ビルトニアの女 外伝1
貴方を抱いた日
誰にも語ることはない

「ドロテア、直後のお前に私は質問をした。”私が指示したのだ。そう言ったらどうする?”お前はなんと答えたと思う?」
「……別に、楽しかったならそれでいいぜ……くらいしか思い浮かばないな」

第十二話・血の婚礼


「殺せ! 子供がそのもの影に隠れたぞ!」

 降りしきる雨の中、殺す相手を探している警備隊員。誰を殺せば良いのかは、彼らは知らない。彼らが殺すべき相手は、見た目で判断されるのだ。
 紫に変色した肌と、赤い浮き出た文様。それを殺せと、世界中に指示が出た。今、子供を殺そうとしている警備隊員もその指示に従っているだけのこと。殺す理由は解からない、誰も問い返すことが出来なかったからだ。だが、殺さなければ確実に殺される。
 事実、その文様が浮き出た子供を庇った男の肌も変色が始まった。
 殺すのだからと、暴行した男も気が付けば肌が変色して顔に文様が浮かび上がる。ただ、それを殺すしかなかった。誰もが。
 理由は解からないが、誰もが考えた。今まで魔物がトルトリアを崩壊させたとしても何の行動も起こさず、国家が戦争を行っていても無視し、エド法国と学者達の間の不仲も笑ってやり過ごした人物が、此処まで世の中に関わってくる理由。
 憎悪の理由は何だ? 今までと、今の違い。
 誰もが思いあたった。そして、マシューナル王国に連絡を入れると、その人物は確かに何処にもいないと返事が戻ってきた。
 ドロテア。その女に関する何かがあったとしか、思えなかった。それは、怒りを買う程の出来事。

「殺しきれば終わるんだろうけど、いつ殺しきれるのだろう」

 誰かの呟き。雨の中で立ち尽くし、そして再び駆け出す。どの国も人が人を狩る、街中で村で、そして家で誰もが殺す。自分の身の安全を図る為に。
 助けてという言葉も無意味。
 ただ殺せと命じられたのに、徐徐にその殺し方はエスカレートしてゆく。
「捕まえたぞ! 袋持って来い!」
 袋に詰められて、子供は高い場所から石畳に叩き落される。潰れる音と、流れ出す血。それに降り注ぐ雨に、誰もが熱さを感じる程。
「この袋、穴に持っていけ!」
 殺す、殺す。それだけに今支配されていた。
 異様な程の熱を持つ雨に打たれながら、警備隊員は人を捕まえては殺していた。
「ラトリア、誰が来ても絶対に扉を開くなよ! 良いな。今日ばかりは、恋人だろうが好きな相手だろうが、無視しろ。今日来訪するようなヤツは絶対に無視しろ」
「わ、解かった」
 豪雨の中、追う。その雨によって足を滑らせる程。追って捕まえた相手を、道に押し付けると「ゴボゴボ」と水に頭を浸したのと同じになる。それで死んでしまう者もいる。
「土嚢用の麻袋持って来い!」
 洪水になるだろう雨、だが土嚢を作るのではない。それに人を入れて、叩き殺すのだ。絶叫しながら袋に詰められる事を全身で抵抗する子供、頭を押し付けて袋に詰め終え、濡れた手で紐を縛り上げる。そして手で持ち上げて石階段の縁に落す。
 音はした、だがまだ蠢いている。
「はぁ……はぁ……はぁ……」
 雨の中、殺す事に失敗した男は呼吸が上がる。
「殺しきれていないぞ、クラヴィス」
 そしてその男は殺せなかった事を嘲り笑う。
「……クラウスだ、訂正していただこうか? ウィレム」
「それは悪かったな、クラヴィス」
「はい、退いて退いて」
 二人の間に割って入った男が、それを踏みつける。“壊れた音”は一層強くなった雨音に消されたと、思いたい程。麻袋が一瞬にして血に染まってゆく。そして土砂降りの雨で流される。
「何、話してるんだよ。とっとと殺そうよ、ウィレム」
「そ、そうだなエルスト」
「一回着替えに行かないか? クラウス」
「あ……ああ」
「家も近いんだから、一緒に行こう。途中で何かに出くわすかも知れないけどさ。長丁場になりそうだし」

血に染まった袋は、増す水位に浸されていった。

**********


 事の原因は、ヤロスラフがオーヴァートの傍を離れていた事なのかもしれない。傍に居たとしても、何の違いもなかったかも知れないが。
 その事件の“原因”が起こった時ヤロスラフは、身体の不調に自分の限界を感じ、最後に残った選帝侯の元を訪れていた。
「オーヴァートに仕えて十二年。一度たりとも叛意を抱いた事はない……だが、一度足りとも信頼されたことはない」
「良いじゃないの、傍にいられるんだから。貴方は贅沢よ、幼い頃はエルストの傍、今は陛下の傍らに。私には望めない事なのよ」
「一度だけでいい、一度だけで良いから……」
「諦めなさいよ。そして、私達で終わりなのだから」
「最後に一度で良い、一度だけで良い」
「ヤロスラフ。貴方そんなに欲張りだったかしら」
 かつて裏切った選帝侯の子孫ヤロスラフは、叛意を持つと身体に激痛が走るようになっている。忠誠心から反対した選帝侯の子孫マルゲリーアは、皇帝の傍に近寄る事は、原則的にできない。無論近寄れるが、それだけが「皇帝の意思に沿った命を遵守できる」為に、歴代のゴールフェン選帝侯はそれを守った。
 そしてもう一つ、皇帝に同意を求められた時、必ず反対の意見を述べなければならない。
 例えその意見に賛成していたとしても。かつての忠臣だったゴールフェンは、それでも“どうしても”の時は賛成の意を表すという。己の命と引き換えにでも。
 立場が正反対の二人は年齢にもかなりの差があった。既に四十六歳のマルゲリーアと、二十八歳のヤロスラフ。それでも、ヤロスラフは自分亡き後の事をマルゲリーアに依頼し、マルゲリーアもヤロスラフの不調を見てとり、それに頷いた。
 直接的に死ぬのは何時になるかは解からないものの、あと数ヶ月もすれば動けなくなる可能性がヤロスラフにはあった。可能性ゆえに治る事も考えられるが、今のままではそれも望み薄。
「何故、こんな望みを持ったのか自分でも解からないのだ。マルゲリーア」
 選帝侯としては蛇蝎の如き仲という事になるのだが、個人としては両者とも嫌ってはいない。
 十二年間仕え続けて来たというのに、此処に来て突然の不調。マルゲリーアは原因があると考えた、その原因は一つだけしか思い当たらない。
「寵妃ってどんな女?」
「……美しい女だよ。まだ十八だが」
「二年間も手元に置いているなんて……その女が原因なのかしら?」
 マルゲリーアは、オーヴァートの元にいる女に対して良い感情を持たない。それはマルゲリーアの女としての部分がそうさせる。ヤロスラフは直接的には知らないが、十八年ほど前にオーヴァートはマルゲリーアを抱いた。そこに在ったのは、残酷さ。
 皇帝に逆らえない彼女に、自身を刻み付け、そして傍によることを許さない。それでもマルゲリーアは、オーヴァートを主君としても男としても愛している。そうすれば、そうする程にオーヴァートに嫌われると知りながらも。
「どうかな。だが……」
 突如、召使が扉を叩く。その焦りの篭った叩き方は尋常ではない。
「どうしたの?」
「たっ! 大変です! マルゲリーア様! フェールセン陛下が! フェールセン陛下が! 突如、罪人殺害命令を! 大陸全土だそうです!」
 その言葉に二人は弾かれたように立ち上がり、窓の外を観る。いまだ逡巡している兵士達が見える、だが彼らは命令に従い“殺しに出た”
「何故……なの? 嘘でしょう陛下!!」
 マルゲリーアが叫ぶ。ヤロスラフの声が震える。
「何故だ、そんな兆候全くなかったではないか! オーヴァート!」
 罪人というのがあの肌の色が変色し、身体に赤い文様が浮かび上がらされた人間である事は二人には直ぐにわかる。その人間を殺害する事を“人間”に命じたのに問題があった。フェールセンは今現在、表向きは全く政治に参加しない。むろん、その権力は絶大であり、今眼前で繰り広げられ始めようとしてる虐殺を、簡単に指示できるほど持ち合わせている。
 そのフェールセンが歴史の表舞台から去った理由は幾つかあるが、その一つにして最大の理由に“虐殺”があった。
 彼らには簡単に人間を造る力があるせいか、簡単に殺す事を命じる傾向がある。それを選帝侯に命じている分にはまだ良いのだが、人間に人間を殺させるような指示を出し始めると、ある病が発病する。

発狂してしまうのだ

 それを回避する為に、歴史の表舞台から去ったといっても過言ではない。そしてそれは、徐徐に兆候が現れる。例えば周囲にいる者に、同じ周囲にいるものを殺させる……から始まるのが常だった筈なのに。
「本当になかったの!」
「なかった! 全くなかった! あったら一番に教えている、マルゲリーア!」
 皇帝の命令で人を殺し始めた人を見ながら、彼らは今するべき事を考える。
「戻る」
「私も一緒に行くわ! 若しかしたら陛下は既に!」
 今にも泣き出しそうなマルゲリーアの肩を掴み
「落ち着け、間違ってもオーヴァートは発狂したりはしない。狂気の縁にはいるが、発狂はしてない!」
 ヤロスラフは自分に言い聞かせるようにして、言い切った。

**********


 ものの一分もしないうちに、城へと戻ったヤロスラフは、マリアを見つけ話を聞こうとする。マルゲリーアはオーヴァートの元へと走る。
「一体何が? ……マリア? 何があったんだ」
「ドロテアが怪我したって。誰かにドロテアが怪我させられたって、それでオーヴァートが怒って……それしか解からないわ」
 理由はヤロスラフが想像したものであった、それが何の救いにもならない事をヤロスラフは知っているが。
「そうか。マリア、落ち着いて。邸内の部屋に戻っていてくれ。良いな」
「解かったわ」
 マリアは与えられている自室に篭り、何が起こっているのか解からない状況に目と耳を塞いだ。良くない事が起こっているのは、マリアにも解かった。
 ヤロスラフよりも先に、まず一番にオーヴァートの元へと現れ頭を床にこすり付けたマルゲリーア。
「陛下……」
 室内のいたる所に並ぶ、遠ラグオール形画面に映し出される虐殺の場面。オーヴァートは目を閉じている、それは全てを観ようとする動作。
「ゴールフェンか? 何をしに来た」
「ご無事で何よりです」
 まだ自分を自分だと認識してもらえる事に、マルゲリーアはホッとした。だが、このまま人に人を殺させ続けていけば、遠からず発狂する。
「何事があったのだ? オーヴァート」
 人は人を殺しているうちに、段々と殺し方が残酷になってゆく。それにつられるように、皇帝の心の中も徐徐に狂い始める。人間が人間を殺している姿が、皇帝の狂気の引き金となる。
「ドロテアを……」
「ドロテアが怪我をしたと聞いた」
「ドロテアを……襲わせた」
「なんの為に」
「解からない。酷い怪我だった、鼻からも口からも血を流し、左目蓋は腫れ上がった。いたる所から出血し、傷だらけ」
「……それを、望んだのだろ? オーヴァート」
 最早手遅れなのだろうか? そんな考えがオーヴァートの頭を過ぎる。
 室内のいたる所にある、遠ラグオール形画面は人々の叫び声をもリアルに届ける。殺してる人間達の表情も、血に酔い始めている。
「それが、解からないのだ。仕掛けた時は、確かに望んだような気がしたのにも関わらず。その姿を見た瞬間、今の指示を出した」
「陛下」
 自分達には止められない域まで達している、オーヴァートの狂気を前に、この虐殺の引き金に『されてしまった』ドロテアの事を尋ねた。
「オーヴァート、ドロテアは?」
「完全に身体を元に戻して、部屋に置いている。目は覚めないだろう、覚めないようにしておいた。多分、目覚めない」

狂気に落ちたいが為にドロテアを傷付けたのか? ドロテアを傷付けてしまったが為に狂気に落ちたのか?

「来い! マルゲリーア!」
「ヤロスラフ?」
「ドロテアを起こそう!」
「何故?」
「理由は解かっている。意味が解かるだろう? 今まで少しずつフェールセンは狂って行った為に、原因が何かは解からなかった。だが、オーヴァートは突如狂気に差し掛かった、原因も解かっている」
「その女を起こせば何か出来るの?」
「少なくとも、私達よりは何かできるだろう」
 マルゲリーアは下唇を噛締め、涙を浮かべた瞳と、顰めた眉で
「このゴールフェン選帝侯以上だと言うの。起こして何もなかったら許さないわよ、エールフェン選帝侯」
 二人は部屋へと行き、綺麗な姿のまま眠っているドロテアを観た。
「怪我を治したのじゃないわ。過去干渉を行ってる……」
 ドロテアは全く無傷の状態で、其処に寝かされていた。室内は、ヤロスラフですら見た事がない程に飾り立てられ、部屋自体が周囲の壁を取り払い大きくなっている。
「ドロテア! 起きてくれ!」
 無論、ヤロスラフが声を上げた所で、オーヴァートが目覚めないようにしたドロテアが目覚める訳もない。マルゲリーアはその力で、ドロテアの眠りに作用する部分に働きかけるが、オーヴァートの力は強かった。何故時間まで巻き戻して『暴行される前の状態』にしたドロテアを手元の置きながら、オーヴァートはこんな事をしているのか?
 オーヴァート自身、こんな命令を出せば自分が狂って行く事を知っているというのに。特にオーヴァートは自分が死ぬ事以上に、自分が狂う事を恐れていたのにも関わらず。
 ヤロスラフは意を決して、マルゲリーアと同じ行為をした。“ドロテアを起こす”そして震えた。
 真白なベッドに眠る、薄いガーベラ色をした唇から微かに聞こえる呼気。長い睫と目蓋の下に隠れてしまっている鳶色の瞳。
「マルゲリーア……どういう事だ……」
ドロテアを目覚めさせる事。それはオーヴァートの意思に従っていない筈なのに
「何の変化もない、私の身体に」
 あの耐え難い苦痛も、内臓をかき回す腕も、脳を引掻く爪も、骨を齧る牙も何もヤロスラフを襲わない。ヤロスラフが自分の力が失われてしまったのではないか? そう思う程、何も変化はなかった。

従順であれば、苦痛を感じるゴールフェン選帝侯。彼女はドロテアを目覚めようとさせたが、苦痛は感じない。それが、皇帝の意思に従っていない為。
叛意があれば、苦痛を感じるエールフェン選帝侯。彼はドロテアを目覚めさせようとしたが、苦痛を感じない。それが、皇帝の意思に従っていないにも関わらず。

「私が、この私が痛まないという事は、同じ行動を取った貴方は痛むはずよ! ヤロスラフ」
「平気……なのだ。何故か、平気なのだ」
「どうして?」
 目を閉じたまま、ドロテアは動かない。何も着ていない白皙の肌、そして上下する胸。どうしても、選帝侯の力は皇帝を超えられない。次々と殺されている姿を、オーヴァートは目を瞑り全てを観ている。その狂気に、殺す快感を覚えた人々の顔を眺め、そして殺される人間を増やしてゆく。

 オーヴァートが完全な狂気に落ちるより前に、人間が先に滅びる

 殺されてゆく人間の数を、殺される人々の数が増えるのを感じ取りながらながら、二人は必死にドロテアを起こす。最早二人は無意味な行動までともに行っていた。抱きかかえ、耳元で叫ぶ。「お願い! お願い!」そう叫ぶ声に
「おう、マリゲリーアか! 久しいのう」
「アンセロウム老」
「はっはっはっ! とっととこの騒ぎを終決させてくれぬかのぉ。終わるまで、闘技場もなさそうだし」
 グレンガリアの生き残り、焚書坑儒をも逃れた老人は、何時もの如く笑っていた。
「老! 私、エールフェンは従っていないにも関わらず死に至る苦痛がありません! ゴールフェンも同じ事をして苦痛がないのに! 何故か?」
「簡単な事じゃ」
「簡単?」
 老人は語る。
「何の事はない。オーヴァートの中に二つの感情が、同時に存在しておるだけじゃよ。ドロテアに起きて来て欲しいという気持ちと、ドロテアが目覚めたら……その恐怖。オーヴァートの中に二つの相反した感情がある、それが全く正反対の物。よって、正反対の性質に属させられている御主等が、同じ行動を取ってもドチラも、なんの問題もないのじゃ」
「それは……」
 長い歴史の中で、皇帝は相反する感情を同時に抱くことはなかった。それが今、オーヴァートの中に存在する。
「ドロテアじゃろうな、間違いなく。あの男、怖くなったのじゃろ」
「怖いと……言われるか?」
「恐らくアレを失う事を観てしまったのじゃろ。あの体質じゃ、簡単に観てしまえる。その恐怖心からドロテアを襲わせた」
「何故、そのような事を陛下が?」
「俗に言えば汚された女ならば嫌えるのではないか? くらいの事じゃろ。だがそうしてみたものの、全くその感情が芽生えない。むしろ、その行為を強いた相手……最も、オーヴァートがそうするように仕向けたのじゃろうが。何にせよ、ドロテアを傷つけたヤツラが憎くなった。ドロテアの時間を巻き戻して何も無かった事にしてみたものの、自分の気持ちが収まらない事に気付いた。そして、仕掛けた相手を殺害してみるも、まだ収まらない。どうしたら良いか? 自分のやった事を棚に上げて、それに連なる物全てを殺害するように仕向けた。そして、それを観る。だが、全く気分が晴れない。どうしたら良い? ドロテアが傍にいれば気が晴れるだろう。だが、ドロテアを傍に置けば、記憶が蘇って益々殺すかも知れない」
「老……あ、あ……」
「御主等ドロテアを起こしてやれ。アレなら上手く収拾をつけてくれるじゃろ」

 ドロテアの怪我をなかった事にしても、オーヴァートの中にはその事実が残る。彼は、オーヴァートはその事実に自分が耐えられない事を、知らなかった。そしてそれを、知った

**********


 目が覚めた時、恐怖を感じた。ベッドの上に男と女が圧し掛かって、物凄い表情してやがる。
「どうしたんだよ、ヤロスラフと……」
 黙っていれば気品溢れる二人が、俺のベッドの上で(おまけに俺、全裸だし)鬼の形相で髪振り乱して、女の方なんて涙流してやがる。
「ドロテア! オーヴァートを止めてくれ」
 ヤロスラフも汗が流れている。俺を抱いてる時だって、全くに近いほど汗かかなかったのに。何ベッドの上ではしゃいで汗かいてんだよ。ついでに話が全く見えない。
「何の事だ?」
「いいか? 聞いてくれ、落ち着いて聞いてくれ」
「おう。お前がまず落ち着けよ、ヤロスラフ」
 今にも泡吹いて倒れそうな気がするぞ、おい。
「お前はオーヴァートにより、人間に強姦された。されるように仕向けら、実行された」
 ……多分、冗談じゃないだろうな。全く記憶にねえが。
「あ? 怪我は治されたのか? でも記憶は。混乱でもしてんのか?」
「記憶も何も残ってはいない」
「……時間を戻したのか」
 俺に実害ねえから、別にどうって事は。
「そうだ! だが、オーヴァートが怒り狂って……お前を傷付けた者に連なる全てを殺害するように命じた」
「じゃあ、お前殺しに行かなきゃならなんじゃないのか? ヤロスラフ」
「違うっ! 各国に直接! 人に「特定の文様が現れた」人を殺害するように命じた! 大陸中虐殺の嵐だ! オーヴァートが……オーヴァートが、お前を襲うように命じた。無論命じられた方は、そんな事は知らないが」
「なんで、オーヴァートが怒るんだよ!」
 てめえで考えた策が終わった後に、人類大虐殺中? 意味が解からねえ。元々オーヴァートの考えなんて、全く理解出来てはいなかったがコイツはとびっきりだろ?
「それが解からないから、私達は」
「そういえば、この女は誰だ?」
「ゴールフェン選帝侯マルゲリーア」
「……若くて綺麗だな。記憶じゃあオーヴァートより結構年上だと思ってたんだが。そりゃ良いとして、俺はどうしたらいいんだ?」
「この状況をどうにかしてくれないか?」
「大陸中の虐殺を止めろという事だな」
「ああ。このまま行けば、オーヴァートは全人類が殺害しあうよう、仕向けてしまう」
「人類滅亡の危機? ってやつか」
「過去に何度かあった。それは危機ではなく、止められないまま終わってしまった」
 昔々の事なんだろうが……待てよ
「……お前らに止められない物、俺に依頼してどうすんだよ……」

俺の中に罪悪感とか恐怖心とか残ってりゃあ、それなりに何かを感じ取れたが……やっぱりヤロスラフと俺は違うんだろうな。俺は俺のままのようだ

**********


 ドロテアは全裸のまま、オーヴァートがいる部屋へと足を踏み入れた。部屋中に広がっていた遠ラグオール形画面に映し出されるシーンを、クルリと見回した後
「キリが良い所で止めろよ」
 ドロテア以外には発しない言葉を口にした。
「キリ? 何処当たりだ。何親等で止めれば良い?」
 その言葉が引き金なのか、一斉に画面が消え去る。室内は静寂に包まれ二人だけが向かい合う。
「それが解からねえなら、虐殺なんてかけるな。あーあ……で、俺の身体は元通りになったんだろ」
「良く目を覚ましたな」
「さあ。それ程でも……眠らせたの、あんたか?」
「そうだ」
「だったら、俺に起きて欲しかったんだな」
 ドロテアの言葉をオーヴァートは否定しなかった。恐らく自分自身でも、段々と気付き始めている。
「詳細は聞いたか?」
「詳しくは聞いちゃあいねえよ。早く止めてくれって二人から言われたからな。でもお前の指示でヤラレタくらいは解かってる。記憶にはねえが」
 『二人から』これが決定的な言葉であった。言ったドロテア本人は、その言葉にどんな意味があるのかは解からなかったに違いない。だが、
「二人? 今二人と言ったな」
 言われたオーヴァートには、解かっていても衝撃であった。
「二人……若しかして何か違う数え方でもするのか? 二体とか? 二個とか? 二羽とか?」
「数え方は二人でいいが。ヤロスラフとマルゲリーアが言ったのか?」
「おう、言った」
 この事ではっきりと、自分の中に矛盾した思考が棲み付いてしまった事を知ってしまう。
「……もう暫くしたら終わる」
 相反する二つの感情が同時に存在する。その苦痛にも似た感情をやり過ごす方法をオーヴァートは一つしか知らない。
「あと、どのくらい?」
 全裸で己の前に現れているドロテア、それを抱くだけ。
「五分の四は殺害された。残りは五分の一少々だろう」
 白い腕に褐色の手を伸ばし引き寄せる。
「休めば? 観てたって仕方ねえしよ。終わるように仕向けて、後はあの二人にでも観てもらっておけよ」
「私が仕組んだ事だと聞いたな」
 腰に手を回し、オーヴァート聞く。
「ああ」
「それでも寝るか?」


「構いはしねえ。その為に俺はいる」


 ドロテアはオーヴァートに口付けた。

**********


「終息した? そりゃ良かった。もう二度と俺は、自分の身体と引き換えに人類を救おうなんて思わねえけどな」
 丸四日間、身体を離してもらえなかったドロテアが、入浴している最中に現れて礼を述べたヤロスラフへ向かって放った一言。
「人類はさておき、オーヴァートを助けてくれて感謝する」
 それを聞き、ヤロスラフは笑う。少しばかり体調を持ち直したヤロスラフは、深い紫色の湯に身を沈めたドロテアに膝を付き話続ける。
「俺はオーヴァートを助けた覚えはねえが?」
「正確には我々だ」
「あ?」
「オーヴァートには子がいない」
 突然の話に、しっとりと濡れた髪をかき上げてドロテアはヤロスラフの方を向く。
「本当に一人もいないのか?」
「……いない。詳しい事は、私からは言えない、むしろ言わない」
「で?」
「オーヴァートが居なくなってしまえば、我々は逝くあてを失う」
「あて? 何処にだって居られるし、何処にでもいけるだろ?」
「違う。オーヴァートが先に死んでしまうと、我々は死ぬ事ができなくなるのだ」
「……」
 軽くかいていた汗が、一気に醒めたドロテアはそれでも話を聞く。
「我々はフェールセンよりは劣る、故にフェールセンよりも後に死ぬ事は許されない」
「でも、寿命って個人差とか個体差とかだろ?」
「我々はフェールセンの最低寿命より、短く設定される」
「だって、生まれるとか年齢とかあるだろ?」
「色々あるのだがな……絶対に我々はオーヴァートより長く生きる事はない」
「だが、それじゃあ言っている事が矛盾してねえか? オーヴァートが先に死ねば死ねないと」
「死ぬのではない。居なくなる……精神的に破壊されてしまえば、我等には打つ手がない。そして狂ってしまった皇帝と共に、永遠に生き続ける事となる」
 彼らが狂気を恐れたのは、それが原因だった。
「過去にも?」
「幾度もあった。だが、過去には必ず次代が存在し、それを選帝侯が選んだ。壊れてしまった皇帝を葬り、それと共に壊れた皇帝の御世の選帝侯をも葬ってくれる、若き力のある皇帝が」
 引いたはずの汗が一気に戻ってくる。目の前で語ったヤロスラフの言葉に、ドロテアはある事を思い出した。『選帝侯』とは皇帝を選ぶ権利を持った一族。
「まさか、選帝侯って」
「次代皇帝を選ぶ。……即ち現皇帝に次代を選ぶその能力がなくなった時、仕えし御世の皇帝と自らを殺害してくれる後継者を選ぶ。それが選帝侯」
「怖ろしいまでに皮肉な名称だな」
「皇代末期、皇帝は寿命で崩御するよりも、精神が崩壊する方が多かった。その為、選帝侯が何時も次代を選ぶ事となった。それがゲディミナス……我が祖先が慢心する原因ともなった。我等は皇帝を“選んでやっている”と。そして皇代を閉じる時、我が一族は皇帝に“その座を代わる”と口にした」
 慢心や思い上がり以上の物を、皇代最後のエールフェン選帝侯は抱いてしまった。
「それが、お前の始まりってわけか、ヤロスラフ」
「ああ……言っても仕方ない事だが、バルキフェンやジブリアフェンと共に眠りにつければ良かった」
「あん? バルキフェンにジブリアフェン、エールフェンにゴールフェン……もう一人居るよな? トルドキアフェンはどうした?」
「生きている、その男は生きている。自らを選帝侯の枠外に押し出す事を条件に、皇代の終幕を支持した」
「枠外? ……皇帝の配下・選帝侯ではなくなる事を条件にして、永遠の寿命を得た……訳か?」
 ドロテアはそう口にしてみたものの、その方法自体は全く解からなかった。ただ、皇代最後にゴールフェン選帝侯やエールフェン選帝侯以上に上手く立ち回った選帝侯がいる、くらいにしか。
「そう。無論、皇帝に叛旗を翻したり、傷つけたりすれば即座に殺害されるが。それ以外は何も、リンザードの命を脅かす事はない」
 ヤロスラフもドロテアに、全てを理解してもらおうと思っているわけではない。
「リンザードって言うのか」
 ただ、ヤロスラフが語りたいだけだとドロテアも理解している。浴槽の縁に置かれている、水晶の水差しを直接口に運ぶ。炭酸水が舌の上ではじける。
「ゴールフェンの前で名を出すと大変な事になるからな。マルゲリーアは、ゴールフェンは“リンザード”という名が嫌いでな、ランブレーヌが“リンツアード”という、リンザードの変形名と結婚した際、怒り狂った……そうだ。直接見てはいないが。あちらの方が相当年上であるし、ランブレーヌが結婚した頃はまだ私はいなかったので」
「あ……そ」
 水差しを置き、氷が詰まったボックスの中に入っている葡萄や薔薇や桃のシャーベットを、取り分け用の大きなスプーンで抉り取り口に運ぶ。
「私にはその可能性はないが、ドロテア、お前ならばある。オーヴァートより長く生きる可能性が」
「そりゃまあ、唯の人間だからな」
「……叶わない人間も居るが、お前には叶う。だから、長生きしてオーヴァートの傍にいてくれないか?」
「待て! こんな大騒ぎを仕出かす原因になった女に、そんな事言ってどうする?」
「こんな騒ぎを起こさせただけ、大したものではないか」
「その前に、お前が長生きする事を考えろヤロスラフ」
「それはどう頑張っても無理だ。それと……今は少しだけマルゲリーアの気持ちが解かる」
「ゴールフェンの気持ち?」
「ゴールフェンは傍にいる事を許されないが、エールフェンは傍に居ることを許される。例え信頼されていなくとも、出され命令に従う。ゴールフェンはそれすら叶わない、ただ遠くに存在するのみ。私は近くに存在するが、傍にいるだけだ。ドロテアのようにその存在を欲されはしない……ただ居るだけだ。私には叶わない“存在”」
 オーヴァートが誰に関心を持たなければ、持たないでいてくれればヤロスラフはずっと仕えられた。
「俺、出て行こうか?」
「そんな事になったら、即座に殺されてしまう」
 笑ったヤロスラフの頬に、ドロテアは氷で冷えてしまった手を持っていき
「死にたくは無いのか?」
 その時ヤロスラフは答えなかった。後に“死にたくは無い”その理由まで述べるが、この瞬間は笑って誤魔化すだけであった。

 ドロテアはヤロスラフの後頭部を掴むと、唇を触れさせた。

「何だ?」
「味はどうだ、シャーベットの。食って行かないか?」
 首を振り、ヤロスラフは浴室を出てゆく。湯気の向こう側に消えたその姿に
「やっぱり記憶は全くねえようだな……選帝侯でもねえんだ、俺に残ってる訳もねえか」
 十八年間、献身的とまではいかないが、必死に仕えたつもりの相手に認められなかった。ドロテアが現れるまでは、認められていなかった事に気付かなかった。この二年間で自分は“認められていなかった事実”に気付いてしまった。それに気付いた時、ヤロスラフの中で欲望が生まれたのだ。それが叛意ではなく、忠誠を認めて欲しいという欲望。
 反逆のエールフェン最後の当主に生まれたその、感情。

**********


 明日から通常の授業が再開される。世俗とは縁を切っているとは言え、全く切れているわけではないから当然か。
「じゃあ、それで行く。手間取らせたな」
 アンセロウムの長い長い人生の中から、この騒ぎの原因として最も適切な理由を選び出し、オーヴァートやラロスラフと大まかに話を合わせた。
誰も聞いてきたりはしないだろうが、念のために。俺だけは、あと少し話の詳細を決めておこう。アンセロウムの部屋から出ようとした時、
「そりゃ、構いはせんよ。……ドロテア」
「何だ?」
「滅亡王に気をつけるが良い。お前は格好の的だ」
「何の話だ?」
 “滅亡王” ……クトゥイルカスの事ではなさそうだった。
「何時かわかる、そして知っている。これからも、頑張るが良い。稀代の悪女として名を馳せると良いぞ!」
 陽気な鬼才爺さんは、小躍りしつつ鼻歌を歌って語りだす。アンセロウムはコレでいい。
「良くねえよ! まあ、なっちまっただろうがな」
 言いながら部屋から出た。誰一人以内廊下で、一つ大きな溜め息をつき、酒を飲んで眠りに落ちる。真実など口にしてやるか……誰も彼も、何も知らないで勝手に恨んで生きていけばいい。


俺はオーヴァートの後継者を名乗る人物に傷付けられ、それを怒ったオーヴァートが殺害を命じたと、そういう事にした。そして、人が殺せなかった分はヤロスラフが全て殺したと


 頬を殴られ、鼻血が首まで濡らしている。左目蓋は腫れあがり、物を見る事もできない。
 口を開いたまま、浅い息。下半身から流れ出す血。
「苦しいか? 痛むか?」
「……っ」
 鼻から喉に落ちる血が多過ぎて、喋り辛いようだ。
「私が指示したのだ。そう言ったらどうする?」
 貴方は腫れあがった顔を痛みながらも綻ばせ、血の逆流で苦しくて仕方ない喉から声を絞り出した。
「別……に……。楽し、かった……なら、それで……いいぜ」

 真実を語られないまま、生きてゆくがいい。俺は語る気はない、永遠に

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