ビルトニアの女
神の国に住まう皇帝鳥は飛ぶ事もなく啼きもせず【17】

紛う事無く美しい女だ

「ん?」
 顔に何かが乗っているのに気がつきアレクサンドロスは目を覚ました。
 余りに傍にあるので気がつかなかったがそれは掌だ。
 暫く焦点の定まらないままその手を見つめ、彼の方をむいて寝ている女性に気付いた。手を乗せているのはドロテアで、気がつくと自分の首の下に腕が通っている。
 どうやらドロテアの向こうにエルストがこれまた横向きになり眠っているようだ。暫く考えて、背中側を触ってみると多分ヒルダと思しき髪の毛が指先に当たる。
「えっと……これは」
 昨日のあの状況からして、自分は死んだのではないか? と目を覚ました時に思ったがそうではない。
 寝顔も類い稀な美しさを誇るな……と

エルストはドロテアに恋をする

**********


 夢を見た。それは過去だった……
「顔に乗っている掌が軽かった」
「そうか」
「無になったものは治せない」
「ああ、気が付かなかった」
「私も。多分普通にしていたら気付かなかったと思う」
「隠していない分、気付かないのだろう」
「そうだね、セツ」
「だがあの女の美しさは完璧だ。それは認める」
「うん。綺麗だった、閉じた瞼も鼻梁も唇も」
「生涯最初の恋か?」
「うん。そして最後」
「そうか」
「欲しかったのは……代金はあれで良かったのだろうか」
「無となったモノは治せないからな。ましてあの美しさ、他者のモノでは合うまい」
「そうだね」
「あの女、本当は何も欲してはいなかったようだな。
 何故手を貸してくれたのか、正直解らん」
「うん」
「ただ、お前が法王だったから手を貸してくれたようではあった」
「セツ」
「やはりお前の方が法王は似合っている、アレクス」
− 二十一年前の彼女が其処にいた −
私は予知夢の他に、過去夢も見る事ができます

**********


「んっ?起きたかアレクス」
 動いたアレクスに気付き、ドロテアが目を開き上半身を起こす。その仕草はアレクスより余程凛々しいのは、見なかった事にしておこう。
「はい……あのドロテアさん、その……」
 ドロテアはアレクスの聞きたい事を瞬時に理解したようで、顔に乗っていた掌をアレクスの目の前で開いた。アレクスの大きく見開いた、薄い菫色の瞳に白く長い指が映し出される。

貴女程美しい女はいない


「おはよう」
 一瞬の沈黙の後、マリアも目を覚まし声がかかる。
「あ、おはようございます、マリアさん」
 続々と目を覚まし、服を着て窓を開き結界を解く。結界が解かれるのを待っていたかのように
「来たぜ」
 法王庁に入って来る気配がドロテアは感じた。
「誰が?」
「セツ枢機卿だ」
「あのっ! セツは無事でしたか!」
「無事も無事。野郎がお前の傷を治したんだから」
「良かった」
 “姉さんてば、枢機卿を野郎呼ばわりして……”ヒルダの意見は最もだが、あのセツもドロテアに敬語で話しかけられたら、気持ち悪いだろう。
 昨日の出来事をかい摘んで話をしていると、ドロテアに“野郎”呼ばわれされた人物が到着したらしい。
「セツだ! 入れてくれ」
 入り口を叩く音と、低い声。
「はいよ」
「厳重な結界に感謝するが、何て格好だ?」
 半裸っぽいドロテアと、呆けたアレクス。おまけに半裸のエルストがベッドの上で横になりながら話をしているのだから、セツもそのくらい言いたくなる上に
「見りゃわかるだろうが、寝てたんだよ。安心しろ食っちゃいねえよ」
 ドロテアはドロテアだ。だがこの答えに妙な反応を返してくれたのがヒルダだった。
「何ですか? 何を食べようとしたんですか姉さん!!」
 余程腹が減っているらしいヒルダが、あたりを見回す。が、法王の寝室に食べ物は見当たらない。
「いや食ってねえって」
 まさか実の妹からそんな素敵な質問が来るとはさすがのドロテアも思っていなかった。世間知らずもちょっとな……と思いながらアレクスを見つめると、困った様に頬を赤らめて下を向いている。はあ……とドロテアとエルストが顔を見合わせた、少しからかうだけのつもりだったのだが
「それはいいが。食事だ。アレクス、体の方は?」
「もう大丈夫だセツ」
「ならば昼にでも顔を見せてやってくれ」
「顔ってか体?」
「だけど、言う時は言葉上顔」
「護衛を頼む」
 聖騎士からも何人か『疑い』のあるものがみつかった為で、今首都で最もセツ枢機卿が信頼をおけるのはドロテア達だった。
「まあ良いけどよ。後で金取るからな」
「ああ、幾らでも払う。私の金ではない、好きなだけ持っていくがいい」
 本当にこの枢機卿、次期法王になっていいのだろうか?
「取り敢えず食べましょう。おなか空いたし、……所で姉さん何を食べようとしたんですか?」
「ええー。何だろうな、大体食おうともしてねえよ」
「食べ物じゃないって教えた方が良いんじゃないの?」
「面白いからそのままにしておこうよ、マリア嬢」
 腕を引かれながら、何? 何? と問われているドロテアの姿を眺めながらエルストとマリアは笑ってみていた。

片付けて行くか
片付けさせるか
報酬……ね


 セツ枢機卿が、どうしても吸血大公ガーナベルトを倒すのに随行させてくれと言ってきた時、ドロテアはあっさりと許可した。
「普通は随行とは言わねえだろうが」
「これに関してはお前の方が上だ。学者連中の方がな」
「当たり前だ、それが仕事なんだからな。お前と違って自分で選んだし、お前の聖職者より数段”向き”だしな、俺は」
「言うな。確かに」

**********

−頭を下げたくないのなら学者になるのが一番だ−


 セツ枢機卿もアレクサンドロス法王も学者を呼び戻したいとは考えていた。最大学閥の優秀な学者を受け入れたく、その体制も整えたいのだが……運の悪い事と言うしかないだろう。
 最大学閥にして、学者達の頂点に立つ男はオーヴァート=フェールセン。その男の側近中の側近、エールフェン選帝侯はかつてこのエド法国でザンジバル派に属していた。現法王はジェラルド派、次期法王候補はザンジバル派。この危ういような勢力の均衡を保ち続ける為には、学者は受け容れ難い状態になっている。
 エールフェン選帝侯・ヤロスラフがザンジバル派を擁護するように学者に指示を出したら、折角ここまで勢力を大きくしたジェラルド派は再びここまで大きくなる事は難しいと。そして学者達も、ヤロスラフに遠慮し、出世を望むならザンジバル派に手を貸すのではないか、と。
 法王の属するジェラルド派は学者の受け入れだけは拒否していた。他者からみたら意味もない事だが、当事者達は必死だった。
『今回も駄目だった……』
『全く、な。自分たちの勢力を保つだけが大事なのだから』
『セツに法王の座を譲れば』
『やめておいてくれ。第十七代法王セツ、簒奪者といわれるのも癪だ』
『だが絶対に必要な時が、その時が迫っているのに』

その言葉に間違いは無かった。間違う筈も無い、予知の法王。

「無茶です、セツ枢機卿!」
「馬鹿者め。ジェラルドの重鎮達よ、考えてみるがよい。ここまで内部の無知さ加減を露呈してしまい、同じ宗教国家であるギュレネイスにどう太刀打ちする? あそこは多数の学者を保持している、聖職者の弱点を突けるだけの知性とあの財力にどう対抗する気だ? ましてイシリアですら学者は存在するのだぞ」
「セツ枢機卿、それは追々としても。枢機卿、御自から吸血城へ出向き討つなど」
「このまま学者を呼び寄せたらどうなると思う?」
「……?」
「我々は学者を閥に入れて勢力を持つ事しか考えていないが、学者の閥の下に属する事になるとは考えた事はないか」
「まさか……」
「内部で育てた学者ならまだしも、学者を育てるのに外部から講師を招くしか道はない。学者は位だけの主に頭を下げる生き物ではない、そのような者ではいけないらしい。いつか立場が逆転するとは考えんのか」
「それと枢機卿が出向かれるのとは、関係は無いのでは」
「ドロテア卿に最高の学者を説得してもらう。ただ、口頭でドロテア卿を納得させられるか?」
 本当の目的は違うが、な。
 皇帝が誰よりも気に入っていた女、それは強ち嘘ではないとミルトを外し、ひたすら今夜の出来事に対して謝罪するエギ大僧正の言葉を聴きながら、セツ枢機卿は思い知った。

−出世したいなら学者にはならない方がいいぜ−

**********

「まあ……俺の知っている知識だけでは危険もあるが、それでも付いてくるのか?」
 ドロテアは根本的に吸血鬼伝承が苦手だし、戦闘員でもない。いや、あれだけ戦えれば戦闘員としてもやっていけそうではあるが。
「ああ」
 セツに座るように指示をだし。ドロテアは話始める。
「吸血大公は全ての魔法を使用可能だ。ただ全てというのは特殊な契約を結ばない魔法のみだ、俺の使える聖火神直属の魔法は使用出来ない」
「最高でどの程度使えると予測できる?」
「そうだな……精霊魔法なら言い伝えにある上位五種以下なら全部使えると考えたらどうだ。五種以下ならシャフィニイと契約を結ばなくても使えるはずだ」
「ちなみに上位五種を使える訳だな、ドロテアは」
「そりゃまあな。そして攻撃だが、体術が主だ。奴の身体は下手な剣などで傷つける事も不可能な程頑丈だし、盾も必要無いほど強靭だ。魔力で防御も攻撃も簡単に上げる事が出来る」
「そこなんだが、それ程の力を持った相手に我々が攻撃を仕掛けて手傷を負わす事が可能だろうか?」
「知らねえよ。だから付いてくるなって言ってるんだよ、シャフィニイなら確実といえるが、それ以外は判断は下せねえぜ」
「確かにそうだな。愚かな事を尋ねた、済まない」
「ただ、ハルベルト=エルセンやシュスラ=トルトリア、そしてアレクサンドロス=エドがどうにかこうにか出来たんだ。この三人は聖火神やその他の最高神の力を得ていたと言う記述は無い。ならば太刀打ちできない訳でもないだろう」
 最もフェールセン皇帝から遣わされたとなれば、吸血鬼と何ら違いはない可能性もある。そして目の前にいるセツ枢機卿も
「成る程」
 この男の強さは身体の頑丈さでは”フェールセン”をも凌ぐ。もしかしたら、あのレクトリトアードをも凌いでいるかも知れない。
 途轍もない意思の強靭さとその身体を持っている。間違い無くセツ枢機卿であれば吸血大公と対峙しても勝てるだろうと、ドロテアでも思う。
 さすがに口にする事は出来ないが。
「そして武器はまあ最高の武器でいいが、防具は動きやすさを重視しろ。岩など軽く砕く様な蹴りの前には人の造った防具など、無力だ。動きやすい防具に幾重にも守備の上がる魔法をかけろ。まあこれは枢機卿にかかっているがな。ところでセツ、オマエは一度の幾つ魔法を唱えられる?」
 枢機卿をセツ呼ばわりするドロテアを、最早誰も咎めはしない。と言うより咎める事など出来もしないだろう、あらゆる意味で。
「確実にかける事が出来る、それを実証した事があるとなると一度に五つと言う所だ。残念ながら彼の天才オーヴァート卿のように、五十二種類の異なる魔法を同時に唱えると言うのは無理だ」
 伝説の男・オーヴァート=フェールセン。バカな事を行っても人々の感嘆と賞賛を浴びる特異体質だ。因みに理論上、五十二種類しか同時に唱え事は出来ない。何せ五十二系統しか魔法は無いのだから。
「俺も五十二の異なる魔法を同時に唱えられるとは思っていねえが、確実に五つな。それはどのランクだ?」
「最高魔法一つに上位魔法二に中位魔法二つだ」
 人並み外れていると言っても過言ではない力だ、その言葉にドロテアが頷き
「それだけ唱えられるなら十分だ。最高魔法が耐火魔法で中位魔法を多く使え、上位魔法を使うより中位魔法を繰り返した方が被害は少ない。ましてオマエの法力だ、桁が違う」
 色々と魔法種類の指示を出したのだが、その魔法を聞きながらセツ枢機卿は苦笑いをしながら
「その中位魔法だが、実は苦手でな」
 いらない所で安っぽいプライドに縋り、虚勢を張るような男ではないセツ枢機卿は自分の弱点躊躇わずに告げた。セツは本当に苦手なのだ、中位魔法などが
「……そうきたか。仕方ねえな、ヒルダ」
 その言葉に、腕を組んで顎を長い指でなぞったドロテアがヒルダに声をかける。一応ヒルダは枢機卿の手前、立って話を聞いていた。普通の人はそうなんだが、ドロテアは偉そうに座っているが。
「なんですか、姉さん?」
「セツに中位の上級ランクの、守備力向上や対攻撃防御魔法を教えろ」
「え〜!!」
「“えー”とか言うな」
 ちょいと語尾が違うが、それは仕方がないので。
「相手は枢機卿ですよ」
「だから余計に知らねえんだよ。コイツラみたいなのは。特にこの三十一年前に集められた奴らは、最高の魔法が簡単に唱えられるが為に基礎はおざなりなんだ。そりゃ最低の基礎は習うが、後は最高魔法を教えられたんだろう」
 それで使いこなせるのは、正に“天賦の才”がなせる技である。
「そう……なのですか?」
「そうだ。手間だと思うが頼む」
 ゆっくりと頷くセツ枢機卿。
「はい」
 と畏まるヒルダ司祭補。
 こうしてヒルダは、自分より相当年上で相当偉い人物に急遽魔法を教え込む事になった。右手と右足が一緒に出て説明するヒルダに
「そう緊張するな、ヒルダ」
 セツ枢機卿はヴェールの下から楽しそうに声をかけて、覚えていっていた。
「あ……はい」
 とは言え、つい一年前まで枢機卿と話などするとは思ってもみなかったヒルダは、どうしても動きがカクカクする。その緊張を解そうと
「普通の人間なら、お前の姉相手の方が、私などより余程緊張するだろう」
「そりゃそうですが」
 本当の事を言ってどうする?セツ枢機卿。そこで同意してどうする?ヒルダ

**********

 出発準備をしているエルストと、エギ大僧正。
「正直、あのドロテア卿がセツ枢機卿の随行を許してくれるとは、思わなかった」
「賭けでしょうからね、法王の」
「賭け?」
「ハーシルの残党を炙り出す」
「それは」
「ハーシル元枢機卿が頼るのはクナ枢機卿。だがクナ枢機卿は自分の立場を守るには、大伯父たるハーシルを捨てなくてはならない。その証として残党を狩るしかない。セツ枢機卿が法王の傍を離れた時、その時が最も活発に活動する筈です。法王の賭けでしょう、自分が殺されるか? ハーシルが完全に破滅するか?」
 意外に切れる男だと、セツ枢機卿がエルストを指していっていた。
 その時エギ大僧正は、口では“そうですか”と返していたが、それ程とは思わなかった。『ギュレネイス警備隊を辞めた男』と言う経歴。何故辞めたのかまでは解らない。一身上の都合、一警備隊員の退職理由など誰も問いはしない、が。もしかしたらセツ枢機卿は気付いたのかも知れない。
「危険な賭けだと?」
“確かにこの男は切れる”とエギ大僧正もエルストを、ヴェールの内側から凝視した。
 灰色の髪に、蒼い瞳。悪いとか良いとかの評価をしようとは思わない、有触れた顔立ちに必要ないだろう眼鏡をかけている。何を考えているのかわからない、何も考えていない様な男は
「だからエギ大僧正をこの場に残すのでしょうね。まあ、どっちにしても、セツ枢機卿は必ず生き残りますけど」
 淡々と話し続ける。ただ、エギ大僧正に解るのは
「絶対?」
 エルストが心配するのはドロテアの事だけで、この男は間違い無くあの女を誰よりも大切に思っている。
「勿論。ドロテアがいますから」
「それは私も否定しない」
 間違い無く、法王はドロテアを信頼して『最高枢機卿』を『預けた』のだ。

**********

−俺は吸血鬼を、お前はここに残る。そして、クナの出方を見るんだ
−ハーシルの残党を狩らせるの?
−ああ、そうだ。念の為にエギを置いて行く
−それは危険だ
−昨晩はそうだったが、今回は違う。あの女達と共に行く
−連れて行ってくれないかもしれない
−なら土下座してでも連れていってもらう。
足に縋って靴底で蹴られても連れて行ってもらう、このまま吸血大公に負ける訳にはいかないからな。
学者がいなかったからだと後ろ指を指されるのも今後困るんでな
−……解った。駄目だったら私からも頼む。いや私が最初に
−安心しろ、あの女は頭がいい。
こちらが全て言わなくてもすぐに気付く。悔しい程にな

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 私が死んでも、セツがいる
「お体の具合は如何ですか? ……妾は、あくまで法王猊下の下にいる者、ハーシルの残党を一掃する事をお任せ下さい」
 法王は、クナ枢機卿の申し出に許可を与えた

帰ってきたら私は貴女に差し上げます。セツにしか与えてはいけない筈の術を
どうぞそれを持って、行ってください

貴女は倒す、間違いなくあの日の敵を
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