ビルトニアの女
終わりから始まりに向かう世界へ【1】
 あの大きな戦いが終了して二年後、ギュレネイス皇国はセンド・バシリア共和国と手を組みイシリア教国を滅ぼした。
 センド・バシリア共和国とギュレネイス皇国でイシリア教国を二分割し、共和国は王国となり大統領は王となる。
 イシリア教国と共に共和国という制度も滅んだ形となった。

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「あの木の洞、こんなに低いところにあったなんて」
 セツは妹のマレーヌと故郷の村に来ていた。何も残っていない、ただの瓦礫の山。
 三十年以上前に訳もわからないまま連れ出されその後滅んだ村に、過去などないかと思っていたのだが、村の外れにある小川の中州に生えている木に覚えがあった。
 川遊びをする時に服を脱ぎながら川に入り、枝にかけて水に飛び込んだ。他の子供も同じように服をかけて水遊びをしていた。
 その木には見上げる箇所に洞がある。子供は誰も手の届かない高さ、木登りをすると届く高さではあったが、川の中洲にある木に登るよりは川で遊ぶ方が忙しかった子供達は、誰もその木に登ろうとはしなかった。
 マレーヌの声にセツは水面に術をかけて木に歩み寄り、その洞の中に手を入れて探す。
 セツとマレーヌは此処に両親へのプレゼントを隠していた。両親の『結婚記念日』に贈り物をしようと、二人で近くの村まで行き小さな陶器の置物を買ってきて、当日まで隠す場所に此処を選んだ。
 セツは当時から力が使えたので、小さな物を高いところに隠す程度のことは簡単に出来た。
 その後セツは、仲の良かった友達に『ここにプレゼント隠したから内緒にしてくれ』と告げ友達も『今度買いに行くときは一緒に連れて行け』と言いながら、渡せる日を楽しみにしていた。あの日マレーヌと二人で自分達の村を出て買い物に行った村もすでにない。セツの記憶にある優しそうなギュレネイスの神父の息子が破壊してしまった村。
 その村を思い出しながら置物の入っている箱を取り出した。同時にグシャグシャに丸められた紙も。セツはその二つを持って、川を歩いて戻る。
 箱をマレーヌに手渡し、セツは紙をゆっくりと開く。それは二人の両親からの手紙だった。
 二人は両親へ贈り物をする前にエド法国に連れて行かれた。セツの友達は両親に贈り物のことを言うかどうかを迷って過ごしているうちに、この村も魔帝の配下に取り囲まれた。本能的に助からないと感じたセツの友達は、最後にと両親に二人が贈り物をするのを楽しみにしていたのだと告げに走る。
「ありがとうと書いている」
 乱れた字が、襲われている時なのを物語っていた。
 二人は焦りながらも、息子と娘が何時か此処に帰ってくることを信じて“ありがとう”とだけ書き残し、丸めて魔力で洞の中に隠した。
 マレーヌが開いた箱の中から出てきたのは、安っぽい小さな番の鳥の置物。
 欠けていない陶器の置物を前に二人は無言になった。
 “勝ちました”や“仇をとりました”などと言う言葉は浮かんでこない。だが無念という訳でもない。
「壊れてくれていたら諦めもついたのにな」
 その陶器の置物を前に、二人が過ごした日々が重なる。
 過去は殊更美しく感じるが、それを差し引いてもこの村で両親と兄妹として過ごした日々は楽しかった。
「そうですね、最高枢機卿閣下」
 世界はあの時とは違い、二人も元の関係には戻らない。ただ二人はこの場所にあった全てを諦めるしかなかった。
 今はもう小遣いを貯めて近くの村に買い物に行った兄妹ではなく、普通のシスターと次の法王。いつか二人でこの村に帰って来たいという願いを叶えると同時に、二人の全ての“思い”を此処に置いて去るしかなかった。
 昔は遊ぶのに忙しくて聞くことすらなかった川のせせらぎに耳を澄ませながら、二人は胸の中にあった数々の思い出をこの場に置き去りにする。
「エセルハーネ」
「……どうしました?」
「私には息子がいた」
「いらしたのですか?」
「お前も見たことがある筈だ。あの火の勇者が私の血を分けた子……だった。あれは死して英雄となり、私は生きて勇者と称えられる」
 ドロテアに『英雄になるなよ』と言われた男は、それを守らずに死んでしまい、あの戦いでの唯一人の英雄となった。セツの目の前で弾かれて血と骨を飛び散らしながら死んでいったレクトリトアードに対しての思いは複雑だ。
「そうだったので……」
「だがレクトリトアードは知らない。私は知らされて、告げるか告げないかの自由を与えられた。そして私は伝えないことを選んだ、それが最善だと信じて」
 マレーヌの言葉が言い終わらないうちに、かぶさるように早口でセツは語りながら、両手で頭を抱える。
「弾かれて仰向けに倒れる時、その顔を見た。本人は私と違って村が滅ぶのを、母親が殺されるのを見ていたせいか、どうしても相手に一矢報いたいという思いが強かった。勝てない相手だと言われていたが、無理を言って向かわせてもらい命と引き換えだが願いが叶ったからか、妙に穏やかな表情だった。目は見開いたままだが、本当に穏やかだった」
 レクトリトアードの死に顔は穏やかだった。
 本当に穏やかなのかどうかはセツには解らないが、少なくともセツには穏やかに見えた。凪いだ表情のまま死んだレクトリトアードに、セツは何もすることが出来なかった。治療が間に合わないのは解っている、勝てない相手にかかっていったレクトリトアードが悪いことも。
 だが何よりも自分にレクトリトアードが息子だと教えたドロテアが憎かった。
「知りたくは無かった。あの時は知っても平気だったが、知った後に死なれて……死んだ時は何も思わなかったのに今になって忙しさの中、ほんの僅かの空白の時間が訪れると思い出す」
 何をしたいのか、何を言いたいのかはっきりと解らないセツは頭を抱えたまま目を閉じる。
「その思いだけは、この村に置いていってはいけないと思います。辛くともお持ち帰りください」
 知らなかったならセツはレクトリトアードの死を悼み終わった。知ったために、レクトリトアードの死を見ていながら、その血肉を浴びていながら認められなかった。
 レクトリトアードの血肉の暖かさを頬に感じながら、何も考えることができなかった。
「そうだな。ここに置いていってはいけないな」
 計算で作りセツには何の連絡も無かったのだから知らなくても仕方なく、死んだ時もセツが失態したわけでもない。レクトリトアードが自分の意志で死と引き換えに『母親のような女』の仇を討った。
 その死の理由を知っているからこそ悩む。
 もしも自分が告げていたら、レクトリトアードは無理をしなかったのではないかと。もう考えても仕方ないことだと自らに言い聞かせるほどに、暗い水に足を取られてもがくような気持ちに陥り、最善策は別にあったのではないかと思い悩む。
 それを考える時にセツの頭に浮かぶのは、レクトリトアードではなくドロテアの姿。
 自らの無力をドロテアがせせら笑っているような感触。それが自分にとって唯一の逃亡場所であることも理解していた。
「行くか」
「はい」
 憎い『あの女』の嘲笑が何時か消える日まで後悔し、それが消え去った時自分はレクトリトアードの血だけ繋がった親だったと認められると信じて歩き出した。
 マレーヌは箱に陶器の置物を戻し、手紙を丁寧に折ってセツの後ろについて歩き出す。
 少し下がって歩くマレーヌに本当は全ての地位を捨てて迎えにいこうとしていたと……
『言えないな』
 言うことは出来なかった。
 何かを口にするだけで言い訳になってしまい、この先も二人が普通に暮らすことは無い。自分が近々法王になることは、確定していることを良く知っていた。


―― アレクサンドロス四世は約五年後に死ぬ ――


 旅をした時に皇帝であるオーヴァートがセツに語った未来。
 セツも法王の寿命の果てを感じていたが、そこまではっきりと言われ驚いた。
 大戦後にアレクサンドロスと話をして、本人が寿命の期日を知っていることにオーヴァートの影を感じたが深く追求はしなかった。あの時から既に二年が経過し、残りは三年。法王本人は、寿命を聞いたせいなのか落ち着き徐々に身辺整理を始めた。
 セツもそれを止めるつもりはなく、死後の式典の希望などを尋ねる。
 法王は特別な式典は望まなかったが、二つだけ希望を言った。その一つは “エド法国ではなく、ネーセルト・バンダ王国でもなく、とある国埋葬して欲しい”
 法王が埋葬を希望している国は、未だ国とは呼ばれていない。ヒルデガルドが石工の息子ビシュアと、国を捨てたフレデリック三世と共に国を作り始めている、国のたまごのような場所。
 だが確実に国になるだろうと誰もがその国になる場所を見守っていた。
 埋葬場所に関しては法王の年齢から考えて、故国が滅亡したトルトリア王国であってもおかしくはないので、問題はなかった。
 そしてもう一つの希望は“シスター・マレーヌと一度故郷に帰ってきて”というものであった。戻る故郷も、共に帰る相手もいない法王の願い。セツは最初“忙しい”と難色を示したが、
『法王になってしまうと、もう自由は一切ないよ』
 そのように言われ、これに関しては腰の重いセツがやっと動きここに居る。
 二人は無言で歩き、故郷の村に向かう途中で聞いてはいたが驚きを隠せなかった、黒い水で吹き飛ばされた村に戻りそこで足を止めてマレーヌは手に持っていた箱を再び見た。
 深い静かな森と熱に溶けた村。どちらも静かではあるが、全く違う静かさだった。二人が溶けた空間で過去に最後の別れをしていると、足音が聞こえてきた。
「こんなところを人が歩くとは思えないが……随分な人数だな」
 聞こえてくる無数の足音は、疲れきった人々の物。
「イシリア教徒か」
 全ての人がそうではないが、多くは癖のある黒髪と赤い瞳を持ち、イシリア教徒の聖印を首から提げて無言の行進をしていた。何人かがセツとマレーヌの方を見るが、誰も話しかけずに歩き続ける。
 その足が止まったのは、
「セツ最高枢機卿閣下!」
 この声だった。
 人気の無い場所でシスターと二人きりでいる男が、次のエド正教のトップに立つ男と知り全てに疲れたような顔をしていた彼等も、少しだけ興味を持ったようで足を止める。
「クラウスか」
 現れたのは黒のギュレネイスの警備服着用しているゴールフェン人のクラウス。
「一体何をする気だ」
「旧トルトリア領に移動する途中です。その警備を担当しています」
 チトーが十年かけて内部から切崩しにかかっていた作戦が奏し、イシリア教国は混乱少なく多くの人々が改宗に応じた。改宗に応じた人々は国を追われることは無いが、改宗に応じなかった者たちは当然国を追われた。
 追われるといっても受け入れ側と移動費用はギュレネイス側で用立てたので、それも混乱にはならなかった。
 改宗に応じなかったのは二割程度。
 彼等を連れて移動費用を出来るだけ切りつめ、だが無理をさせないでクラウスは歩かせた。昔自分が無理をし、無理をさせられて亡命した記憶があるせいだがそれを知る者は“ここには”いない。
「滅ぼした国の民の輸送か。ギュレネイス警備隊長が担当する仕事ではないように思えるが」
 言いながらセツはクラウスの着衣から隊長の章が消えていることに気付いた。
「彼等を旧トルトリア領に到着させた時点で隊長は解任となります。もちろん自分で希望したことですよ」
 宗教と故郷とで迷走していた男は、より混迷したいかのように自らの地位を捨てた。
「クラウス隊長?」
「先に行っていてくれ。私も直ぐ行くから」
 後から来た警備隊員に先行くように命じ、故郷を失った人々の列を横目に話し続ける。
「長話はできませんが、私は隊長職を辞しました。彼等を無事に届けた後に……」
「エド法国に来るが良い。まだ神を捨てず、私にお前の仕える価値があると思うなら来い、待っているぞクラウス。仕えずとも休みに来るがいい、お前が来たら喜ぶ男もいる」
 クナからクラウスとパネの関係を聞いていたセツはそう告げた。
 何よりもこのクラウスと言う男を味方につけるかつけないかで、エド法国の未来には大きな違いがある。
「……」
「故国を滅ぼした国を討つ機会を与えてやる」
 イシリア教国を滅ぼしたギュレネイス皇国が次に狙うのは、もう一つの宗教国家エド法国。
 法国を滅ぼして大陸最大の国として、唯一の宗教国家として君臨するつもりだとセツは見て、それは事実であった。
「私はイシリアを滅ぼした側です……」
「だがお前は攻めてはいない。お前は傭兵を集めただけだろう?」
 武力を持たないことを明言している、ギュレネイス皇国側は攻めてはいない。仕事にあぶれている市民を旧共和国側に送り、傭兵に仕立て上げることはしたが表面上は攻め込んでいないことになっている。
「この長い旅路でゆっくりと考えるが良い。どの道“私の”エド法国とギュレネイス皇国の戦端は確実に開く。イシリア教国がもう少し持ちこたえてくれたら良かったが……なんにしろ、お前も生き延びたいなら道を決めるがいい。ギュレネイス皇国側としては隊長職を捨てたお前の動向も見張っているだろうからな」
 歩く人々がまばらになり、最後尾についていた警備隊員の姿がセツにも見えた。
 クラウスは無言で頭を下げて歩き出そうとした、その時、
「閣下。私はこの方たちと共に旧トルトリア領へと向かたいと思いますので、許可をいただけませんでしょうか? 新たなる土地で、エド正教の教えを広めたいと思います」
「……行きたいのか?」
「はい。長年の兄と故郷に帰るという願いも叶いましたので、これからは本当の聖職者として生きていこうと」
 マレーヌは手に持っていた箱をセツに差し出す。それを受け取って、もう片方の手で金の入っている小さな鞄を取り出しマレーヌに渡す。
「旅の費用と向こうについてからの生活資金だ」
「これ程の金額は」
 受け取った鞄の重さと、隙間から見える金の輝きに驚くがセツはゆっくりと頭を振り持っていけと促した。
「旧トルトリア領にはまだエド正教の教会がない。エド正教徒が大金を持たないで旅し、滞在できるのは教会があるからだ。これから許可を貰って建築にはいるが、それまでは自前の資金だけだ。次の法王の妹が、苦しい生活をしているようでは私の面子が立たない。贅沢はする必要ないが、苦労はしないようにな……私は宗教最高指導者になるが、解決は金だ。宗教に生きる道を選ぶお前が嫌ってくれても良いが、私はそういう生き方を選ぶ。クラウス!」
「はい」
「頼む」
「お任せ下さい」
 そしてセツは自分の聖印をクラウスに渡す。
「これでエド正教の施設の多くを使うことが可能だ。後で届けてくれ」
 マレーヌは礼をし、三度ほど振り返ってから足の悪い人に肩を貸して歩き始めた。姿を見送った後、セツは置物の入った小箱と共にエド法国へと即座に戻った。


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