていると。でも私が気に入られているのは、私がドロテアと仲が良いからであって、決して私自身を好んでいるわけではない事は……知っていた。知っているけれども、私はドロテアの事を嫌いになれないし、オーヴァート様の傍からも離れたくはなかった。
 大陸一の高級娼婦となった私は、オーヴァート様以外にも多数の客がいた。
 でも滅多な事では寝室を共にはしなかったし、拒否しても相手は簡単に引き下がった。昔の、ドロテアが怪我をした事件が頭を掠めるらしい。無理強いしても別にオーヴァート様は怒りも何もしないと思うけれど、それで引き下がってくれるのだから、私はそのまま引き下がってもらう。
 大体が知識人やら大金持ちだったけれど、二人だけ毛色の変わった客がいた。
 一人はレクトリトアード。闘技場無敗の男はドロテアにふられて、ションボリしていた。あまりにも解かりやすくて、笑える程に可哀想になってしまった。強がる事をしなかったその青年の反応があまりにも、珍しくて。そしてもう一人が、エルスト。
 道ですれ違った時、私から声をかけた。本当にただの客。
 
 少し遊びなれてるのかな? そう思うくらい……そのくらい。何で声をかけたのかは、自分でも解からないまま落日を迎える。それは急だった。

「オーヴァート様は?」
「自室においでです」
 オーヴァート様の部屋は、最上階にある。最上階が全てオーヴァート様の部屋で、壁と天井が全て硝子張り、それも継ぎ目一つない。床も真白で、月明かりが降り注ぐと銀色に光り輝く。室内にはたった一つしか“物”がない。それは部屋の中心から少しずれた場所にある、琥珀の花瓶。
 背の高いほっそりとしたその花瓶にいつも一輪だけ花が挿されている。儚げなその花は「水の花」マシューナルやエルセンではあまり見かけない花。
 “ソレ”だけが何時も部屋にいた、そしてオーヴァート様は何時も部屋の一面に居る。硝子に手をつけて其処からどこかを観ているかのようだった。“どこか”が何処なのかくらい、解かっている。私でなくとも、召使も誰もかれも。あの視線の先にはドロテアの家がある事を。
 町中が夕日に染まっている時に
「失礼します、ヴァルキリアです」
 そういって部屋に入った。部屋は綺麗に夕日色に染まり、そして琥珀の花瓶の影だけが長く伸びている。でもその花瓶からは、水の花が消えていた。
 室内にはオーヴァート様とヤロスラフ様。オーヴァート様は部屋の外を観続けて、ヤロスラフ様は硝子に背を預けた状態でいらした。ほんの少しだけその姿を観て、私は頭を下げる。
「お呼びとうかがいましたが、後日また改めて参ります」
 私はそう言いながら、下がろうとした。
「悪かったな。今度なんでも買ってやるから」
 振り返らず、オーヴァート様はずっとその沈む眩しいばかりの夕日を見つめている。
「期待しております」
 私は部屋を出ると、大急ぎで自宅へと戻った。誰も来ていなければ、入浴してパックでもして明日に備えて寝ようと。
 そして来訪者は現れた。無言のバダッシュと向かい合って、お酒どころか水一滴も飲まないで座って、ただ黙っていた。夕日がすっかりと消え去って、暗闇となったところで私は口を開く。意味があったのではないけれど、何となく口にしたかった。
「今日なくなってたの」
「何が?」
「水の花。何時も、オーヴァート様の私室にあったのに。琥珀の花瓶に挿されていたのに」
 少しだけ間が空いて、そして小さく笑ってからバダッシュは言った。
「水の花は、トルトリア王国の国花。砂漠の国だから水を崇めていたんだそうだ。水の花、それは“ドルタの溜め息”とも言う」
「ドルタ?」
「聖水神ドルタの溜め息。そう、第二言語で表せば“ドロテア”。砂漠の、水で少々苦労する国には多い名前だって……教えてもらった」

聖水神の溜め息

 その言葉を口にして、バダッシュは溜め息を付いた。
「言えば良かったのに」
 ドロテアという響きを持つ水の花。知っていた、知っていた。ずっとあの方がドロテアの事だけが好きだというのを。そして……
「そうだったのかも知れない」
 何度も何度も告げろと言ったのに、この人は告げなかった。
「私も行くんだから、貴方も来なさいよ」
 意気地なし……でも……
「うん……」
 そして私達は肌を重ねた。この人の情婦になる為に来たというのに、六年も過ぎて初めて。本当に何していたのかしらね、私ったら。

 翌日バダッシュは、私が支度を終えてもまだ寝ていた。寝ていたのかどうかは知らないし、起こしてあげる気も、召使に命じて起こさせる気にもならなかった。
 ただ部屋に一人にしておく事しか、私には思いつかない。
 だからそのまま、私は一人結婚式へと向かった。ドロテアの結婚式へと

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