ビルトニアの女
ビルトニアの女【8】
 毒神ロインがパーパピルス王国で、
「終わったから戻る」
「あ、ああ……終わったのか? 本当に」
「本当に終わった」
「感謝する毒神ロイン」
「そうか。感謝貰って帰るとするか」
 ミロとバダッシュにそう告げて、ロインはまだ黒き空のままの世界を後にした。

**********


 簡素な言葉で表すのならば、暗がりは消え、世界は明かりを取り戻した――それだけである。
 世界を覆い尽くした重くのし掛かってくるような威圧を与えていた闇が”軽く”なる。闇が薄れたわけではなく、触れていたわけでもないが、イングヴァールの死とともに軽くなった。
 勇者たちの村に唯一残っていた白い《人柱》を中心にし、空を支えていた精霊神たちは軽くなった闇を吸い込む。
 神の体に取り込まれた異世界は、別の世界に触れ、オーロラに似た光りを放ちながら消えてゆく。
 多種多様な色に輝く光りは鮮烈で、目を閉じていても消えてゆく光りは人々の目に飛び込んできた。
 あまりに多様な光りに晒された人々は、最後に闇とは違う暗さに視界が覆い隠され、己がどこにいるのか? 不安を感じ、恐怖を覚えて叫ぶ。
 その叫び声に呼応するかのように、空は元の色に戻った。降り注いだ煌めの恐怖から解放された人々は歓喜の叫びを上げた。

 暗がりは消え、世界は明かりを取り戻した。だが世界は元には戻らなかった。

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 ロインが去ったのと同じ時、エド法国では、マルゲリーアが膝をつき自らを抱き締める。
「……」
 彼女の寿命が”尽きた”
「本来ならば私のほうが先に消える存在でしたが」
 アレクサンドロス四世も磨かれた床に膝をついて、倒れそうなマルゲリーアの肩に手を伸ばし視線を合わせる。
 皇帝以外の皇統を認めないゴールフェン選帝侯ではあったが、法王だけは認めた。
「さようなら。エド正教法王アレクサンドロス四世」
 自らの体を保つことができなくなったマルゲリーアは、法王の腕の中に倒れ込む。
「さようなら、ゴールフェン選帝侯マルゲリーア」
 マルゲリーアは法王の腕の中で息絶え、音もなく崩れ灰燼に帰し、その塵も消えた。こうして地上からゴールフェン選帝侯は完全に消えさった。
 残った着衣をアレクサンドロス四世は消し去り、巨大な窓から外を望む。

「世界はこれから暗き時代を進み、その先を――」

 色を取り戻した空と、法王庁にまで届く大歓声。

「私は知ることはできない」
 アレクサンドロス四世はトルトリアを望む。そこには懐かしい気配があることは感じられたが、別れを告げていった二人の気配は跡形もなく消えている。

 黒の短い上着が風に舞い、両手を広げ何時でも前を見据える。

 なくなった指を取り戻すことはせず、世界から立ち去っていった。

「私には見ることのできない世界にいる貴女と”エルスト”。いつの日か」
 アレクサンドロス四世が立ち上がると、布がすれる音が幾重にも聞こえ歓声を遮る。取り戻された空の色とは裏腹に、世界が進む先は闇のような時代。
 窓枠に手を置き、裂け消え去った黒と降り注ぐ輝く光りと共に現れた空……その輝かしい空にアレクサンドロス四世は世界の未来を重ねる事が出来なかった。
 立ち尽くし窓から外を眺めているアレクサンドロス四世のもとへ、報告が届いた。近付いてくる布がすれて発する音に振り返ることはなかった。
「猊下、魔帝は滅び、セツ閣下はご無事だそうです」
 ”見れば解るのにわざわざ報告とは、面倒な生き方してるなあ”ドロテアならばそう言うだろうと思いながらアレクサンドロス四世は空を眺め続ける。
「そうですか、トハ。セツが無事でよかった」
 世界が暗く閉ざされ、人々が嘆き悲しむ原因を作るのがセツだと知りながら。それでもセツの生還はアレクサンドロス四世にとって、心より嬉しかった。
 トハは周囲を見回し、
「猊下、ゴールフェン選帝侯は?」
 先程まで結界を張っていてくれた相手がどこにいるのかを尋ねた。礼をし持てなして帰ってもらわねばと考えていたのだが、
「かえられました」
「そうですか」
 当然ながらこの日以降マルゲリーアの姿は見られることはなく、いつしか死亡したと言われるようになり、そして徐々に歴史に埋もれていった。

**********


 世界が世界に戻った時、歓喜に包まれなかった場所があった。マクシミリアン四世のいるエルセン王国である。
 暴走したかのような光りから解放された人々が、通常の視界となって初めて見た物は、マクシミリアン四世の横に立つハルベルト=エルセン。
 二人は並び同じように人々の方を向いていた。マクシミリアン四世は座ったまま、ハルベルトはマクシミリアン四世の首に剣を当てて。
「役目も終わったから、死んだらどうだ? そのほうが楽になれるぞ」
 刃先が首を傷つけ、血が伝い落ちる。
 ハルベルトに悪気がないことも、善意であることも明かなのだが、
「断る」
 マクシミリアン四世は断った。
「そうか」
「余は勇者ではない、王だ」

―― 今は……

 マクシミリアン四世の心を感じとったハルベルトは剣を降ろしたが、人々はまだ安堵はできなかった。突如動き首を落とすのではないかと。
「痣を還してもらおうか」
 少し離れたところに居たクナに、アレクサンドロスはそう言い顔に手を伸ばした。
「どうぞ。貴方様のものです」
 アレクサンドロスが顔に触れるとその痣は、あのセツの腕に紛れ込んだオーヴァートの一部のように還る。
 クナにあった時は痣であったが、還った先ではどこかに取り込まれ、アレクサンドロスの顔に痣が出来るようなことはなかった。
「痣がなくなっても顔は変わらんな。華やかさもなにもない」
「存じておりますとも」
「そうか。身の程を弁えているな」
「ほんとうに”そっくり”ですな」
 何に似ているのか? クナは敢えて言葉を濁し頭を下げた。
 目の前の性格も口も良くない男が、彼女が信じる信仰の頂点であり、彼女はまだ信じているからこそ。

 二人の勇者が子孫と力を与えた相手と会話していた頃、シュスラ=トルトリアは貴族墓地の片隅にいた。彼の足元には真新しい墓石があり、刻まれている名は”ゲルトルート”
「死んで良かっただろうよ。お前たちはもう、この世界にとっては邪魔者だ」
 皇帝がこの世界を捨てると決めた時、彼に連なる者たちも消える。
 《消える運命》なのではなく、破滅を持った女が消しに来るのだ。
 シュスラはゲルトルートの墓の隣にある、小さな従者ノイベルトの墓は見ることなく、二人がいる広場の壇上へと戻った。
「じゃあな」
 三人は揃ってからハルベルトがそう言い、ゆっくりと地表から離れる。
「どこへ行かれるのじゃ?」
 クナの問いに、
「あの女に付いていってみる」
 アレクサンドロスはそう答え、
「五百年、野ざらしってか砂ざらしで仮眠してたから、今度は気候が良いところがいいな」
 シュスラが笑い答える。
 そして最後に、
「これから自由に色々なところを見て回るとする。安心しろ、もう二度とお前達の世界に来ることはない」
 ハルベルトはそう言い、三人は舞い上がり色を取り戻した空へと消えていった。
 静けさが支配する中、クナはマクシミリアン四世に「王の仕事をせよ」と促す。
「勝利宣言せい。国を守ったのは、間違いなくお主じゃよ。マクシミリアン四世よ」
「あ……ああ」
 マクシミリアン四世は虚脱状態の民衆に向けて、声の限りで叫んだ。勝利したことを、力強く。
 宣言を聞き終え、クナは手を打ち鳴らし、
「マクシミリアン四世! マクシミリアン四世!」
 勝者をの名を讃えて叫ぶ。
 民衆もその声に呼応し、名を叫ぶ声は広がり首都を覆った。彼は完全に王となり、王となったので――

**********


 異世界から脱出し振り返ったセツが見た物は、陽が傾き青からオレンジへと変わる夕暮れ時の空。
 僅かに気を抜くと、疲労が全身にのしかかってくる。その疲労の多くは喪失によるものだが、セツは喪失を認めないので疲労もないことにする。
 ドロテアに《動け》と命じられていた死体はすべてアンセフォに焼き払われ、残っているのは僅かな《死んだだけの者》と生きている者たちだけ。それでもセツが希望した通りの死体の山が築かれていたことは、砂を満たす血で明かであった。
 クラウスを肩から降ろし”あっちへ行け”と手で払い、セツはパネたちエド正教徒たちが陣取っている結界跡へ向かう。
 セツが向かおうとしている結界から、ミゼーヌが飛び出し一人離れたところで佇んでいるオーヴァートの元を目指して走って行く。
 結界が解かれ、砂地に置かれたただの紙となった場所で待つパネたちの所で腰を下ろして、水の入っている瓶を掴んで一気に飲み干す。
「セツ最高枢機卿閣下、ご無事で何よりです」
「こんな下らんことで死ねるほどに、俺は身軽ではない」
「顔に血が。お怪我を?」
 パネは薬草の入った水にガーゼを浸し絞り、鏡を目の前に置き、血を拭くようにガーゼを差し出す。
 鏡に映った自分の顔にこびり付いている血肉。
「いいや、俺のものではない」
 レクトリトアードから渡された右腕で血肉に直接触れる。それらは既に死んでおり、もうセツの体に取り込むことは出来なかった。
 指でなぞり頬に引かれた擦れた朱の線。小さな異物を含んだ朱は、頬にずっと違和感を残す。
「あの……」
 周囲を見回しレクトリトアードの姿がないことに気付いたビシュアが、意を決してセツに尋ねようとする。
「俺以外のレクトリトアードは死んだ」
「……そうですか」
 頬を拭った跡が冷え、喉も冷えてゆく。
 セツの言葉がざわつきながら広がり、広がるにつれて静けさを増す。この場にいる者全てが沈黙するかと思われたが、
「あっ! ヒルダさんとマリアさんだ!」
 イリーナは沈黙せず、突如現れた二人を指さして喜色を滲ませた声を上げた。
 人々の視線を浴びた二人。ヒルデガルドは軽く手をあげて微笑み、マリアの表情は硬く強ばっている。
「帰還しました」
 ヒルデガルドは特定の誰かではなく、全てに向けて帰ってきたことを告げる。もちあげた白い手は真新しい血で濡れている。袖口も同じで、時間を置いて黒くなっている裾や転んだ時に吸った血よりも後に付いたことをその鮮やかさが物語り、同時にそれが誰のものであるのかも明かであった。
 肉体に傷ついたような箇所は見られない二人と”居ない二人”
 二人が異世界とこの世界を繋ぐために存在した三人の勇者の棺が直立しているところに差し掛かった時、異音が人々を緊張させ大気を停止させ、血を吸った砂が震え、一つの影が落下してきた。宙を切り裂くような音をあげ、その影はマリアとヒルデガルドの側にあった棺の中心に突き刺さった。
 砂の大地は”揺れ”はしなかったが、硬い音が響き渡り、人々に波紋のような体内に広がる独特の衝撃を与えた。
 三つの棺は花が散るかのように外側に倒れゆく。大地に横倒しになった棺の中心には、エルストが腰からぶら下げていたレイピアと、
「お前と言う娘は……」
 持ち手の部分を握っている、オーヴァートがドロテアに与えた手甲。
 ”お前がくれた物のなかで唯一にして最も使える”と言っていたその手甲すら、ドロテアは置いていった。

―― 連れて行ってもらえるとでも思っていたのかよ? おめでたい男だなあ、オーヴァート!

 吼えるように高らかに、見下しながら蠱惑の笑みを浮かべ、美しく嘲るドロテアの顔を、そのレイピアと手甲にオーヴァートは見る。

 倒れた棺と突き刺されたレイピア。柄を握り僅かに斜めになっている手甲。そして暮れゆく砂漠の空に小さな無数の影。
 青空が粉になったようなそれにグレイは手を伸ばす。一片では感じ取れなかったが、次々と舞い落ちてくるそれが顔や首に触れ冷たさを感じさせ、紙に雨粒とは違う湿りをつくる様を見て、驚きと畏敬の念を込めて一つだけの事実を語る。
「雪だ」
 雪の降ることがないはずのバスラバロド大砂漠。
 そこに高き山々に降る青き雪が、風に吹かれた紅葉のように、散りゆく花弁のように風に乗り踊りながら、

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「雪? 白いんじゃないの?」
「汚れのない雪は、青い。言い伝えでは処女の涙を雪に変えると青くなるって言われているな。実際青い雪が降る場所もある、かなりの高原地だけだがな」
 綺麗といえば綺麗だと、ドロテアは笑う
「いつか、見に連れて行ってくれるかしら?」
「約束しよう」

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 それは降っていたのではない。
「青い……雪」
 マリアの涙を風に乗せ、ドロテアが見せ果たした約束。
 頬を伝う涙は消え、それは全て雪となり血と砂の中ではなく空へと消えた。一時の雪の美しさと冷たさに気を取られていた人々は、再び大地に自分の意識を戻したとき、棺が消え去っていることに気付いた。
「何時の間に」
 グレイが持っていた湿った筈の紙は元通りで、湿気特有の撓みも重みも消えている。
 なにもかもが幻のようであった――とは、誰も言えなかった。
 美しく降り消えたのは青き雪で、いつしか消え去ったのは勇者の棺。
 アンデッドは焼かれ消えたが血は残り、ただの死体は、人も馬も混ざるようにして残っている。

 ドロテアが”無かった事”にしたのは勇者であり、ドロテアが残した物は”人間”

 夢や伝説、そして過去に微睡む時代は終わった。
 それに人々が気付くのはもっと後だが、既に気付いた者も僅かだがいる。
 ヒルデガルドは亜麻色の髪を隠しているクーブルシェフを片手でやや乱暴に脱ぐ。大きな一本の三つ編みにされていた髪を露わになった。
 その少し癖のある亜麻色の髪が影を作る横顔は、ドロテアに似ていた。だが似ているだけであって、決して重ならない。
 ヒルデガルドは首から下げている”宗派”を表すエトワールを抜き取り、砂と空の狭間を斬るように払ってからセツの元へとやってきた。
「最高枢機卿閣下」
「どうした? ヒルデガルド」
 風に煽られる封印紙の上で膝を折りヒルデガルドはエトワールを差し出す。
「本日をもって僧籍をお返しします」
「何をする気だ?」
「ここに国を作ります。この土地で聖職者は国を興してはならないと決められているので、聖職者の道を捨てさせていただきます」
 その時のヒルデガルドの表情は素晴らしかったと言われている。
 自信に満ちているが、自信以外はなかったと。高慢さも打算もなく、なにゆえに国を作るのか? どんな国を作るのか? 言われたセツや側で見ていたパネが心躍り、同時に恐怖するその表情。
 底知れぬものでありながら、信頼できると思わしめ、だが確実に敵になると。
 セツは様々な人々の表情を見た事がある。
 殺人鬼の表情も、矮小な人間の言葉も、高慢な物言いも、卑屈な目線も、清貧に生きる者たちの祈りも、幼子の純粋な視線、その他多くの表情が世界には存在している。だが一から国を造ると宣言する女の顔を見たのはこの時が最初で最後。
 それは無数の記憶を持つオーヴァートにとっても初めて観た光景。人間が人間の意思で国を造ると言ったことは今までなかった。いつも皇帝の意志であり、配下たちの手により人々は導かれていた。
 だがヒルデガルドは自らの意志だけで決めた。国家建設を決意するまでの道のりに、皇帝の意思や、彼らの家臣が興した宗教の教えもあったが、姉と同じくそれらと別れ歩き出した。その決断は姉であるドロテアと志を同じくしているのだが、歩む道がまるで違う。
「聖職者を辞めるのには条件がある」
 セツは確信した。
 ヒルデガルドは必ず国を作り、その国の初代代表者になるだろうと。
「何でしょうか?」
「お前の作る国の国教をエド正教にしろ」
「お断りします。私が此処に国を作る最大の理由は、住む全ての人に信仰の自由を与えることが目的です。エド正教は認めます、ですが国教にはなりません」
 ヒルデガルドの目指す物はもう決まっていた。
 セツがイシリア教国を滅ぼし、ギュレネイス皇国に戦いを挑むのならば、戦いを拒む”かつての同胞”エド正教徒が存在することを知っているから、ヒルデガルドが造らなくてはならないのだ。
 セツは持っていたガーゼを捨て、鏡をたたき割る。
 割れた音は交渉の決裂を喜んでいるようでもあった。
「良かろう。本日をもってお前はエド正教徒ではあるが、エド正教の階級ある聖職者ではなくなった」

 停滞していた世界は動き出す――

「よぉし、頑張るぞぉ!」
 そう言ってヒルデガルドは腕まくりをする。腕をまくった所で何が出来るわけでもないのだが心意気とはそう言う物だ。
 周囲は呆然としていて、その行動を見ていても何の違和感を覚えなかった。
「よろしいのですか? セツ最高枢機卿」
 パネた尋ねると、セツは表情を緩めて語る。
「あの女が自分よりも強いと言っていた女が本気になったのだ。止められるわけないだろう。下手に国に残してエド法国自体を解体されては敵わんからな」
「……」
「神に跪く俺と、神を従えた女か。全てを破壊し尽くすことと、一から作りあげること、どちらが上かなどは解らんが。確かに一から作りあげることは誰にでもできる、だが手を出すものは滅多にいない。かすめ取るほうが楽だからだ。全てを破壊し尽くすことができる人間は聞いたことはない、あの女が初めてだろうな」
 ヒルデガルドに不安は微塵もなかった。自力で神になった姉を見た彼女にとって、国を作るのはそれ程難しい物だとは思えない。


 たった一人で世界を破壊”する”女と、これから大勢の人々の力を集めて世界を造る女。


 砂漠の風に舞う亜麻色の長い髪。その隙間からのぞく自信に満ちた表情。透き通る程に肌は白く、鳶色の瞳は何もかもが失われた砂の大地に希望を重ね見る。そんなヒルデガルドに人々はドロテアを重ね見る。血に汚れた僧衣は黒く、癖のある髪をかき上げる仕草はどこかドロテアを思わせた。
「あのさ」
「どうしました? ビシュアさん」
「俺のこと雇わないか?」
「雇うって? 盗賊として雇えと?」
 仕事は思いつきませんよ、と本気で言い返すヒルデガルドに、ビシュアは自分を必死に売り込む。
「盗賊から足洗って堅気に戻ろうかなと。俺はこれでも石屋の息子だ。ガキの頃から仕事手伝わされてたから、石の切り出しとかは得意だぜ。きつい仕事だってことは知ってるが、逃げ出さないって約束はする」
 ”いつか”は盗賊家業から足を洗おうと思ってはいたビシュアだが、その”いつか”を見つけられないでいた。その”いつか”が今だと確信し、人生をかけることにした。
「逃げ出すのは構わないんですが、しばらくの間は生活費は自分持ちになりますけれど、大丈夫ですか?」
「ま、まあ……何とかなるんじゃねえかなあ。あんたの姉さんから財産もらったしな」
「そうでしたね」
「あんた自身、金持ってるのか?」
「あまり気にしてません。どうにかなるでしょう」
「どうにかって……」

 ヒルデガルドの宣言を聞いていたイリーナとザイツも、互いに思うところがあった。
「あのお二人はもう……帰って来ないんだろうね」
 ドロテア=ヴィル=ランシェ。エルスト=ビルトニア。
 死んではいないのに、もう世界には存在しない二人。美しいマリアが空を見上げる姿に、喉にまるで軽い火傷をしたような痛みを感じながらザイツは答える。
「そうだなあ……帰ろうか」
「何処へ?」
「クナ枢機卿閣下にご報告に上がろう。その後、俺は故郷に帰って父さんを説得してみる」
「何の説得?」
「ここに国作るなら、馬も必要だろ。それに野生化してるに違いない、トルトリア馬も捜してみたいし」
 仕事の場所をここに移すようにザイツは両親を説得するつもりでいた。
「生き延びてる馬いるかな」
「いると思うよ」
「……でも報告に上がってからだね」
「そうだな。でも……クナ枢機卿閣下はご存じなんじゃないのかな……何となくさ、パーパピルスの国王も法王猊下も最後のお別れを……感じてた気がする。馬達もさ」
「本当は私達も気付いてたのかもしれない。ただ……残念だった。会えなくて……世界からいなくなってしまった事が寂しい」
「あの方が一番寂しいんじゃないのかなあ」

 空を見上げ、ドロテアとの別れを惜しむマリアではなく、憎憎しげに下唇を噛みレイピアを持つ手甲を睨むオーヴァート。

「死にそびれた」
「そのようだな、オーヴァート」
「あの娘、最後の最後まで……」
「大寵妃だったろう。最後の最後まで、紛うことなく大寵妃だったろう?」
 ヤロスラフは言いながら、指を組みドロテアとの一時の別れを惜しんでいるマリアを眺める。
「感謝しているぞ、オーヴァート」
「何を?」
「お前が感じているだろう寂寥感と辛さ、それらを私が感じることはない。目の前にマリアが存在している。もしもドロテアのままであったなら、私は今、耐え難い哀しみにこの身を押し潰されていただろう」
「憎たらしいな、選帝侯め」
「ああ。最後までお前に逆らうさ、皇帝」

 オーヴァートは片手で顔を隠し、指の隙間から手甲を観る。どれ程観ようとも、もうそこにドロテアの姿を観ることはできない。

「マルゲリーアは死んだ」
 オーヴァートを慕い続けたマルゲリーア、
「そうか。最後のゴールフェンも逝ったか」
 皇帝に忠誠を誓い続けたゴールフェン選帝侯が居なくなり、
「清々した」
「幸せだったな」
 国を持たぬ皇帝と、たった一人の家臣となった。二十年以上も滑稽だと互いに思いながら、ここまで来た。この先もう暫く、二人は国を持たぬ皇帝と、たった一人の家臣として生きていく。
「例え俺が死んでも」
「お前が死んでも」

―― 心のうちに、ドロテアがいる

 それは安らぎではなく、永遠に痛みを与える存在。”苦しいのなら忘れろよ”と、忘れることができぬオーヴァートに向かってドロテアは言うのだ。知りながら。

「……戻るぞ、ヤロスラフ」
「了解した」
 そして二人は、息を切らしながらやっと辿り着いたミゼーヌを向く。
「オーヴァート様」
「どうした? ミゼーヌ」
「お話があるので……耳を貸していただけませんでしょうか?」
「秘密の話か?」
「はい」

「     」

「……」
 漏れ聞こえたヤロスラフは目を瞑る。
 彼は人間ではないので、知ったところで世界は変わらない。
「間違いないでしょうか?」
 心身共に成長したミゼーヌの視線が、三人が初めて会った頃の物に戻る。不安げながら勇気を持った視線。
「間違いない、お前で二人目だ」
「そうですか……最後の一人はオーヴァート様が亡くなったら告げに来るそうです。だから……」

―― 死ぬまで生き続けろ。決して自ら死ぬな、最後まで生き通せ ――

「そのように伝えろと言われました」
「そうか……」
「オーヴァート様」
 言い終えたミゼーヌは肩の荷が下りたことで一息入れ、居ずまいを正す。
「どうした? ミゼーヌ」
「おかえりなさい。ご無事で何よりです。オーヴァート様」
 深々と頭を下げたミゼーヌに、オーヴァートは今まで感じたことがない、そして伝えられたことのない”もの”を探し当てた。それは肉親への親愛の情で、小さくだが震えるほどの喜び。それを露わにするのを躊躇い、
「そっか。さ、帰ろうか、ミゼーヌ」
 頭を二度ほど雑に撫で、背を向けて歩き出す。
「……はい!」
 頭を撫でられたことに驚きつつ、ミゼーヌはその背を追った。
 最後の皇帝と人類は「養父と養子」のままで、本当の親子になることはなかった。彼らは本当の親子になってはならない存在。

**********


 マシューナル王国に残ったドロテアの家は、オーヴァートがマシューナル王国を去る十一年後に消されるまで、店のドアに”店主外出中”のプレートがかけられたまま存在していた。
 ”現れた”という噂が流れ、実際に”帰ってきた”時もあったが、マシューナル王国に住んでいる者たちがドロテアの姿を見ることはなかった。
 家に明かりが灯ることはなく、家も主の帰宅を待ってはいなかった。その家は消えることを待ち望み続けていた。


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