ビルトニアの女
ビルトニアの女【9】
 マリアはトルトリア領からオーヴァートたちと共にマシューナル王国へと戻り、自分の持ち物を整理する。ほとんどの持ち物を弟の妻や知り合いに譲渡し、部屋を空にして家族に別れを告げた。
「それじゃあ」
 マリアは荷物運び用の驢馬を一頭購入し、食料や寝袋などを積み、鎖帷子を着て槍を持ち家を出た。
「気をつけなさい」
 父の言葉と、
「なにかあったら帰ってきなさい。ここは貴女の家なんだから」
 母の言葉に笑みを浮かべ、だがはっきりと拒絶する。
「うん、解ってる」
「本当に、本当に帰ってきなさいよ」
 マリアの拒絶を感じ取った母親は、袖口を掴んで行くなと無言で頼むが、
「分かってるから……”分かって”頂戴ね」
 老いた両親を残し家を出た。
 親不孝だと思う気持ちはあったが、親不孝であってもここから出て行き、新たな人生を歩むことにマリアは決めた。
 ドイルだけは家ではなく外でマリアを待っていた。
「姉さん」
「ドイル」
 二人は肩を並べ人気のない道を選んで歩いた。十年以上昔、助けを求めた日のことを互いに思い出しながら。
 ドロテアが居なくなった世界だが、ドロテアを知らなかった頃の世界に戻ることはない。城門が小さく見えたところで、マリアは足を止めてドイルと向かい合う。
「元気でね、姉さん」
 先に口を開いたのはドイル。マリアは優しい弟の両肩に手を置き、力を込める。
「貴方もね。貴方は家族もいるんだから」
「ああ……どこにいても姉さんは姉さんだよ」
「それは私も同じよ」
 肩から手が離れ残る温もりを感じながら、去ってゆくマリアの後ろ姿を見送り、城門の向こうに消える前に、ドイルは背を向けて別れを告げた。
「さよなら、姉さん」

**********


 チトーに頭を下げながら、クラウスは再生された腕を見る。最初は違和感のあった腕だが、帰国した頃には元の腕と変わらない程に馴染んでいた。
「以上で報告を終わります」
 魔帝イングヴァールと対峙して帰ってきたクラウスは、敵意と嫉妬を持ちながら英雄だと褒めそやされた。
 戦死したレクトリトアードには誰もが惜しみない、妬心抜きの称賛を与えるが、生きて帰ってきた英雄に妬みがつき物であった。
 ある者はチトーの後継者の地位を得たと嫉妬し、ある者は甘い汁を吸わせてもらおうと近付いてくる。両親や姉も後者の人間と同じであった。そのような人間であることを知っていたクラウスだが、落ち込まないわけではない。
 レクトリトアードのように死んでいれば楽だったろうか? という、救いようのない考えが頭を過ぎるも、腕を見て己の愚かな考えを諫める。
「良くやった、クラウス」
 クラウスは「セツの目論見」をチトーに伝えなかった。クラウスの心は以前より「ここ」にはない。だが行き先を見つけられぬので「ここ」に留まっていた。
 恐れなど知らず、行き先など飛び出してから見つければいい! ――クラウスはそうやって生きることが出来ない人間であった。臆病だと言われれば「ああ私は臆病だ」答えるが、誰も彼を臆病だと言わない。
 なにも知らぬ場所へ、自らの意志のみで踏み出せる者など、本当に僅かしかいないことを皆知っているのだ。
「クラウス隊長! ご無事で何よりです」
「心配をかけたな」
 警備隊へ戻り讃辞を受け取り、有力者たちと会合し……クラウスは窓の外を眺める。
 どこかへ行きたい、だが行きたい場所がない――その焦がれ疲れる感情を胸に秘めて、彼は仕事を続けた。
「学者か……」
 マシューナル王国王学府出身の男の名が書かれた書類に目を落として、暗澹たる気分に陥った。
――ユリウス=ケルファンザ ――
 ギュレネイス皇国出身で学者となり帰ってきた男。実年齢よりも若く見える、美しい男。
「あの愛人、嫌な感じが」
 誰もが知っていて黙しているが、それはチトーの愛人の一人でもある。
「愛人などと言うな」
 クラウスは部下が語った”愛人”の部分を咎めたが”嫌な感じ”については訂正しなかった。それはクラウス自身も感じていたことであった。ユリウスの若さは異質であった。それに対する彼の反発は部下よりも激しく、嫌悪を越えて憎悪の域にあった
「でも……」
「仕事絡みで話をしているとき、不意に愛人などと口にして、それが司祭閣下に知られたらどうする。普段から気を付けておくに越したことはない」
「そうですね」

「ユリウス=ケルファンザ……か……」

 ユリウス=ケルファンザ。ドロテアの二年上、バダッシュと当初は同学年でそのままマシューナル王国王学府を首席で卒業した、ギュレネイス皇国出身の男。

 なにを目的として彼が帰ってきたのか?

 彼が若さを失わなかった理由は生贄を用いた”若さの維持”によるもの。彼はその頭脳を用い、若さを失いつつある金持ちのたちに自らを実験台にして効果を示し金を稼ぎ裏の名声を得て、チトーの傍へとやってきた。
 チトーもまた若さを欲し、そしてクラウスの名声に恐れをなし始めており、そちらにばかり気を取られ、チトーはユリウスの目的がどこにあるのか? 気付くのに遅れた。

 チトーが気付いた時には既に遅く、クラウスは既に――

**********


 波打ち際に建つ城でありながら、波の音が届かない玉座に腰を下ろし、肘当てに肘をついて手の甲に顔を乗せ目を閉じたまま”フレデリック三世”はトリュトザの声を聞いていた。
「陛下」
 話などは聞かない。ただ声を聞くだけで、もはや何も届きはしない。
「なんの用だ? トリュトザ」
 足を組み替え目は閉じたままフレデリック三世は叱責混じりに聞き返す。
「あの……」
「早く言え」
「陛下の伯父にあたるモイが」
「死にそうだと言うのだろう」
「はい」
「そんな報告は必要ない。国王に必要な報告ではない」
「本当に死にますよ」
「知らんな。報告はそれだけか?」
「はい」
「下がれ、トリュトザ」
「……御意」
 言われた通りに退出しようとしたトリュトザ侯は背後から声をかけられて足を止める。
「トリュトザ」
「はい」
 その時トリュトザ侯は「モイについて」何か語ると信じていた。この国王は平民らしさが抜けず、肉親の情を捨てることができないと思っていた。
「モイが死んでも報告する必要は無い。余には関係のないことだ」
 フレデリック三世が目蓋を開く。その目にはなにも無かった。
「……」
「下がれ」
 穏やかではなく感情が消え去った眼差しは、この世界ではない世界と繋がっているような恐怖をトリュトザ侯に刻みつけた。
 玉座で一人になったフレデリック三世は玉座を周囲を見回す。王の地位に就いた時、彼の世界は随分と色を失った。婚外子として外側から見ていた時、この地位を嫉妬が入り交じった感情で見上げていたが、毒を含みつつも鮮やかであった。
 それがドロテアと引き替えに権力を得た形となり、彼の周囲は色褪せた。外側から見ていた金の窓枠、磨かれた硝子窓、そして玉座。
 すべてが色褪せていた。だが外の景色はまだ色を失ってはいなかった。この海の向こう側に、この空の下にドロテアがいることを思えば、自然はそれまで以上に鮮やで輝ける存在であった。
「ドロテア……」
 だがそれも終わりを告げる。
 フレデリック三世の目に映る世界は、元に戻った。本当にその世界の色へと戻った。褪めた色ではなく、輝かしいものでもなく。彼の心を誤魔化し魔力は失われ、彼は一人になった。もう彼を止めるものはなにもない。

 血の繋がった伯父でさえも――

 死の床に就いている独り身のモイのところに、仲間が集まり、今か今かと”ミロ”が来るのを待っていた。
「坊やが来ないなんておかしいねえ。連絡が行ってないんじゃないか?」
 二人きりの身内。いままで隠れているとは言いながら、あまり隠れずに頻繁に帰ってきていた”ミロ”
「大臣が街に出してくれないんじゃないのかなあ」
 彼らもトリュトザ侯と同じくミロは肉親を見捨てるようなことはしないと信じていた。
「でも役人が言うには、ミロが必要ないって言ったって」
 彼らは待つ。
 ひびの入った壁。うっすらと埃を被っている木棚に並ぶ、即位してからも折りに付けて送られたミロからのカード。ずっと変わらないと信じられているミロだが、ただ一人、モイだけはもう待ってはいない。
 甥が甥ではなくなったことを、モイは自らの血と腐臭で麻痺した舌と鼻で感じ取っていた。日が高く、カーテンが開いているのにモイの視界は薄暗い。
 死を覚悟するには充分な暗さ。

―― 伯父さん。俺の彼女! 美人だろ! ドロテアって言うんだ! ――
―― 俺に自己紹介させろよ。よお、モイ。滅んだトルトリア王国一の美少女だ ――

 モイは自ら祈りを捧げた。それは死する己のためではなくミロのために。呂律が回らなくなり、周囲には祈りと聞こえなかったが、モイは祈り続けた。
 最後に潮風を胸一杯に吸い込み感じて死にたいと願いながら。

「誰かミロを救ってやって……く……」

**********


 マシューナル王国は国を挙げて、無邪気な残酷さとともにレクトリトアードを奉った。死んだ勇者ほど気軽に奉ることができ、好きに使えるものはない。
 勇敢に戦って戦死した、そこに至るまでの人生も決して平坦ではなく、孤独に満ちていた――

 マリアが故国を捨てた理由は、聖騎士としてエド法国で生きると決意したのは、この事も原因であった。マリアはレクトリトアードのことは好きではなかったが、こんな形で奉られるのを見るのは不愉快であった。マリアは自分がレクトリトアードのことを知らないことを自覚しているが、レクトリトアードがこんな形で奉られることを望むような性格ではないことだけは自信を持って言えた。
 言ったところで誰がどうなるというわけでもなく、ドロテアのように打ち砕く力があるわけでもない。だからマリアは立ち去った。

―― ドロテアの言いつけを守らないで死んだあなたが悪いのよ、レイ

「お前が死ぬなんてなあ……レイ」
 マシューナル王国に帰国したバダッシュは、レクトリトアードの死を悼むと言いながら喜び奉っている王国の様を見て黙ってやり過ごした。
 ただ彼の財産を、彼が望んだであろう所に移動させるために、オーヴァートに協力を要請して国から取り上げた。
「ヒルデガルドが国を作るそうだ。その費用に使って貰えよ」
 英雄として奉られている闘技場には足を運ばず、豪華な自分の部屋で一人酒を開けるでもなく、卒業以来目を通していなかった小難しい古代語の辞典を開きながら、バダッシュは金を受け取るためにやってくる使者を待った。

『では、お願いします!』

 先の戦いで死んだ馬の皮を剥いでテントを作り寝泊まりし、壊れた噴水を応急処置し畑を作り、死体を片付けながらどんな建物を建てるか? などを話合いつつ、大陸行路の整備と旅人の安全確保と食糧の買い付けなど、それこそ祈る時間もないほどに仕事をしているヒルデガルドに命じられ、
「ビシュアか」
 ビシュアは単身でパーパピルス王国へとやってきた。もともと盗賊だった彼は、人目に触れずに歩くのは得意。
 依頼された仕事の内容は、できるだけ人目を避けたほうがよい内容の物ばかりであったので、ビシュアに仕事が振られたのだ。
「報告よりも金額が多いような気がするのですが?」
 レクトリトアードの私財を寄付すると空鏡で連絡を受け取った時、ビシュアはなんとなしにヒルデガルドの方を振り返った。そこにいたのは、表情憂いることないヒルデガルド。
 ヒルデガルドは感情を隠すことはしなかったが、レクトリトアードのことに関しては穏やかな表情しか作らなかった。
 その表情はレクトリトアードを確かに奉っていた。勇者でも英雄でもなく、戦って生きた一人の男として。

「ああ。俺の私財も少し混ぜた。使ってくれ」
 バダッシュは貢ぐ先を失った分を建国費用に上乗せして渡してきた。
「良いんですか?」
「持って行って……使ってくれ」
 貢ぐ先はドロテア。
 金が欲しいと言われたこともなければ、何かを買ってくれと頼まれたこともないが、バダッシュはかなりの資金をドロテア用に貯めていた。
 簡単に世界を敵に回してしまうドロテアを守るとまでは言えないが、手助けできるようにと。
「では、ありがたく」
「なあビシュア」
「はい? なんですか? バダッシュさん……じゃなくて、バダッシュ卿」
「”さん”でも”卿”でもどっちでも良いんだが、何でヒルダはレイの遺品が欲しいって言ったんだ?」
 ヒルデガルドは最初、金ではなくレクトリトアードの所持品を。遺品の一つでもいいからセツに受け取って欲しいと願い、
「……さあ」
 二人が親子であることを知っているもう一人のビシュアに、この仕事を依頼したのだ。
「何が目的だ?」
 セツが受け取らないであろうことも、無駄に終わることも分かっているのだが、それでも二人は届けたかった。どれ程苦労して受け取ってもらえなかったとしても、それは徒労にはならない。
 ドロテアであれば無駄だろうと言いながら、絶対に受け取らせることもできたであろうが、ヒルデガルドもビシュアもそんな手段も強さも持ち合わせていない。

 だからこそ――

「答えられませんね」
「ビシュア、お前理由知ってるんだな」
 バダッシュに確証はなかった”はったり”と言ったほうが正しいのだが、ビシュアの表情の僅かな動きを読み、
「……あ」
「後は聞かないから安心しろよ」
 漠然とした答えだけで満足した。
 バダッシュは探求欲の少ない男だ。王学府での成績が芳しくなかったのは、この探求欲の少なさが関係していた。バダッシュは貴族社会の煩わしさから逃れるために王学府に逃げ込んだだけであり、彼が逃げ込んだ理由は彼に貪欲さが備わっていなかったためであった。
 冷めていたのではない、彼には貪欲に知識を欲するということが理解できず、探求がなんであるか分からなかった。
「何故?」
「ヒルダが一人で秘密を抱えてるなら、色々と俺も考えるが、どうやら秘密を共有して支えることの出来る男が傍にいるなら、俺なんかが口挟む問題じゃないからな」
「あの……」
「聞かないぞ。俺は聞かないからな」

 だがドロテアに出会い、それらの欲が生まれ、辛さを覚え、残酷になり優しさを覚え――そして

「どうしたの? バダッシュ」
 ビシュアが帰ってから、ヴァルキリアを呼び出した。
「良いのか? ヴァルキリア」
「何が?」
「レイの遺品全てを渡してしまって。お前も少しは」
「必要ないわ……必要なんてないでしょう。好きだった相手に引き取ってもらえるっていうのに、横から口挟むなんて……ねえ」
 ヴァルキリアの記憶にあるレクトリトアードは、やはりこの国で奉られているような英雄ではない。ヴァルキリアは、怒りではなく悲しみを感じたが、それは多くの人に理解してはもらえなかった。
 人知を越えた強さを誇った男は、最後まで多くの人間たちとは解り合えなかった。彼を理解した僅かな人の側になってしまったヴァルキリアは悲しむ。
「ヴァルキリア」
「真面目な表情作ってどうしたの? バダッシュ」
 バダッシュが近付き、ヴァルキリアの両肩を掴み力を込める。
「皇帝の元に戻るか?」
「なに馬鹿な事言ってるのよ……居なくなったくらいで変わるような人じゃないでしょう。存在しなくなったくらいで……諦められないんでしょう? バダッシュ」
 愛した女がドロテアであることは変わらず、愛した男がオーヴァートであることも変わらず。
「寝ようか、ヴァルキリア」
「答えてくれないの? バダッシュ」
 互いに本心を知りながら、騙すこともせずに、長いこと共に居続ける。
 この関係がいつまで続くか分からないが、死ぬまでこのままだろうと二人とも考えている。相手に告げることはないが、別れることはないだろうと。
 バダッシュがヴァルキリアの体を抱き寄せてキスをして、そのまま押し倒す。
「卑怯な男ね」
 情事を終えて眠るバダッシュの横顔に口付けてから、溜息をついた。
 恋でもなく愛でもなく、客でもなければ主でもなく、だが離れることはないこの関係を続ける意味。終わらせることを失敗してしまった二人が行き着く先にあるものは――

「卑怯なのはバダッシュだけじゃなくて……私自身が決めなきゃいけないのよね」

**********


 ビシュアはマシューナル王国を出ると、エルセン王国を目指した。マクシミリアン四世からゲルトルートの遺体移動をエド法国に申し出て良いか? と尋ねる為に。
 彼女が帰りたかったのかどうか? ヒルデガルドにもビシュアにも本当のところは分からないが、旧トルトリアの大地以外に埋葬しておくのも、おかしい気がした。
 エルセン王国に埋葬したマクシミリアン四世も、打診した際にすぐに許可を与えてくれたのは彼自身、思う所があるためであった。

―― そこが国になったあかつきには……

 許可を貰いにいったビシュアは、マクシミリアン四世が言いたいことに気付いてしまった。「自分の生まれ故郷なので……」喉まで出かかった言葉をビシュアは飲み込んで、笑顔を作って退出した。

「いつまでもいると思うな親……とは言うが、いつまでもあると思うな故国というのは……辛いなあ」
 黒い上着の裾をはためかせ全てに立ち向かった背中を思い出し、それを乗り越えなくてはならないのだと頭を振る。
 ビシュアはマクシミリアン四世から許可を貰い、そのままエド法国のセツの元へと向かい、ゲルトルートの埋葬許可をもらった。
「良かろう」
「ありがとうございます」
「昔の旗印を持ち帰って葬ってやるなど、お人好しだな」

 こうして許可をもらって、再度エルセン王国に戻り、旧トルトリア王国領へと帰る。

「セツ最高枢機卿閣下」
「何だ?」
「レクトリトアードの形見……必要ありませんか?」
 ビシュアの手元にあったのは、小さな鏡。楕円形で枠の細工に少しばかり価値がある――元盗賊は価値は見極められたが、その鏡がレクトリトアードにとってどのような物であったのかは分からなかった。
 コルビロに住んでいる者たちは、レクトリトアードのことを知っていたが、彼が好んだものを知らなかった。
 彼らが知っていたのは「ドロテアのことが好きであった」という過去のことだけ。
 そしてレクトリトアードが大切にしていた物を知っているとしたら、やはりドロテアだけであると。結局、誰も何も分からないまま――
 セツはビシュアが取り出した鏡を見もせずに否定する。
「そんな下らん物は要らん」
 答えは分かっていたが、聞かずにはいられなかった。それがビシュアの弱さであり、また強さでもあった。
「失礼します」
 礼をすると、顔が映るほどに磨き込まれた床をのぞき込む形になる。その床に映し出された自分の表情を見て、ビシュアは自分自身を納得させ、再度エルセン王国へと向かった。

 法王庁から去るビシュアを窓から見下ろしながら、セツは呟くが、
「レクトリトアードなんて息子はいはしない。もしも息子がいたとして、名付けるとしたら……」
 最後まで呟くことはできなかった。
 名前など考えたこともなかったから、思いつきもしなかったのだ。
 室内に視線を移動させる。そこには一度だけレクトリトアードが座り、一緒の酒を飲んだ椅子とテーブルがある。
「もう誰かと酒を飲むこともないだろう。テーブルの上が空くこともなさそうだ」
 生還したセツの元に、以前よりも多くの貢ぎ物が運び込まれ、テーブルを埋め尽くしていた。

 エド法国を去ったビシュアは、ゲルトルートの遺体をエルセン王国に滞在しているクナの元にいる、イリーナとザイツの助けを借り、
「任せて下さい」
「最速で届けますので」
 ヒルデガルドの居る、未だ国とは呼ばれぬ砂漠の大地へと引き返した。
 
 銀の砂を染め上げる夕日――

「雄大だね」
 まだ人気のない大陸行路で馬車を止めて、夕日に染め上げられる大地を三人は眺めた。
「そうだな」

 帰宅ではなく帰国でもない、正に旅の途中。生きているうちに目的地に辿り着けるのかどうか分からない旅。

「あと少しだから急ごうか」
「そうだな、イリーナ。行きましょう、ビシュアさん」
「ああ」


 画聖によって描かれた、対戦終了直後のバスラバロド大砂漠。
 沈みゆく夕日に染まる赤い砂漠。周囲にはなにもなく、大砂漠と夕日、そして黄金にも似た空だけが描かれている。
 だが、その絵は躍動感に溢れていた。
 今にも沈みそうな夕日、風により舞い上がりそうな砂。そして色を変えるのではないかと思わせ、見続けていても飽きることのない空。
 バスラバロド大砂漠からエルランシェが失われた風景。


 それは世界から大寵妃が失われた風景でもあった


第十九章【女神の記述】完



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