ビルトニアの女
ビルトニアの女【2】
 ドロテアたちがエヴィラケルヴィスから去ってゆく姿をミロは城のバルコニーから見つめている。
 荷物を何一つ持っていないドロテアが最後尾についていて、城門の前で立ち止まる。進んでゆく前の者達もドロテアに声をかけない。
 ミロは振り返って欲しいと願いながら――振り返る様な女じゃない――と冷静なもう一人の自分が語りかけてくる。 
「此処から城門がよく見えるな」
「バダッシュ……」
「綺麗な女だったよ」
 バダッシュも解っている、ドロテアはエルランシェに行ったが最後、戻ってくることはないことを。この潮風の薫るミロが治めるパーパピルス王国だけではなく《どこにも》戻って来ることはないことを知りながら見送るのだ。
「言われなくても解っている。本当に本当に」
 これが「あの日」あったら自分はどうしただろうか? ミロは振り返らないドロテアを見つめながら考える。
―― 昔のドロテアは振り返ったのだろうか ――
 もしも振り返っていたなら、振り返った姿を見ることが出来たなら、自分はこの国を捨てて走り出していただろうとも。
 今も本当は走り出し、その腕を掴んで止めたかった。そうしないのは、自分にはそんなことができきないと知ってしまった為。
 今のドロテアは簡単に自分を振り切ることが出来る。
 他人になんと言われようと、ミロはドロテアを永遠に諦めるつもりはない。

 行動に移して《諦める》よりも、何もしないで《諦めきれない》道を選んだ。

 無様だと、情けないと蔑まれるとしても、ミロはその道を選ぶ。
 風が一陣通り抜け、ドロテアの短い髪をなで上げる。ふわりと舞った風をはらむトルトリアの亜麻色の髪は無言のまま、はっきりと別れを告げた。

 ドロテアは振り返ることなく城門を出て行った。城門はドロテアが見えなくなるまで開かれていた。

「さようなら、ドロテア」

 それは優しさでもなく、強さでもなく、残酷さでもなく。最後までドロテアであっただけのこと。

**********


―― 人生の転機はいつも砂の上だ ―― ドロテアは見上げた月の大きさと、姿の見えない虫の鳴き声、銀の大砂漠の夜空を見上げながら、砂に還るだろう赤い血を思い出していた。

**********


 魔帝の元へと向かう面々の中には、
「これが砂漠なんだね、ザイツ!」
「すごいなあ、イリーナ」
 戦いに関しては全く役に立たなさそうな面々も混ざっていたが、ドロテアに言わせれば「ほぼ全員」役に立たないので、同行を拒否はしなかった。もちろん”最低限度は守る姿勢を見せるが、あくまでも見せるだからな”とは告げた。

 ドロテアは自ら死地へと向かっていた。

 自分が死ぬのではないが、ドロテア=ヴィル=ランシェという存在はこの地上から消える。
 人間であった自分が消えること、死ではない死を迎えるために。
 誰にも理解できない感情と、自分ですら持て余す様々な思いを胸に秘めて。冷徹で判断力に優れていると言われたドロテアの頭脳だったが、何一つ解らないまま、いまだ健在な大陸行路をひたすら進み、【終焉の地】であるエルランシェを目指した。
 続く夜は銀で、昼間は黄金に輝く砂漠を進み、その廃墟が姿を現し続いて周囲に点在する「灰色」が見え始める。
「あれは?」
「派兵された兵士たちの宿営地だろうな。俺は遅れると容赦しねえと思われてるからな。遅れなくても、容赦しねえけどよ」
 胸の辺りの服を摘み、空気を入れるように動かす。
 エルランシェに近付くほどにテントの数は増え、その脇を通り抜け、ドロテアたちは滅びの都、異郷エルランシェに到着した。
「本当に時が止まっているのね」
 ここを去った時とまったく変わらない風景に、マリアは息を飲んだ。
 懐かしさが募る《変化がない》ではなく、完結してしまった姿。”終わり”というものを、この時マリアは初めて肌で感じた。

―― 深い思い入れのない自分ですら感じるのだから……ドロテアは復讐しに戻って来た時、どれほ絶望的な終わりを感じたのだろう ――

 マリアは隣に立っていたドロテアの肩に額を乗せた。なにも言うことはできなかったが、ドロテアはなんとなく理解して慰めるかのように背中を優しく叩いた。
 マリアは自分を慰めるドロテアの手と、あと半日で【しばし、だが永き別れ】だと思いだし、ますます頭を上げられなくなった。
 ドロテアは向かう途中、はっきりとヒルダとマリアに自分の考えを説明した。

**********


―― 俺は魔帝を倒したら、そのまま旅に出る。この世界ではない何処かへ。最後の時は会いに来るつもりだ。それと、どうしようもなくなった時は”呼べ”必ず助けに来てやる ――

「引き留めるっていう話じゃないわよね」
 一緒にいたいと思うマリアだが、引き留めはしなかった。引き留めたら行くのを少し待ってくれるとは思ったが、そう思えるからこそ余計に声をかけられなかった。
「元気で。そしてまた会える時まで、楽しみにして生きていますので」
 ヒルダは深く聞きはしなかった。そしてドロテアも、ヒルダにはなにも言わなかった。ヒルダとマリアが最後に聞いたことは、
「エルストは持って行くの?」
「エルストさんはどうなるんですか? 私はあまり引き取りたくはありません」
 エルストの処遇。
「大丈夫だ。あれはちゃんと連れて行く。付いて来るって言ってるしよ」
「それなら良いわね」
「安心ですね」
 二人もエルストがドロテアと一緒に行くことは解っていたが、聞いてみた……というのが本当の所だった。ちなみにエルストに「ドロテアを、姉さんをよろしく」とは言っていない。

 そのエルストはというと、この最後の旅路も何時もと変わらず。夜は酒を飲み、昼間はやる気のなさを隠しはしない。いつも通りの姿は褒められたものではないが退廃的ではない。死のうとしている訳ではなく、生きようとしている訳でもない。
 周囲には死の恐怖から酒を飲み酔って戦おうとしている兵士がいる。その正反対の位置に立っているのがクラウス。真面目な男は酒の力を借りて戦争に赴こうとしている者たちに反感を覚えていた。
 エルストはその酒の力を借りて戦場に立つ者たちとも、それを認めず自らの罪を自ら受け止めようとするクラウスとも違う所にいる。
 それは何処なのか? 答えは《エルスト》でしかない。エルストという男はそういう男であり、それを表す言葉はなかった。

**********


 ドロテアは【しばし、だが永き別れ】を告げた時のやり取りを思いだし、マリアの頭を肩に乗せ息を吹き返すことのない街を見渡す。自らの手で屠ったウィンドドラゴンの、まだ腐敗の始まっていない死体も目を細めて「あれはまだ、使えるな」と値踏みしていた。
 ミゼーヌの指揮の下、シュスラ=トルトリアの棺が立つ近くに魔方陣が描かれてゆく。グレイもイリーナもザイツもビシュアも”戦えないので”と率先してその手伝いをする。
 セツはパネと率いられている聖騎士や術者に号令をかけ、同じようにクラウスが派遣された部下と話合う。
 ギュレネイス皇国側は兵士を傭兵で補い、クラウスの部下にあたる警備隊員を十名ほどを責任者として派遣してきた。チトーは当初、指揮をクラウスに執らせるつもりだったが「勇者とともに魔帝と相まみえたい。ドロテア卿より許可はいただきました」との申し出を聞き、クラウスを喜んで送り出した。
 送り出されたクラウスはイシリア教国のことも気になるが、ギュレネイス皇国のことも気になる……といった、どっちつかずの状態になりかけたが、最終的に「イシリア教国」の寿命を延ばす道を選んだ。
 この戦いの後すぐにイシリア教国の命数が尽きてしまうと、己の感情が理解できない ―― ということを、クラウス本人が納得したためだ。
 他の国からも派兵されてきた兵士たち。その中のとある国の兵士たちが「遊んで」いた。
 遊んでいること自体にドロテアは興味はない。ただ遊びに使っている道具が問題だった。
「マリア、ちょっと」
 マリアの肩を押し頭を上げてもらい体を離して、ドロテアは遊んでいる兵士たちに近付く。
 彼らは「悪い」ことをしているという認識はない。だからその壷を蹴っていたのだ。ドロテアがここに置いていったエドウィンの「イシリア教徒」の壷を。
 ”改宗は上手くいってるみてえだな”思いながらドロテアは両手で二名のセンド・バシリア兵士の襟首を背後から掴み、引き摺り倒した。
 突然のことに驚く兵士たちを無視し、蹴られひびの入った玄色の壷の口に手をつっこみ、担ぎ上げるようにしてその場から遠ざかる。
 一連の行動に説明などない。
 静まり輪のように静けさが周囲に広がっていった。グレイはドロテアの担いだ壷の紋を見て誰なのか解り、大っぴらではないが生まれてから故郷を出るまで、不真面目ながらも捧げていたイシリア教徒の祈りを送った。
 クラウスもその紋を見て、エドウィンだと解ったが、さすがに祈ることはできなかった。
 水を打ったような静けに背を向けて歩き続けるドロテアは、ある場所へと向かっていた。その途中、
「俺に”殺す理由”を作るなよ」
 その壷にそれだけ言い、歩き続けた。
 この壷がエドウィンであることは、すぐに知られるだろう。そうなった時、ドロテアの行為には理由が――エドウィンの遺灰が収められていた壷を蹴っていた――そんな理由が付いてしまう。ドロテアはそれを避けたかった。
 兵士を殺すことに理由など欲しくはない。むしろ「在っては」いけないのだ。
 兵士たちが陣取っている広場から遠ざかり、
「壊れかかっていても、焚きつけくらいにはなるからな」
 ネテルティの自宅へで、ヒルダにより封じ込められていた愛人とネテルティの夫の霊を捕まえる。
 永遠に繰り返される恐怖に怯えた霊の顔を破壊するように握る。

「さあ、最後まで苦しんでいけ」

 二つの霊体が閉じ込められていた家を吹き飛ばし、ドロテアは飛び上がり見下ろす。その視線の先にいるのは、自ら息の根を止めたウィンドドラゴンの、そのままの姿。


「手前も邪魔だ、ウィンドドラゴン。ここにはもう、トルトリアを思い起こさせるものは要らねえ」


「倒すところ見てたが、こうやって死体を前にしても実感わかないもんだな」
 ビシュアはあの時を思い出し、イリーナやザイツ、棺近くの魔方陣を書き終えたミゼーヌたちにドロテアがウィンドドラゴンを倒す瞬間を語ったが、どうしてもそれが《現実のこと》だとはいまでも思えない。
 ドロテアの強さを目の当たりにしたのだが、その強さがビシュアが想像できる域を超えていたので、自分の中で現実にならない。
 あれは夢だったと言われたほうが楽になれるくらいに。
 話を聞いていた方も、一枚の鱗が自分たちの胴体ほどもあるドラゴンが、一人の人間に殺されたなどと実力は知っていても理解ができない。
「でも随分と前に倒したんですよね」
「そうだ」
「全然腐ってないように見える」
 ザイツは固くまだ輝きのあるウィンドドラゴンの鱗を軽く叩く。
 ビシュアも鼻の辺りの手をおき、少しばかり意識して空気を吸い込んでみるが、腐敗独特の危険を訴えるような匂いはなかった。
「腐敗速度が違うんですよ」
 ビシュアたちには驚きであったが、ミゼーヌは疑問に感じておらず、
「腐敗……速度?」
 普通の人の考え方に驚きながら、説明をする。
「死ねば腐るのはご存じでしょうが”物”により腐る速さが違うんです。腐敗させる微生物も普通の生物相手なら死亡後すぐに仕事ができますが、魔物になると生命活動停止後、肉に含まれている酵素が出て死肉を変質させてくれないと、微生物も腐敗させることはできないのです。皆さんの目に触れるような魔物は人間よりも少し遅いくらいですが、ドラゴンほどになると死肉の塊と化してから四千年程度経過しないと、通常の腐敗が開始しないと思われます」
「へ、へえ……」
「四千年?」
「でもドラゴンを倒したヤツはドロテアだけだって聞いたが……なんで解るんだ」
「もちろんドラゴンを倒した人はドロテア様以外いませんし、死体が残っているドラゴンもこれしかありません、だから計算です。今まで集めた魔物たちを分類して、腐敗速度を割り出した形です。正しいかどうかは解りません」
「学問ってやつか」
「普通の人からすると、なんの意味があるのか解らないことばかり調べているように見えるでしょうが。今回の場合はドラゴンの死体が腐敗しないことを無くならないことに恐怖を感じたり、これを商売道具として怪しげな商品を売りつけて、大金を稼ごうととすることを説明で阻止することができます。不死の薬などは、この魔物の腐敗速度の遅さに目を付けた山師が好む仕事です。飲んだ所で良いことは一切ありません。私たちとは元々体の構成が違うこともありますが、腐敗が遅くなっても嬉しいことはなにもないでしょう」
「じゃあ、このドラゴンの死体も”がくじゅつてきかち”とかになるのか?」
「そうですね、ザイツさん。でも……これは失われるでしょう。倒した人が要らないと決めたら、私たちには止める術はありませんから」
 ドロテアが過去に繋がる特殊な死体を残して去るとはミゼーヌも思いはしない。
 白い砂を浴びた輝く鱗を持ったウィンドドラゴン。
 かなり離れたところから全体像をスケッチしているグレイを見て、残るのが「グレイの絵」だけであることを感じながら答える。
「そうなのか……まあ、あの人が倒したもんだもんな」
「倒した時も驚いたが、これを消し去る時も俺は驚くんだろうな。凄いもんだな、ドロテアは」

 ”焚きつけにする”霊二体を持って戻って来たドロテアは、ウィンドドラゴンの死体を、手早いが完璧にスケッチしているグレイに向かってある物を投げた。
「グレイ」
「はい! なんすか?」
「受け取れ」
「うわっ!」
 ドロテアが放り投げたものは、エドウィンの骨壷。スケッチブックを捨てて、両手で地面すれすれでグレイは受け止めた。
「イシリアの骨壷に使われている玄という色は”始まりの色”って意味だそうだ。俺には意味は解らねえが、お前なら解るんじゃねえのか? グレイ」
 黄と赤を微量に含んだ黒い壷。
「……」
「じゃあな、グレイ」
 ドロテアは壷をそのままにして立ち去った。

 エドウィンの骨壷を残されたグレイは、絵の具の水入れとして使った。イシリア教の骨壷で筆を洗うことを非難するものは誰もいなかった。
 エドウィンの骨壷は”画聖の水入れ”となり、その効果にあやかろうとして、刻まれていたシンボルは高級画材の印へと意味を変えていった。
 消えてゆく宗教のシンボルを別の形で残そうと、イシリア生まれのグレイにできたただ一つのこと。”発色が良くなる気がする”と、盗賊時代は下手すぎて嘘をつくなと言われたグレイが、唯一突き通し本当にした《嘘》

―― 本当になっちまったんだから、やっぱりお前は嘘が苦手だったんだろうな ――

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