悪意の肖像
 呪解師のテオドラは死体の前に立っていた。死体を乗せるために作られた特別な冷気を放つ台の前で、寒さに震えながら死体に被せられている布を剥ぐ。
 布の下から現れたのは、何一つ纏っていない美青年の死体。
 穏やかな表情は死に満足しているようにも見える。
「彼は満足しているのよ」

10 無口な道化師


 台から絶え間なく発せられる冷気がこもっている室内は冷たい。
 《死体を維持するための冷気》は冬の冷たさとも、雪解け水の冷たさとも全く違う。この冷気を爽やかに感じることはありえないと、見えないが頬にまとわりつく冷気を指先で拭いながらテオドラは感じていた。
 老婆に促され出された温かい茶から立ち上る湯気を吸うが、地下にある冷気がここにも浸透しているのか普通よりも温かみを感じられないでいた。
「あの人は美しい人でした」
 老婆の語る青年は、自らの美しさを永遠に封印したいと願いフラドニクスに《不老の法》を求めたが、存在しないと言われ絶望した。この美しい姿が朽ちるくらいなら死ぬと喚いた青年に、フラドニクスの骸師が声をかけた。

『死体ならそのままに保存する技術はあるよ。永久に朽ちることなく美しいままに』

 青年は悩み、多数の異能者と話をして《死体として保存される》ことを決断した。
「あの人は美しい自分の身体から離れ、霊としてその場に残り美しい自らの肉体を永遠に眺め続けることを選びました」
 飲み辛い温かいのに温かさを感じられない茶を飲むことを諦めて、足首を掴まれているような冷気を感じながらテオドラは老婆の話に耳を傾ける。
 老婆は暖炉の炎も温かみを与えることのできないような室内で淡々と語り続ける。
 長い歳月老婆は青年の死体を見守った。老婆が青年を見守ったのは、この家から出てゆけないため。夫に追われる身であった老婆を青年は自らの美しい死体の守人と決めた。夫から逃れることが出来るならと老婆は青年の申し出を受ける。
 閉ざされた空間で老婆は青年の死体を壊さないためだけに生きることになった。
 最初は安堵したが徐々に閉ざされた空間に鬱屈としてきた。だが契約してしまった以上、老婆はこの屋敷から出てゆくことはできない。
 そして自らは年老いてゆくが、全く歳を取ることのない青年の姿。
 鏡の映る己の姿に溜息を付く、自慢であった黒髪も今は艶のない白髪に。張りのあった赤い唇もすっかりと干からび長いこと誰とも触れ合っていない。
 若いころは青年の死体に気まぐれで口付け、それに夢中になったこともあるが老いてからは触れていなかった。青年の瑞々しい唇に対し、触れて解る己の唇の老いの惨めさに。
「何時の頃からか、青年の死体が憎くなりました。私は年老いてゆくのにあの青年は美しいままです」
 時代から取り残されたような室内装飾と、老婆の着衣。
「生きることはできましたが、ただ生きているだけでした」
 老婆は語り続ける。
「気がついたら私は夫に何故追われているのかも忘れてしまいました。もう歳なのでしょうかね」
 延々と続きそうな愚痴よりも、肺腑にまでしみこんで来てからだの内側から冷やしてゆくような冷気にうんざりして、テオドラは会話を切った。
「依頼を言ってください」
「この屋敷から出て行きたいの」
 それ以外ないだろうとテオドラも思ってはいた。
「解りました。ではこの屋敷から出てゆけるように貴方にかけられた呪を解きます」
 あっさりとテオドラが引き受け、手袋を外してテーブルに手をついて立ち上がったので老婆は驚いた。
「簡単に出来るの」
「出来ますよ」
 一瞬の躊躇いもなく返され、老婆はしばしの間身体を硬くする。
「私は何年も悩んだのに。悩んだ年数は一体なんだったの」
 強張ったままの表情で非難めいた口調でテオドラに言うが、言われたテオドラに言葉はない。
 再び冷たい青年のいる地下へ向かい、老婆がこの屋敷から出られるように青年の死体に存在する呪の一部を切り離そうとすると、
「ねえ、呪解師さん」
 老婆の声にテオドラは動かしていた《解呪》を鎮め、ポケットに手をしまいこみ振り返る。
「何でしょうか?」
「若返りは出来ないのかしら? 不老ではなくて若返り。この屋敷で過ごした時間を取り戻したいの」
 老婆の微弱な狂気を含んだ声を聞き、テオドラは青年の死体を思い浮かべて言う。
「貴方に呪われるつもりがあるのでしたら、若返りも可能です。この死体青年の美しさを使って若返らせることは可能です。呪われますか?」
「呪を解く人が呪ったりして良いの?」
「呪を解くためには呪の方法を知らなくてはなりませんから。それに呪は解く方が難しく、呪うだけでしたら簡単です。素人でも呪うことはできますが《解呪》は専門に頼まなくてはいけないでしょう?」
 老婆はテオドラに青年の美しさを使って若返ることを依頼した。
 若返った老婆は屋敷から出てゆくつもりで用意していた荷物を持ち、依頼料金を投げるようにしてテオドラに渡して軽い足取りで出て行った。
 室内に残されたテオドラは、老婆の代わりに年老いた死体を見下ろす。

「ここには既に青年の霊はいないから、何時でも出てゆけたのですがね」

 青年の思念は既に消え去っていた。
 テオドラが訪れた時には、青年の残留思念は何処にもなかった。己の死体の美しさを眺めるだけの状況がどれ程《つまらない》ことかを理解した青年は、霊体として朽ちていた。
 己の身が老いることに耐えられなかった青年には、己の意志と美しい死体だけで姿を保つことは不可能だった。姿亡き青年は老婆に何度も話しかけたが、老婆は青年の存在に気付かず、彼は疲れて消えていった。
 老婆は話しかけられたことも消え去ったことも解らないまま、死体を前に長い歳月を過ごし年老いていった。
「老婆が死ぬとこの死体はまた美しい状態に戻るのですが、そのことを誰が喜ぶのでしょうかね」
 死体の処遇を冷たい室内で尋ねても誰の言葉もない。
 冷気を発する台から響く僅かな振動だけが地下にある音。屋敷の解体などでこの死体の処遇をフラドニクスに問われることは確実なので、テオドラは死体を持ち帰るための手続きをするために一晩屋敷に泊まった。
 古びた匂いと冷気に野宿の方がましかも知れないと思いながらも。
 翌日フラドニクスの運び屋が屋敷を訪れた。あまりの底冷えに毛布に包まりながら出迎えたテオドラ。
「テオドラ。何を運び出すんだ?」
「アッサーラ。この地下にある死体」
 知り合いの運び屋を毛布に包まったまま案内する。
 石造りの階段を下りて、扉を開き死体を見せる。
「綺麗な死体だな。これが有名なパラケルスス死体か、全く腐らないものなんだな」
 アッサーラはテオドラの祖父の作った死体の見事さに溜息をつく。
「そうですね。持ち帰ったら私の家にでもおいて、満足ゆくまで眺めてくださいよ。私はもう一つ立ち寄らなくてはならない所がありますので、先に失礼します」


 やっと浴びた日差しに、強張った体をほぐしながら歩いていると人集りがあった。何だろう? と近寄ってゆくと半狂乱になった男がベルトで縛られて運び出されてゆくところだった。その後を布が被せられたタンカを持った人がついてゆく。
 風が吹き布が舞い、その下にあった干からびた物が現れた。

― 私が死ぬと解っていて、若返らせたのね! ―


 昨晩テオドラの枕元で大騒ぎしていた老婆の死体。
『貴方の寿命に関しては、聞かれませんでしたのでね』
 テオドラは人ごみに隠れて極印をあわせて、老婆にかけた《呪》を解き耳元で喚く老婆を消し去ってその場を後にした。

《終》


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