ビルトニアの女
皇帝の望み娘の謳う破滅【9】
 其処にあったのは棺と呼ばれている、棺ではない存在。

 ドロテアの故郷の広場で見た物と同じ、六面体の棺が鎖によって宙に固定されていた。
 棺の形と、周囲に刻まれている文字のような模様から、
「ここにあったらマズイような気がしてな」
 同じ物だとビシュアは感じ ”これ” をどうするべきか悩んだ。見て見ぬふりをして立ち去ることも出来る。
 平素では不可能だが、誰か別の人間に、この国を支配している一族の者に伝言を届けさせることも出来る。
 関わってはいけない気がしたが、見捨ててはならない感情がわき上がる。それらの不思議な、自分でも整理できない感情は、指先に触れた硬い感触によって行き先が決まった。
 ポケットに手を差し込み触れた、封された猛毒の小瓶。
 手に触れた硝子の小瓶。盗賊にとり最も重要な指先に触れた、死の冷たさ。指先から瞬時に体を冷やした硬さを感じると同時に覚悟が決まった。
 ドロテアに再会した時、この指の先に触れた白い慈悲の粉は返さなくてはならない。

 ”あの女は返せと言わない。だからこそ”

 リリスの最後が消え去る事に名残惜しさ。
 それらを感じつつ、脳裏に浮かぶ ”すぐに良い子みつけてね” 窶れ苦しい息の下から紡いだ言葉と微笑み。
 ビシュアは覚悟を決めて、戻って来ると言われているエルベーツ海峡にかかった緑の橋の元へと何度も足を運んだ。
 早く戻って来てくれと橋に背を向けて、同時に今日も戻って来なかったと橋を見つめる。どちらが安堵であり、どちらが切望だったのかは、やはりビシュア本人にも解らない。
 だが 《毒薬を返す》 ことを止めようとは考えない、自らの決意。それだけは確かだった。
 ドロテア達が戻って来たと聞き橋の袂へと向かう。真っ先に自分に気付いたエルストに合図を送り、そして今二人で 《棺》 を見上げていた。
「マズイってか……敵はこれが狙いだな。なんでもさ、中に勇者が入って眠ってるんだそうだ。アレクサンドロス=エドかハルベルト=エルセンのどちらからしいよ」
「……勇者って死んだんじゃないのか?」
「幽霊になった子孫の言葉によると、仮死状態、死んでいるのに近い状態で ”時” を待っているらしい」
「また複雑な」
 盗賊二人だけで見上げていてもどうにもならないと早々に結論に達し、専門家達を呼びに向かうことにした。
「大体の場所なら滞在中に覚えてるから、案内できる。何処に宿を取るって言ってたんだ?」
 潮の香りが充満していた堤防から二人は出ると、何時もは潮の匂いが気になるホレイルの町中でも、全く気にならなかった。
「解らない。宿なんて決めてなかった筈だ」
「捜さなけりゃならないのか?」
 偉い人達とは思えない ”行き当たりばったりぶり” に、ビシュアは軽く頭痛らしきものを感じたが、何も言いはしなかった。
「それほど広い街じゃないから、すぐに捜せるだろ……」
 そんなビシュアの頭痛など知らぬとばかりにエルストは、少し遠くに居て、自分達を窺っていた男性に声をかける。
「すぐに解るさ。あー済みません、そこの人」
 声をかけられて驚き、立ちすくんだ男性に、エルストは何時も通りに声をかける。
「喧しい集団が何処に行ったか解りませんか?」
 その男性からは答えは貰えなかったが、人通りのある場所に出て、
「ドロテア=ヴィル=ランシェとその一行がどっちに向かったか、知りませんか? 亜麻色の髪の美女」
 聞くとすぐに向かった方向を教えてもらうことが出来た。
 教えた者達も目的地は解らないが、向かった方向は見た誰もが記憶していた。
「目立つんだよ」
「そりゃまあ、悪目立ちなんて言葉じゃ言い表せないくらいに目立つよな……」
 ドロテアに何処へ向かうのかを聞く必要はない。
 喩え初めて訪れる場所であっても、何処に向かったのか尋ねると必ず答えが貰える。それがドロテアとその他大勢。
「何時もの事さ。ちなみに俺は他人に聞いても見つからないと、ドロテアに怒られる」
「そりゃ、俺達は盗賊だから。ついつい人目を避けちまうしな」
「それもあるけど、ほら俺地味だから」
 言われてビシュアは頭のてっぺんから足の先まで確りと見て、
「薄いっちゃあ薄い……か」
 否定はしなかった。背が高いこと以外は、取り立てて抜きん出ているところはない。
 その唯一の特徴である身長の高さすら何処かに紛れてしまいそうなエルストに、曖昧な言葉を返しながら歩き続ける。
 首都はドロテア達が出発した時よりはマシになっており、道となる部分の瓦礫撤去はほぼ終わり、幾分かは楽に歩けるようになっていた。
 エルストが行き先を尋ねた相手のほぼ無言で指さす方向に向かって歩き進むと、ビシュアの視界に ”建物” が飛び込んで来た。
「この場所に、こんな建物無かった筈だ。昨晩、この辺りを通った……のに……」
 昨晩までは瓦礫の山しなかった場所に、一夜ではとても造り上げることの出来ない大きさの建物。城と言っても、誰も異論を唱えないだろう壮麗さ。
 潮風とほつれた幌屋根の中に現れたそれは、異様であったが異様と言えない程の迫力を持って其処に存在した。
「オーヴァートかヤロスラフが建てた筈。誰の土地かは解らないけど、建てるのも消し去るのも瞬時に出来るから。一緒に来てくれ、ビシュア」
「ああ」
 ビシュアの心に ”街を直してくれたらいいのに” という思いが過ぎるも、口に出すことはしなかった。
 玄関扉を押し開くと、白と黒の正方形のパネルが交互にはめられて彩られている床と、吹き抜けのようなホールが広がる。
 ホールの両側と正面に扉があり、エルストは右側の扉に手をかけてビシュアを手招きした。
「解るのか?」
「いや。こっちで駄目なら、あっちで」
 なんて適当な男なんだろうと思いながら、だがこの得体の知れない建物、時間を短縮する為に手分けして捜そうなどとは、ビシュアはとても言う気にはなれず、エルストの後を付いて行く事にした。

「ドロテア。棺が見つかった」
 結局エルストが最初に手をかけ開いた右側の扉から、順番に扉を開いて進んでゆくとドロテアの居る部屋にたどり着く事ができた。
 本物を見た事のないビシュアが ”玉座のよう” と感じるような豪華な椅子に腰掛けて一人物憂げに外を眺めているドロテアに、エルストは当然のことながら挨拶など抜きで声をかける。
「なんの棺だよ」
 先ほどまでの物憂げな雰囲気など、誰も思い出せなくなるほど瞬間的に空気を変えたドロテアは、入り口付近にいるビシュアを見て笑った後、椅子から立ち上がり、
「勇者の棺のどちらかだと思う。勇者の棺なのは確実」
 エルストの肩に手を置き、見上げる。
「あっさりと言いやがるな、エルスト」
「騒いでも、なにも変わらないだろう?」
 今この瞬間のドロテアの表情はどんな物なのか? エルストの影に隠れてしまいビシュアには見る事ができなかったが、その後ろ姿は窓硝子に映り見る事ができた。
 窓硝子に映った後ろ姿は、美しさと冷たさを感じさせた。
 反射的にビシュアはポケットの中にある毒薬の小瓶に触れたが、小瓶からはもう冷たさを感じることはなかった。

**********


「位置的には……」
 棺らしい物があるという事で、ドロテアにミゼーヌ、バダッシュにミロの学者の面々と、案内のエルストとビシュア、そして運び出す事を考えてセツとレイとで堤防へと向かった。
 入り口に何故か既に待機しているオーヴァートとヤロスラフの二名が居たものの、ドロテアは ”それ” を全く無視してつき進む。
「声くらいかけて欲しいんだけど」
「誰がかけるかっ!」
 堤防内は潮が満ちてきていたが、ドロテアが一時的にと堤防に海水が入らないように 《神の力》 で押しとどめ、 無事に到着することが出来た。
「これだ」
「”すぐ” だな」
 ドロテアはあまりにあっさりと到着できた事に、些かながら驚いた。今まで見つからなかったのだから、入り組んだ先に存在し、辿り着くまでに時間がかかるだろうと踏んできたのだが、予想は完全に覆され、それは入り口近くに存在していた。
「こんな所にあって、本当に今まで見つからなかったのか?」
 バダッシュやミロも見上げながら、怪訝さを含む声を上げる。
「俺に言われても困るが、見つけたヤツは居なかったらしい」
 それらの声が向けられる事ととなった第一発見者のビシュア。もちろん彼本人も納得してはい。
 場所から考えて足を踏みれた盗賊が一人も居ないのはおかしいとは彼も思うが、その理由は解らない。
「何故見つけられなかったのか、について考える前に、仮死棺の検証でもするか」
 ドロテアの性格上 《解らないまま》 にしておくことはないが、目の前にある棺を調査することが急務と号令をかける。
 棺の吊されている高さや、六面体の特殊な形のどの面が、どの方向を向いているのかを記録させる。
 その最中にドロテアは魔法で飛び棺を吊し束縛しているかのような鎖に 《念のため》 に左手で触れた。
 それは正しい判断だった。
「ちっ! 何だこれは? 蠢いてやがる」
 触れて即座に指を離す。
 黒と藍色が混ざったような色で、鈍いながらも金属特有の光沢のようなものがある鎖の内側に、動くものが存在していた。
 ドロテアの声にヤロスラフが飛び滞空して、同じように指で触れ、内側を探る。
「中身は溶岩だ」
「溶岩?」
「外側のみが固まっている状態だが、中身は熱で溶けた岩石のままだ。ドロテア、お前が手甲をして触ったので無ければ、瞬時に炎が上がっていたな。もしもこの場を発見した普通の人間がいて、この鎖に触れていたら死ぬか大火傷を負う」
 困った代物だな……ドロテアは四方に張り巡らされている鎖の ”端” を視線で追いながら重ねて問う。
「誰が作ったんだ?」
「解らないが、皇帝ではないことは確かだ。俺の力で引き千切れる」
 ヤロスラフは言うと、鎖の輪の部分に人差し指をかけて引く。
 溶岩の鎖が千切れる音は存在しなかった。音もなく千切れた、あり得ない構成の鎖は断面はオレンジに近い色で、溢れ出す血液のように滴り、床面を溶かす。
 鎖の ”四つの端” は全て常時海に触れる部分に設置されており、発火を阻止していた。
「蒸気はどうなってたんだ」
「さてねえ」
 ヤロスラフが破壊した鎖を 《元通り》 にしたオーヴァートの笑い顔を、憎々しげに睨んだ後、ドロテアは記録漏れがないかを確かめにミゼーヌの元へと向かった。
 鎖はオーヴァートに、棺はレイとセツ、そしてヤロスラフに担がれ運び出される。
 先頭を歩くドロテアの後ろ姿が小さくなるのを見て、ビシュアは一人何時もの場所へと帰ろうとしたのだが、毒薬を返すのを忘れたことに気付き慌てて一行を追うこととなった。

**********


 オーヴァートがドロテアの為に作った仮初めの城とは対照的な、災難を逃れた質素で広くもない家。
 その家でクナは母である女王と、父である女王の夫と共に首都再建について日々話し合っていた。
 資金援助を求める事の出来る国は、現在エド法国しか存在しない。
 よってエド法国ので重鎮の一人であるクナと女王の会話はとても重要なものであった。
 何れこのホレイル王国を継ぐ立場にあるマルゴーもそれは理解していたが、感情的に面白くない。
 それだけを理由だけで彼女は避難先から、勝手に引き上げて首都へと戻ってきた。
 マルゴーはクナの顔の痣に対して、妄想が混じったような暴言を幾つかぶつけたが、ぶつけられた方は全く意に介さず、余計の怒らせることとなる。
 激高したマルゴーがテーブルを挟み向かい合っているクナに手を上げた所で 《なにか》 が飛んで来て、振り上げた手を打った。
「落ち着いて下さい、マルゴー王女」
 投げたのはヒルダ。投げつけられたのは、
「司祭や。助けてもらっておいて言うのもなんじゃが、聖典を投げつけるのは褒められたことではないぞ」
 自前の聖典。建前上、司祭が命よりも大切にしなければならない聖典。それを見事なまでのオーバースローで投げつけた。
 宙を直線に迷いなく飛び手を打った聖典は、怒りに顔を朱に染めていた王女を冷静とまではいかないが、一時的に怒りを忘れさせることを可能にした。
 言うまでもないが聖典の使い方として間違っている。
「大丈夫ですよ、クナ枢機卿。聖典には、人助けの為に聖典を投げつけてはいけない、という記述はありませんので」
 ”投げつけちゃ駄目とは書いていなければ、何をしても良いとは普通は考えないと思うわよ”
「さすがドロテア卿の妹と言うべきかのう」
 クナの口から零れた溜息混じりの言葉だが、それが褒め言葉なのか、そして溜息は羨望なのか、どうなのか?
  明言を避けなくてはならない言葉を前に、マルゴー王女は肩をいからせて、入り口付近に立っているマリアとヒルダを睨み付ける。

 本人は睨み付けたつもりだった。

「何か?」
 悪びれない聖典をぶつけたヒルダと、
「もしかして、退室なさるんじゃないの?」
 一つしかない出入り口に向かって歩いてきたのだから、部屋を出るのだろうという事は理解できたマリア。もちろん、睨まれたことには気付いていない。
「マルゴーや。睨んだところで、眼光鋭き、人の息の根を止める、神をもひれ伏させる女の視線を毎日浴びておる二人には、そなたの睨みなど、なまくら過ぎて睨みにならぬぞよ」
 クナの声に顔を赤くして下を向いたマルゴーに、
「どうぞ」
 ヒルダは半身を逸らして手を廊下に向けて差し出した。
 その穏やかというか、何の気負いもない声に、恥ずかしさに萎んだ怒気が勢いを取り戻し、髪を振り乱しながら顔を上げて、ヒルダを睨んで……マルゴーは部屋から飛び出し逃げていった。
「そんなに怖かったでしょうかね? 姉さんの真似」
 部屋から飛び出し、廊下の壁に顔を強かにうち、鼻血による物であろう血痕を残して、前のめりになりながら、奇声を上げて逃げていったマルゴーの姿を顔を出して見ながら、ヒルダは笑った。
 丁度向かい側にいて、マルゴーと同じくその顔を見たマリアも不思議そうに言う。
「特に、なにも……何が怖かったのかしら?」
 クナは笑い声を上げて椅子から立ち上がり、床に落ちている聖典を拾い上げてヒルダに手渡した。
「順序は逆で、遅くなったが、助けてくれて感謝しておるぞ」
「いえいえ。同じ聖職者として、当然のことをしたまでです」
「最早何も言うまい。それで、二人は妾に何用じゃ?」
 聖典を投げることが? という突っ込みを入れる事は諦め、クナが用事を尋ねると、
「入浴の用意ができました」
「どうぞ!」
「戻って来たばかりで疲れておろうに……いやいや、ここは感謝を述べるべきじゃな。では湯を貰うか」

 二人と共に部屋を出て 《姉さんがヤロスラフさんに命令して作ってもらえた》 使い勝手の良い仮設の湯殿へと向かった。

**********


 マリアとヒルダがそんな事をしている頃、棺は仮初めの城へと運び込まれ 《中にいるのは誰か?》 を探り出す為の調査が開始された。
「幽霊、解んねぇのかよ! 役立たず共めが!」
「ほら、ドロテア。全部簡単に解っちゃ駄目だって言ってたじゃないか」
「うるせえぇ! エルスト」
 そんな怒号が聞こえる部屋の隅に立ち、声をかけるのは無理だと即座に理解したビシュアは、部屋を出てこの建物の何処かに毒薬の小瓶を置いて立ち去ることに決めた。
 リリスの願いはドロテア本人に手渡しして欲しいとの事だったが、この状況ではそんな余裕など無いだろうし、この機会を失えば一生返すことは出来ないような ”気がしたので”
 盗賊らしく ”こっそり” と部屋を出て、誰にも会わないように廊下を引き返していたビシュアだったが、
「兄貴! ビシュアの兄貴!」
 頭をかきながら ”元” 自称舎弟の大声の呼びかけに足を止めた。
「元気にしてたか、グレイ」
「はい! ナントカ無事に生きてます!」
 ”ナントカ” その部分に様々なものをビシュアは感じたが、敢えて触れなかった。
 だが盗賊をしていた頃とは比べものにならない程に良い表情になり、
「初めて仕事も貰ったんすよ! それもセツ最高枢機卿閣下に。これから、何度か色付けまで試してから塗りにはいります。昔は買った絵の具をそのまま使ってたんすけど、顔料から用意されてて自分で色調合しなけりゃならないんすよ! この色調合ってのが厄介でさぁ! 科学反応ってのをミゼーヌに教えてもらってんすよ!」
 画家としては順調に歩き出していることもはっきりと聞けて、自分のことのように嬉しくもなった。
 ドロテア達に棺のスケッチを依頼されて、この場で長々と話をしていられないグレイが、
「後で話しましょう!」
 去った姿を見送った後、入り口のホールに装飾品として置かれているテーブルの上に慈悲の粉の入った小瓶を置いて立ち去ろうと、ポケットに手を差し込んだ時、ヒルダとマリアが帰ってきた。
「ただいま〜」
 驚いて振り返ったビシュアと視線の合った二人。
「……どちら様ですか?」
 マリアとヒルダは何処かで会った事があるような、でも会った事がないような目の前の男ビシュアに声をかけた。
 エルストに薄いと言ったビシュア。
 確かに彼はエルストよりは色彩的にも性格的にもはっきりしているが、盗賊としての技能が災する。
 職業病的に顔をあまり二人に見せず、二人も確りと見ていたつもりだったが、それ程しっかりと覚えていなかった。

 それが喜劇を引き起こす。

「盗賊の……」
 ”盗賊” と付けなければ 「どちらのビシュアさんですか?」 と言われるだろうと考えて言ったのだが、気が付くと首が絞められていた。
 エド法衣が顎の下にあることだけは辛うじて解ったが、何が起こったのかは全く理解できないまま、ビシュアは意識を失う。
「ふ〜危なかった、盗賊ですか」
 白目を剥いて意識喪失したビシュアの首に回している腕の力を緩めて、ヒルダは大仕事を終えたような表情を浮かべてマリアを見た。
 するとマリアは屈んで、転げ落ちた小瓶を拾い上げてヒルダの前に差し出す。
「それ、なんでしたっけ?」
「何だったかしらね?」
 互いに腕を組み、目を瞑って考える。
「あっ!」
 しばしの沈黙の後、二人は同時に声を上げ、
「マリアさん! 私の部屋に運ぶので、足持ってください!」
 顔見知りの盗賊だったことを思い出した。
 この段階では、ビシュアが棺の在処を教えたことを知らない二人は、元の仲間グレイに会った帰りだろうと推測してのこと。
「持ったわよ! 行きましょう!」
 二人は声をかけ合いながら、絞めた落とした盗賊を持って部屋へ連れて行き、ヒルダが締めて落とした責任として介抱することとなった。

**********


 オーヴァートの造った宿、仮初めの城は造った当人以外は誰が見て、触れても解らない材質で造り上げられている。
 壁も床も家具も全て材質は違うが、どれも材質自体は全く解らない不思議な存在。
 材質が不可思議な建物の間取りは、材質ほど不可思議ではない。
 廊下は幅ひろく取られており、部屋の入り口は全て二枚扉で押し開くタイプで、建物全体は普通の家の四階建て相当の高さがありながら平屋。
 壁に窓があるのは、ビシュアが訪れた時にドロテアが居た部屋だけで、それ以外は壁に窓はなく天井のみ。
 天井は総硝子張りで、多くの明かりを採る。材質が解らないのは天井として存在している硝子も同じで、強い日差しであっても適度に熱と光を調節してくれる。照明の類は壁に埋め込まれていた。

 そんな建物の一室でヒルダは、
「傷が見た目で解る、あまり酷くない外傷の治療なら得意なんですが、失神とか苦手なんですよねえ。これらの治療が苦手な聖職者が法力で治療しているつもりで、失神がそのまま死亡に繋がることって良くあることですし」
 聞いている方が恐ろしくなるような事を言いながら、治療 《らしい》 ものを続けた。
「これで終わり」
「もう大丈夫なの?」
「目を覚ませば成功です。目を覚まさなければ失敗です」
 全く成功していなさそうな事を言いながら、拳で胸を叩く。
 だが、これでもエド正教が誇る優秀な人材だ。どこが優秀なのかと、意識を失っているビシュア辺りは理由を聞きたくなるだろうが、優秀なのだ。
「試験とかそんな物で良いの?」
 ヒルダはこれでもエド正教内では、実力で優秀な人物。全大陸のエド正教神学校でトップ五十位以内の成績で卒業したほど。
「私達聖職者は、人を治療するのが仕事ではなく神に仕えて人々に心の平安を与えるのが使命ですから、治療技術はそれ程求められませんよ。ほら、それで私は内臓疾患系が苦手じゃないですか。それは聖職者全般に言えるんですが、内臓疾患系は劇的な奇蹟に見えないので、あんまり重点をおかれないんですよ。ぱっ! と、傷が塞がる方が、見た目は派手で奇蹟っぽくってありがたがって、宗教に入れ込む……はおかしいか。金取りやすい? それも違うなあ。でもそんな感じですね」
「確かに傷を治すのは派手だし、まさに神の力って感じするものね」

 そんな話をしながらマリアはベッドの枕元付近にあるナイトテーブルに毒薬入りの小瓶を置いて、二人で部屋を後にした。

**********


 白い毒薬のはいった小瓶に見つめられていたビシュアは、無事に意識を取り戻すことができた。
 本人は何時もの寝起きのような目の覚まし方に、何が起こったのか全く思い出せないまま、目覚める原因になった夜空を見つめる。
「眩しいな」
 仰向けに眠っていたビシュアを目覚めさせたのは、窓から差し込む月明かり。
 天井部の硝子窓に光を注ぐ大きな月は、冷たげな銀色ではなく甘やかな色で部屋中を照らしていた。月光の下、体を起こし何があったのかを思い出し、顔に手を当てて苦笑して辺りを見回す。
 月明かりに照らされていた小瓶にすぐに気付き、確認のために自分のポケットを触り ”ない” ことを確認すると同時に、ビシュアは慌てて手を伸ばす。
 そうすると、手前にあった本をナイトテーブルから落としてしまった。
 慌ててベッドから降りて、開いたままで床に落ちた形になった本を拾い上げ確認する。
「紙が折れて……これ、やべぇ……」
 ビシュアが落としたのはヒルダの聖典で、焦った理由は ”弁償” 高位聖職者の持っている聖典は高価で、とても重要なもと 《一般的には言われている》
 間違って手を触れて落とし、頁を折ってしまったら、当然弁償しなくてはなず、普通の家の蓄えでは容易に弁償などは出来ない。
 盗賊で ”価値と相場” を知っているビシュアは、物理的ではなく精神的に眩暈を起こし、ベッドに腰を下ろして折れた頁を必死に指で撫で、戻ってくれないかと必死に祈る。
 実際にヒルダの聖典はかなり高額で、ビシュアの全財産の三分の二程度の代物だが、扱いは雑だ。
 つい先ほどの、マルゴー王女にフルスイング姿を見ていたらビシュアは此処まで困り果てはしなかっただろうが、見ていないのだから言っても仕方のない事だろう。
 弁償する為の代金をどうやって調達するかを考えながら折れた頁を見つめていると、突然読みたくなった。
 ビシュアは信心深い男ではなく、生まれ故郷はエルセン王国なので、エドの逸話よりもエルセンの英雄譚で育てられた。もちろん教会には行くが、ビシュアの心に残ったのは英雄譚の方。
「へぇ……」
 折れた頁から読み始める。月は徐々に空へと上り小さくなり、室内は壁に埋め込まれている明かりが自動的に、聖典が読めるような明かりを提供してくれる。
「起きてますか?」
 すっかり熱中して読み続けていたビシュアの元に、夜食を乗せたトレイを持ち、ワインの入った籠を腕にかけたヒルダが様子を見に訪れた。
 寝っ転がって読んでいたビシュアは急いで起き上がり、ほんの少しだけ夜空を見る。あれ程大きかった月が、小さくなるまで聖典を読んでいた自分に驚きながら、折れた箇所を開いて頭を下げ謝罪する。
「弁償するから」
「良いですよ。折れたくらい。それでオーヴァートさんだって殴ってますから。ほら、この角」
 背表紙の角が凹んでいる所を指さして、ヒルダは笑った。
「……いや、その」
「それより先に、私が謝罪したいのですが」
「あ? ああ……」
 ヒルダは問答はしたが、首を締めてそれらを完全に無用にしてしまったのだから、当然謝罪しなくてはならない。
「いやあ、それは構わない。ここは俺の首絞めと、聖典の頁折れで痛み分けってことにしよう」
 ヒルダが全く痛まない痛み分けで、話題は打ち切られることになった。
 首絞められて落とされた本人がそれで良いと言っているのだから、深く追求するのは野暮というものだ。
「興味ありますか?」
「ああ。この年まで不勉強で、こういう書物を売る為に盗んだことはあっても、中身までは確りと目を通したことはなかったからな。そうだ、勝手に読んで悪かった。これってあんたの分身みたいなモンなんだろ」
「本当に気にする必要はありませんよ。良かったらそれ存分に読んでください。教えに興味を持った人から聖典を取り上げる聖職者はいませんよ。でもまずは夜食をどうぞ」
 夜食を勧められたビシュアは、ナイトテーブルに聖典を戻し、ベッドにトレイを置く形で、夜食を口に運ぶ。
 食事をしているビシュアを見ながら、ヒルダが棺の調査状況の経過を簡単に教えた。
「今日の所は一旦終了だそうです」
「そうか。わざわざ教えてくれて感謝する。もっとも俺は聞いても殆ど解らないけどな」
「私もほとんど解りませんよ」
 言いながら床においていた籠からワインとグラスを取り出し、毒薬の小瓶の隣に置き立ち上がる。
「夜更かししないで下さいとは言いませんけど、聖典を読むのは ”ほどほど” にして休んでくださいね。では、お休みなさい」
 空になった食器を乗せたトレイを持ち、ヒルダは部屋を出て行った。
 僧衣が僧衣に見えない美しい後ろ姿に、ビシュアの平穏だった心が少しばかり ”ゆれた” がそれらの感情をすぐに振り払い、ワインボトルに手を伸ばす。
「司祭って感じじゃないよな」
 グラスにワインを注ぎ、呟いてから口を付けたが直ぐに離して、舌を出す。
「上質ってヤツは、慣れないし合わないモンだ」
 苦笑いしながらグラスをおいて、ベッドに再び仰向けになる。
 銀のような青白いような色に変化した満月を見上げて、眠ろうと目を閉じたが、様々な感情がビシュアを眠らせてはくれなかった。
「聖典なんて ”柄” じゃないが、このワインは石屋の息子には上品過ぎる」
 起き上がり聖典とワインを見比べて、持ち主から許可をもらった聖典を手に取り続きを読み始めた。


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