ビルトニアの女
レクトリトアード【1】
 その日アレクサンドロス四世は、自らが乗る輿を法王庁の前に置かせ、祈りながら到着するのを待った。
 祈り続けるアレクサンドロス四世の背後にそびえる、白亜の権威。
 染み一つなく、傷一つないことで有名な、人類が建てた最大の建築物は、片面が大きく抉れている。
 その抉れは、街から離れた場所からでもはっきりと見る事ができた。
「壊れたままか」
 ドロテア達はエド法国首都へと入る前に、最後の休憩を取っていた。休憩の主な理由は、セツとクナの ”体裁” を整える事。
 国外へと出ていた枢機卿が、みすぼらしい格好で国に帰ってくることは好ましくない。
「そうだな」
「準備は出来たのか? セツ」
「もう二枚ほど着る」
「お出迎えに対する ”礼儀” も大変だな」
 先だってザイツとクラウスを使って、帰国の報告を届けていたので、当然ながら入り口から法王庁の前まで、聖職者達がセツとクナを出迎える。
 よって、それに見合った格好をして、戻らなければならない。
「鬱陶しいこと、この上ない」
 ミルトをいただき、聖職者とは思えない表情を浮かべる。
 欲にまみれた俗物などとは違うが、聖職者とは最も対照的な場所にいると思わせる雰囲気。
「そのツラ隠さねえのか?」
「必要は無い。それに、公衆の面前で顔を晒し、人々の前でアレクスに認めて貰わねば、俺は最高枢機卿セツとは誰も思わないだろう。そして一度顔を晒したら、後は隠す必要もない」
 セツはチラリと法王庁を見た後、少し離れた所でレクトリトアードをからかって遊んでいるオーヴァートを親指で指し、尋ねた。
「あの ”皇帝” でも棺を開けない理由。教えてくれとは言わないが、貴様は知っているのか?」
「知ってる」
「そうか」
 セツは最後の服に腕を通し、襟を直し、袖を直して深呼吸する。
「似合わねえ」
「誰よりも良く知っている」
 神に最も近付いた女の否定に、近い将来神の代理人になる男は刺繍で覆われた重い法衣を大きな音を立てて翻した。

**********

 大地にそびえる、不自然なまでの白さに塗り込められた城壁を通り抜け、出迎えの聖職者達の間を抜けて、ドロテア達は真っ直ぐに法王庁を目指した。
 先頭を歩く鋭い視線を隠さないセツ。次を歩くのは、これも顔の痣を隠さないクナ。そして 《真君》 とされる棺を担いだレイとヤロスラフ。その後ろに腕を組んだドロテアが続く。
 聖職者達の出迎えに驚かず、堂々と歩ける人達が多いなか、グレイとビシュアは ”完全に場違いです” と言った表情で、出迎えの人の中を死にそうな顔を下げ、これもまた白い彫刻の施されている白い舗装された道と己の靴を見ながら進んで行った。
 大人数の、それでいて静かな出迎えを抜けると、巨大な法王庁の前で正装をし、一人祈りながら待っていたアレクサンドロス四世の元へと辿り着く。全員が出迎えの列から抜け、アレクサンドロス四世の前に横並びになる。
 先に到着していたザイツとクラウスも合流し、アレクサンドロス四世と全員が一列に向かい合う。
 クナとヒルダとマリアが、膝をつき頭を下げる。
 続いてミロとバダッシュが、同じような行動を取る。馬車を引いているイリーナとザイツは、手綱を持っている必要があるので、頭を下げるだけ。
 オーヴァート、ヤロスラフは黙って見つめ、クラウスとエルストは膝をつくが頭は下げず、ミゼーヌは深々と礼をするが、膝はつかない。
 各々がその所属する 《立場》 に合った礼をとる。
「俺はどうしたらいい? ドロテア」
 一人で 《棺》 を担いでいるレクトリトアードの問いに、
「真君持って、頭下げるな」
 腕を組んだまま、頭を下げないドロテアが言うと、レクトリトアードは頷いた。
 ビシュアとグレイは、最初にとにかく土下座していた。悪事を生業としていた事よりも、その威圧に押されて、無意識のうちにとにかく頭を下げた。
 各自の 《挨拶》 の形が完成し、張り詰めた静けさが周囲を支配する。
 法衣の衣擦れの音が響き、白い石畳に硬い足音を響かせ、セツがアレクサンドロス四世の前へと向かう。
 袖の長い両腕を高らかに掲げ、大きな音を上げる。
 その腕とは正反対に、音もなく左膝を石畳につき、右膝は立てたまま、はね除けた形になっている長い袖が石畳に触れるまで祈る方法を下から見つる。
 袖が床に降り、掌を空に向け、親指、中指、人差し指だけを開き、中指の爪先だけを石畳に触れさせて、頭を下げセツは帰還の挨拶をはじめた。
「猊下にご心配をかけたこと、真に申し訳ございません。そのような私を気遣い、救出を手助けする者を送ってくださり……」
 ”手助け” の件で、ビシュアは何となく頭を上げてドロテアを見てしまった。
 そして盗賊の習性で周囲をも窺ってしまい、視線というか空気が泳いでるのを、見えない筈なのに見てしまい急いで頭を下げる。
 感じたのは自分だけかと思っていたビシュアだが、挨拶が終わり全員が立ち上がった時に、ヒルダがはっきりと言った。
「姉さん。誰もが姉さんが手助けとか、人助けとか信じてませんでしたね」
「俺だって助ける気はなかったぜ。勝手に助かりやがっただけだ」
 何の為に行ったんだろう? 思わずには居られなかったビシュアは、そんな所で気を取られていた自分を、心底怨んだ。
 ふと気付くと、両脇をギュレネイス警備隊長と、元部下に抑えられ、法王庁へと連行されることに。
「離してくれ! 用事があるときに、呼んでくれ! 最外層で待ってるから! 頼む! なんであんた達二人、こう言うときだけ息がぴったりなんだよ!」
 当然その叫びは、誰にも聞いて貰えぬまま、法王庁へと飲み込まれていった。

**********

「風通しの良い部屋だな」
 ドロテアは壁に穴が空いたままのセツの私室で、外を眺めていた。
 壁も壊れて誰も訪れない部屋の片隅に、小鳥が巣を作り、卵をあたためている。
「話とはなんだ?」
 部屋の主であるセツは、法王庁に戻って来てから一度も私室に足を運んでいなかったので、飾り棚に作られた巣に少しだけ視線を向けたが、大事ではないと直ぐにドロテアに早く話題に入れと促す。
 壁に空いた大穴から見える教会。
 以前セツの妹がいた教会だが、今は法王庁の中で厳重に警備されている。だが、セツ会っていない。
 セツ自身は妹が居ることを知らなかった訳でもなく、もう会わないと決めていたので、それを貫いているだけのことだが、周囲は少々困っていた。
 仕事が一段落したら会いに来るのではと思いつつ、そんな不確かなことを ”妹” に告げるわけにもいかず、然りとてセツに直接聞くのは躊躇う。
 ”天涯孤独で独り身” と言われていた権力者、その血縁が一人現れただけで、周囲は困惑する。取り入るべきか、排除するべきか? 自らの保身と栄転の為に、彼等は考える。
 ”これが息子で、同じ勇者だとしたら、どれ程のことになるのやら” ドロテアは息を吸い、斜め後ろで鳴く鳥たちの声を聞きながら、その美しい口元に皮肉ではない優美さを持った笑みを浮かべて、セツに尋ねた。
「手前以外で、手前以上に手前の女遊びの全てを知っているヤツって、いるか?」
 その美しい笑みから紡ぎ出されるには、少々どころではなく不似合いな言葉だが、ドロテアという女が語り、相手がセツという男であると、それは何ともない有り触れた会話のようでもある。
 周囲で会話を聞いているものが、卵をあたためている鳥の番だけということもあるが、どこか普通だった。
「エルーダの、お前ならエルーダがどこか解るだろう。そのエルーダの女将なら知っているだろうな」
 エド法国の最高級娼婦館。
 大勢の高位聖職者や、エド法国に足を運ぶ各国の貴族や有力者を顧客に持つ娼館。
「本当にその女は全て知っていやがるのか?」
 勝手に椅子に腰掛け、頭の上で手を組み、そして足をも組む。
 修復されていない壁の穴から風が通り抜け、亜麻色の髪を舞わせる。白い首と、顎の側面が露わになる。普段隠されている所が一瞬見えただけで美しく、男を惑わせるだろうことをセツも感じた。
「知っている。エルーダには ”控え” がある」
「控えってのは、女が誰と寝たか? を日付入りとかで記録してるのか?」
「そうだ」
「そりゃすげぇな。記録するとしても膨大だろうに。何処に保管してるのやら」
「客が失墜したら焼き捨てられ、下水に流される。記録が残り続けたら、それは成功者だ」
 絶対に残っているという自信のある男の表情に、ドロテアは頷き最後に念のために聞いた。
「エルーダの女将な。それはそうと、手前には淡い初恋や、切ない片思い、青臭い失敗に満ちた初めての性行為経験とかは無いのか?」
 舌を出し、巫山戯た表情を作るドロテア。それでも全く崩れない ”美” の極みである表情に驚きつつ、それを見事に覆い隠してセツは素っ気なく返す。
「ない。抱いたことのある女は、全て商売女だ。商人や権力を欲するものが持って来た ”素人” も抱いたことはあるが、それらは全てエルーダにくれてやった。その中でも極上のはエルーダに、それ以外は別の娼館へと売り飛ばされた。選別もエルーダの女将に任せている。俺は女を囲って、通うようことは好まない。好きなときに立ち寄って、去るほうが良い」
 神の名の下に生きる男としては最悪だが、セツという男としては正しいと思わせる。
「そうかよ。じゃあ、女将に手前の女関係を聞きたいから、喋るように連絡しておけ」
 良い娼婦ほど口がかたく、その店を仕切っている女将ともなれば、容易に口を割らない。バダッシュが、セツが居たかどうかですら中々聞き出せなかった。
 今度は本当に娼館に深く関わる事柄で、ただ話せといっただけでは無理。
「早急に返事させろよ」
 ドロテアは素っ気ない椅子から立ち上がり、呼び出したセツを置いて部屋を出て行った。ドロテアが何を聞きたいのかは解らないセツだが、
「あの女に聞かれて困るものでもないか」
 考えがあるのだろうと、机の引き出しをあけて用箋を取り出してその旨を認めた。手紙を書き終え封をした時に、壁の穴から強めの突風が舞い込み数枚の用箋が飛ばされ、女将に尋ねようとしていたことがあったなと、セツは思い出した。

 ”ユメロデ” という女
 
「ユメロデ」
 口に出してみるも、何も思い浮かばず、感情も呼び起こさない。娼館で抱いた女の名など覚えようとも思わないし、相手も滅多なことでは語らない。
「ユメロデ」
 空虚な音の羅列に、熱もなければ魔力もない。
 ただ主の不在が長かった豪華な調度品が並びながらも寂れた部屋に転がるだけ。右頭上から聞こえてきた鳥の鳴き声に、しばしセツはそれを見つめていた。
「……」
 ドアをノックする音に少しばかり驚き、手に持っていた手紙が折れる。
「誰だ?」
「エギでございます」
 床に散らばる用箋の一枚を踏み、ドアへと向かう。
「待たせたな。これをエルーダの女将に届けさせろ。それと、部屋はこのままにしておけ。壁の修理もするな」
 溜まっていた仕事があったなと思いだし、次々と指示を出しながらセツは自分の部屋を後にする。
 番の鳥はセツの言葉を理解して喜ぶかのように鳴いたが、セツにとってはどうでも良いこと。

 セツが再び法国に帰ってきた時には、雛は飛び立ち親鳥たちも去っていた。その空になった巣を見て、ドロテアに鳥の種類を聞いておけば良かったとセツはその時になって後悔した。

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