ビルトニアの女 外伝1
貴方を抱いた日
「それは何だ?」
「見た通りだよ、バダッシュ。ショルダーアーマー」
「そうじゃなくて。素材」
「お前も学者の卵なら解かるだろ」
「解かりすぎるかから怖いんだろうが……それって」
「オーヴァート特製の皇帝金属」

第九話・過去を犯すもの


 鏡の前で探していた
「ないな。どこかに紛れてしまったか……細かいからな」
 何をしているのかはわからないが鍛えられている背中と、艶やかな黒髪。自分に苦痛を与えた男の後姿に、血に濡れた記憶がある左手を持ち上げようとする。でも身体が全く動かない。少しでも動けば痛むし、声を上げる行為すら痛みを増すような。
 抱かれながら『鏡を拳で割ってみろ』といわれた、そのとおりにしてやったさ。指は切れたし血も相当でたが、命令通りにやったんだ文句はいわれねえだろ。
 一瞬にして襲ってきた寒さに目を覚ます。目を覚ました俺に気付いていない皇帝は床の上を探していた。不思議な光景だった。
「何処にいった?」
 屈んで何かを必死に探している。
「指はどこだ」
 その言葉に弾かれて左手を握り締めた。
 そういう事か……
「皇帝」
 自分の声とは思えない程、弱々しい声で皇帝に言う
「目を覚ましたのか」
「探しても見つからない。それは昔になくした」
「そうか……」
 何かを言われた気がしたが、それ以上意識を保っている事はできなかった。
 消えゆく意識の中で、鏡が元通りになっていたのをみた。それを直したときに、紛れ込んだとでも思ったのだろう、確かにあの大きな鏡の破片に紛れてしまえば細かいが……指が切り落とされたらあの程度の出血じゃあすまない……そうか、滅多なことじゃあ出血しないから解からないんだろう。人間の出血量と違うんだろな。それにしても、もう半年近くもたってるんだぜ、アンタの側に来て。とっくの昔に気付いてても良いんじゃないのか? 指がない事くらい。人は案外、他人を見ていないとはよく言ったものだ
『……人じゃないか』
 何となく楽しくなったのは、俺だけの秘密だ。

**********



「お前の指がこうだったとは知らなかったな」
 返ってくる言葉はない。衰弱して眠っているドロテアの手を持つ。綺麗に切られたその指、一年や二年の話ではないようだ。正直、何故この指に気付かなかったのか不思議だった。此処まではっきりと欠落している物に気付かないとは。
 先ほど鏡を叩き割ったその手を見る。よくよく見れば細い指ではない、だが太いわけでもない。ただ、女特有の柔かそうな雰囲気はない。むろん、街で暮らし家事をこなしている娘達の手指はもっとガッシリとしているだろう。ただ、単純に学士としてみるとやや確りとしている。全体的にみればドロテアと言う娘は、美しいが柔かさの欠片もない。
 この硬質としか言い様のない雰囲気は……女から縁遠いのかも知れない。この切り口の鋭い指も、その雰囲気の中に埋没してしまっているのだろう。この女の性格ならば、片腕がなくて鎧をぶら下げて歩いていたとしても、誰も無いことに気付かないかもしれない。
 それにしても指がないのはどうしてだ? この切り口からみると人間が原因では無さそうだ。確りと握ると、失われた時の記憶を見ることが出来る。フラガボットの舌に弾き飛ばされたのか……ミロは知っているのか? ミロが知っていようがいまいが、どうでも良い事か? 色々と考えつつその指を“戻して”みた。
 今のオマエには似合わない、小さな柔かそうな指だ。あの鏡を割る拳を持つ女の手についていて良い指ではない。可愛らしいが、この女の美しさには不似合いだった。よく見れば、左腕は右腕よりも若干太い。数少ない共にした食事では、ドロテアは右利きだった。
 ドロテアは右と左の握力を同じくする為に、左腕だけを鍛えている……その少しだけ太くなっている腕を、右腕と同じ太さにした。勿論筋力はそのままで。
「オマエは私を嫌うだろうな」
 それで良いと、その左手に口付け、身体の状態を治し部屋を後にした。
 目の前に四角い薄い映像を映し出す物体を出す。そこにトルトリアの過去を映し出した、人間が泣き意味の解からない言葉を叫びながら逃げ惑うその姿。上等な見世物だ、そしてドロテアを見つける。幼い顔立ちの長い三つ編みを揺らしているドロテアを抱えて走り逃げる神父は、片手に口がぱっかりと開いたドロテアと同じ顔をした子供の頭を握っていた。
 そこから再び時間を戻す、其処にドロテアがいた。
 漆喰の壁に木で出来たベッドの上で緑色の布団に包まり眠っている。起こされる訳でもなく起き上がり、隣に寝ている弟をゆすり起こす。ドロテアは髪を梳かし、その長い髪を自分で三つ編みにして赤いリボンで飾る。その日の朝食は香辛料入りの固焼きビスケット、絞りたての山羊のミルク、細かく刻んだ香味野菜のスープ、香草の鶏肉焼き。フルーツにはたっぷりと砂糖がかかっている。それを弟と共に食している
【はい、あげる】
【ありがとう、姉さん】
【ビスケットにジャムつけるか?】
【うん】
 年の頃は同じくらい、年子だろう。
 そこから時間を早める。家の手伝いをした後、二人で小さな黒板を小脇に持ち、リュックサックに間に厚切りベーコンと刻んだ玉葱を挟んだバゲット、ドライフルーツ、砂糖を混ぜたヨーグルトを山羊のミルクで割ったものを入れた水筒。それとチョークを入れて二人は家の外に出た。子供が集う、私塾へと向かおうとしている。
【あ! グリフォードさん!】
【一緒に行こうか?】
【なに? なんか揺れてるよ?】
【地震?! こっちへおいで、ドロテア、ゼ……!】
【ねえさん! 危ない!】
 切れた音すらなく、その指は飛び伸びてきた舌に巻きこまれて、開いていたフラガボットの口は貪欲にドロテアを弾き飛ばしたゼファーに食いついた。簡単に首から下を一噛み、即死だ。咀嚼する音すらなく魔物に飲み込まれた。

**********



 繰り返し繰り返し見ていて飽きないのだろうか? 寵妃を抱き終えた後、ガウン一枚だけで扉の無い部屋の中、遠ラグオール形画面を出して過去を見ている。寵妃の過去だ。
「お前は気付いていたか? ヤロスラフ」
「全く。妾妃を側で見ることも殆どないのでな」
 画面上の幼い妾妃は、何度も何度も指を弾き飛ばされ、弟はかみ殺される。良い映像ではないが、オーヴァートはうっとりとそれを眺めている。そのまま時間を多いに進めて、フレデリック三世と妾妃が知り合った頃を見始める。予想通り、フレデリック三世が声をかけてそこから付き合いが始まったらしい。若い、子供の人間らしい恋愛模様……とは少々違うが(妾妃は元来気が強いようだ)少なくとも恋愛というものである、目の前に繰り広げられている光景は。そして、二人が抱き合うとオーヴァートは再び時間を巻き戻して、また指が飛ばされるシーンを映す。もう百回は悠に越えているような気がする。
「珍しいな」
 あまりにもこの画面に集中しているので、ついつい言葉がでてしまった
「ドロテアの事か。ヤロスラフ、オマエは顔を合わせる度に言ってくるが、それほど珍しいか?」
「珍しいさ。仕えて十年、一度たりともなかったことだ」
 繰り返される血の画面。角度を変えて観る、他の人間の悲鳴を除外する。オーヴァートはドロテアの指が飛ばされるシーンを楽しそうに見ていた。
「そうかもしれんが……この先二十年、三十年手元に置くヤツがいるかも知れんぞ」
「それが妾妃か?」
「違うな」
「そうか……いつか手放してしまうのか」
 血が砂に落ちる、少年の口から血が零れ落ちる。脳から落ちてくる血だ、目から溢れる血は涙のようだが表情は穏やかだ。
「残念か? ドロテアがいなくなる事が」
「別に私には……」
「……ならば……」
 それ以降私には聞き取る事ができなかった。
 そしてオーヴァートは飽きることなく、三日間その一分にも満たない指が無くなるシーンを繰り返し見続けていた。

―― ならば、残念と感じるようにしてやろう ――

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「山羊のミルク?」
 マシューナルでミルクと言えば牛を指す筈だが……。
「口に合わんか?」
「そんな事はない」
 四日ぶりに観たオーヴァートは、とても晴れやかだった。
「これを身につけろ」
 投げつけられたのは黒い鎧の一部。コウター(肩)からゴーントレット(掌)までの……黒い金属だが、通常の物とは思えなかった。
「私の手作りだ」
 古代遺跡と同じ……
「皇帝金属」
「ああ、何処へ行く時もそれを身に付けておけ。良いな」
 左手だけのそれは、指が五本揃っていた。
「ああ」

 テーブルの上にあるのは、香辛料入りの固焼きビスケット、絞りたての山羊のミルク、細かく刻んだ香味野菜のスープ、香草の鶏肉焼き、たっぷりと砂糖がかかったフルーツに杏のジャム。

「そのジャムをビスケットにつけて私の元に持って来い」
「わかった」

 それから暫くの間、この食事が繰り返された。皇帝のご指示だと、それだけしか聞かされなかったが、味の無い料理を食べるよりはマシだった。

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