ビルトニアの女
皇帝の望み娘の謳う破滅【7】
 四神の力を手に入れた後だが、誰も何も変わらずに昼食を取っていた。
 腫れ物に触るようなわけでもなく、誰もが疑問に思う事を尋ねるが 《何か》 は尋ねなかった。
 《何か》 とはドロテアの未来。
 この場にいる誰もが、ドロテアの先にあるものを知りたいと思いながら、知るのが怖かった。魔帝はドロテアに間違い無く倒されるだろうと、根拠はないが誰もが信じていた。
 その先だった。
 誰もが気付いているのだが、それを声にすることができない。
 この場にいるドロテア=ヴィル=ランシェという女がいなくなる事。

 それが意味するものはなにか? 訪れなくては解らない未来であることだけは確か

 この高地に一泊してから下山することになったので食事を終えた後、各自好き勝手な時間を過ごしていた。
 自由がないのは仕事依頼を受けたグレイと、昼食の後片付けをして夕食の用意をしながら馬の世話をしなくてはならないイリーナとザイツ。
 二人だけでは大変だろうと、騎馬隊でもあるギュレネイス警備隊長のクラウスが、元部下のエルストともに馬の世話を買って出た。
 勿論、エルスト本人は買って出ていないが、勝手に自分の分もご丁寧に買ってくれた幼馴染みに命じられて黙って従っている。ヒルダはイリーナとザイツと共に、自分にとって祈りよりも大事な夕食の下ごしらえを手伝っていた。
 お前の本職は何なんだ? 司祭ヒルデガルド。そう突っ込んでくれそうな姉はマリアと共に斜面を歩いており、本職の上司にあたる男は、
【この魔法知っているか】
【じゃあ、次はこの魔法】
 同種であるが同族ではない、同名の幽霊二名に囲まれて質問攻めを受けていた。ふと誰かが気付いた。この旅の間、最高枢機卿閣下がお祈りをしている姿を見たことがない……と。
 だがドロテアの未来ばりに、誰も触れることができなかった。
 正直この人相の悪い男が真面目に祈りを捧げても、おざなりに舌打ち混じりに祈っても、なにか違うという気持ちしか感じられないだろう。
 それで良いのか……と思わなくもないが、口に出すのもはばかられる。
 この気持ちをセツ本人に告げれば 《他宗教の指揮官と画家がいるのを考慮してのことだ》 とあっさりと嘘をついてくれただろうが。
 どう誤魔化そうとしたところで、セツが祈る姿は観られないし、観たくもない。本人も祈りたくはないというのは隠しきれないと言うか、隠そうともせず、それを前にやはり誰も触れられない。
 人々の中から少し離れた位置に、マリアとドロテアは佇んでいた。
 斜面で足を止めて、ドロテアは空を仰ぎ、マリアは見慣れぬ花と草に視線を落とす。見つめていると、幾つもの影が通り過ぎてゆく。その通り過ぎる雲の影の早さに、驚きを感じながらドロテアと同じく空を見上げた。
「高さとかじゃなくて、何かいつもと全く違う所があるような気がするんだけど。解らないものね」
 何が違うのかしらと笑い、風に玩ばれる黒髪を手で押さえる。
「影のことか?」
「影?」
「高地は雲の影が濃いんだよ。空に近いからな」
 早い風に流されてゆく、濃く千切れた雲。その影は、平地で育ったマリアには奇異に感じられる程に濃かったのだ。
「本当に……」
 柔らかな形で薄いように感じられる雲を見慣れていたマリアには、強い風に流されてゆく硬さを感じさせる雲。
 緩やかそうに見えるが、かなり傾斜のきついそこに寝転び、二人は暫くの間、空を見上げていた。
 馬の世話も終わり、夕食の下準備も終わった。そして食べることに関しては、どのような場所でも妥協しないヒルダは休憩用の菓子の準備して、
「姉さん! マリアさんん! お茶の用意ができました!」
 叫ぶ。元気過ぎる声は反響して、何度も追いかける中、二人は斜面を四つん這いになるような格好で登り、戻って来た。
「見た目よりもかなり登るのが大変よ、気を付けてね」
「はい、解りましたマリアさん」
 菓子を幽霊をのぞく面々で食べながら、ヒルダは唐突に思い出したことを話はじめた。
「ミロさん」
「何? ヒルダ」
 ”こいつ、こんなに国内を空けていいのか?” とドロテアは思いながら、当たり前のような顔で混ざり、ヒルダに向き直り話を聞こうとしているパーパピルス国王を ”少し老けたなあ” と思いながら眺め、そして手に持ったコップを満たす水に映った自分の ”変わらない顔” を観て目を瞑った。
 ドロテアは過去に未練があるわけではなく、間違った生き方をしている自覚はあるが、後悔はしていない。だが過去に同じ時間を刻んでいた相手が、国王という立場ではあるが世界の中で生きているのを目の当たりにして、自分に弁護をしないかわりに目を瞑ったのだ。
 懐かしいパーパピルス国王での生活。
 王学府の生徒で、首都から出ることは殆ど無かったが、祭りの時などミロと一緒に叔父モイの屋台を引くのを手伝ったり、ミロの引く屋台に座ってはやし立てたことなど。

 エヴィラケルヴィスの中で笑っていた時代。

 そんな自分が確かにいたなと、
「パーパピルス王国の祭りって、こんな斜面からチーズ転がすんですか?」
「そうそう」
 ドロテアが回想していると、パーパピルス国内で奇祭として有名だが、他国には殆ど知られていない祭りをヒルダが言い出した。
「何でお前そんな事知ってんだ? ヒルダ」
 パーパピルス王国は国民のほとんどがエド正教ジェラルド派に属しており、そして法王がジェラルド派なのでそれを ”あて” にして法国へと向かうものが多いので、ヒルダが学んだベルンチィア公国にパーパピルスの者がいる可能性は限りなく低く、そんな奇祭を知っている者と接触することは不可能だと思われたのだが、
「姉さんに言われて図書館で地図を調べてた時に、見かけたんですよ。チーズって書いてたから、目に止まって」
「……」
 チーズが原因だった。
 チーズが書かれていなければ、記憶の片隅にも残らなかっただろう祭り。妹の食い意地に、この時ばかりはドロテアも驚いた。
 たかがチーズ、されどチーズ。
 その奇祭は丸いチーズを斜面から転がし、チーズが転がっている間に手に取り、降りてきた坂を駆け上り出発地点に戻った者が ”勝者” となるもの。
「あ、こんな所にチーズが」
 そんな中、いつの間にか席を立ち馬車から丸チーズを一個取り出してきたエルスト。
「こんな所じゃねえだろ! エルスト」
「おーや不思議! こんな所にチーズがたくさん!」
 盆を持つように両手にチーズを重ねて登場したのが、オーヴァート。
「返してこい」
 生物を瞬時に作り出すことのできないオーヴァートがチーズを持っているということは、どこからか盗んできたに他ならない。
「気にする事は無い。一欠片のチーズの時を戻して円形にしたんだから」
「そんなことで、時間干渉するな」
 大陸でただ一人 ”時間に干渉” できる男は、誰の腹にはいったものか解らない、チーズの残りを復元して笑顔だった。
「祭りしても良いですか?」
 大量のチーズを前に、ヒルダはやる気で、その祭りの行われている国の国王に許可を求める。国王のミロも怪しい笑顔で、
「もちろん。さて、参加するためにはこの服を脱いで……」
 参加許可と共に、動き辛い上着を脱ぎ、靴にズボンの裾をしまい靴紐を硬く締めはじめる。
「参加者五名ご・あ・ん・な・い〜」
 チーズを持ったまま、オーヴァートが叫ぶ。五名の内訳は、ミロ、ヒルダ、オーヴァート、そしてヤロスラフ。最後の一人は、
「別に俺、参加するとは言ってないんだけど……まあ良いか」
「そうだ、気にするなエルスト」
 逃げ足だけはやたらと早い男、エルスト。
 それらを聞きつつ、まだ必死に、いや今までよりも必死にスケッチブックに向かい炭を動かしているグレイは ”少しは気にした方が良いんじゃないでしょうかねえ” と思いながらも、決して顔を上げなかった。下手に顔を上げて、目があってしまったら参加させられることは確実。
 あの皇帝と一緒に坂を下ろうものなら、何をされるか解らないどころか、軽く触れられただけで殺される自信がグレイにはある。そんな徐々にエルスト化しつつあるグレイの耳に、あり得ない人物の声が聞こえた。
「では全力を持ってお相手しよう」
 低く、そして不必要なまでに剣呑で攻撃的な声の主が立ち上がったのだ。
「セツ!」
 もうじき四十歳にもなろうかという、大陸の最大権力者が、
「いいねえ。亜種」
 四十過ぎている大陸の支配者にチーズで挑む。

 四十路近辺をうろつく大男達が、丸チーズ、丸チーズ大騒ぎ。

「では全力を持って相手してやろう、亜種」
 でも勝敗を決めるのは全力でチーズですよ。
「お手柔らかに等とは言わん、皇帝」
 だがお手柔らかでもチーズですよ。
「少し落ちつけ、二人とも」
 選帝侯が仲裁にはいるも、チーズです。
 何故そこまでチーズで熱くなるのか解らないが、無駄に熱くなっている男達と、
「仕方ねえな、手前等全員強制参加だ」
 横暴な審判確定の美女。
「頑張りますよ」
 拳を掲げる、事態の発端となっているヒルダ。
「追いつかないけど、走ってみましょう」
 斜面を駆け下りるだけしか出来ないことを理解しているマリア。
「ここは親睦を深める為に、参加するべきだろうな」
【あんた、本気で親睦深められると思ってるのか? 警備隊長さん】
 本気で丸チーズで学者の長と、別宗教の実力者と対話しようとしている、間違った真面目さを恥ずかしげもなく披露してくれているクラウス。
「やっぱり、俺も参加するの? ミロ」
「しないと駄目だろう、バダッシュ」
「まあ、ドロテアの命令だからな」
 好きな女のためなら死ねる男にとって、斜面のチーズを追うことくらい何て事は無い。
 こうして長らく静寂であった高地で、祭りが開催されることとなった。イリーナとザイツはチーズを両側から支え、ドロテアが蹴り飛ばす手筈。
 グレイはなんとか参加を逃れ、参加が決まっているミゼーヌはにこにこしながら肩を回す。
 大人しそうなミゼーヌだが、義理父はオーヴァートで、義理母はドロテアの大天才。普通の人の感覚で考えてはいけない。
「あの二人を唯一脅かせそうなのはお前だけだな、レイ」
「あ……うん」
 身体能力勝負では負けると感じる事の少ないレイは、今回はその ”少ない一つ” だと思いながら丸チーズを見つめた。

 それは海と砂漠に挟まれたパーパピルス王国において、豊饒を祈る祭り。
「いくぞぉ!」
 黒衣の女が、その可憐な唇から似合わない怒号混じりの合図で、
「このバトシニア=オーヴァート=フェールセン=ディ=フィ=リシアス! 正式名称は長いので省略! が! 全力で傾斜を下ろうではないか!」
 豊饒から縁遠いというか、豊饒を阻害しそうな男が叫ぶ。
「カルバライン=ヤロスラフ=エールフェン=ディ=ウィド=ウィルトバイル! 旧名は省略! が! 皇帝の意志に従い参戦する!」
 これは丸チーズを追いかける祭り。多少の怪我人は出るが、抜き身の大剣を持ちながら宣誓するものではない。
「バダッシュ=セヴォルバイデン=シルヴィウス=シン=ロートリアス! まだあるけど、やっぱり俺も名前省略! で、参加!」
 あくまでも素朴な祭りであって、こんな名前の長い人達が決闘さながらに名乗りあってする物ではない。
 全く違う方向につき進みつつある祭りだが、本来行われている国の国王宣言。
「ミロ=ヴァルツァー! 正式名称は長いからやっぱり省略! この祭りが平和に怪我人もなく終わる事を期待しつつ、開会の挨拶とさせてもらおう! 故国ではしたことないけどな!」

 何時の間に国王開会宣言に。そして平和で怪我人なくとか、無茶を言うものだ。

 各々の意地とプライド、それを遙かに上回る、まさに凌駕としか言い表しようのない馬鹿さと阿呆さ加減で彼等は傾斜を駆け下りた。
 目の当たりにしたグレイはスケッチに使っていた墨を取り落とし、イリーナとザイツは馬の視界を必死に遮った。
「おらぁ! 次行くぞぉ!」
 四神の力を自由自在に操れるドロテアは、丸チーズを特殊な力で包み、それをたたき落とす。触れると弾かれる勇者、選帝侯。
 それにもめげずに立ち上がり、剣をふるい切りかかる勇者、そして同じく大剣を振り回しながら丸チーズを追う選帝侯。
 色の濃い雲の影を映す緑の斜面を駆ける銀髪や深紅のマント。
「これが皇帝の力だぁ!」
 叫びながら頭にウサギの耳を生やす皇帝。
 それに意味があるのかとか聞く者はおらず、疑問を感じる者もいない。凡人は絶句するのみ。絶句以外に凡人に何ができようか?
「オーヴァート様! ウサミミは意味ありません!」
 未来の学長、少年と青年の狭間に位置する大天才は華麗に突っ込みながら、転んで斜面を滑り落ちていった。
 斜面に生えている草は、かなり滑りやすい。
「似合わんぞ! 皇帝!」
 もう一人、突っ込んだのはセツ。
「言うなよ、亜種」
 駆け下りながら、頂にいる者達に届くような大声で会話する二人。
「言わねば解らぬ! それが皇統フェールセン! それは俺が誰よりも良く知っている! お前の従弟もそういう男だ!」
 大陸で最も尊敬を集める男の実情を暴露しつつ、殴りかかる。
 これは暴力で奪う祭りではない。あくまでも平和的に、斜面を駆け下りてチーズをつかみ取るだけのもの。
「そんなこと、知ったこっちゃねえ! 勝つ為に手段は選ばねぇ!」
 世界の平和を説く男の心からの叫びが、山々に木霊した。

 世界はどこか暗さを帯びているが、ここだけは偽りといえども底抜けに明るかった。
 そして祭りは終わる。

 両腕に丸チーズを持ち、持ちきれない丸チーズを頭の上に乗せて高らかに、
「一位、俺! オーヴァート」
 大陸の支配者は叫び、
「二位、俺! セツ」
 大陸の最大権力者は吼える。
 負けたのは丸チーズ一個分。そう、頭に丸チーズを三個重ねているのが勝者であり、敗者は二個。
 咆吼を上げる二人を尻目に、ドロテアは打ちひしがれている二人に声をかける。
「参加最高齢と次点の勇者になに負けてんだよ、選帝侯に若い勇者」
「選帝侯が……皇帝に……勝て……るわけない……だろ」
 ヤロスラフの背中は哀愁が、
「迫力に負けた」
 レイの背中は絶望感が漂っていた。
 卑怯なまでの身体能力を所持する皇帝と、迫力だけなら誰にも負けない最高枢機卿が全ての丸チーズを奪い取った。
「心配ご無用!」
 怜悧で知的な顔を台無しにする丸チーズに囲まれた姿で、オーヴァートは話はじめた。
「何が心配無用なんだ? オーヴァート」
「俺達が踏みにじった花と草は、時間干渉で元に戻っている。もちろん、因果律を全て排して」

 お前が最大の因果律だ、皇帝。

 そんな時間の呟きが空耳として聞こえてきそうな叫びを前に ”因果律である本人が因果律に干渉することにより、起こる因果律は回避できる因果律である以上、因果律であり得ない。だが実際に干渉により因果律が排されその物質は……” 考えはじめたドロテアの脇で、今度は溜息が聞こえた。
「チーズ、食べたかった……」
 提案者のヒルダは羨ましそうに、二人の頭上にある丸チーズを眺めて、涎を啜る。
「それだけか? ヒルダ」
 丸チーズだけならば食欲もそそるが、持っているのがオーヴァートとセツでは食いたくもない! というのがドロテアの正直な気持ちだったが、
「それ以外、何があるというのですか! 姉さん!」
 妹は関係無いらしい。
「……」

 その頃エルストはと言うと、
「エルスト! 何でお前は、湖で泳いでいるのだ!」
「オーヴァートに飛ばされた」
 地下に聖風神が封じられていた施設のある湖を、再び一人泳いでクラウスに叱られていた。


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