ビルトニアの女
勇者の祈り僧侶の言葉【14】
 実際の所、ドロテアはかなり頭がぐらついて、気を抜けば直に座り込みそうな気分だった。何せ出血した為、血が足りない。そしてかなりの魔法を行使した、魔法は精神力とも言われる。幾ら魔力があっても精神力が弱いとそれほど行使できない。逆にドロテアのように、魔力は足りなくとも精神力で限界ギリギリまで使えるタイプはある意味強い。
 そして今も、血液が足りないな……と思いながら、積年の恨みを勝手に抱いているコルネリッツオの処分に乗り出した。
「まあいい……魔法が使えるとこう言う時には辛いな、コルネリッツオ。大地よ捕まえろ、荒涼たるその肌を通り過ぎる風を」
 ドロテアお得意の、処刑系の邪術。首を切り落とす際に使われる、これこそ『一般的』な邪術である。
「うわああああ!!」
 鋭い刃がコルネリッツオの首をかすめる、が、かすめるだけだ。
「と、見せかけて途中で止めてます。怖がらせるんですね!」
 血塗れた石の入った布を握り締めながら、実況中継をするヒルダ。聖職者なのだが……まあ見なかった事にしておこう。
「ひとおもいに!!」
「るせえ!!」
 散々焦らされて、首に血の筋を何度も作られやっと首を落とされたコルネリッツオの表情は恐怖で歪んでいた。もっともその表情は、エルストに貫かれて痛む体や、ヒルダに鼻の骨を折られた痛みやドロテアに肋骨を折られた痛みなどもあるだろうが。
 裁判に必要な頭だけ持って帰り、身体は後で取りに来る事とに決まった。


「さてと帰るか。……なんで何もしてねえテメエラが、腰抜かして座ってるんだよ」


 なれない人が腰を抜かすのも解らないではないが……。
 外で学者達を拾い、何事もなかったかのように帰途についた。報告の一切をバダッシュに任せ、滞在先を宿からボスター公の居城に移した。それはゾフィーたっての願いだ。ボスター公に対してのとりなしと、弟ウィリアムの詳細を知りたいとゾフィーはバダッシュに頼み、バダッシュが説得にきたのだ。
 バダッシュ、結構使われる男である。
 ゾフィーの申し出に、まあいいだろうとドロテアは頷いた。
 宿を引き払う時に、シャーリーが手伝いに現れた。荷物運びをかって出てくれたのだが
「あんた、誰かについてるんじゃないのか?」
 ヒルダ付きだったシャーリーだ、ヒルダ卒業後にも誰かについて教会の仕事をこなしているのかと思われていたのだが
「今はいないんですよ。寄付が多い生徒さんがいなくて。いても、はじめての人に回るから」
「なる程ね」
 チッと舌打しながら、ドロテアは顎にその細い指を乗せ瞼を閉じて大方を察した。
 シャーリーはヒルダから聞いた所によれば、両親の死後、僅かばかりの遺産とともに教会に預けられ養育された、多数いるシスターだ。遺産といっても、養育に必要な分はなかっただろう。そういったシスターは、ヒルダのような高額の寄付を寄越したものについて、身の回りの世話をする。
 大体、三人の生徒につけばその仕事は終わり、あとは自由になれる。そう、還俗するのもシスターのままでいるのも自由だ。
 シャーリーはヒルダで二人目、後一人につけば自由の身になれる。そして教会側としては、自由になられると「勿体無い」わけだ、折角育てた生粋の教会人を失うのは。それなので中々三人目を寄越してくれない事がある。シャーリーはドロテアと同い年程度で、所謂結婚適齢期でもある。ヒルダが卒業した後、直にもう一人の生徒についていれば、後は四年程度だった。四年ならば、まだ適齢期である。……要は自由の身にしたくないのだ。
「シャーリー、教会まで連れていけ」
「は、はい」
 ドロテア達はシャーリーのいる教会に向かいシャーリーを普通の聖職者にする為に金を払った。花街の女を買う程金がかかるわけではない、寧ろ一般の人でも払える金額だが、教会が受け取らない事もあるのだ、縛り付けておけるシスターは重宝するために。だが、ドロテア相手では教会側も受け取らないわけにはいかない。
 「はんっ!」という態度で金を渡し、そのままシャーリーを連れて教会を出た。手を引かれたシャーリーは驚き、そしてドロテアに感謝を述べる。
「こんなヒルダについていてくれて、の感謝の気持ちだ」
「は、はい……」
「良かったねシャーリー。で、エド法国に行ってみたいって言ってたよね。だからさ、エド法国に紹介状書くよ、多分教会に勤められるからさ行っておいでよ」
「おお。アレクスとセツの野郎に連絡入れておいてやるぜ」
 煙草を吸いながら、ヒルダとシャーリーが話しているのを少し離れ煙を見つめていた。シャーリーの身を自由にした事は多分世の中ではコレを偽善というのだろう。世の中には沢山同じ境遇の人がいるのに、とも。
 だが偽善は偽善で良いとドロテアは思う。
 人間は真似をする事で全てを覚えていく、言葉を言う事も文字を書くことも。だから偽善も繰り返せば何時か……
「いい人になれる訳もねえよな」
 口から吹き出した煙は、留まる事なく空へと霧散した。

**********

 ドロテア達とレクトリトアード一行。
 ボスター公は謹慎、及び継承権剥奪、並びに死ぬまでいかなる役職も帯びない事に決定し、オルンティア大臣は失職、及び学者会において罰せられる事となった。どちらも学閥を甘く見すぎていたらしい。
 王太子妃の子、恐らく女児と思われる胎児も継承権剥奪で、王太子妃以外の女性が産んだ子が継承位を相続することになるだろう。
「ふーん。まあいい所だろうな」

 イローヌの遺跡に向かった全員に、ゾフィーが感謝の意を込めて是非ともパーティーを開きたいと申し出たので、暇つぶしがてらに出席する事となった。
 ゾフィーが三人にドレスを着せたかっただけなのかも知れないが、着慣れているドロテアは直に準備を終えて椅子に座っている。紫色のガウン系のドレスに、宝石を散らしたネットで髪を纏め、小さな帽子を被り右手に扇を持ち、左手に煙草を挟みソファーに座っている。と、そこに主催者であるゾフィーが声をかけてきた。
「有り難うね、ドロテア」
「別にいいんだが……大公妃にはなれないから実家に戻れば」
 元々ゾフィーは大公妃になる為に教育されて来た王女であった。隣国の王女を娶ったせいで、ボスター公の野望が加速した訳でもあるのだが
「いらない。結構公爵夫人で楽しいし、息子も継承権無しで自由に過ごせるし」
 あまりゾフィー妃はその事は問わないようである。寧ろ公爵を純粋に好いているらしい。大していい男にも見えないがなぁ……とドロテアは思うのだが、当人がそれで良いといっているのだからそれはそれで良い事だ。
「あ、そう?」
「それと……公と一緒に暮らせるように取り計らってくれてありがとう」
 ドロテアとしても、公爵を嫌っていたら即座に故国に送り返そうと思ったのだが、気に入っているのならと。
「次は無いから、きちんと監視しておきな、ゾフィー」
「ええ、今度は間違いを犯さないようにさせるから」
「期待してるぜ」
「着付け完了!」
「似合ってるぜ、ヒルダ。マリアは当然似合いすぎだ」

**********

 非公式とはいえ、王弟である公爵のパーティーだ。楽団も呼ばれ、料理も至れり尽くせりである。
 殆どの学者達や、イローヌに向かった面々は場慣れしておらずおどおどしているが、元大臣の姪であるイザボーや貴族であるバダッシュ、そしてドロテアは何時もとかわらない態度でそれなりにパーティーを楽しんでいた。
 イザボーは伯父の権勢が失われたのを受け止め、別の道を歩むべくただ今色々と道を探しているのだそうだ。
 中々前向きで、切り替えの早い女である。
 そして場慣れしているバダッシュとドロテアがゆっくりと話を始めた。
「相変わらず綺麗な事で」
「ソイツはどうも。あのジジイ程度じゃ愛人に出来はしねえよ」
「振ったって本当だった訳」
「まあな。振った男の数も一応覚えてるぜ」
「やれやれ。言い寄った男の五倍くらいはオマエに懸想しているとみておけよ、ドロテア」
「お陰で、その男達に懸想している女達からは覚えも無い恨みを買ってるけどな、バダッシュ」
「気にするようなオマエかよ」
「気にはしてねえぜ、全く。恨むって事は、負けを認めてるって事だからな」
「オマエを恨んでも全く相手にされてないって事か」
「当たり前。そして俺を好きになった奴も相手にはしない、言ってこないのなら尚更だ」
「厳しいな本当に」
 扇の使い方も一流、グラスを持つ仕草一つとっても優美なドロテアに
「踊らないか、折角だしな」
「ソイツはどうも。久しぶりだから足踏むぜ」
「くっ、幾らでも踏んでくれ」
 ダンスでは足は“踏まれたほう”が悪いのである。

 美男美女が踊っている脇で、主催者たる公爵夫妻が会話を交わしていた。その小声で交わされる会話
「さすが大貴族の自慢の息子ねえ、バダッシュは」
 バダッシュは王学府では成績は冴えなかったが、貴族の子弟の決まりごとや習い事は他の貴族など及びもつかない程、身についている。
 踊りもその一つで見事なものである。そして実はバダッシュの妻候補にゾフィーもあがっていた事があった。家は継がないものの、名家の御曹司には珍しい王学府卒業者とくれば、王族からも誘いがひっきりなしだった。名政治家になれるだろう程の頭脳と気概はあった。だが、バダッシュは全て断った。
「ロートリアス家だとか言っていたな」
「ええ。ロートリアス家自慢の息子、大勢の家を持っている貴族の子女に言い寄られてたけれど……ムダね。あの人一生独身よ」
 ロートリアス夫妻も色々と娶わせようとしたのだが、バダッシュの一言で諦めた。親が諦める程の事があったのだ。
「ムダ?」
「バダッシュは、王宮主宰の催しを嫌うタイプだったの、人気はあるのにね。バダッシュは王宮の催しに出るのがイヤで王学府に入ったとも言われている人だったの。でもある時から、ある人物が来る時だけは必ず出席するようになったわ……皇帝が臨席する時に、皇帝がドロテアという名の宝石を隣に連れてくるときは必ず」

『父さん、母さん、兄さん。悪いが縁談は受けない、好きな女がいる。その女以外は無理だ』
誰だ? 言ってごらん?
『皇后にもなろうかという女だ』

あの女は美しかった

「今踊っている相手のことか」
「そうです。もうすっかり諦めてるかと思ったんだけど……そうもいかないみたいね」
ドロテアは知っていたのでしょう。だから
「皇帝の愛人か」
貴方を結婚式に呼ばなかったのだと思いますよ、バダッシュ。そしてあの方も呼んでは……
「違いますわよ、あの人は皇后だったんですよ、過去も現在もそして未来も」
皇帝にとっては永遠の皇后なんですよ

「もう一曲踊らないか?」
「いいぜ、なんにする?」

こんな事がなければもう永遠に踊る事もないでしょう
私が皇帝陛下に会う事も、もう……ないでしょう

私の初恋の人がオーヴァート陛下だって知ったら、ドロテアはどんな顔するかしら?
だから私年上の男性が好きなの
だから私……故国に帰りたくないの

もうあの方に会いたくはないの

**********

 ダンスは出来ないし、学者連中の話などに加われないし、ヒルダほど食べないし、マリアはイザボーに捕まってと話し込んでるし、最もそんな事がなくてもエルストは酒の入ったグラスと、ボトルを持ってバルコニーに出るだろう。
 グラスだけじゃない辺りが、エルストのエルストたる所だ。夜風に当たっていると、後を追ってきた人物がいた。
「ちょっといいか? エルスト」
「ああ、レイ。何だ?」
 エルストの隣にくると、少し逡巡したようにして口を開いた。少し早口になっているのは、聞き辛いことだからだ。
「一体何時気付いた、ドロテアの“あれ”」
 困ったような表情を浮かべ、言い終えると直に下を向くレクトリトアードの横顔を見て、言われた言葉を反芻する。

ドロテアの“あれ”

 俯いているレクトリトアードの表情は幼い。ドロテアが偶に言っていたが、レクトリトアードは制止した見た目よりも、動くと相当幼いと。
『実際俺より相当年下だけどな』
 自分の年齢とレクトリトアードの年齢の差を計算して「ふうっ」と自分がいかに年を食ったかを自覚し、溜め息をつきつつレクトリトアードの問いに答えた。
「初めて出合った時に、不躾に聞いた。暗がりだったから顔が見えなくてな、男と勘違いしたんだよドロテアの事」
 エルストがドロテアを男と勘違いしたのは、顔が見えなかっただけではないのだがそれ以上の事はエルストは言わなかった。


“それ以上の事”
レクトリトアードはその事は知らない、そして知らないままでいいと。
知ればあの男は他人事なのに、泣くだろう
笑えないんだよ
悲しさを紛らわす為に笑う事もできないような……


「それは……そうか、敵わないな。俺は言えず終いだった」
 多分言えないさ、レクトリトアードには言えないだろう。自分は運よく見つけて言っただけなんだと、エルストは思っている。途切れた会話と二人の間を抜けていく風、そして
「鍵をつけてみたらどうだ?」
 再び繋げる会話
「鍵?」
「良くは解らないけれど過去に色々あった人間は臆病になり、自らを厚い壁で覆うんだ」
「ああ」
「それでも、壁の中に一人で望んでそうなったとしても、扉から誰かが入って来る事を望む。いや誰かが来る事を望んで敢えて一人になる」
「それは……」
「扉はあるはずだ、自ら築き内側に籠った壁だから必ず出る事が叶う。でも偶に外側に鍵穴を設置するのを忘れるヤツがいる」
 下がっていた顔がエルストのほうを向く。レクトリトアードもそれなのだ、レクトリトアードほど外界と自分を隔てる壁を作っている人間もいない。この男がなんと言って欲しいのかくらいエルストには簡単に見当がつく。ドロテアも知っているだろうが、言わなかったんだろう。
「鍵は、何だ?」

嘗てドロテアが紛う事なく愛していた男

「単純な言葉。単純で最も言って欲しい言葉を作っておくんだ。鍵穴くらい自分で設置しておかなければ、永遠に誰も入って来ることはないからな」
ドロテアがその男に向かって言わなかった言葉を言う権利もない。
「単純な言葉……」
“オーヴァート以降に抱かれた男は紛う事なく愛していた”
「多分簡単に気付く筈。自分でも忘れているほどの単純な言葉」
 それはレクトリトアードが気付かなかった真実。そして気付かれなかったから、言わないで終わってしまったのだとも。
「そうか……そうなのか……」


何を言って欲しいのか?
どんな言葉が欲しいのか?
それすらレクトリトアードは気付いていないだろう
自分が言葉を欲している事自体気付いていないはずだ


「傷は自分だけで治せるものじゃないぞ、レイ」
「えっ……」
「体の傷が自分の力で治りきるからと言って、心までそうだとは限らないだろう? レイ」
「それは」
「無残にも千切れた腕を身体に括り付けておけば一日で治る様な体でも、心は違うだろう。見たことがないから何とも言えないけれど。お前は身体ほど心は強くないだろうからな」
 グラスの中で氷に亀裂が入った音が響く。そして続く静寂を打ち消したのが
「おい、エルスト。来い!」
 ドロテアの声だった。
「今行く、ドロテア! じゃあな、レイ」
 グラスとボトルを持ちながら部屋に戻ろうとしたエルストに、
「この剣を、ドロテアに返してくれ!」
 腰にさしていた刀を抜き、返してくれとレイはいったが。
「自分で返しておきな」
エルストは首を振って、グラスを差し出し、レイがそれを受け取ると部屋に戻った。

**********

 一人で夜風にあたっているレクトリトアードが、再び腰にさした剣に手を触れる。
 エルストを“自分より頭が良い”と表した人物がいた。あの男は見抜いていた訳だ、バトシニア=オーヴァート=フェールセン=ディ=フィ=リシアス
 最後の皇帝と呼ばれる男
「ドロテア……」
 握り締めた剣、掌に籠る力と背後から聞こえて来る笑い声。

有り難う
千切れた心を括り付けても治らない、体と同じようにはいかないのなら
誰かに治して貰える事が出来るのだろうか

エルストに渡されたグラスの氷がカランと音を立てる

 美しい女がいた
 “同じ過去を背負っているから理解出来るとも言うし、キズの舐めあいだともいう”
 頭が良く、そして答えをくれない女が
 左手で煙草を挟み、妥協を許さぬ体つき
 語る言葉は難しかったが、聞いていて嫌ではなかった。口調は厳しいがその目は優しかった。
 “人は過去に囚われている人間を励ます時に、決別しろという、忘れる必要はないが決別しろと。そして重い過去を封印して、見ないで生きている人間には過去を見据えろという、言葉は適当なものだな”
 そういう意味で言っているのではないと、人はいうだろう。だが、所詮は他人事だ、同じような目に逢った人間ですら同じようには考えない。だから、他人が言った言葉の意図など……解るはずはない。


滅んだ故郷に足を運んだ事はない
何も無い、故郷に足を運ぶ気にはなれない
俺は感傷に浸れない
「感傷に浸れる程、強くないんだろうよ」
未だに怖い……弱いんだろうな、本当に


 “今、自分の力があったなら滅びを回避出来るかも知れないと思うのは、愚かだ。どれ程力を持っても、過去は戻って来ない、それはこの世にあるたった一つの真実だ。死者は帰っては来ない。そして、死者は会いにこない、だから自らの力で会いに行くしかないだろう”

 別れの言葉だった
 今の自分の力があれば、村を襲った理不尽な“何か”に抵抗できると俺は言った、女に
 女は認めなかった
 多分、それは

故郷を失った女が見つけ出した真実
それは過去を見据えていながらも、過去にも囚われていない
今を歩いていた
そして女は多分故郷に戻る

廃墟を越えて、死者に会いにいく
それが出来る女だと
他者にその強さを求めなかった
俺はあの女の強さに応えることはできないだろう

「さよなら」すら口にできなくて、閉まった扉をただ眺めていた

それから三年
あの日美しい花嫁を見て、時が止まったような気がした
あの日別れた女、それを思い出す度に時間が止まったような気がしていた
違うな、俺はずっと

強くなり過去に立ち返り、未来を変えたかった
だが俺にそんな事が出来るのなら、あの女が既にそれを遂げている筈だ
ドロテア

「お前の力なら可能だ」
「お前なら半身避けられる」
「お前は火の勇者だ」
「この剣はお前の為にある」

強く美しく、本当に俺を知っていた女

「酔わないなら酒なんか飲むな」
酒も回らない身体が、夜風を心地よいと思うより寒いと感じる
火照る身体を、夜風で冷ます風情もない
それでも

溶けた氷で少しだけ薄くなった酒を口に付けて、再び下をむいた

**********

 王太子達はまだボスター公の居城にいる。宮殿の方がまだ落ち着かないので、ボスター公の城で見張りを立てる事にしたのだ。さすがにもう、逃げ出しはしないだろうから、と皆が予想してはいるが念のために。
 公爵夫人が開いたパーティーで大方の者は酔ったが「酒は飲まないわ」と言い張ったイザボーと、飲んでも酔わないレクトリトアードが今日の見張りを務める事になった。
「……」
「……」
 それなりに真面目らしいイザボーと、無口なレクトリトアードは黙って入り口に立ち、逃げないよう一応警戒していた。
「見張りご苦労さん」
「マリア?」
「差し入れよ。アナタそれ程食べてなかったでしょう? 残ったのを調理してきたわ、それとはい」
 “眠れないのならコッチの方がいいだろう。酒に酔わないんだから”
 温めたミルクのミントの葉を浮かべた
「好きでしょう? 最も寝られちゃ困るけど、そっちのお嬢さんがきちんと見張ってくれている筈だから」
「……ありがとう」
「それ、ヒルダにも言った? 庇ってもらったでしょう、アナタ」
「いや……」
「そう、言っておいたほうが良いんじゃない? ヒルダは全然気にしない子だけど」
「ああ……」
「それじゃあ、今度は王太子を逃がさないようにね。伝説の男」
 思えば最初に王子を見つけたとき、レクトリトアードが見張りに立っていれば全てが丸く収まったのだが、そうは上手くいかなかったのだから仕方ない。
「あ、マリア! 聖騎士になれて良かったな」
「ありがとう」
 月明かりに照らされた黒曜石のような黒髪と黒い瞳。真珠のような色と光沢をもった肌、険も威嚇もない涼しげな目元と、饒舌に語るわけでも毒を叩きつけるわけでもないラズベリー色の唇に、桜貝色をした爪。そして笑う、その笑顔は美しさそのもの。嘗ては美しさ以上の物はないと言われたが、今は美しさ以上のものを持っている。その笑顔は
「マリアの笑顔も鮮やかだ、な」
 その一言に尽きる。
「綺麗な人よね確かに。話を聞いたけれども、穏やかで家庭的で聖騎士には見えないけれど……」
 この先国内に留まっても、針のムシロになることはイザボーにも解っていた。権力者は権力を失うと、惨めな目に遭うことも。
 だからイザボーは決心したのだ、エド法国に行き聖騎士を目指してみよう! と。その詳細を知りたくてパーティーの間マリアと話をしていたのだが、どちらかと言えば家庭的な話しかできなかったのだ。料理の作り方とか、ジャガイモの皮の剥き方とか、織物の仕方とか。
 それはそれで楽しかったし、マリアが「やってみる価値はあるわ。二十八歳で聖騎士を目指して三十歳で聖騎士になってそこから隊長になった女性もいるんだから。勿論、後ろ盾も何もなしでね」という言葉に後押しされイザボーは国を出る事に決めた。
「あれ以上綺麗な女はいないそうだ。学術的にみても、完璧だと言っていた」
 ドロテアが、嬉しそうに言っていた。自分より綺麗な女を、綺麗と喜んで語るのは珍しいと。
 よく女達に聞かれたな『本当はドロテアとマリアは仲が悪いのではないか?』と。無意味な事を聞くものだ、どうしたらあの二人の仲が悪いのだろう? と思ったが、何の事はない、聞いてきた女達は、自分より美しい女の存在は許せないだけなのだ。だから全員ドロテアの事は嫌っていた。
 『どうしてそんな質問をするのか不思議だ』と聞いた相手は笑って教えてくれた、ヴァルキリアだった。ヴァルキリアは嫌いか? と聞いたが、ヴァルキリアは嫌いじゃないと答えた『私じゃあ比べ物にならないもの』とも言っていた。
「美しさは、人それぞれだから」
 そうも言うが、ドロテアが言っていたのは違った。
「そうではなくて、マリアは全身が黄金比率にピッタリ当てはまるんだそうだ。顔もしかり、生きた芸術品なんだと。俺は黄金比率が何だか知らないが、アンタなら知っているだろう」
「ええ、勿論知っているわ」
「良くは解らないがそれに完全にあてはまっているのだそうだ」
「聖騎士にまでなれるし、幼い頃から武術を習っていたのかしら?」
「……良くは解らないが、マリアは槍術を習い始めたのは十七歳を過ぎてからだ。ドロテアに出会ってからだと聞いた」
 ドロテアが何時から習い始めたのかは知らないが、ドロテアはマリアより才能があるわけでもない。ただ、只管実戦派な部分でマリアに勝っている。多分知っている、自分より背の高いマリアのほうが当然武術に向き、自分の妹のほうが魔力に優れているという事を。
「嘘でしょう?」
 知っていて、笑うのだ。そういう女なんだろう、ドロテアは。
「俺は嘘はつかない。間違いない……そして才能と言う点ならアンタの方が上だろうよ、大臣の姪」
 全てにおいて恵まれているわけではないと、ドロテアは解っている。
 武術ではマリアに体格的に劣り、魔力ではヒルダに劣る。だが……
「そ、そうかしら」
「疑うならドロテアに聞けばいい。ドロテアは才能がなければないと言う」
 あの圧倒的な支配力と蠱惑的な雰囲気は、二人にはない。
「……ちょっとあの人怖いわ……」
 どんなものでも武器に、そして戦いに使えると。権力もまた然り、それを使うヤツラは嫌いではないとも。
「言うと思った、大臣の姪」
 権力は何時か潰える、そして美貌も何時かは消える。全て何時かは消えるけれども……
「あのね、私はイザボー。もう大臣の姪でもないわよ、覚えておいてレクトリトアード殿」
 それでいいのだと。
「レイでいいさ」
 偉さも、強さも何時かは己の手から零れ落ちてしまうのだと、ドロテアは言った。

 あの手でゆっくりと水を掬ったあの日、確かにそう言った

「そうもいかないわ、偉いんですよ貴方は」

 夜風のなか、イザボーに必死に「いかに自分は偉いのか」を聞かされているレクトリトアードの姿があったとか。
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