ビルトニアの女
赤い川は海に還りその花は散るのみだと【14】
 私は警棒を構えてエルストを急かせる。
「エルスト! 早くしろ!」
 既に階下にまでアンデッド達は到達していた。私がかける「早くしろ」の声はこれで何度目か、この状況ではこれ以外かける言葉はない。そしてその声をを受けても何時もながら焦る事のない、余裕の表情のエルスト。いや、余裕は無いのかもしれないが、恐怖は全く感じてはいようだった。片膝を立てて鍵を前に指を動かし続けるエルスト、カチャリカチャリと魔法の鍵が外れてゆく音が呻き声の間に聞こえてくる。
「……あと少しだ、1・2・3、やった外れた!」
効力を失った鍵が消え去るのを確認して
「戻るぞ」
 そう言い終える前に突然エルストが肩に手を置いて五階あたりを指差した。その方向を見ると、そこには生きている人間がいた。私が率いてきた警備隊員でもなければ聖騎士でもない、ましてイシリア教徒でもないその男。
「この場で見慣れないギュレネイス人って事は、間違いなくゼリウスに関係するやつだろうな、どうする? 捕まえるか、捕まえるなら協力するぞ。どの道、アンデッドを薙ぎ払って退路を作らなきゃならないんだから、捕まえに向かっても大丈夫じゃないかな」
捕らえるのは危険極まりないが
「……危険を感じたら直ぐに逃るんだぞ、エルスト。命令だ」
「了解しました、隊長殿」
 アンデッドに襲われ逃げている男を追走していると、何処からか言葉が聞こえてきた。奥まった方向から何人かの男達が走ってきて、そして彼を助ける。その中の一人が私達の存在に気付き、指差しながら何かを叫ぶ。彼等の持っている武器が遠距離攻撃を出来るものがないので逃げずに私はその場に止まった。ただ、彼等の武器は見慣れた警棒である事が目に止まる。
『やはりゼリウスか……』
 ゼリウスが敗北した際に息のかかっていた警備隊員が何人か辞めたと聞いている。司祭が変われば前の司祭の側近が辞め事と、司祭戦で敗北した者の息のかかった部下も辞めていくのは殆ど慣例だ。それで行けば、私の今の閣下が司祭の座から落ちる事や、病で死ぬ事があればこの地位から転落する事になる。
 自分の努力ではどうにもならない……だが、納得いくだろうか? 自分自身
「クラウス、あっちだ!」
 隣に居たはずのエルストが、右斜め上から声をかけてきて私は正気に戻った。いつの間にか上階にのぼっていたらしい。
「何故解かる?」
「あっちにアンデッドがいないからさ! いたら助けに来るわけないだろう」
「なる程」
考えても仕方ないことだ。上階からのばされたエルストの手に、飛び捕まり上に登る。
「全員警棒持ちか。あんな特殊な武器を使うのは、ギュレネイス警備隊くらいのもんだからなあ。得意武器を使われるよりかはマシだがよ」
逃げる男達に並走しつつ、姿が消えた渡り廊下を確認して
「こっちはどうやらあまんまり人の臭いがしないからいないみたいだな、壁にひっついてこの足場で何とか向こうに行けそうだが」
「私が先に行く、警戒していてくれ」
「はいよ。足踏み外すなよ」
 冷たい塔の外壁に体を押し付けながら、僅かな足場だけを頼りに進む。幸い誰も現れず、二人とも無事に一本の渡り廊下に着地した。
「この先みたいだな」
 血の後が点々と床に散っている、触ってみるとまだ血が凝固していない所から先ほど襲われた男の血と見て間違いはない。
「随分と入り組んだ場所にあるな、これでは通常のアンデッドでは辿りつけ……」
渡り廊下を歩きながら入り口に向かっていると、辺りが見慣れた青白い結界で覆われた。
「対アンデッド結界だけれど、俺達生きている人間は出入り自由のようだな。デカさからいっても施設結界だろうが……おいでなさった。意外と多いじゃないか」
 開いた扉から出てきたのは十名。その中にゼリウスもシュタードルもいない所を見ると、内部にはまだ二、三人の兵士が残っている筈だ。
「こんなに居るとは思わなかったぞ、エルスト」
 警棒を高く掲げる。相手が警備隊員であれば『降伏しない』という合図だと直ぐにわかるはず。
「俺もだよ」
予想通り、向こうも警棒を高く掲げた。どうやら殺す気らしい
「退却するか?」
「背中向けて逃げたいのは山々だが、向こうさん弓持ってるぞ。あいつ弓使いのレッセンじゃないか? やっぱりゼリウスの息のかかったヤツは一緒だったか」
「そのようだな。ではアンデッドの中を走りぬけるか?」
「足には自信あるけどさ、それは障害物がない状態での事でな」
「なら、前に進むぞ!」
 エルストはレイピアを、私は警棒を構えて駆け出した。
 魔法の使用できない、あまり幅のない一本道の渡り廊下で対面したので、戦えないわけではないが何せ数が少ない。
 エルストが二人の警棒攻撃を受けている時、背後から来る弓矢を払い落とす、そんな防御的な動きかできないまま段々と押されていく。気がつけば、背中は既に結界の縁でここから押し出されたら、まずい。アンデッドは近付いてきていないが、敵の中に弓を使うものがいる。飛んで逃げるには此処は空間が少ない。
「多勢に無勢、か」
背中を向けて逃げて矢を受けるのも馬鹿馬鹿しいが、この劣勢は覆せないだろう。
「十対二で多勢に無勢なんていってたら叱られるだろうなあ」
 誰になどと合いの手をいれる事はしない。だが、魔法が使えない状況で十対二、相手は嘗ての警備隊員。それも武芸の実力者だったもの相手では数が少ない此方の方が分が悪い。
「チトーの犬が」
「閣下の犬の名はエリザベス殿だ、覚えておくがいい」
 本当はゼリウスの犬め、と言い返したかったがそこまで余裕は無いようだ……そう考えている自分の虚勢ぶりに笑いたい気分になる。
「逃げ場はないぞ」
「言われなくても解かっている」
 ゼリウスが司祭の座を得ていれば間違いなくこのレッセンが警備隊長の座についていただろう。
「そっちはフェールセン人か」
「はいはい、レッセン隊長候補さん。だが此処で死ぬ訳には行かないんでね。俺達常人レベルじゃあ魔法は使えなくて結構ヤバイ状態なんで、助けてもらえるかな?」
「貴様!」
“隊長候補さん”の言葉に激昂したレッセンが矢を番える
「全員眠らせてくれるか、永眠じゃなくて俺が合図出したら目を覚ます程度で」
バンッ! と弦から矢の放たれる音と同時に突如響いた声。
「任せて置け」

矢は空中で霧散した。
正確には刺さったのだ、何かに。

**********

 刺さった矢を霧散させた、突如現れたものにクラウスは警戒と威嚇を含んだ声で叫ぶ。
「何だっ!」
 躯を覆う紫色の髪とドス黒い肌色をした長身に引っかかるくらいの身長を持つエルストの倍の高さに、躯周りは二倍ほどもある。いつもはミニチュアサイズで呼び出される神様・毒神ロインであった。
「よお、使って悪いな。俺なんかが使役して」
ドロテアに最も召喚され、どつき回された神は
「ドロテア怖いから、ドロテア怖いから。あの扉の中にいるのも寝かせておいたよ」
とてもサービス心が旺盛だった。
「ありがとな」
 エルストが普通に話している相手だが、多少魔法を使う人間ならその力に気圧される。
「な、なん……通常の精霊神じゃない、だろ」
 見た事はなくても、これが通常の精霊神ではない事はクラウスも直ぐに感じ取った。クラウスを見下ろすように向き
「毒神ロインだ。お前は覚える必要もないだろうな、俺を呼び出せる事など永遠にないだろうから」
 ロイン本来の口調で喋った。本来ならばとても高位で中々に高圧的な神様なのだ、普通だったらな。
「ロイン! 聖火神の上位五神の?」
「そう。なあロイン、あの扉の中を確認したんだけど良いか?」
「ああ、いいぞ」
「確認し終えたら、全員を連れて戻りたいんだけど協力してもらえるか?」
「勿論。此処で協力しないで帰ったら俺が大変な事になる」
何が大変なのか? などと聞き返す必要は無いだろう。
「早く行くぞ、クラウス!」
 ロインの姿に気をとられているクラウスの手を引いてエルストは急いで扉へと向かった。
「あ、ああ……」
 扉の中に踏み込むと、だらしなく眠りこけているゼリウスとその警備をしていたに違いない二名の兵士と先ほど襲われて怪我をしている男。室内は予想通り、内部からの制御を行う場所で相当に広く生活するには不自由ない空間が揃っていた。食糧は何処から調達しているかはわからないが、今はそれを探っている時間はない。倒れているゼリウス以外の兵士二人を指差し
「この二人のうちの一人がシュタードルって事はないよな」
エルストが尋ねる。
「こんな顔じゃない。何十年経ってもあの顔は忘れるわけがない」
とクラウスが答える。
「じゃあ、シュタードルは何処にいるんだ? やっぱり“死を与えるもの”を復活させたのはシュタードルか」
「だろうな」
「それにしてもこの内部、本があればここから制御できるんだろうけれど」
「入り口にアンデッドが入室できないような仕掛けを張って、明日にでも来て操作しよう」

 この頃には既に本が二つに裂けて使い物にならなくなっているのだが、残念ながら二人は知らない。

 ロインに戻るから協力してくれとエルストが話しかける。クラウスが話かけてもロインは反応を全く見せなくなった、元々召喚された精霊神というのはそういう類のものらしい。エルストは気にせずに
「お返しって言っちゃあなんだけど、なんか困った事があったら協力するから。いや、ドロテアを協力してくれるように説得するよ、確約はできないけれどね」
 不確かな約束をロインにしていた。語尾に『確約できない』というのがつくのがエルストらしい。
「その申し出、ありがたく受け取っておく。ところで俺も協力しようか? 全滅とかさせるのはちょっと力の制御を間違うかも知れないけどさ」
 ロインくらいの高位の神が力の制御を間違うと、イシリア教国にいる生き物が死滅するくらいの事は簡単に起きる。今ロインを呼び出したのはエルストだが、力の制御は全く行っておらず、ロインが自分の意思で力を制御している。召喚というのは根本的に『世界で使える力だけを呼び出す』もので、別に神の魔力を使役しているわけではない。『召喚した神の力の一部を自分の力で押さえつける』という二種類の魔法を同時に使うものなのだ。
 オーヴァートやアレクスが神を召喚できなくしてしまうのは、この制御する力がやたらと強いのも原因の一つでもある。人が制御して世界上で使える力を決め放出しないと大惨事が起こる、とは言っても神も一応は世界上でどのくらいの力までなら使えるかくらいは解かってはいるので自分自身である程度は制御できるのが、あくまでも神の常識の範囲内なので危険も大きい。
「いやいや、それはいい。俺もほら、役に立たないとドロテアに叱られるし」
ロインの力の暴走以上に怖い事もあるらしい。
「そーか大変だなあ。俺の妻はそんなに怖くないから解からないけど」
「へえ、奥さんいるんだ」
この状況で何世間話しているんだ、エルスト?
「美人だぞ、人間から見ても綺麗に見えるはずだ。ドロテアの顔は俺達から見ても綺麗なのと同じように」
「ドロテアって神様達からみても綺麗な顔立ちなんだ」
「おお、俺も長い事生きてるがドロテアみたいなのは初めてだ、神も動きを止める美女ってのは。……性格も初めてだけどさ」
「あ、うん……ドロテアが歴史上何人もいたら困るよね、色々とさ」

うん、色々ね

 ロインの協力で塔を脱出し、そのまま結界の張られている場所の近くまで無事到着した。ロインは捕まえてきた彼等を道端に放り投げると
「まあ、何かあったら呼びな。あとドロテアに全員の無事を報告しておくな」

 ロインはそう言い消えていった。因みに全員というのは、エルストとヒルダとマリアの事であってそれ以外の人間は数に入っていない。

「そうは言ってもな、そう簡単にはねえ」
「だろうな、召喚者なしで召喚神を従えるなど前代未聞だ。よく従ってくれたな、最上位神と言われるロインが」
「ロインもドロテアが怖いから。本気で怖いんだってさあ」
それは理由になるのだろうか? 事実なのだが。聞かなきゃ良かったとクラウスは思いつつも
「……あ〜……ゼリウス逮捕に協力してくれて……」

『ロインに召喚命令をだしてあるから、何かあったら呼び出せばいい。え? 此処から向うに呼び出して対処すれば? って。俺の魔力じゃあこんな遠距離で制御できねえに決まってるだろが。お前を介して一時的な召喚を出来るようにするのが精一杯だ。だが、あまり……使うな。場所が場所なだけに、ロインでも対処出来ないモノがあるかもしれないし、一応召喚者が居ない状況で長時間位の高い神を召喚しているとロイン自身が力制御不能状態に陥ったりする可能性もないわけじゃないからな。でも、マズイと思ったら直ぐに呼び出せよ。そこら辺りはお前の判断に任せる』

「協力してくれて……感謝する」
「気にするなよ、友達だろ?」
「あ、ああ」
 全く気にしていないよと、手を振りながらエルストは皆がいる結界の方へと歩き出した
「さてと、コイツラ運ぶ人でを連れてこなきゃなあ」
「此処に転がしておいては危険じゃあ」
「大丈夫、仮死状態だから生きている人間には感じられないようになってる」
「か、仮死な……」
 二人はゴロゴロと転がっている仮死状態の犯罪者を置いて、やっとの事で結界へと戻ってきた。時間的にはマリア達が戻ってきて三十分経ったか経たないかくらいの頃。結界内で皆の食べた食器を下げているヒルダが気付き手を振る

「あっ! エルスト義理兄さんとクラウス隊長さん! 無事で何よりです!」

 眠っているゼリウス達を縛り上げ猿轡をかませて結界の中に急いで作った拘留スペースに入れ、エルストが「は〜い、起きてください〜」とやる気の全くない声で彼等を起こした。何が起こったのか解からない彼等をまずはそのままにしておき、クラウスは報告を受けた。
「警備隊の失態だな」
本の紛失が伝えられると、険を浮かべた眼差しを共に部下を叱責する。
「ですが! 隊長!」
「弁解など聞くつもりはない。弁解するよりも先にこの状況を以下に解決するかに最善を尽くせ。まさか今まで無策で八つ当たりなどをして過ごしていたわけではないだろうな」
『偉くなったなクラウス……あれ?』
 部下達に指示を出しながら聖騎士団隊長と話をしているクラウスの後姿を眺めながら、エルストは悲惨な状況に遭遇した可哀想な本を手に取る。赤というよりはどす黒い血の指紋がべたべたとつき、人間の力だけでは到底裂けないはずの分厚い本が真っ二つに引き裂かれていた。確かに綴じ目から真っ二つだが残っている頁数までは仲良く均等に分けられたわけではない。本を持ったまま襲われ本を離せ! と叫ばれても手を離さずアンデッドの群れに飲み込まれた学者が握っていた部分の方が圧倒的に多い。残っているのは僅かな頁のみで、それも殆どが汚れで精密さが勝負の遺跡やそれに順ずる建築物関連の本としては既に役に立たない部類になりはてていた。
 その汚れた写本を指でつまみながら、エルストはある事に気付き頁を開く。
「……マリア、ヒルダは?」
 読み取れる部分と覚えのある図形、エルストは学者でもなければ古代遺跡に興味があるほうでもない、むしろ興味は全くないといってもいい。その潔いまでに全く興味を持たない性格がドロテア達に『秘書として使い勝手が良い』と言われたくらいだ。下手に興味を持つような向学心に溢れている無資格者は秘書には向かない。そのうち自分でも触ってみたいという欲求に駆られる、勿論その後入学して卒業すれば問題ないのだが気の向くままに触らないとも限らない。
 そのような前向きな興味を一切持たないエルストは当然『仕事だからコレに目通しておけ』とでも言われない限り難しい図形や、読むのに辞書の辞典の事典の辞書が必要になるような言語が記されている本を開く事はない。
 そしてエルストがイシリアを訪れたのはドロテアと共に通りかかったのが始めてで、此方方面の遺跡の探索の手伝いをした記憶もないのに読んだ記憶が存在していた。正確には『見た』事がある。
「食事の準備中だけど?」
 ヒルダはエルストとクラウスに食事を運んでくると足取り軽やかに消えていた。
 マリアの答えにエルストは頷きながら意識は本に向けていた“似たようなものに目を通したことがあったか?”と一瞬考えたが頭を振る。たいして記憶力の良くない自分がこの旅以前、一年近く前に強制的に目を通すように命じられた本の内容を覚えている筈がない、と自分の限界と性質を理解しているエルストは思い直し、記憶にある見たかもしれない場所を思い出しページを捲り『同じものだろう』確信を持ったと。
「そうか……じゃ、戻ってきたら聞いてみるか」
 その役目を終えたと言っても良い本を閉じてマリアに向き直る。
「どうしたの?」
「もしかしたら、打開策が見つかるかもしれない」
 余程の事がない限り難しい本を開く事はないし、旅の途中でその手の本を開いたのは一度きり。印象深かったその本。血塗れた本を持ちながら、頷いているエルストをみて
「エルスト……」
「何だい、マリア」
「今回すごく役に立ってるわね」
「あ、そう? そう言ってもらえると嬉しいな」
「ドロテアにもちゃんと伝えておくわよ、役立たずの中でひときは精彩を放っていたって」
「ははは、アンデッドの中で精彩を放っていたでも良いよ」

 そりゃまあ、相手はアンデッドだから精彩は放つだろうよ、エルスト一応生きている訳だしさ。

 本日の食事は粥だった。疲れた胃腸を労わる消化のよいもの……だが量が全く労わっていなかった。
「非業の死を遂げてしまった勇気ある人達の分を皆に均等分けしました。ですから少しエルスト義理兄さんとクラウスさんの分は一人三人前です。遠慮しないで食べてくださいね! 足りなかったらおかわりも持ってきますから!」
 エルストは心中で死んだ奴等に悪態を付いた、クラウスは定かではないが多分心の奥底で勝手に死んだ者達に舌打ちしたかったに違いない。明らかに『鍋そのまま持ってきました』なのだ。二人とも表情的に遠慮していたが、姉に『ニブイ』と言われるヒルダは全く意に介してはいなかった。が、そこにさすがにマリアが助け舟を出す
「ねえ、ヒルダ。一人分を分けてあの捕まえてきた人達に食べさせたらどうかしら?」
「それが良いよヒルダ! 大事な証人だし!」
「それが宜しいと思います、ランシェ司祭!」
 腹が重たそうにあお向けに寝て、もう食えません〜と小さく呟いている若い聖騎士や警備隊員を横目に二人は口を揃えて必死に説得する。
「……え、でもこれだけじゃあ足りないでしょう、十四人もいるんですよ」
 多分下っ端だからと食わされただろう彼等は明日の朝まで食事をしなくてもいいに違いない。
「多分大丈夫よ。……それに、捕まってる人だからそれほど食べさせなくてもいいでしょう、餓死しない程度でいんじゃない? どうせドロテアが来たら殺されるかもしれない人たちなんだから」
マリアの『エルストの如きフォロー』に
「そーですねー」
それで良いのか、司祭! そして

「誰か! ランシェ司祭から受け取って捕縛されている者達食わせろ! 早くしろっ!」

それで良いのか警備隊長?
『クラウス、今日一番命令に力が入っているよ』
 エルストは「ふぅ〜」と煙草を吸い込んで目頭を押さえ、事なきを得た事に安堵した。だが、安堵してばかりでもいられない。
「ヒルダ、御飯の準備の前にちょっと」
殺人的な粥攻にあう事を逃れたエルストは、ヒルダを手招きして
「どうしたんですか? エルスト義理兄さん?」
「この本、見覚えないか?」
 血塗れた本を差し出す。ヒルダは受け取り、頭をかしげながら何頁か捲り、そして
「う〜ん……どうかな〜姉さんの家で見た事はないような……あっ!」
声を上げた。
「知ってるの? ヒルダ」
ヒルダはマリアの質問に澱みなくそして辛らつに答える
「はい! これってエルスト義理兄さんと一緒に見かけた! うんっ!間違いありません、コッチの方がデキが悪いように見えますね。国家所蔵の稀少本のほうがデキが悪いなんて、恥ずかしいというべきか国家の知的財産に対する予算の貧相さを嘆くべきか? それともあの本が立派過ぎたのか? はい、でも間違いありませんよ」
 間違いなくドロテアの妹だよ、とエルストは感じつつ「そうだよな」と確認を取り、クラウスに向き直りこの本が存在する場所を
「同じモノが此処にある」
本を差し出しながら告げた。
「大教会だろう? 大教会の入り口も魔鍵塔で封鎖されているから」
 普通に考えれば大教会にあるだろうが、エルストとヒルダはイシリアの大教会には足を踏み入れたことは無い。この街に来て二人だけで立ち寄ったのは
「大教会じゃなくて、盗賊の寄り合いにある」
「え……?」
「鍵開けを手伝った盗賊を呼んできてくれ、確認したい」
 あの日、エルストとヒルダが立ち寄った盗賊の寄り合いで見た本、それがこの本だった。デキが良く、買って帰ればドロテアが喜ぶだろうな、と思ったが孫の自信作だとテーブルの上においていた爺さんの笑顔を前に見るだけで帰ってきた本。
「解かった、待っていてくれ」

**********

 クラウスが連れて来たのは若い盗賊二人で、中々人好きのする笑顔を浮かべながら話を聞き始めた
「あの顔役の爺さんは此処に来てないってことは……」
「死んじまったけど」
 あの顔役で最もあの本を眺めていただろう爺さんがいれば直ぐに確認できたはずだが、残念ながらそうもいかないようだ。
「なあ、この本凄く汚れてるけど、この図形見た覚えないか?」
 エルストに差し出された血塗れた本に、一瞬ギョッとした表情を浮かべ恐る恐る差し出されたそれを手に取り二人は顔を見合わせながら頁を開き始めた。勿論彼らも難しい文字などは読めないが、特徴のある図形の載っている頁を開いた時
「これ、グレイの落書きに似てるな」
「似てる、似てる。そっくりだ、アイツ絵だけは得意だったからな」
やはり間違いはなかった。
「グレイってあの顔役の爺さんの孫の名前か?」
「そうだ、あんた良く知ってんな」
「一応な。実はこの本が欲しいんだが、まだアジトに残ってそうか?」
「大丈夫だとは思うぜ……アンタラが欲しがるって事は……あいつ大教会に忍び込んで描いたってのは本当だったんだな」
 でも大教会に忍び込んだんだったらもっと価値のある物を盗んでくれば良かったのにな、などと二人は話し始めた。どうも彼等は稀少な本に関する知識は低いらしい。
「ああ、多分世界に二人といない絵の天才だ」
「そ、そうなのか?」
 “絵が得意”どころのレベルではない稀代の画家になる才能の持ち主だ、そのグレイという人物は。
「描いたヤツ、何処に行ったのか全く解からないのか?」
「全然」
「なんか特徴とかあるか?」
「背が小さくて、今はどうか知らないが画家を目指していたから髪は長かったぜ山吹色で、艶がないからバサバサしてて似合わなかったなあ。生きてりゃいいけどよ、このご時勢。歳は二十ちょっとくらいになってるはずだ」
「会う事があったらスカウトしてみよう。オーヴァートが喜ぶくらいの才能の持ち主だからな」

とにかくそのグレイなる人物を探す為には、此処から脱出しなくてはならない

「ま、大教会に入るよりは簡単だろうから行ってみるか」
 エルストは手を組んで背伸びをして、あるかないかわからないような『やる気』を自分に注入していた。
「それに賭けてみよう」
クラウスも頷く。
「あ、私も行きます! でも御飯食べてからにしましょうよ。この麦粥なんですけれど、ゴールフェン特有の味付けでしてね。疲労して帰ってくるだろう皆さんの消化に良い物をと考えましてね。でも肉は必要だと思いまして挽肉を作りまして乾燥野菜と香料を練りこんで小さな団子にしましたよ」
 食べることに関して、ヒルダの探究心が鈍ることはないようだ。
「食ってから行くか。マリアはどうする?」
「一緒に行くわ」
「私も行こう」
「じゃあクラウスと俺とヒルダとマリアで。少人数で行くか」
「俺達も案内しますよ、抜け道とか知ってますしね」
「じゃあお願いしよう。じゃあ、準備でもしてきてくれ。で俺たちは食おう」
 カーペットの上に座り寄越された粥の入っている椀を見ながらエルストは不思議なものを見つけた
「干し肉の肉団子……じゃないよな、これ生肉みたいだけど、そんなもの持ってきてたっけ?」
あまり干し肉は挽肉にはしないと思われる。
「アンデッドに群がってる鳥をしめました。たくさんいたので見えたそばからとっ捕まえましたので、お代わりもできますよ」
 大猟! 大猟! と笑っているヒルダを前に顔がひきつる人がいるのは当然だろう。ひきつっているのは、クラウスだ
「……」
 椀とスプーンを持って硬直気味である。十対二だろうがアンデッドの群れだろうが、最高属神だろうが驚きもするし慄きもするが踏みとどまれるがこれは別モノだ。人間は大きなものを前にたじろぎ諦めがくるが、何とも些細でありながらどうにもならないモノには動揺するらしい。
「大丈夫ですよ、鳥も魚も獣も、家畜であっても死肉を食しているのは基本ですから」
 確かにそれは真実だが、この場でアンデッドの頭上を旋回している鳥を絞めたとなれば普通の人は怯む。
「あ、あの……」
「味は?」
量には怯むが素材には怯まないエルスト
「いいですよ当然」
「美味しかったわよ」
量だろうが素材だろうが怯むことはないヒルダ
普通に食べたマリア
 マリアはオーヴァートの屋敷でメイドをしていた時、世界の珍味というものが“奇怪”なものである事を知って以来殆どの食事に関してタブーがなくなった。“何とかの目玉”とか“何の脳みそ”などが代表的な珍味で、それがよく食卓に乗っていた。

クラウスの頼みの綱だったエルストも事これに関しては役立たず
「じゃあ、食うか」
サカサカと食べ始めてしまった
「……あ、あ……あ」

クラウスにとって食事がトラウマになる日はそう遠くは無いようだ

「野生動物が死肉を食べているのは事実だからね」
「出されたら何だって食べるわよ。こと、旅行中は。でも残していいわよ、クラウス」
 水出しの茶を注ぎながら、マリアはひきつっているクラウスに一応優しい言葉をかけたが、クラウスは食べきった。
『早く……早くこの任務を終わらせよう!』
 クラウスの心の叫びは非道に対する義憤でも、使命感から来るものでもなく自分の胃袋に対しての優しさだった。

 その場を遠めにみていた
「さすが、場慣れしているな」
 エド法国聖騎士団第三隊隊長ハッセムは、粥を啜りながら鶏料理を食べている彼らを前に自慢の髭を触りながら尊敬の眼差しで見つめていた。
 こうやって、多分エド法国はドロテア達に洗脳されてゆくに違いない。
『あ、あのタフさが俺にはないモノなんだな……頑張れ、ゲオルグ! 貴族の子弟騎士という名称から抜け出すんだ! あのイザボーに負けてたまるか!』
 そしてゲオルグも間違ったようなタフさを身に着けて行くのだろう。

**********

「私の方が腕は立つのに先に入団していたからとゲオルグ=カルツオーネ如きに遅れをとるとは!」
 例え失墜してもイザボーは貴族の中では名家の出である事は間違いない。血筋だけでいけば、ゲオルグ以上だが今回の派兵には含まれなかった。
「イザボー様、落ち着いてください」
 それを宥めているのは、大人しげな女性だ。彼女もイザボーと同じ時に聖騎士団に入団した新米聖騎士である
「それに、まだ聖騎士団に慣れていないイザボー様が向かえばドロテア卿に色々と迷惑をかけてしまうかもしれませんし」
 ドロテアと一緒にいた際は多少気の強さが抑えられていたが、ここにきて元来の気の強さが再びもどったイザボーは派兵されなかったことを非常に悔やんでいるものの、例えイザボーがゲオルグより前に聖騎士になっていたとしても今回の派兵には含まれなかっただろう。何せこの派兵は繊細な問題を含んでいる、繊細と言えば聞こえは良いが言い換えれば『醜聞』。エド法国とホレイル王国の醜聞に公国の有力者の縁者を使うことなはまずない。
「そうね、まだ私はドロテア卿の意志に添えるほど上手に団体では戦えないものね。そうそうアニス」
「なんですか?」
「あなたと私は同じ時期に入団した同じ聖騎士。私に敬語を使う必要はなくてよ」

 とにかく現在イザボーとゲオルグの関係はステキとは言いがたいが「ライバル」であった、家柄とかそういったもので。

 で、このイザボーを諌めている茶色の全く癖のない髪を後に一つに結わえた、髪と同じ色をした瞳を持つ女性はアニスという。
 聖騎士の試験の際の班でイザボーと同じ班にいたのがアニスだ。その班から合格したのがイザボーとアニスだけという事もあり、二人は仲良くなった。
 アニスは生まれも育ちもエド法国の首都で、聖騎士になりたいと常々思っていた女性であったが、中々試験を受ける権利を手にする事が出来ずに日々を送っていた兵士だったのだが、ある日を境に武勇伝を持ち、その結果試験を受ける権利を得た。
 それは数ヶ月前にエド法国が吸血鬼に襲われていた時の事だ。
 聖騎士でもないアニスは戦ったわけではない、むしろ地味で誰もが『出世の見込みのない仕事だ』と言いながらしていた仕事の一つ、入り口での身分照会を担当していた。声を枯らして何度も同じ事を繰り返し言う仕事でそれは起こる。
 アニスがついた門にあのドロテアが来たのだ。最初に勇者証を出さなかったドロテアを決して通そうとはせず、あまり使いたがらない勇者証を出させたのがこのアニス。
 そう出入り口であのドロテアをも一度引き止めた兵士として人々に知られることとなった。ドロテアがエド法国に入ろうとした際に『身分を証明するものがない人は通せない』と阻止した女性兵士でこそこのアニスだった。あのドロテアに対して引き下がらなかった胆力を兵士長が買い聖騎士に推薦し、それがセツ最高枢機卿の耳に入ったとか入らなかったとか。
 試験を優先的に受ける権利を得た彼女はイザボーと同班で立派に合格し、新年から晴れて聖騎士となったのだ。

 聖騎士の試験の推薦に使われるドロテアってのもどうか? とは思うが。

**********

 あいつら無事らしいが、随分と手間取ってるなあ。仕方ないのかもしれねえが、早く開けろよな、此処からなら二日でゴールフェンに到着できるんだから。
 結界の前に到着し馬車を降りたドロテアが結界の種類を探り始める。
「どうじゃ?」
 乳白色の深い霧のような結界を前に、赤い呪文を空間に浮かせてその巨大な結界の一部にそれを埋め込み、指先から紫色の筋を伸ばしその結界の種類を探り舌打ちをしてクナに語り始める。
「外側の結界は甘いように見せかけた蟻地獄型だな。入ろとすると入れるが途中で死ぬ出るのも同じだ、全結界が気圧のように関係しているから内側から外さないと厄介だ。外側を無理に外すと、圧力の変化で内部結界が押しつぶされる。地下に潜ってりゃあ難を逃れられるかもしれないが、違うかも知れない。そこははっきりとは言えないから、基本的な開封をしていくしかないだろう」
 国境警備隊は恐らく張られた結界から逃れようとして死に、確認にきた警備隊員は結界に足を踏み込んで死亡したのだろう。
「中に向かった者達に任せるしかないのじゃな」
「そうだな。よくもまあ、アレクスのヤツこの結界をモノともしないで内部の映像を映し出せたな。さすがアレクスと言うべきだろうな」
 結界を前に右往左往しているドロテア達だが、この結界の中の異変に気付いて映像を別の国に出す能力など基本的に人間には備わっていない。
「最初の気づいたのはセツのようじゃぞ」
 一人だけなら色々と警戒されるかもしれないが、幸いアレクスの側には同等の力を持つセツがいるため人々はそれ程異端な能力だとは感じていないようだった。
「へえ……あいつは世界の隅々まで毎日見通しているだろうからな」
 空鏡は作れないが見渡す事は出来るらしい。そして扇であおぎながらクナは普通の声で喋る、本来ならばパネが間を持って人前で直接会話しないようにするべきなのだが、クナがそれを拒否した。というか、ドロテア相手にそんなまどろっこしい事をしていたら殺されてしまうに違いないと誰もがそう思い、この事に関しては口を挟まなかった。
「だが、外すのは億劫だと申しておった」
「億劫ねえ。でも外せない訳じゃないんだろ?」
「ああ、そのようじゃ。ただ、セツは何においても法国第一な為にイリシアに対しても強攻策に出ようとしておった」
「結界ごとぶっ潰すってことか」
「そうじゃ。猊下がお止めしてくださらねばどうなっていた事か」
 面倒の一言で国一つを潰す力を持つ男。
「どうやって潰す気だったんだ?」
 普通ならば出来なさそうだがセツならやってやれない事も無さそうだなあ、と思いながら別の呪文を唱え再び結界を探りながら話し続ける。
「さあ? だがどうもセツはこれを機会に学者達をエド法国に集めて、そのまま教会属にするつもりだったらしい」
「へえ、さすが他国の存亡も見逃さないな。実際アイツ相手に他国の為政者は良くやってるよな」
「ただ、集めようとしたのだがオーヴァート陛下の行方が知れなくてな」
 さすが一国を力で潰そうとした男も、奇怪な支配者を見つけ出す事は出来なかったらしい。
「そうか、あいつが古代城に篭ればさすがのセツも探せないだろうな」
「実際のところ陛下は手を貸してくれたじゃろうかな?」
「俺が貸すなといえば貸さないし、貸せと言えば貸しただろう。そして多分俺に聞いてきただろう“お前はセツが気に入っているか?”ってな」
「なる程な。で、どう答える」

「その時の気分次第。女心とギュレネイスの空だ」
「冷たい、という訳か」
「そうだ」

乳白色の結界を前に女二人は“にやり”と笑った。

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その頃セツは
「何か言われているような気がする」
アレクスと
「へ? 何を? どうかしたの」
茶を飲んでいた
「いや、なんでもない。気にするな」
正確には
「でも気になるよ、そう言われると」
セツは酒だ。真昼間から
「ふん、まあ……あの女だろう」
赤い液体を緑色がかっている白目と、色の濃い黒目を収めている険しい瞳で睨みつけた
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