ハーフェズ、迷子になる

 大国ペルセアを維持するのは経済であり軍隊である。
 ペルセア王は常時十万人の兵を所有している。王より全権を預かることもある大将軍。大将軍は軍の指揮権を持ってはいるが、その王に次ぐ強大な権力故、兵士そのものは所持していない。
 兵を直接指揮するのは中将軍。彼らは一万の兵士を指揮する立場にある、ペルセア国内では十名のみが就ける。
 その下に将がいて、大隊長がいて中隊長、小隊長、そして隊長となる。
 大国を維持する軍は、王都内の様々なところに駐屯しており、その一つが王宮である。この日、偵察任務と哨戒、それと賊狩りと行路の安全確保を終えた千の騎兵部隊が王宮へと帰還した。

「ご苦労であったな、カスラー」
「バーミーン殿、中将軍がわざわざお出迎えですか」

 カスラーと呼ばれた男は、黒みがかった茶色い髪と同じ色の瞳、年の頃は二十代半ばながら、ペルセアの将の一人で帰還した部隊を率いていた人物でもある。
 理知的な顔だちが印象的な男で、氏を聞けば誰もが納得する文官や博士を多く輩出している名門の出。
 だが当人は己の才覚一つで世に出たいとして、武の道を選んだ。
 ”文官でも大成したであろう。武官としては得がたい存在だ”同僚の誰もがそう言い、武で成果を出し着実に地歩を固め、国王の覚えもよく、また大将軍からも信頼されている人物である。
 彼は馬から下りて上官であるバーミーンに頭を下げる。

「サータヴァーハナ王国の偵察から帰還した御主を労る気持ち……だけではないのは、御主ならば分かるであろう」
「はい」

 バーミーンはカスラーの十歳ほど年上で、黒髪でしっかりと前髪を撫でつけ、額があらわになっているのが特徴と言えば特徴で、顔だちそのものにこれと言った特徴はない。
 先頃中将軍の座に就いた真面目一辺倒な貴族で、危険でもない偵察任務から戻ってきた部下をわざわざ出迎えるような性格ではない。
 カスラーは副官に後を任せ、旅装も解かぬまま乾燥地帯にありながら、水と緑が溢れ目を楽しませる王宮の外回廊をバーミーンに付き従う。

「大将軍がお呼びだ」
「急な遠征でも決まりましたか」

 カスラーは個人の武にも優れているが、軍略においては抜きん出た才を発揮していた。そのため、遠征が決まると兵站を任されることが常となっている。

「いいや。急な遠征が決まったとしても、偵察任務を終え帰還したばかりの御主を連れ回したりはせぬよ」
「さようで」

 そんな話をしている間に、大将軍マーザンダーラーンが待つ部屋に到着した。

「カスラーを連れてまいりました」

 巧緻な透かし壁から差し込む光を背にしていたペルセアの大将軍マーザンダーラーンは、読んでいた巻子本を机に置く。

「旅装を解く時間すら与えずに呼び出して悪かったな、カスラーよ」
「いいえ」

 カスラーは絨毯に描かれているメダリオン近くに膝を折り、大将軍よりの命を待つ。

「御主を呼び出した理由なのだが、公柱がサータヴァーハナのことを聞きたいので、最新の情報を持つ者を一人、真神殿に寄越して欲しいと仰ってな」
「公柱がですか」

 頭を下げていたカスラーだが、思いも寄らぬ命に顔を上げて、まじまじと大将軍の顔を見つめた。
 大将軍は五十代。禿頭ながら白髭は豊かで、もみあげから顔の半分が覆われている。

「昨日アルダヴァーン公柱より直々に言いつかってな。御主の帰国をバーミーンと共に心待ちにしておったわ。なあ、バーミーンよ」
「ええ」

 メフルザードやマーカーン、オルキデフ以外の神の子は、王宮に来ることは滅多にないので、それだけでも変わった出来事。更に命じられた内容も大将軍にとって不思議ではあったが ―― 神の子相手に理由を問うなど、人には許されぬことゆえ、命を賜り適任者が帰国するのを、ひたすら待っていた。

「公柱を一日もお待たせしてしまったと」
「今日帰国せねば、バーミーンを早馬として出すつもりであった」

 語る大将軍の表情は、戦陣で見せるそれと何ら変わりはないもので、カスラーは自分が悪いのではないが、深々と頭を下げて詫びる。

「この姿で御前に伺候するのは」

 無精髭が生え、髪もろくに梳いていないこの姿では無礼も過ぎるというものだが、さりとてこれ以上待たせるのも失礼に当たると悩んでいると、明日伺うよう指示を出された。

「もう一日待って下さるそうだ。身を清めてお伺いするように」
「畏まりました」

 胸をなで下ろしたカスラーは、大将軍の元を辞すると、後のことを部下に任せて急ぎ帰宅した。

「お帰りなさいませ、旦那さま」

 留守を預かっていた家司の出迎えに、労る言葉をかけるより前に命を与える。

「明日公柱の御前に伺候する。準備に取りかかってくれ」

 カスラーの言葉に家司は驚き、自分が落ち着くためにも、準備に必要な事柄を尋ねながら、主の佩いている剣を受け取り頭を下げる。

「どちらに伺候なさるのですか?」
「真神殿に上がり、アルダヴァーン公、ファリド公、シアーマク公、ジャムシド公、ヤーシャール公にお目通りする」

 この国の王シャーハーン・シャーとて、五柱もの神の子と直接会うことは、願っても叶わない。それを知っている家司は、敬畏のあまり呼吸の仕方を忘れ、主に対しての言葉に詰まった。

「……畏まり……ました、旦那さま。急いで浴室の準備に取りかかれ」

 それでも優秀な家司はすぐに気を引き締め、見事な采配を取る。
 風呂に入ったカスラーの髭を剃り髪を切って整え、着衣を整え宝飾品の準備はもちろん、出発までカスラーが過ごす部屋に没香を焚きしめる。
 同じく向かう馬車内にも香を焚き、同行する者たちの身も清めさせ、香を焚きしめた着衣を用意する。
 カスラーは白いズボンに、同じく白い長上衣に袖を通す。長上衣の丈はくるぶしまであるもので、ズボン同様ゆったりとしている。そこに黒のサッシュベルトを巻く。
 白の長上衣の上には、青緑地に錦糸で刺繍された膝丈の袖無し上衣をはおる。
 袖無し上衣は外側だけではなく、内側にもふんだんに刺繍がなされており、前身にはフェロザーターコイズ製ボタンが二個ついており、それで閉じることができる。
 
 この時代、指輪は男性のみに許された宝飾品で、目上の人物に会う際には、全ての指に最低でも一個の指輪を身につける必要があった。
 カスラーは十本の指全てに指輪を通し、仕上げに白いクーフィーヤを被り、新しいサンダルを履き新しい絨毯の上で胡座をかく。
 日付が変わると、身を清めた男たちがカスラーの座っている絨毯の端を持ち、彼を馬車へと乗せる。
 馬車は夜の街を走り、真神殿の正門へと到着する。乗った時と同じくカスラーは地面に足を付けず正門へと入り、馬車に帰っているよう命じる。
 話を聞いていた夜勤の衛兵が、念のためにと危険なものを持っていないかカスラーに身体検査を施してから、没香が焚かれている一室へと通す。
 カスラーはそこで一面だけ透かし彫りになっている壁に向かい、膝を折り両手の平を上に向け祈る体勢を取った。
 空が白むまで祈りを捧げ、

「お通り下さい」

 衛兵から声を掛けられ部屋を後にし、まだ暗さの残る空の元、真神殿へと続く青い道を徒歩にて進む ―― 数年前メフラーブが、涎かけを瞬殺していたラズワルドと共に、乗合馬車で簡単に突っ切り訪問した場所だが、神の子の随行でもない一般人が通るとなると、非常に手間がかかる。
 それらの手間を手間とも思わず、信仰心とそれと同等の精神力を持っているカスラーは、真神殿へと入り案内された場所で平伏し神の子が来るのをひたすら待つ。
 カスラーは何時間でもこの体勢で待つつもりでいたのだが、平伏してからものの五分も経たないうちに、衣擦れの音が聞こえ、彼が平伏している床よりも高い位置にある天蓋付きの座に、次々と神の子が腰を降ろした。むろん顔を上げていないカスラーは、音だけで判断している。

「面を上げよ」

 誰からの命かは分からないが、言われた通りに顔を上げたカスラーは、正面に座っているアルダヴァーン、ファリド、シアーマク、ヤーシャール、ジャムシドに、居ると聞いてきたにもかかわらず、緊張せずにはいられなかった。

「楽にしてくれていいのですよ。そうは言っても真面目なあなたに言っても通じませんか」

 ファリドがカスラーの緊張を解そうとするが、神の子の御前で寛げと言われても、常識ある人間は困るもの。
 カスラーよりも近い位置で、同じ高さに座って、頭をかきながら話せるメフラーブのほうが変わっているのだ ――
 五名は声を掛けると、天蓋から垂れている青い布で己の姿を隠す。
 これは一般人には易々と姿を見せないというのではなく、神の力がカスラーに降り注ぐのを幾分緩和しようと配慮してのこと。
 もっとも五柱が一堂に会しているので、無意味にちかいものだが姿が隠れたことで、カスラーの心中は少しばかり平穏を取り戻した。 

「カスラー。ダンジョール王子について知っていることを教えて下さい」
「はっ!」

 その後、カスラーはダンジョール王子及び、マツーラ王について聞かれたことに丁寧に、だが簡潔に答えていった。

「これは戦争にあまり関係のないことなので、分からないかもしれませんが、宰相ヤシュパルについて聞きます。かの国の宰相は跡を継ぐ男児はおらず、一人娘は王子妃となっていますね」

 先日アルダヴァーンの「シアーマクの心配はもっともだ。わたしも詳しいことははっきりとは分からぬが、たしか……情報を貰うとしよう。」この「たしか……」は宰相家の跡取り問題に関して。
 他国の一貴族の跡取り問題など、彼らにとってはなんら関係のないことだが、ラズワルドの乳兄弟ハーフェズが関わってくるとなると話は違う。

「はい」
「貴族というものは、家を継ぐことを何よりも大事にします。かの国の宰相は跡取りをどうしようと考えているのか? なにか知っていますか」
「たしかに宰相ヤシュパルは跡取りがおりませぬ。どこぞで産ませた子がいるという話もなく、妹の子を養子に迎えるという話も出ているようですが、どの妹の子にするかでもめていると聞いております。最近では国外に出た弟の息子を迎えようとしているとも聞きましたが」
「やはりそうですか……ああ、その弟の息子というのがラズワルドの乳兄弟でしてね。こちらとしては、くれてやるつもりはありませんので、諦めて貰うことにしましょう」

 どのようにして諦めさせるのか? カスラーは尋ねることはしなかった。
 その後幾つか話をし、労いの言葉を貰い真神殿を後にする。

「ふう……」

 一仕事終えたカスラーは、久しぶりに帰ってきた王都を散歩する。緊張がほぐれ、空腹を覚えたので羊肉の香草焼きでも買おうかと、屋台が並ぶ広場へと足を伸ばす。

「びじゃん……びじゃん……」

 到着した先は食欲をそそる香辛料と羊肉の脂が混じった芳香の中、子どもが一人、足を伸ばして座り込んで泣いていた。

「坊や、どうした?」

 カスラーは変な言葉を呟きながら泣いている子どもの側へと近づき、抱き上げた。

「びじゃん! びじゃん!」
「迷子か?」

 泣いている子どもはカスラーの問いには答えてくれず「びじゃん、びじゃん」と叫びながら泣き続ける。

―― ふむ、染み一つ無い白いズボンに鮮やかな緑のサッシュベルト。袖無し短衣は錦糸で縁取りがされた紫。赤の飾り帽……着衣は全て絹。どこぞの貴族の子息がお供とはぐれたか。サータヴァーハナの褐色の肌にサルマチアの金髪とは中々に目立つ子だな

「坊や、名前は?」
「びじゃん! びじゃん……」
「ビザンというのか?」
「びじゃん! びじゃん!」

 何を聞いても「びじゃん」としか答えない子どもに、

「やれ、困った。どうだ、羊肉でも食うか」

 子どもならば食べものでどうにかなるかと、羊肉の串焼きを一本買って持たせてみたのだが、その串を持ったままひたすら泣き続ける。

「どうしたものか」
「びじゃん! びじゃん!」
「早くお供が見つけてくれるといいな」

 泣き止まない子どもを抱きかかえながら、カスラーは苦笑いを浮かべた ―― その時だった。突然辺り一帯に光る球体が無数に現れたのだ。

「おお!」

 大勢の人がほぼ同時に驚きの声を上げる。その光る球体は少しだけ現れた場所に留まり ―― 一斉に一定の方向へと向かって動き出し、泣いている子どもを抱きかかえているカスラーを取り囲んだ。

「これは……精霊か。坊やは精霊使いなのか?」
「びじゃん! びじゃん!」
「……びじゃん等という呪文など、王宮の精霊使いたちの口から、聞いたことはないが……」

 危害を加えてくる気配はないのだが、何をしたいのか分からず、カスラーは立ち尽くす。

「はーふぇじゅ!」

 そうしていると抱きかかえている子どもと同じ年くらいの女の子の、泣き声混じりの声が聞こえてきた。
 その声を聞くと抱きかかえていた子どもが、より一層大泣きし出す。

「びじゃん! びじゃん!」

 女の子の声がした方を向くと、痩せた男が黒髪の女の子を抱えて、此方を目指して駆けてくるのが見えた。黒髪の女の子は首にしがみついているので、カスラーから見えるのは後ろ姿のみだったのだが、威圧感を覚える。

―― なんだ、つい先ほど感じたものと同じ……ヤシュパルの甥はたしか……

「ハーフェズ! あわあああ!」

 痩せた男がカスラーに近づくと、周囲にいた精霊たちは離れてゆく。そしてしがみついていた黒髪の女の子は、両手を広げ彼の腕から落ちかけるもそのまま。痩せた男がなんとか阻止し ―― カスラーの腕の中にいる子どもに負けないほど泣いている神の子がそこに居た。

「びじゃん! びじゃん!」
「びじゃん! びじゃん!」
「びじゃん!」
「びじゃん!」

 二人は声を揃えて「びじゃん」と叫びながら泣き続ける。

「お手数……おかけしまし……た」

 神の子を抱えて走ってきた痩せた男は、肩で息をしながら、泣き叫ぶ子どもの声にかき消されそうな小さな声でカスラーに礼を言う。

「いえいえ、わたしは何もしておりませぬよ、メフラーブ閣下」

 顔の半分がメルカルト文様で覆われている女の子 ―― ラズワルドの姿を見て、カスラーは自分の腕の中で奇妙な鳴き声びじゃんを上げながら泣いているのがハーフェズで、息を切らせている痩せた男がメフラーブだと理解した。そして先ほどの精霊たちは、神の子で精霊王の寵愛深いラズワルドが、迷子になったハーフェズを捜すために操ったのだろうと解釈した。

「閣下……ごほっ。庶民ですので……閣下は……ほら、泣き止め二人とも」

 メフラーブが広場にラズワルドを降ろす。カスラーもハーフェズを降ろそうと、膝をついたのだが、

「びじゃん! びじゃん!」

 カスラーの袖無しの上衣を掴んだまま離さない。泣きすぎて、訳が分からなくなり握った手を開けない状態になっていた。

「ハーフェズ、手を開け」
「大丈夫ですよ」

 カスラーはそのまま上衣を脱ぎ、ハーフェズから離れた。
 ハーフェズは片手に上衣、片手に羊肉の串焼きを握ったまま、泣きながらラズワルドに抱きつく。

「本当に助かりました。お礼を」
「お礼ですか? では、この上衣を公柱に寄進させていただきたい。よろしいでしょうか?」

 メフラーブの礼に対して、カスラーは寄進を申し出た。

「立派な上衣ですが、よろしいんですか?」

 神の子たちが着ているものと大差ない、高級品であることはメフラーブでも一目で分かったが ―― お礼をするというのならば、これ以上ない礼でもあった。

「ええ。是非お納めください。それでは失礼いたします」
「お名前を」

 これほど立派な人物ならば、信仰や礼儀を重んじるため名乗らないことは分かっていたが、メフラーブはそれでも尋ねた。
 返ってきた答えは、メフラーブの予想通り。

メルカルト神に忠実なハミルカル僕の一人にございます。それでは」

 そしてカスラーは立ち去った。