ビルトニアの女
神の国に住まう救世主は沈黙の果てに飛び立つ【4】
 機敏に立ち上がった彼女は、ドロテアのほうに視線を向けてはっきりと答える。
「おりました」
「あんたに聞きたいんだが、あんた兄がいるだろ?」
「おりましたが……既に」
「本当に死んだと思っているか? あんたの兄は死せる子供達を集める為の “作為的” な事故で遺体も何もなかったそうだな」
 この瞬間、聖職者が一斉にざわめいた。
 死せる子供達、そして失ったとされる《兄》 セツの性別は不明ではあっても、誰もが知っている。
「それは私には答えられません」
 ざわめきに平常心を失いかけたシスターは、胸の下辺りで指を絡めて祈りの姿勢をとり答え続ける。
「子供の頃、兄と一緒に上半身裸になって川遊びとかした事あるか?」
「ありますが? ……何か?」
「兄の上半身を確りと見た事があるか? 言ってはいけない事だと教えられているのかもしれないが、もう死んでいるのならば言っても構いはしないだろう」
「……あります」
 シスターの指は自分の手の甲を強く押す。クナが側に寄り、手から力を抜くようにそっと手を乗せる。
 シスターも、クナも法王も、そしてこの場にいる誰もがセツの正体を知ることを恐怖していた。
「随分昔の事だが、思い出せるな?」
「はい、それは確りと思い出せます。寝る前に何時も脳裏に描いております……いつか会えた時、確認できるようにと」
「上出来だ。最後にアレクス」
「はい」
 立ち上がろうとした法王を、ドロテアは黙って座っていろと手で制する。
 クナはシスターに座るように促し、彼女はやっとの思いで座り頭を下げて祈り始めた。
「十三年前、セツが大怪我をしてお前が側を離れなかった時のことだ。それはセツが治すのを拒んだんじゃなくて、治せなかったんだろう? お前の力を持ってしても治せなかった」
 《勇者》とは《皇帝》の作った、戦闘に特化した特殊兵であり、その耐用範囲を決めることが出来るのは皇帝。この世界においてはオーヴァート=フェールセン。
「……はい、そうです。セツの身体は私の法力を受け付けませんでした」
 オーヴァートよりも下に位置する法王は特殊兵を治療する権限がない。
 言い換えるなら、セツは廃帝が治療することの出来ない種族。
 廃帝が治療することの出来ない種族は二つ、選帝侯と特殊兵。二人しか存在しない選帝侯がはっきりと確認されている以上、セツは特殊兵にあたる。
「だが、三日で治った。クナの言葉に間違いはないな」
「はい」
「常識的に考えて、人間が普通三日で治るような傷か?」
「セツ以外の者であれば、即死でしょう。それと……毒を使われたような気がすると申してもおりました」
「肩から腹にかけての斬り傷だったな」
 ドロテアは指で傷を示すようにする。
「そうです」
 それをみて法王も自分の体で、傷の状態を指で示す。
「その時セツの上半身見たな、アレクス?」
「はい、見ました」
「その時、変わったものを見なかったか? 胸元にかなり大きな特殊なものを。俺が想像するに、緑色じゃないか? セツと、そしてそこに居るシスター・マレーヌの瞳と同じような緑」
「……はい」
 ドロテアは無表情のまま大声を上げた。
「レイ! アード! 来い」
 台に上った白銀の髪の男と、突如現れた同じ姿の幽霊。
「シスター・マレーヌ。この右手側に居る男の名はレクトリトアード、真面目に修道女してたアンタは知らんだろうが、マシューナルじゃあ有名な闘技場無敗の男だ」
「レクトリトアード……」
「そして、左手側に居る男は幽霊だ、焦って死人還しなんてかけても効きはしねえよ。コイツは特殊な霊だ。こいつの名前もレクトリトアード。レクトリトアードってのはな、現代語じゃあ「勇者」って意味を持つ」
「勇者……」
「じゃあ行くぞ。二人とも、見せてはいけないと言われていた ”そいつ” を見せてやれ!」


 胸にある、特殊な形をした痣


「見覚えがないか? マレーヌ、そしてアレクス!」
 法王は答える。
「色以外は全く同じです」
 その声を聞きゆっくりと頭を上げたシスターは、黙ってその痣を見て息を飲んだ後、ドロテアの欲しかった答えを返した。
「痣も名前も兄と同じです……」
 シスター・マレーヌの瞳から涙が溢れ出した。
 それは兄が生きているという事実、その兄が最高枢機卿であるということ。そして勇者という存在であること。
「エピランダのレクトリトアード、キルクレイムのレクトリトアード、ヒストクレウスのレクトリトアード、そしてクレストラントのレクトリトアード」
 聖職者にとっては聞きなれない言葉の羅列。だが二人の聖職者が反応した。
「クレストラントって!」
 聖騎士となったマリアは “クレストラント” を覚えていた。
「聞き覚えありますね、その名前。何処で聞きましたっけ?」
 おや? といった感じで呟いたヒルダ。
「一番最初に出てきた一番強いと思われてた敵。ドロテアに直ぐに蒸発させられちゃった方」
 エルストは “あの時大変だったよね” と笑って答える。
「あ〜。あの時ですか、耐火魔法が大変……え?」
 ヒルダは持っていた聖典を手から落として、台の上の姉を見つめる。
 エルストが言った言葉が真実であるなら、あの時《倒した》のは……
「エピランダは聖火の守護者、キルクレイムは聖水の守護者、ヒストクレウスは聖地の守護者、クレストラントは聖風の守護者という意味だ。それで質問だ、クラウス」
「はい」
「ギュレネイス皇国の北で今から三十三年前以降、地図から消滅した村の名前は」
 連絡を入れて調べろと命じられたギュレネイスの真面目な警備隊長は、その答えを伝えるべく自らが直接出向いてきた。
「ヒストクレウスです」
 クラウスはいつも通り強張ったような表情で答える。
「マレーヌ。いや……エセルハーネ、あんたと兄が生まれた村の名前は?」
 誰も聞かなくても “それ” は解った。
「ヒストクレウス」
「さあ! はっきりと聞こうじゃねえか! アンタの兄の名前はレクトリトアードで間違いないな!」
 ドロテアは謎を解いたというよりは、真実を暴いた残酷さを露わにして叫ぶ。
「間違いありません。私の名前はエセルハーネ、兄の名前はレクトリトアード」
 それはシスターに対するものではなく、自分自身に対してのものだが、この場に居る者達にはそう映りはしないだろう。そんなことは関係ないであろうが。
 腕を交差し、鳶色の大きな美しい瞳見開き、罵声しか飛ばさない桜色した美しい唇を、少し色の薄い舌で舐める。短い亜麻色の髪は風に揺れ、この静まり返った空間に色を与える。
「この大陸ではレクトリトアードだけが胸にこの文様を持つ!」
 セツに関しての謎を、公衆の面前で解くことは帰路を消し去ることでもある。
 同じ人間とは思えないほど美しいと言われた女は、他者の力により美しく生まれて育ち、そして自らの意思で人間ではなくなる。
「はい……そのお二方と同じ模様を持つレクトリトアードが兄です。村には兄以外にその文様を持つものはおりませんでした」
 俯いた彼女の顔を隠している濃紺のウィンプルが、何度も震える。
 泣いている彼女にドロテアは声をかけることはしなかった。
 “あんたの兄は、ずっとあんたの事を心配して、あんたの居る教会が見える部屋を陣取っていたし、本当は一緒に帰るつもりだった”
 それを告げるのは簡単だが、告げた後のことを考えるとそれは余計なことになる。
 セツの血縁と知れただけで、彼女はもうシスターとしてエド法国には居られない。その上、気の留めていたなどと言う言葉を、他の誰でもないドロテアが言ってしまえば、それは彼女を寄り一層追い詰める。
 誰も聞いていない場所で、セツから直接に語られるべき言葉であってドロテアが彼女を慰めるために言って良い言葉ではない。
「さあてと、面倒だが話を続ける。聖職者全員に聞くが、お前等の真君アレクサンドロス=エドってのは、実際何処に行ったと思う?」
「何処って……」
 突然自分達の教義の原点を問われ、聖職者は焦った。
 その事に関しては、誰も知らない。
「エドの生没は不詳だ。そして、エドに伴侶や子供がいなかったと言い切れねえのも認めるな」
「……」
 誰もが答えに詰まった。
 ヒルダも聖典を拾い上げることなく、黙って聞き続ける。あえてエルストもマリアも拾い上げないで、そのままにしていた。
 この聖典は落し物ではなく、ヒルダの長い年月の間をかけて学んだ全て。今それが此処で、僅かながらに揺らいでいる証拠でもある。聖典を拾い上げるか、そのままにするかはヒルダ自身が決めること。
「それで、この勇者の幽霊は何で構成されているかわかるか?」
 ドロテアはアードを指差しながら、目の前に居る聖職者達に問うた。
「大部分は水の精霊ではないでしょうか?」
「その通りだ、アレクス。ならば聞こうか? 水の勇者とは誰の事を指す?」
「ハルベルト=エルセン」
「此処に居るのは勇者。では、勇者ハルベルト=エルセンの子孫王は誰だ!」
 怒気を込めて《皇帝への殺意の元凶》を作った男の名を呼べと、皇帝の従弟に鋭い声をぶつける。
 そのあまりの怒気にエギやトハが立ち上がり、法王を庇う。
「マクシミリアン四世であろうぞ」
 泣いているシスターの手を握り締めながら、クナが放心したように答える。これを答えるという事は、隣国の王のほぼ全てを否定することになると知りながらも、クナはドロテアを見て確りと答えた。
「エルセン王国は何故男児のみが継承権を持つ? マクシミリアンの伯母ヘレネーは何故王位を継ぐことができなかった?」
「それは長女が……長女、まさかその水の守護者である勇者は長女の血統! 長女の血統に……マクシミリアン四世は、ハルベルト=エルセンの子孫であっても、ハルベルト=エルセンという勇者の子孫ではないのじゃな」
 身内の策略により両手両足を失った王の、寄るべき場所をも破壊した。
 クナも王族に生まれた者であり、王位継承権に連なっていた王女。自分の発言が王とその王国にどれ程のダメージを与えるかも解っているが、それでもクナははっきりと言った。彼女は王族ではなく、法国の聖職者としてかつての盟友の国の偽りを暴く。
「その通りだ、クナ。勇者の血統を伝えたのは長女の血。奴等は “王国” には、己の力を残さなかった。だが、違う場所には残した。意味は解るな?」
 クナは一度頭を下げてから、立ち上がり法国をも揺るがす言葉を叫ぶ。

「エド正教ザンジバル派に属するセツ最高枢機卿こそが、アレクサンドロス=エドの血を引く正統なる後継者なのだな」
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