どのくらい暇かというと、野営地で木登りをして枝にぶら下がるくらいに暇だった。
ちなみに旅が始まってまだ二日目である。
「ラズワルドさま。そろそろ戻らないと、カスラー卿が心配しますよ」
水辺近くで緑が生い茂る大地に生えている鈴掛の木に、手と足を絡めて枝にぶら下がっているラズワルドに、一応付いてきたハーフェズが声を掛ける。
「向こうからも見えてる位置だから、心配しないだろ」
ハーフェズはラズワルドの姿が全体的に見える、少し離れた所に立っている。
「それにしても
「だってラズワルドさま、神の子ですから。ラズワルドさまになにかあったら、大変ですもん」
ハーフェズもカスラーは過保護かなとは思うが、それは人間としてみた場合であって、神に失礼があってはならないと考えると、当然の扱いとも謂えるので、結局「仕方在りません」になるのだ。
「大変を具体的に言うと?」
「具体的なことは分かりませんね。でもきっと、大変なこと……
「あーなるほど、
「
「なぜわたしだけに、言い直した」
「他の神の子を巻き添えにしちゃ駄目だなって思いまして」
「良い心がけだな、ハーフェズ。でもなあ、それにしても過保護だろ。最初の下車の時、吃驚したぞ」
旅を始めて三時間ほど経った頃 ―― ラズワルドの休憩の為に一行は止まり、馬車の扉が開けられ、ラズワルドが馬車から降りようとしたところ、カスラーはラズワルドが足を下ろそうとしていた所に平伏していた。
街中を走る馬車と長距離を駈ける馬車は、車輪の作りが違い、後者の車輪は大きく、結果車高が高くなり、地面に足を下ろす際には、踏み台があった方が良い。だがラズワルドは、多少高い車高だろうがものともせず、飛び降りようとした。
扉を開けたカスラーが、こともなげに自らの体を踏み台にしたのだ。
いきなりのことで、ラズワルドはどうすることもできず、カスラーの背中を両足で踏みつける形となった。
「ラズワルドさま、いままで何人も踏み台にしてきたじゃないですか」
ハーフェズが言っている「踏み台」は比喩ではない。神殿の馬車に乗せてもらい、降りる際には、随行している護衛の武装神官の中でもっとも身分の高い者が、カスラーのように平伏し踏み台になる。
「まあ、そうだけどさ。でもほとんど知らない奴を踏んだのは初めてだぞ」
「ラズワルドさまの踏み台は、大体ジャバードさまかパルヴィズさまですもんね。これから何度も踏むことになるでしょうから、カスラー卿と仲良くなりますか?」
「仲良くなれば良いというものではないが、仲良くなれるならなりたいものだが、あいつパルヴィズの部下か? ってくらい、わたしに対して畏敬の念を持ち、不用意に近づいてこないよな」
「普通の人間は、そうでしょうね。ラズワルドさま、神の子ですから」
「それはそうだが、ファルジャードやラヒムくらいに打ち解けてもよくないか」
「無理じゃないかなと。まあ、今度から俺が平伏して台になりますから、俺が行くまで馬車から飛び降りないでくださいよ」
「ハーフェズは体が薄いから、段差解消にはならんし、踏んだら折れそうだから嫌だ」
十一歳のハーフェズは、まだ華奢な体付きである。
「そうですけど。でもカスラー卿だって」
「カスラー、見た目より随分と逞しかったぞ。多分あれ、着やせしてる」
「メフラーブさまも、着やせしますよね」
「もともと細いのに着やせするから、貧相極まりなくなってしまうがなあ。それにしても、メフラーブくらいわたしのこと、ほっといてくれる奴いないかなあ」
「メフラーブさまほどラズワルドさまのこと放置できる人は、出世しないし、こんな任務を与えられることはないのでは?」
「真理だな、ハーフェズ。そうしてもう一つの真理だ、長時間この体勢でいたら手が痺れてきた。落ちそうだ」
ついつい興に乗り話続けてしまったラズワルドだが、体勢が体勢なので、腕が痺れて動けなくなった。
そして、まだ少年と少女の狭間のような体格のハーフェズは、木からぶら下がっているラズワルドを抱きかかえて降ろすことはできない。
そんなことをしようものなら、五年前下宿人募集の札を高いところにかけるために、抱き上げようとして転がってしまった喜劇再びである。
「人を呼んできますから、我慢して下さい! 絶対に落ちないで下さいよ! ラズワルドさま! カスラー卿! カスラー卿! ラズワルドさまが!」
その後、ハーフェズが呼んできたカスラーの手により抱きとめられ、ラズワルドは無事、地面に降ろされた。
「迷惑を掛けたな、カスラー」
ラズワルドはまだ痺れ震えている腕を、バルディアーに揉んでもらいながら「済まん」の気持ちを込めて謝罪したが、
「迷惑など滅相も御座いませぬ」
当然、そんなものは要りませんと拒否された。無論木にぶら下がっていたことに関しては、なにも尋ねられなかった。
「御前、失礼つかまつります」
カスラーは用事が済むと、ラズワルドの群青一色の天幕からすぐに下がる。
「あの分じゃあ、わたしのぶら下がりすら深遠なるお考えが……とか思ってるんだろうな」
神の子の護衛を任せられる程の男なので、表情や態度から気持ちを読み取るなど、若輩のラズワルドたちには不可能だが、神聖視しているのだけは、はっきりと伝わってきた。
「思ってるじゃありません、確信している筈です」
カスラーは誰もが神を信じているこの時代においても、信心深い部類にはいる男で、ハーフェズより余程真面目に、定刻に祈りを捧げている。
「なんでわたしが木からぶら下がって、深遠な思考を巡らすんだよ」
そういう人間は、ラズワルドがどんなことをしていても、何故か神秘であると解釈しがち ―― だが、それは仕方のないことである。
「神の子だからですよ。ねえ、バルディアー」
男娼時代に覚えた技術がこんな所で役に立つとは、人生どこでなにが役立つか分からないなと考えつつラズワルドの腕を揉んでいたバルディアーも、ハーフェズの意見に同意だった。
「武装神官の端にいる俺が拝見しても、神事に見えましたので、あまり神事を知らぬ兵士たちは、きっと……」
バルディアーは他の兵士たちと共に、ラズワルドの行水用の水を運んでいる最中で、その彼からもラズワルドがぶら下がっている姿が見え、急ぎ目を伏せた。なにせ両手両足で木にぶら下がっているので、髪の毛が全て下を向き神の文様が露わになっており、人々を畏怖させる神聖さを放っていた。
「なにも考えず、木からぶら下がってただけなんだけどな」
痺れがとれた手で、黄金で神の文様が刻まれている額を撫で、困ったものだと呟いた。
「ラズワルドさま、行水しましょう」
「そうだな」
ラズワルドは青い神官服を脱ぎ捨て、水が張られている桶に入る。桶は座って足が伸ばせるほどの広さで、高さはラズワルドの胸の下程度。
人間の娘ならば、もう十一歳なので恥じらいを……となるところだが、神の子であるラズワルドにはそんなものは必要なく、
「でも実際、ラズワルドさまのお力は凄いらしいですよ。兵士さんたちと話した時、全く魔物と遭遇しないことに驚いてました」
側仕えの少年たちは、劣情の欠片もいだかず、別の桶でラズワルドの長い髪を水洗いしながら話し掛ける。
「普通は、そんなに魔物に遭遇するのか?」
「する……の? バルディアー」
ラズワルドと行動を共にして十一年になるハーフェズが直接見たことのある魔物は、つい先日王都を囲んだ魔王の欠片だけである。それですら魔というより精霊寄りで、純粋な魔物はまだ見たことがない。
「しますね。魔払香を焚いても、薄いと近づいてきますから。小さいのなら、力がない人間でもどうにかなります」
「軍でも小さいのは、自分たちで払うらしいですよ。人に害を及ぼすのは、同行している武装神官が倒すそうですけど」
「へえ。小さいってどのくらいで、どんな形をしてるもんなんだ?」
ラズワルドは体を絹で軽く擦りながら、一生見ることのない小さな魔物について、バルディアーにかなり質問を繰り返した。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
行軍中だというのに、喉が乾いたと言えば冷たい水が注がれた硝子杯が差し出され、朝夕の食事は温かく、品数は必ず五品以上。休憩の合間に差し出されるのは、木の実や果物の蜂蜜漬け。
「金木犀の蜂蜜漬けを手に入れることができなかったことを、お詫びいたします」
ハーフェズから「ラズワルドさまが一番好きな蜂蜜漬けは金木犀」と聞かされたカスラーが詫びる始末。
天幕の準備などは、先遣隊が行っているため、到着した時には天幕はしっかりと作られ乳香も焚かれている。食事の支度を手伝うこともできなければ、水汲みを手伝うこともさせてはもらえない ―― ハーフェズとバルディアーにしてみれば「それは、そうでしょう」そんな暇をもてあましているラズワルドに対し、ハーフェズとバルディアーは中々に忙しい日々を過ごしていた。
まず彼らの移動は騎馬で、他の兵士よりも乗り手として劣るので、必死についていかなくてはならない。
当然自分たちが乗っている馬の世話も必要。そしてなにより必要なのは、ラズワルドの世話。ラズワルドは自分のことは自分でできるのだが、出来るのとさせるのは違う。
また暇なラズワルドのために、ハーフェズは葦笛を奏で、バルディアーは男娼だったころに覚えたラクス・バラディーを踊り楽しませる。
「バルディアーがラクス・バラディー踊れて良かった。楽しいぞ」
ラズワルドはバルディアー以上の踊りを見ているが、野営地で頑張ってくれるバルディアーの踊りは格別である。
「ありが……とう、ござ……います」
「踊りが終わった直後の声かけちゃ駄目ですよ、ラズワルドさま」
男娼時代、踊りはぱっとしない方だったので、ラズワルドの前で披露するのは躊躇いがあったのだが、暇解消の為ならばと彼は頑張っていた。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
魔の山経由サマルカンド行きの旅が始まって一週間 ――
「ラズワルドさま、あっちから変な気配がします」
ハーフェズが持ち前の勘の良さで、進行方向に魔物が居ると告げた。
「そうか……まあ逃げるなら逃げても」
だが魔物がいたところで、ラズワルドの暇が解消されるわけではない。魔物などラズワルドが近づくだけで、消え去ってしまうためだ。
「あれ? なんか突然気配が消えた」
「?」
ラズワルドとハーフェズは顔を合わせ「なんだ?」と ―― その理由は、夜になって判明した。次に立ち寄る町や村に先に入り、ラズワルドが過ごせるよう場を作る先遣隊の半数が初めて引き返してきた。
「魔物が神殿に逃げ込んだ? 神殿に逃げ込むなど、あり得るのか」
「その神殿は、メルカルト神の神殿ではなく、忘れ去られし神のものでした」
「なんと……」
報告を受けたカスラーは天を仰いだ。
ペルセア王国の大地には、太古の文明跡が多数あり、最早名前も忘れ去られた神を祀った神殿も無数にあった。
翌日、朝食を取っているラズワルドに、カスラーが昨晩先遣隊からもたらされた報告を、短くまとめて報告をする。
聞き終えたラズワルドは、
「ハーフェズが言った、気配が消えたとはそういうことか。わたしの力から逃げ切れないから逃げ込んだのか……まあ、逃げ切れぬのだがな」
そういうことかと納得した。
「神殿については、よろしいのですか」
「神殿について? ……ああ、別の神だからか。心配する必要はない。とっとと倒しに行こうではないか。カスラー、わたしの実力を見せてやる。そして驚くがいい!」
ラズワルドは食べかけのナンを持った手を高らかに掲げた。
―― 食べかけのナンを掲げるとか、宗教的な儀式と勘違いされるから、止めたほうがよろしいですよ、ラズワルドさま
隣で同じくナンを食べているハーフェズの内心は、誰も知らない。
そしてラズワルドは昼前に
ハーフェズとバルディアーは旗を持ち、輿に乗ったラズワルドの両脇について進む。
「ここで輿を降ろして、お前たちは下がれ」
忘れられた神殿を前にして、輿を担いでいた兵士たちに下がるよう指示を出し、古い石畳の上に降り立った。正面に見える神殿と同時期に作られたであろう石畳を、ラズワルドはつま先で探る。
「もう少し先か」
「ラズワルドさま?」
なにをしているのか? ハーフェズたちには分からなかったが、
「大体分かった」
「なにが分かったのか分かりませんが、分かって良かったですね、ラズワルドさま」
「まあな」
ラズワルドが分かったのならば、それで良いだろうと ――
「ところでラズワルドさま。なんで神殿に隠れた魔物、消え去らないんですか? ラズワルドさまが近づいても消え去らないくらいに、力を出し続けられているんですか?」
「そんなに力のある魔物ではないだろう。奴が逃れられたのは神殿に隠れたからだ。廃神殿でも神代に作られたものとなると、わたしの力を一応は防ぐ」
「一応?」
「神が住んでいた名残によって生き延びているが、こっちからそれを上回る強い力をぶつければ名残も吹っ飛ぶから、問題はない。行くぞ、ハーフェズ。バルディアーはどうする?」
「もちろん、お側に」
かなり離れなければ、全体を見渡すことができない神殿 ―― ただ彼らが思う神殿とは、随分と形は違う。もっとも違うのは、その外観の地味さ。かつては塗装されていたかも知れないが、現在は日干し煉瓦が積まれただけのもの。信仰する者がいなくなった神殿は寂しいものであった。
「お供を許して下さいませぬか」
「カスラーもか」
「はい」
「構わんが、わたしより前に出るなよ。相手がなにをしてくるか分からんからな。……まあ、してきた所で、どうという事もないのだが」
そう言うと、ラズワルドは神殿の魔物に向かって声を掛けた。
「隠れているのは分かってる。諦めて滅しろ!」
”はい、滅しますって言う奴はいないのでは”、ハーフェズは思ったが、さすがにこの場で話し掛けたりはしない。
「お前は」
神殿から聞こえてきた声は、人間と大差のないもので、初めて聞いた魔物の声にハーフェズは少しばかり驚いた。
「見ての通り、神の子だ。お前が何者かは知らないが、魔の山で大人しくしていなかった、己の愚かさを噛みしめて死ぬがよい」
ハーフェズと同じく、初めて魔物の声を聞いたであろうラズワルドはというと、驚きの片鱗も見せず、相手の姿を確認することもなく死刑宣告を下した。
「待て! 待ってくれ! 神の子」
「なんだ?」
「大人しく魔の山に帰るから、見逃してくれぬか。もちろん帰るまで、悪さはしない」
魔物は神殿に隠れたまま、憐れみを請う口調で、そのように提案をしてきた。
「……」
ラズワルドが「ならば帰ってよし」と言えば、いまここに逃げ込んでいる魔物は、先遣隊の報告によると空を飛ぶことができる種類ゆえ、人間である彼らにはどうすることもできない。
「この辺りって、声が響く……響かないね、バルディアー」
ラズワルドたちがいる通路と神殿はかなり距離があるのだが、何故か声が通っていた。その声は町全体に響いているように感じたのだが、
「ある程度の力が必要なんじゃ」
「あ、バルディアーの声は少し響いてるよ」
「……」
指摘されたバルディアーは思わず口を両手で塞ぐ。
「不思議な場所なんだね」
バルディアー頷いて返事を返した。
そこから少しばかり沈黙が続き ――
「おい、魔物。いつまで待たせるつもりだ」
ラズワルドが
「わたしは神の子の返事を待っているのだ」
「なんの返事だよ」
「だから大人しく魔の山に戻るから、見逃してくれと」
「………………”だから”なんだ、早く言え!」
ラズワルドと魔物の会話はかみ合っていなかった。
ふと思い立ち、ハーフェズは魔物の言葉をラズワルドにそのまま伝えてみる。
「ラズワルドさま、魔物は大人しく魔の山に帰るので、見逃して下さいと言っています」
「……そうなのか? バルディアー、カスラーも聞いたか?」
二人が頷いたのを確認したラズワルドは、
「お前な、嘘ついたな! 残念だな、わたしには貴様等魔物の嘘は聞こえんのだ。わたしに聞こえないということは、嘘である! 貴様は大人しく魔の山に帰るつもりもなければ、悪さをしないつもりもないということを証明した!」
”殺す”とばかりに手の平に黄金の球体を出した。
「いや! 嘘ではない!」
「嘘ではないって言ってますよ、ラズワルドさま」
「聞こえんな」
魔物の引きつるような叫びが町に木霊する。
「いや、心から! 信じてくれ!」
「信じてくれって言ってます」
「それは聞こえた。おい、魔物。わたしは許す気はないが、お前が逃げ込んだその神殿の主はどう言うかは分からん。そいつに聞いてみろ」
ラズワルドは黄金の球体を、自らの足下に落とす。すり減り古びた石畳が黄金のような光を放ち、それは続く神殿まで飲み込んだ。
神殿は暫し光りに包まれ、そして無数の細かい光が現れる。
「あれ、なんですか?」
「文字だ。神殿を作る時に、あちらこちらに神聖文字を刻むだろ。それが動き出しただけだ」
「ああ、ラズワルドさまが良くやるやつですね」
無数の光 ―― 浮かび上がった文字は、輝く神殿を取り囲む。
「魔物、助かると思います?」
「さあな。神はわりと変わったものが好きだから、気に入る可能性はないとは言え……なんか来たな」
神殿の取り囲み、回っている古の文字の幾つかが赤くなり、ラズワルドの方へと近づいてきた。
「魔物の奴、あまりにも無礼なので消したってさ。それで久しぶりの地上だから宴を催せと言っている。まあ折角だ、宴の一つくらい開いてやろうではないか。カスラー任せた。わたしは神が呼んでいるから、ちょっと会ってくる」
ラズワルドは言った通り、本当に少しだけ神殿に入り、すぐに出てきた。その日の夜は、町を挙げての宴が開かれ、廃神殿で祀られていた忘れられし神は満足して神界へと戻っていった。