ビルトニアの女
皇帝の望み娘の謳う破滅【8】
 グレイは年を取ってから、あの日の言葉を思い出す。
 オーヴァートやセツが叫びながら丸チーズを追って斜面を駆け下りて行った後のこと。皆でチーズを切り分けて各々口に運んでいた。
 ドロテアが皿に切り分けられたチーズを乗せて、グレイの傍へと近寄ってきた。
 グレイのスケッチをのぞき込み
「模写なのに、お前だって解る何がが存在するな。大したモンだ」
 そう ”さらり” と褒めた。
 あまりのことに驚きドロテアを見上げると、
「間抜けな表情だな、グレイ。俺は確かに人を褒めねえし、手前も褒めちゃいねえよ。凡人が天才を褒めるわけねえだろ。褒めたんじゃネエよ、感想だよ感想」
 当時のグレイには、その言葉の真の意味が理解できなかった。目の前にいるドロテアが凡人だとはとても思えなかったからだ。
 間抜けに開いた口にチーズを押し込まれ涙目になったグレイに背を向けて、押し込んだ張本人は去っていった。
 後ろ姿が美しい女だと、宰相が言っていた事を思い出す。
 あまりにも美しくて、泣いてしまったと。
 ドロテアに思い入れのない自分ですら、亜麻色の短い髪からのぞく白い首の美しさに息を飲み、呼吸をすることを本当に忘れてしまいたのだから、思い入れの強い宰相は泣いて当然だ。
 そして数え切れない程の絵を描いた今なら言えた。
 ”貴女は凡人ではない”
 はっきりと言い切り、説明も出来る。もちろん、説明するべき相手は存在しているが、存在していない。
 だが会うことができたなら、グレイは言おうと思っていた。

− 私は貴女を描けませんでした。貴女が天才と言った私ですが、貴女を描け無かった −

**********

 落ち着きのない四十過ぎと、明かに神の教えに反している四十間近の聖職者の熱い祭りは終わり、一行は登った時よりもゆっくりと下山を開始した。
 本当にゆっくりとして、時間をかける旅程だが、誰も何も言わなかった。この旅の終わりは魔帝の死であり、魔物達の消失。それは人々が何よりも望んでいる、平和な生活への第一歩。
 今も何処かで魔物に人々が殺害されているかも知れず、恐怖に怯えている人もいるかも知れない。だが倒せるのは ”ドロテア” ただ一人であり、ドロテアが倒そうと思わなければ、何も始まらない。
 世界中の人々が死亡した後に行動を開始しようとも、人々にはどうする事も出来ない。
 魔帝を倒せる力のある人間と、平和を望む無力な人間との間には ”溝” がある。人々の死に胸を痛めることもなく、幼子の涙に心動かされることもない女は、自らが納得したときに行動に移す。

 まだ時は満ちてはいなかった。

 山を降りて、遠くに見える寂れた霊廟を通り過ぎ、海に架かった大地の橋 ”存在しない大地” だが、確かに存在し、馬蹄を響かせる。幻想的という言葉などとは対極に位置する、草の生えた生きることのできるその地。
 偽りとも言えそうだが、聖地神の力を持った女が作った大地は決して偽りではない。
「止めろ」
 ホレイル王国へと戻る為に駆けていた馬車を、霊廟が見えるか見えないかの位置まで来た所でドロテアは止めて馬車から降りた。
 魔王の廃墟で ”セツとレクトリトアードが繋がってしまった瞬間” に手から落とした煙草入れの蓋を開く。
 荒れ狂う海の下に沈んでいる棺。溶接された蓋が無残にも開いている空の棺。
 ラ・セロナード・プリンス・エルスト=カルヴィェロッサ=デ=ネーセルト・バンダ。彼は法王として存在しているが、決して生きているわけではない。
 彼はここで葬られて死んだことにされてから、ずっと死んでいる。
 セツのように勇者として法国に戻ることはなく、彼は死んだまま法王として死ぬ。彼は生き返ってはいけないのだ、彼は法王アレクサンドロス四世ではなく、ネーセルト・バンダの王子エルストに戻った瞬間、オーヴァートにより殺害される。彼は彼ではないことにより、彼であり続ける。
 ドロテアの作る煙草の香り好んだ彼に向けて、蓋を開いたままの煙草入れを海に捨てた。方々に散った煙草に宙で火を付けると、一瞬だけ辺りがその香りに包まれる。
「じゃあな」
 ドロテアは何の説明もなく、自分の体の一部に近かった煙草を捨てた。
 馬車に乗り込み、
「走れ」
 それだけ言い、窓の外を眺める。

 誰もがドロテアが煙草を吸う姿を見る事は、二度となかった。

「姉さんって精霊四神全ての力を手に入れたんですよね」
 ドロテアが煙草を吸おうが吸うまいが、ヒルダにはあまり関係のない事。
「そうだ」
「何か特別な事できそうですか?」
 体を休める天幕を張るために歩みを止めた馬車から降りたヒルダは、いつもその使命感に燃えたぎっている夕食の準備の手伝いをせずに、ドロテアに近寄ってきた。
「出来るんじゃねぇのか? 別にしてみたいとも思わねえが」
 ヒルダにとって重要なのは、姉がどのように 《変わったのか》 という一点。煙草を吸わなくなったのは、煙草を捨てたという行為を目の当たりにしたので納得できた。ドロテアが神の力を手に入れた四つのうち、三つはヒルダは後方から目の当たりにしていたが、それでも納得できなかった。
「普通、神の力を手に入れたら凄い事してみたいと思いませんか?」
 ドロテアが神の力を使ってもオーヴァートに負けたのをはっきり見ているので、その力が何をするものなのか? また何かを越えるものなのか? 解らなかった。
「思わねえって言ってるだろうが。具体的に何して欲しいんだよ」
 姉であるドロテアは違うのだと理解しようとしても、拒絶されるような力がそこにはない。
 だから、ヒルダは求めた。オーヴァートにはなし得ない 《無から有を作り出す力》 を目の前で見せて欲しいと。
 その為に選んだ方法。
「苺が食べたいですね。そうですねえ、大きさはセツ最高枢機卿の親指の先くらいで、色は鮮やか過ぎない赤。瑞々しさよりも香りに重点を置いた、できることなら表面のぶつぶつは、固く大きめがいいですね。そして私の両手に山盛りになるように!」

 具体的過ぎないか? ヒルダ。

 姉の操る神の力が見たいのか? それとも苺が食べたいのか? 目的と手段がごちゃごちゃになった願いに、眉間に皺を寄せて腕を組んでいたドロテアだが、ゆっくりと手を開き祈るように手をあわせて指を組む。
「解った」
 それは魔法ではないので、呪文もなく音もない。誕生でもなければ、新たなる何かでもない。その手に存在させるだけのこと。
「うぉ!」
 両手を何かを載せても良いように合わせていたヒルダの手の上に、突如苺が山盛りになった。現れるときの音が波音に消されたわけでもない。
 本当に何事も無かったかのように、一瞬で現れた。それを前にしてヒルダは脇に置いていた籠に全てを入れて、一つ掴んで口へと運んだ。
「苺の味します。間違い無く苺ですね!」
 何てことのない一言だが、これでドロテアとヒルダは全てが変わった。二人とも、違う所に居る存在なのを、明確にした。
「そりゃ良かったな」
 それに関してお互い改めて何かを言うことはなく、何も言うことはできなかった。
 ヒルダが両頬に苺を入れて遊んでいるので。
 思う存分頬張った後、
「でも姉さんの作る苺は、すこし甘さが強いような。私はもう少し酸味の強いのが好きですが」
 あれほど貪るように食べて、その評価とは。
 空白に入る荒波の打ちつける音が、奇妙な空気をより一層奇妙なものにした。
「仕方ねえだろうが。俺の記録だけを頼りに創り上げるんだから、俺の好みが優先されるんだよ」
「そういう物なんですか」
「そういう物らしい。俺も初めてだ」
 ドロテアは神の力を使うことはできるのだが、限界があった。
 神の力は無限ではあるが、ドロテアの知識と経験は限りがある。ドロテアが神の力を自由に使えるようになるとしたら、それは知識と経験が神に等しくならなくてはならない。
 それほど迄の経験を得る為にはどうしたら良いのか?
 ドロテアには、いや誰もがその答えを理解していた。
 ヒルダはドロテアに「じゃあ、今日の夕食は有名料理店の名物料理にしましょうよ! 姉さん全部食べたことあるでしょ!」と言い、マリアが希望の 《品名》 を上げる。
 ドロテアはその料理を味わった事があるが、ドロテアが出した料理がマリアに同じ味を伝えることはない。
 その味の違いこそが、自分の他人の違いであり、人と神の違いであった。
 だがそれも何時かは消え去って行くのだろう。
 草原に広がる有名料理店の料理の数々。食らいつく彼等は、その味が少し違おうとも、美味しいことには変わりないので、次々と口に運ぶ。
「ドロテアは、香辛料のハドンをあまり感じない体質なんだな」
「あれは、刺激が少ないから、トルトリア出のドロテアには、無いに等しいんだろ」
 各々の裁定を見て笑っていたドロテアは、ちらりとオーヴァートを見た。
 記憶だけを頼りに無から有を造り上げたドロテアを前に、
「私には出来ない芸当だ」
 オーヴァートは首を振る。
 ドロテアとヒルダの立場が姉妹というものから完全に変わってしまったのと同じく、人間であるドロテアと、それを作った創造者であり支配者であったオーヴァートもまた、全く別の立場になった。
 神になった人がいないのだから 《対等に近く、全く対等ではない》 その先の道は誰にも解らない。


 − 死にたいのなら近寄りや。妾とその類縁は一切の責任を負わぬぞ −


 ドロテア達が旅立った荒れる海の上に出来た幻と言えない、だが幻に近い橋。
 灰色の空と鉛色の海には不似合いの若草に飾られた ”存在しない橋” に人々は興味を持ち近寄りたかったが、橋の前に上記のクナの言葉が書かれた看板が立てられそれを読んだ後、誰もが近くで見るだけで我慢した。
 まるで見張りのように、人が途絶えなかった橋を見る人々が大声を上げた。
 それを聞いた本当の見張りは伝令を走らせ、クナを呼んだ。
「出迎えってか、まだ居たのか? クナ」
 決して美しくはなく、痣の目立つ顔だがクナはヴェールを外したまま、喜びの表情を隠さずに出迎えた。
「色々と忙しいのじゃ。むしろお主等が早すぎなのじゃよ」
 その喜びの表情の中に、ほろ苦いものがあった。ドロテアは気付いたが、敢えて触れる事はなかった。
 そしてクナは自らの希望を叶えてくれたイリーナとザイツに労いの言葉をかける。
 近寄ってくるのではないが、周囲を取り囲むホレイル王国の人々。その群衆に背を向けて、ドロテアは両手首を交差し高らかに掲げ、振り下ろした。
 強い海風を切れるかどうかくらいの動きだが、海に架かっていた橋が轟音と共に割れ、そして消え去った。
 灰色の空と鉛色の海だけに戻ったエルベーツ海峡。
「見事じゃなあ……」
 言葉にしたクナ本人、何が見事なのか全くわからなかった。ただ海峡から、大地が消えた。それを言い表す言葉が、クナにはそれしかなかったのだ。
 人々は ”神の奇跡” その物に ”神の奇跡” を起こした本人の恐ろしさも忘れて、割れ先にと海縁へと駆け寄り、ありもしない橋の 《欠片》 を探す。
 人々は触れられなかった橋が、本当にあった物だという痕跡を求めて海を覗き続た。
 そんな人々でごった返している中、
「ドロテア、少し出て来るから」
「ああ」
 エルストは一人離れていった。
 ドロテアとその他の中でもっとも目立たない男は、その集団から離れてますます目立たなくなり、そして周囲に埋没していった。
 背が人よりも高いのだから、もう少し目立っても良い筈なのだがいつの間にか消えている。
 エルストは別に一人になりたかった訳ではなく、顔見知りに ”来てくれ” と合図を送られたので、それに答えただけだった。
 誰にも声をかけられないで人混みをすり抜けながら、少し先で同じく人混みを抜けてて誘導している男を追う。
 人混みから脇に逸れ、そして裏寂れた道を気配を消して歩き、誰もいない空き家の前で、呼び出し誘導した男は窓から侵入し、エルストは裏口から身を滑らせ、互いが建物の影で隠れ姿が見えない位置で、話始めた。
「久しぶり、ビシュア」
 赤銅色の髪を持つ盗賊からの、同職だけで通じる合図を受け取り、盗賊らしく人を避けて、会話をすることにした。
 声をかけられたビシュアは、色々と話したいことがあるのだが、それよりも先にと、自分が侵入した窓とは違う窓を指さして、
「ちょっと付きあってくれるか?」
 頷いたエルストに背向けて、再び盗賊特有の ”見えているが見えない” 歩き方で、進んで行った。
 崩れた建物の隙間をぬい、二人は一定の距離を持ったまま歩き続ける。
 どこに連れて行こうとしているのかを聞かなかったエルストだが、ビシュアがわざわざ姿を現したのだから、何かあるのだろうなと思い、無言で付き従った。
「前に情報があったら教えるっていっただろ?」
「そんな話もしたね」
 人目に付かないように盗賊の寄り合い入り口に身を滑らせ、挨拶も早々にビシュアは目的の場所へと案内する。
「急いでるな」
「当然だ。ここは堤防の中だ。もう少しすりゃあ、海水が入ってくる」
 今は海が引いているので自由に歩き回れているが、もう少しすると海水が入り込んで来る。
 堤防の内側にくっついている貝や、足下を滑らせる海藻などに気を付けながら、エルストは手に炎を出して明かりを得るも、尚暗い堤防内を歩き続ける。
 ビシュアは自分で付けた目印をカンテラの明かりで確認しながら、角を曲がり扉を開いて案内を続けた。
 そして立ち止まった時、エルストは堤防の外側から波の音が聞こえた気がした。ビシュアはカンテラを掲げて、もう片方の手で宙を指さす。
「あによく似たの、俺の故郷エルセンとあのトルトリアで見た事あるんだが。違うか?」
 何も無い筈の空間を指さすビシュア。よく見ようと手元にあった炎をその宙に飛ばし明かりを反射する物体を見たエルストは、
「あれはまた、えらい物みつけたね」
 あり得ない物を見てしまった。


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