ビルトニアの女
ビルトニアの女【1】
 ドロテアはゲルトルートの死による議定書の変更の知らせを興味なく眺めていた。ゲルトルートの死によって世界からトルトリア王国は消えた。

 二十年以上前に滅んだ国が『消える』

 それに何の意味があるのだろうか? 多くの人々にとって通り過ぎてゆくだけの過去の出来事。
「わざわざありがとうよ、ミゼーヌ」
 差し替え分を持って来てくれたミゼーヌに声を掛けて、ドロテアは再度その書類を読む。
 《滅ぶこと》と《失われること》は人によって大きく意味が違う。
 ドロテアにとって、滅んだ故郷が失われる事は大きい。自らの中にあった最初の世界が霧散した。
 滅ぼそうとは思っていたが、ゲルトルートまで消そうとは「ドロテアは」思っていなかった。
 最早本当に自分の思い出だけの存在となり、その国の歴史は砂の中に埋もれてゆくだろうことを想うだけ。
「ドロテア様……私はこれで」
 議定書訂正を手伝ったミゼーヌだが、ミゼーヌにとってトルトリアは自分が生まれた時から滅んでいた国であり、その存在を知った時には議定書で定められていた場所。
 ミゼーヌにとってその国は既に歴史の中にあり、砂にゆっくりと浸食されている場所であった。
「ありがとよ」
 世界は”動き”出した。
 抑え付けられていた領土欲は溢れ出し、魔王や魔帝という超常的な存在を前に仮初めながら結んだ同盟はここで終わる。

ビルトニアの女


 俺は今世界にただ一人だ。
 世界の全てが聞こえる。世界の何処で誰が息づき、泣き、苦しみ、死にゆく、その全てが容易に理解できる。
 人だけじゃない虫の羽音、鳥の羽ばたき、花の開く音、魚の呼吸。
 それらが全て理解できる。
 聞こえる訳じゃねえ……聞こえる訳がねえ。
 何も聞こえていないのに、世界の全てが理解できる。知識じゃねえ、記憶でもねえ、あるとしたら空白だ。
 空白の中で全てが理解できる。
 空白だからこそ理解できるのか? まだこの力を持って僅かな俺には”これ”がどんな物なのか、理解する経験がない。
 だが俺は何を経験したら、理解出来るようになるのだろうか?
 経験などしなくても理解出来ているじゃないか。
 
 世界の全てが解る。

 それを説明するとしたら、人として生きた知識を持って、この世界を持たない相手に語る時 ”聞こえる” としか表現できねえ。
 全てが聞こえるが、全てが静寂だ。
 静謐なる音が俺の中を流れる。あまりにも素っ気なく、あまりにも何も無く。

 そうだ、俺の血の中に全てが流れているかのようだ。

 この体の内側に流れ込み、蓄積されてゆく知識と世界。
 狂うこともなく淡々と積み重なり、そして俺に支配される。これが神の力なのだとしたら、随分とつまらねえものだ。
 世界をいとも容易く治めていたフェールセンはこんな感じなんだろうか?
 身に過ぎたる力じゃねえ、俺はこれを使える。
 

 力を持てば持つほどに世界は狭まる


 この世界は俺にとってはとてつもなく広かった。
 幼い頃出てはいけないと言われた城門、その扉の開いた先にあったバスラバロド大砂漠。
 その頃の俺は世界は全て砂漠であり、その広さは無限だった。
 故郷を失って世界を歩き回る。俺にとって世界は無限ではなくなったが、制限はなかった。
 世界は限られているが一人で生きてゆくには、あまりにも大きかった。
 世界の片鱗に触れられるかどうか? それが人の歩む道なんだと思う。俺は人の歩く道から随分と逸れた。

 自覚はしていた。

 オーヴァート=フェールセンという男に会う為に、幼い頃の無限の世界だった大砂漠を一人で歩き抜ける時、俺は違う無限の向かう道に足を踏み入れていた。
 魔帝イングヴァールが辿りたかった道を俺は歩いていたんだ。

 その時は自覚なんざねえ。ただ前へ前へと歩く、その途中何度も傷ついたが、傷ついた事を理由に引き返す気にはならなかった。
 一息ついた時に、道を間違っている事に気付いた。俺の目の前に、俺が生きるべき世界よりも大きな世界が広がり始めた。

 魅力的とかそう言うもんじゃねえ、ただ……広い。

 俺は幼い頃にまた戻る。俺は誰も所持したことのない力を持って、誰も知らない世界に立つ。
 俺が望んだ世界であり、俺の望まなかった世界。
 力を欲したが、欲した力を使いたかったのは、幼い頃に見た大砂漠の中にある街の忘れ得ない記憶。
 だがいつの間にかこの力は、大砂漠の街の頭上に現れる異世界を破壊する力になった。

 俺がそうした。俺が決めたと。

 俺の目の前にある世界はバスラバロド大砂漠ではなくなった。ここにある無限の世界、そこに俺は向かう。その世界に向かう為にも、俺はもう一度バスラバロド大砂漠を抜け、かつて自分の全てだったエルランシェに戻る。


「いくか、旧トルトリア……いや、異郷エルランシェに」


 最後に別れを告げてゆくよ。俺はあの銀の砂漠が好きだった。

**********


 俺はパーパピルス国王の居城に立ち入る日が来るとは思っていなかった。
 外から見るだけで終わる城だと思っていた。
「ドロテア」
「何だ? ミロ」
 海のそばにある城。大きな窓から見下ろせる海と、絶え間なく聞こえてくる波の音。
「あの日はさ、見送るというか……お前がいなくなるなんて想像もしていなかったから……ショックだったんだ」

 何故あの時俺は、あの決断をしたのか?

「そうかい」
「俺はこの国の国王だ」
「そうだな」
「だから俺は此処に残って人々を守るが、これだけは覚えておいてくれ」
「何だよ」
「俺が国王として国王であり続けるのはお前がいるからだ。お前がいなくなったら、俺は多分国王を辞める。だから……」
 お前、俺の性格知ってるだろうが。そう言ったところで、俺が決断を変えるような女かよ。
「じゃあ、いなくなった方が良いな」
 自分の感情を表現するのに可笑しい言い草だが、もう思い出すどころか、想像もつかねえんだが、あの日あの時ミロが大切だった。
 尋ねられると答え辛ぇが、ミロが好きだった。随分と淡い思い出になっちまった事に奇妙な感覚を覚える。
「……」
「お前も俺も、もう子供じゃねえし、大人にしてやられる程間抜けでもねえ。学者目指してた世間知らずの餓鬼共は此処にはいない」

 俺はどうしてミロを玉座に就けておこうとしたんだろうか? 

「俺は簡単に捨てるぞ」
 玉座を追われたら死ぬ、ただそれだけの理由しか見当たらない。
 大きな理由かもしれないが……俺にそれを決める権利はあったんだろうか? 俺はパーパピルス王国に深く関わりながら、それに深く関係している男を捨てた。
 俺は戻るつもりがないのなら、ミロの生死にもパーパピルスとエルセンの争いにも関わるべきじゃなかったんだ。
 皇帝の世界への不干渉……それを俺はねじ曲げた。
「捨てたいのなら捨てろよ」
 俺もミロもその頃は、国には王が居て人々には争い無く暮らさせてやることが大事だと考えていたような気がする。
「……さようなら。ずっと好きだった、この先も好きだ。永遠に……永遠に愛している」
 世界のことをよく知らなかった。
 そうだな、世の中に良い王様が必要だと真面目に思える程馬鹿だった。
 世界に王は絶対に必要じゃない。
 王政じゃなくたって良い。
 優秀な人材に位を譲ってやる必要なんざねえよ。
 王政を止め違う社会制度を敷き、自らがと支配者が現れるのを待てば良い。
 その為に流れる血を抑えることを理由に、王政を持って優秀な人材に王位を継がせるというのなら、それは夢物語だ。
 玉座を血以外で渡す時、それは血を持って譲位される。エド法国が良い例だ。最高の力を持っていたって人は簡単には認めない。
 世界を譲渡するなら、優秀な人材を添えるのではなく、周囲を《まとも》にしなけりゃならない。
 優秀な人材なんて割と何処にでも居るんだよ。それが位に就けないだけであって。その《まとも》ってのは、嫉妬心もなく私心なく争わず……あり得ねぇな。


 万人に良い王様なんざ存在しねえ。あるのは大多数にとって悪くない王。


 大多数にとって悪くない王、それを演じるか、根っからそうなのか? ミロは前者だった。
 支配の評判を聞いて、それを感じた。そうしたのは俺。
「じゃあな」
 俺はミロがどんな王になるのか、そこまでは考えていなかった。
 ミロが一人で辿り着ける王の姿、それが見えなかった。ミロも自分が玉座に就きどんな王になるのか、はっきりとわからなかっただろう。

 国を統治する、それは解った。

 二人とも頭でっかちだったからな。国をある程度は統治できたが、統治しているミロはミロのまま。
 ミロは統治者にはなれたが、王にはなれなかった。王と統治者はまた別物だ。
 パーパピルス王国を崩壊させて新しい体制の支配者にしていたら良かったんだろうよ。
 どうせ不干渉をねじ曲げるのなら、オーヴァートの力を持ってパーパピルスの王政を廃止すりゃあ良かったんだ。
 そこまで考えが回らなかった……俺はあの頃、間違いなく世界に縛られていた。
 無秩序に生きているつもりでも、世界の枠を、檻を、柵を破壊することはできなかった。

 俺はお前を玉座において去る

 だからお前も好きにしろ。卑怯なのは良くわかる、だが俺はお前の行く先を決めることはしない。
 あの日お前を玉座に縛り付けた俺は消える。だから後は好きにしろ。

 お前が評価を地に落とす行動を取るとしても、俺は止めない。
 俺を永遠に愛していると言ったその瞳に嘘がないのだとしたら、やはり俺はお前の前から消え去るべきだ。
 俺はお前の傍には戻らない。お前を愛する事はない。この霧散した愛を集めることなど、神の力を持ってしても不可能。
 お前はこの世界から居なくなる事は出来ないから俺が去る。お前は俺の居ない世界で自由になれ。

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