ビルトニアの女
終わりから始まりに向かう世界へ【3】
 法王アレクサンドロス四世はベッドに横たわり景色を眺めていた。
 もはや未来を見る力も失い、ただ空を眺めて日の移ろいに身を任せる。だが法王は、まるで無力な人間のようになった自分自身を愛おしく感じていた。彼が自分のことを心の底から愛することが出来るようになったのは、この死の間際になってから。
「今なら良い言葉を皆にかけてあげられそうだよ」
 法王は統治には一切関わらないで、法王として教えを広める説法は数をこなしたが、彼は聖典の中にある唯一つの項目だけは語ることはなかった。
 それは自らを卑下するな、愛しなさいという部分。
 自分自身のことを嫌い続けた彼は、それだけは語ることができなかった。
「別にかけてやる必要もない」
「……うん」
 法王が柩に入れたいと願ったのはエルストから貰ったギュレネイス硬貨一つだけで、他の私物は全て分け与えた。
 私物は確かに高価であったが、長い間法王の座に就いていた人物としては少なすぎる程の物であった。三週間ほど前に暗殺されたギュレネイスのチトー五世の私財は、誇張も含まれているが『国一つ買えるほど』と言われ、だれがその私財を継ぐのかで国が大荒れしている最中。
 それに比べて、いま死の床にある法王の私財は本当に僅かで『分けていただけた事』を喜ぶ者ばかりであった。
 セツだけは形見分けは受けなかった。無用だと言う彼と、最初から数に入れていないよと告げた法王。
 二人にしかわからない何かがあるのだろうと他者は理解し、追及することも不思議に思うこともなかった。そう二人には二人だけで交わした約束があった。それは法王ではなく『王子としての私財』と『皇帝より分けてもらった私財』の管理。
 二つともエド金貨となっているのだが、その金額は先のチトー五世の私財にも匹敵するほど。特に後者のオーヴァートより分け与えられた私財は、最後のゴールフェン選帝侯マルゲリーアを見送ってくれたことに対して、途絶えたゴールフェン選帝侯の私財全てを渡された為に莫大な金額であった。
 それらの使い道を定め、そのように使ってくれるようセツに依頼する。依頼内容は『この金は戦争には使わないで。終わった後の復興に使って』という物。既に終わりが見えている寿命が尽きかけた法王には戦争が起きる時期も、それが終わる時期も視ることは叶わない。
 だが戦争が起こることだけはセツからの説明で理解し、回避不可能である現実と受け止めた。
 戦争の始まりには既に命費えている自分が最後にできることは、戦争が終わることを信じ必ずや復興させてくれる男に資金を託すこと意外に思いつかなかった。
 その無力さに涙し、これが人間なのだと己の朽ちぬ体の全てで感じたとき法王の人生は終わる。


 夜明けのエド法国で鳥の羽ばたいた音を多数の人が聞いた日、アレクサンドロス四世の瞳は閉じられたまま、二度と開くことはなかった。
 人々はその鳥を見たわけではないが 『黒い鳥』 だと言い張った。


 アレクサンドロス四世は法王として君臨していたが、統治していたのは次の法王と定められていたセツ。人々は死を悲しんだが、その死によって国政が滞ることはなかった。
 セツは用意していた事柄を淡々と進め、法王が希望していた通りに陸路を使いランシェ王国と呼ばれるようになった国まで葬送を行った。セツは聖騎士のマリアを含めた付き添いを連れて沿道で祈る一般の信徒の中を歩き、エルセン王国でマクシミリアン四世の相談役となったクナと会談し大陸航路を抜けて、あの日ドロテア、そしてレクトリトアードと別れた場所へと到着する。
 王国にしては貧相な国だが、人々に選ばれた女王は美しくなっていた。
「お待ちしておりました。セツ最高枢機卿……ではなくて法王猊下」
「ヒルデガルド女王か。まだ法王ではない、最高枢機卿でいい」
 聖職者を辞し隠すことなくなった優美な波打つ亜麻色の髪は、僧服を捨てた日よりも伸び艶やかに、若き女王の頭上に王冠など必要ないと思わしめるほど。
 以前より法王の希望を聞き、元は聖職者であるヒルデガルド女王と綿密な打ち合わせが行われていたので、葬儀は滞りなく進行した。法王を葬る場所はかつてトルトリア王国で『時を刻む棺』があった場所で、今はドロテアの手甲が握り大地に突き刺さったレイピア、それにヒルデガルドが結んだマントが絡み合い、風に揺れている場所に安置することとなった。
 誰もが法王アレクサンドロス四世の柩に参ることが出来るようにとの配慮。
 儀式の最後として柩を地中に置き、用意していた土を盛ろうとした時にそれは訪れた。
 突如耳鳴りでもしているのかと思える程に大気が緊張し誰もが動くのを辞めた。刹那銀の砂の大地は青白く光だす。
「これ……は?」
「聖火神の炎だ!」
 セツの叫び声と同時に法王の柩が安置された穴から青白い炎が空へと登る。セツとヒルデガルドは駆け出し、炎の去った穴を覗き込むとそこには小さなコインが一つあるだけだった。聖火神の炎はアレクサンドロス四世の柩と遺体を焼き尽くし、彼が唯一望んだコインだけを残した。
 何が起こったのか理解できない周囲の面々の中で、マリアと四年前に故国を捨てたミロが同時に叫ぶ。
「ドロテア!」
 その声に全員が彼と彼女の視線の先に身構える。そこには蜃気楼のように揺らめく青い湖が現れ、その水面上に見える場所にドロテアが立ち後ろにはエルストがいた。
 いつも通り腕を組み見下しているかのような視線でセツを見つめていたドロテアは、腕を解き誰かを手招きする。誰を呼んでいるのだろうと皆が周囲を見回すと、彼らの足元を小さな金色の子供がすり抜けて行った。
 実体のない幽体だけの存在。
 その子供はまるで母を見つけたかのように、ドロテアに向かって駆けて行く。子供は躊躇いなく湖に踏み出し一心不乱に近寄っていく。
 金髪の子供が法王アレクサンドロス四世であることは誰もが解った。
「エルストが抱いている子の白目……青い」
 マリアの言葉にセツはその子供を見つけた。エルストに抱きついている銀髪の子供、ちょうどドロテアの所に向かっている金髪の幽体と同じくらいの年に見える。その子供がレクトリトアードなのかは解らないが、レクトリトアードである可能性が高い。
 『死亡したはず』や『何故子供になっているのか』などは、神の力を従えた女の前にはそんな疑問を持つことさえ哀れで滑稽。
「……」
 周囲の驚きなど無関係に金髪の子供はドロテアの側までたどり着き、くるりとセツの居る方角に向き直る。
 その菫色の瞳を持った子供は幼い子供特有の声で叫ぶ。
「いままでありがとう! セツ……また! また、会おうね!」
 涙をこぼしながら精一杯の笑顔を作り叫ぶ。
「ああ、またな、リク。それとエルストが抱いている子供と仲良くしてやってくれ。お前なら言わなくてもそれが誰かは解るだろうが……エノス! そいつはエノスだ!」
 リクは頷くが、エノスと呼ばれた本人は理解していないかのようにどこかを見つめている。
 人形のように表情のない“エノス”と呼ばれた子供の耳元にエルストは口を近づけて何かを呟くと、少年の瞳に光が宿りセツと視線が合った。
「ありが……とう」
 セツは少年からレクトリトアードの称号を外し、唯の子供に還した。
 エルストは膝をつき、リクを抱きかかえて両手に子供をかかえ、皆に背を向けて揺らめく作り物めいた世界へと戻ってゆく。ドロテアはそこに居る誰かに手を振って背を向けた。
「ドロテア! あのなっ!」
 その場にいてドロテアに声をかけたのは、かつてのパーパピルス国王のミロ。
 故郷も玉座の思うままに全て投げ出してきた男は、まさかここで再会するとは思っていなかった相手に声を詰まらせた。
 もう一度会うことが出来るのなら、言いたいことは多数あったミロだったが何一つ声にならなかった。彼から全ての言葉と思考を奪い去る風踊るトルトリア最後の美女は、犯した罪に対する嫌悪も諌めるような口調でもなく何一つ変わることない声で、
「ミロ、ヒルダ達のこと頼むぜ。また会うこともあるだろうよ」
 いつも通りに指が四本の左手を挨拶するように上げ、変わらない口調のまま告げて立ち去った。

 アレクサンドロス四世の墓穴にはギュレネイス記念硬貨一枚が置かれ土を盛り儀式は終了する。

 セツは何事もなかったかのように、ヒルデガルドに近寄り葬儀の用意に感謝を述べ、ドロテアのいなくなった地点を見続けていたミロにエド正教の教会建築の許可を申請し、許可を得て帰途につく。
 エド法国に到着すると、既にドロテアが現れたことは多方面で噂になっていた。
 誰が広めたのだろうかと調べると、噂の出所はマシューナル王国のオーヴァート=フェールセン。彼はあの場に居たのだ。
 何の為に噂を流したのかはセツには興味はなかったのでそのままにして、予定を次々とこなす。
 そして遂に、前法王の御世より実質的にエド法国を支配していた男が法王となる。

 エド正教第十七代法王 レクトリトアード

 自ら勇者の名を背負いセツは法王として立つ。それは大陸大分割再統合時代の始まりでもあった

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 魔王も魔帝もこの世界には何の関係もない《異端の者》であり通り過ぎた跡には、彼等を思い出す余裕はなにもない。
「ユリウス=ケルファンザか」
「学者としては有能だった男のようです」
 チトー五世の暗殺後、私財の扱いにより国が混乱する。
 旧センド・バシリア共和国、現在のソフロン王国側は国王の息子の私財を全て返還するようにギュレネイス皇国側に通知するが、ギュレネイス側はこれを拒否する。
 理由はチトー五世がソフロン王の愛人の子であったこと。
 共和国時代は国教を持たず、宗教を排除はしていなかったが優遇もせず、なによりも親から子への地位の継承がなく問題とならなかった為に普通に行われていたことが、宗教国家と手を組み国教を定めた王国となったことで、宗教との利害対立が生まれてしまった。
 もとよりチトー五世とソフロン王という血縁で上手く成り立っていた同盟関係は、ものの見事に音を立てて崩壊していった。
 その混乱を尻目にチトー五世の次の司祭が定まる。
 マシューナル王国王学府を主席で卒業し、学者としてオーヴァート卿の主隊に組み込まれていたギュレネイス出身のユリウス=ケルファンザという美しき男。
 彼が他の聖職者を押しのけた理由は、オーヴァート卿と繋がりがあることと、ギュレネイス国の人であること。所謂フェールセン人であったことが大きかった。チトー五世の死後、自らの国の支配者の財産問題で他国から口を挟まれたギュレネイス皇国の人々は《司祭は自国の人》が良いと考えた。
 もちろん民衆が考えていようとも、司祭を選ぶ者達に選ばれなくてはならない。
 通常は金によって投票を買うのだが、ユリウスはチトー五世とは違い裕福な実家などはない。その彼が司祭の地位に就くことが出来たのは、自分を選べばチトー五世の私財は持ち出しを一切せずにギュレネイス神聖教に寄付することを誓った。
 司祭を選ぶのはギュレネイス神聖教の高位聖職者達なのだから、彼等に金を渡すと言ったのも同然。
 他の候補者が他国の者であったことも相俟って、チトー五世の私財が持ち出されることを恐れた聖職者達がユリウスを選び、彼は司祭の座に収まった。
 司祭ユリウスが先ず手始めに行ったのは、エド法国側に一人の人物を引き渡すように命令するかのような強い口調での依頼。
 その人物の引渡し依頼と言う名の宣戦布告を受け取った時、法王レクトリトードは口を歪めて笑った。
「遂にきたぞ、クラヴィス」
「はい」
 法王の座に就いたと同時にヴェールを取り去り、冷酷な表情を隠さないで宗教国家に君臨しているレクトリトアードの前で膝を折っているのはクラウス。
 イシリアで産まれクラヴィスと名付けられたイシリア教徒は、両親に連れられギュレネイスに亡命しギュレネイス教徒となり、クラウスと改名して地位を上げる。そしてその国を捨てて、エド法国にたどり着き自らの意思で改宗し、クラヴィスの名に戻りザンジバル派の僧正となり聖騎士の統括を任せられていた。
 長いことチトー五世の配下として、ギュレネイス皇国の武力のトップに居た男が戦争相手にいるのは内情を知られていている為に非常に厄介なので、引き渡せと依頼した。
 高圧的に依頼はしたものの、ギュレネイス皇国側も法王レクトリトアードが無条件で引き渡すとは思ってはいない。
 「クラウスの引渡し」これが長い間上辺だけの平和の終止符であることを誰もが知っており、そして引渡しが拒否されることは決まっていた。そして全面的な宗教戦争に突入することを理解していた。


「最後の宗教戦争だ」


 法王レクトリトアードの号令の元、エド正教とギュレネイス神聖教の戦端は開かれた。


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