ビルトニアの女
神の国に住まう皇帝鳥は飛ぶ事もなく啼きもせず【27】
 荷物を運び終えて、一人で自分の肩を叩いているエルストの視界に、柔らかい色合いの黄金色の髪が見えた。物陰に隠れていた
「こんな所に一人で来て大丈夫なのか、ミンネゼンガー」
 アレクスは笑い、お送りにきましたと礼をした。
「ああ、エルストさん。大丈夫ですよ、私はセツが居ない場合は殆ど法王専用室から出ませんから。誰も疑わないでしょう」
「なる程」
「いいですね。私も……」

旅をしたいのか? それとも

 波の音に空を飛ぶ海鳥の音。風になびく黄金色の髪の内側で、伏せた瞼にエルストは声を掛ける。
「これ、あげるよ。ミンネゼンガー」
懐から出したのはコイン
「これはギュレネイスの記念硬貨。良いんですか?」
「これを落して吸血城の存在がわかった。そして最初に落した時に、ドロテアと知り合った。多分良い事あるよ」
両手でアレクスの手に乗せて、エルストは笑う
「エルスト……さん……」

−エルストさんも何となく気が付いたようですね、あなた方は鋭いです


「ドロテアはあげられないけれど、
これお守りくらいにはなる筈だ」



−いいや……エルストのヤツは鋭いかもしれねえが……

 ”ざわり”と海風が背筋を撫でる。目の前の『配下だった』彼が笑う。
 灰色の髪、水色の瞳。
「あの!」
「いい女だろ」
−はい
その言葉すら出なかった
泣きそうになる私の頭に手を置いて
−ごめんなさい
と、決して母親と同じ道を歩まないと
「怒ってないから」
コクリと頷き
「本当に綺麗でした」
目を覚ました時に傍で見た彼女の顔は本当に美しく
軽く唇に触れてみた
それだけ
「泣かない泣かない」
多分この人知っていて。年下だけれども
「何口説いてんだ、男を」
「わあ!! ドロテア!!」
「ドロテアさん!!」
「何驚いてんだよ?」
 ドロテアさんは多分気付いてないんだな……勘の良い人だってドロテアさんも言ってたからなあ、エルストさんの事。
「いや。所でドロテアその本なんだ?」
「ああ? これな、法国の図書館から失敬してきた」
「図書館の本は、持ち出し禁止だろうが」
「なんだけどよ……海鳥だ……」
 白い海鳥が飛んでいる。長征の鳥と言われ、大海原を船を先導するかのように飛ぶ鳥。
 南の白い海鳥は人を導き、北の黒い海鳥は魂を導いて


空を飛ぶ海鳥よ
どうか私を大陸へ連れて行ってくれないか
この高き山を  その翅で
越えられぬこの高き高き山を  荒れ狂い  船の通られぬ海を
あの大陸へ  あの大陸へ
私を連れて行ってくれ

空を飛ぶ海鳥よ
どうか私を故郷に連れ戻してくれないか
ああ遠き故郷に 思いを馳せる
もう戻れぬこの身は 大陸で眠りに付いて 私の思いだけが
あの島へ あの島へ
私は戻ってゆけるのだ



海鳥が少し灰色かかった雲の下で羽ばたいている。
黒い服を着た女と、灰色の髪の男。
優しい空白が流れて
女は低い声で歌い、言った
「って言うんだったな、二番は。そうだろう”エルスト”」

”リク”と名付けられ僧正に任命されたのは四歳の頃だった。

「はあ?」
灰色の髪の男はその言葉に小首を傾げ、考える。
そしてその姿を見て女は笑う。
−エルスト−と
「あ! あの」
呼んでくれないと思っていた
アレクサンドロスでもなく、ミンネゼンガーでもなく、リクでもなく

−死せる子供達よ、過去の名前は何処にある
−オマエの従弟は何て名だ、オーヴァート?
−覚えてどうするんだ?
−知っててもいいだろ?
−そうだな、覚えていてくれ


 ドロテアがミンネゼンガーの足元に投げつけた本が、開いてまるで海鳥のようだ

−何処かで会った事があるような気がするな、と。遺跡探索にオーヴァートと出向いた事もあるエルスト
−何処かで会った事があるのよね、と。オーヴァートの邸でメイドをしていたマリア
−私は会った事ない気がします、と。オーヴァートがどんな人物なのか、よく知らないヒルダ

セツにも言った事はない。言えぬまま二十年が過ぎ去った

異国から来た女性。今は無い異国の風を纏ったまま、何所までも行くのでしょう。

**********

私には貴女が見えた。
他の私を取巻く上辺の讃辞と、どす黒い憤怒ではなく。
美しい砂の都を駆け抜ける微風が私を包み込んだ。
貴女は勇者では無くとも、私は全てあずける事が出来る。
貴女は貴女の神がいる、それは私に共鳴した。

**********

「ソイツは返しておいてくれ、ミンネゼンガー」
 投げ捨てられた、ネーセルト・バンダ王国王室名簿に小さく記された名前。二つの王国の名を持っていた少年が確かにいた。
「じゃあな」
 港の石畳に投げつけられたその名簿。パラパラと風に紙が音を立てている。
 三十二年前に消え去った少年、既に母もなく父もなく。一人従兄弟が生きている、少年は従兄弟を知っている、従兄弟も少年を知っている。
 それでも互いに呼び合う事は無いでしょう。
 彼には……選帝侯が付いている。解っています、選帝侯は……
皇帝以外のフェールセンには仕えない。だから
「また、来て下さい!そして話を聞かせてください!!」
立ち止まり二人は振り返る
「ああ!」
 笑いながら、手を上げ、そして再び背を向けて、二人は歩き出した。

二人とも鋭いなあ

彼女は私の従兄弟の傍にいた女性。彼が少しでも私の事を気に止めてくれていたのだとしたら
何時か感謝の言葉を述べたい

船が滑り出す。懐かしい光景だ、最も船を見送った事はない
私は船に乗ってきた
私を見送った人は誰もいなかった
そう、私は死んだのだから
ただ、後に人づてに聞いた話では
オーヴァート=フェールセンが、花を海に投げる為に態々ネーセルト・バンダ王国まで出向いてくれたと
私にとっても貴方は皇帝
私を葬る皇帝


**********

『テメエに会いたいそうだぜ、法王猊下が』
−……そうか
『学者も紹介して欲しいらしい』
−解った
『じゃあな』
−これから何処に行くんだ?
『ベルンチィア』
−金はあるか?エルストが散財してないか?
『ヤツの散財は何時もの事だ。ま、気前のいい法王と枢機卿からいいだけ金貰ったから』
−そうか
『じゃあな』
−元気で戻ってこい
『ああ』

**********

船が出てゆく南へと
海鳥が北へ北へと
渡れぬエルベーツ海峡を

私が眠っている海

その反対から私は立ち去る
南から大きく船で回って来た
バルガルツ大洋を抜けて
帰る事はない
慣れぬ海に酔い、頼れる者は誰一人いなく
苦しい思いをして南の海を甲板から覗いていた
蒼い美しい海、何よりも美しかった。それだけが慰めのような旅
戻る事のない航海
もう南の海を航海する事もない
見る事は出来ないと諦めていた
至玉の蒼を
白い石を染め上げた蒼き炎を見るまでは
蒼い炎は南の海より美しく、黒い服は海鳥の羽ばたきよりも力強く
そして”エルスト”も一緒に
何処までも、何処までも

私を葬ってくれた貴女よ
空の青にも似た男と共に、幸せでい続けてください
祈りますから。貴女の幸せを心の底から祈ります



水平線に消えてゆく船を、ずっと眺めていた
本が足元でパラパラと音を立てている
此処に居るよ、気付いてと、そんな音を立てている
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