偽りの花の名[10]
 美しい夜明けを見るのに最適な時間に起こすよう、ゲルディバーダ公爵殿下は側近のお三方に命じていたのだが ――
「……」
 夜が明ける少し前に突然起き上がり、ベッドから飛び降りてどこかへ行かれてしまった。
「トイレだ。気にすんな」
「はい」
 トイレにしては随分と鬼気迫っていた気がするのだが……事情がおありなのだろう。トイレは近くにあるはずなのだが、なかなか戻ってこられなかった。
 寝ていてもいいと言われたが、着換えて待つことにした。かぼちゃパンツが耐えられなかったわけではなく……
 明け方頃、服を着て戻って来られたゲルディバーダ公爵殿下と共に海を焼くような鮮やかな日の出を眺めて、朝食に向かう準備に取りかかった。
「ヴィオーヴ侯爵がお好きなもの、調べてきたんです」
「キャスはできる子! 僕が褒めてあげるよ」
「ありがとうございます! グレスさま」
 ジベルボート伯爵が食堂の監視映像とウエルダから話を聞き、俺の好物を割出していた。軍食堂の料理は食べ慣れているので嬉しいのだが ――
「儂は午前中に帰る」
 食卓を囲んでいらっしゃる王の方々にも同じ料理が出されていた。
「もっと居てもいいんだよ、ニヴェ」
「……」
 王三人と同じ卓で食事を取るなんて、皇帝になったような気分じゃないか! ……内心でそんな軽口叩いてみたが、全然そんな気持ちになれない。
 円卓で俺の隣にはゲルディバーダ公爵殿下。左隣はケシュマリスタ王で、ケシュマリスタ王の隣がテルロバールノル王で、その隣がエヴェドリット王。
「ゾローデ、これ好きなんでしょ!」
 食った気がしないなあ……と、マナーに細心の注意を払いながら食べていると、ゲルディバーダ公爵殿下がご自分の皿に載っている大きな海老フライを指さしながら尋ねてこられた。
「はい」
「じゃあね、僕の分あげるよ」
 新しいナイフとフォークを手に持つと海老フライを上手に持ち上げて、俺の皿に移動させてくださった。礼儀的には許されないような気がするし、周囲の空気が変わった感じが怖ろしいのだが、楽しげに俺を見つめているゲルディバーダ公爵殿下を前にして……
「ありがとうございます」
 断るべきじゃないよな。
「食べて!」
 タルタルソースが入った陶器の容れ物を手に持ち差し出して下さる。
 甲斐甲斐しくお世話されてる状況だ。
「美味しいですよ」
「ほんと? うれしい」

 朝食が終わる頃、側近のお三方とジベルボート伯爵とカロラティアン伯爵がやってきた。俺はと言うとコーヒーを飲んでいた。
 今まで飲んだことなどない上質なコーヒー豆。普通のコーヒーと味がまったく違うことは分かるし、この状況からして最上級のコーヒー豆が使われていることは疑いようもないのだが、価値などは分からない。
「グレス、儂からの結婚の条件じゃがのう」
 テルロバールノル王がカップを置き、ゲルディバーダ公爵殿下に”結婚の条件”を提示する。
「なに?」
「主、帝国上級士官学校を卒業せい」
「え?」
「今のお主では、王として不十分だということじゃよ。ジベルボート、イルトリヒーティー、両名も同時に入学せよ」
 イルトリヒーティー大公は粛々と、
「畏まりました」
 ジベルボート伯爵はゲルディバーダ公爵殿下の首に抱きついて、テルロバールノル王に答えた。
「僕、頑張ります」
 ちなみに座っている椅子の座面が高く、後ろから抱きつくことはできないので、着席している人たちの間に割って入って抱きつくしかないのだが、ジベルボート伯爵はエヴェドリット王側に割って入った。
 度胸あるな……。
 ケシュマリスタ王は笑ったまま何も言わないので、王たちの間では話が付いているのだろう。
「デオシターフェィン」
 テルロバールノル王は話を続けられる。コーヒーは飲み干されたようで、カップから手を離して腕組みをしながら、今度はデオシターフェィン伯爵に命じられる。
「はい」
「この三名を入学させるための準備と補佐をせよ。費用は儂とヴァレドシーアが持つ」
「三名のうち一名でも入学させることができなかったら、かかる費用は当方持ちということですか?」
「当然じゃ。主は確実を要求される仕事、好きであろう」
「ええ。とても好きですが、仕事を引き受ける前にもう一つお聞きしたいことが。入学させるだけで良いのですね? 好成績で合格させろなる条件は付かないのですよね」
「それは必要ない」
「承ります」
「契約書は主が書いて持って来るがよい。詐欺めいておっても構わんぞ。合格させられなかった時の逃げ道などを用意しておいてもな」
 テルロバールノル王の口元が王者の笑みを描いた。卑屈さもなく、皮肉さも感じさせない。迫力と威圧、その他数々の尊い王気で構成されている笑い。
「契約書は作らせていただきますが、詐欺めいたことは致しませんよ。私は三名を確実に合格させる自信がありますので」
「主のその性格、好きじゃぞ」
「私も他国の王ながら、テルロバールノル王のことは尊敬しております」
 なんか微妙な含みがあったぞ、
 文字にすると伝わらない、端々のイントネーションに含みが! 俺には自分が属している王家の王は尊敬していないように取れた。俺がそう感じることができるのだから、他の人たちもきっと! ……っても現ロヴィニア王はあまり評判よくないもんな。
「トシュディアヲーシュ」
「ゾローデ! はい、あーん!」
 テルロバールノル王がトシュディアヲーシュ侯爵の名を呼ぶのと同時にゲルディバーダ公爵殿下に声をかけられた。振り返るとケーキを一かけ突き刺したフォークが差し出されていた。
「あ、あーん?」
「一口あげる。ふふー!」
 俺の視界の隅にトシュディアヲーシュ侯爵がいるのだが、すごく驚いた表情でこちらを見ている。とても気恥ずかしいのだが、
「では頂きます」
 言われたことは完遂するのが軍人の務め。
 口内に広がる酒の風味が中々好みの味だった。ゲルディバーダ公爵殿下お若いのに、こんな大人向けのケーキを好まれるのか。
「美味しい?」
「はい」
「じゃあ、もう一口上げる。はい、あーん」
「侯ヴィオーヴの補佐につけ。卒業以来ケシュマリスタ王国におるのじゃ。誰よりもケシュマリスタ王国軍について知っておろう」
 テルロバールノル王は俺やゲルディバーダ公爵殿下のことなど気にせず、トシュディアヲーシュ侯爵に命令を下された。
「畏まりました」
 ……トシュディアヲーシュ侯爵のこと嫌いじゃないけど、一緒に仕事をするのはちょっと ――
「本来であれば、グレスの側近から侯ヴィオーヴの側近に移動させたいところじゃが、さすがに既に決定してしまったあれを動かすのは面倒じゃからな」
 俺の側近……ウエルダはケシュマリスタ王が決定したのだから、動かすことも可能だろうし面倒でもないだろう。クレンベルセルス伯爵は、言葉は悪いが彼くらいならテルロバールノル王は造作もなく退けることができるはずだ。
 ということは三人目の、俺の知らない側近が厄介ということか。
 テルロバールノル王が面倒とかいう相手って……嫌な予感しかしない。

**********


 テルロバールノル王はお帰りになる前に、俺と二人きりで話しをしたいとのことで。ありがたいやら恐いやら。
「侯ヴィオーヴ」
 テルロバールノル王は俺のことを「侯ヴィオーヴ」と呼ぶ。何故なのだろう? 気になったので、二人きりで話をする前に、トシュディアヲーシュ侯爵に尋ねたところ”実は皇族爵位ってのは元々普通爵位とは違い、順番逆にして呼ぶもんなんだ。長い歳月で適当に普通爵位と同じように呼ばれてしまうようになったが、あの王家は仕来りには厳しいから未だにその呼び方を踏襲している”とのこと。さすが礼儀作法に厳しいお家柄の頂点に立たれる御方だ。
「はい!」
 幸せなことに俺は立って話を聞いている。テルロバールノル王は向かい側に座られている。これだよ、これ。この礼儀に厳しい感じが! ……線を引かれた方が楽なことってあるんだよなあ。
「出立する前に少しばかりグレスのことを教えておこう」
 王者の気風が溢れ出しているテルロバールノル王の座るお姿。
 足を開き肘掛けに両腕を乗せて、立っている俺を見るために顔を少し持ち上げられるが、王者の視線は下からでも天から降りてくると表現するしかない。
「ありがとうございます」
 当初は膝を折ろうとしたのだが「他の貴族ならばそうするべきじゃが王太子の婿は、他国の王に膝を折ることは許されぬ。注意せよ、主が気安く膝を折ることで、ケシュマリスタの権威に傷が付くゆえにな」と返された。
「主にも関係あるが、グレスの名誉にも関係することじゃ」
「なんでしょうか」
「まず第一にあの娘は処女だ。次に主を積極的に誘っておるが、本人もかなり恥ずかしがっておる。じゃがあの娘は賢いのじゃ」

「ケシュマリスタというのはな、美しさもそうじゃがセックスの方面でも抜群の能力を誇る……そうじゃ。儂はケシュマリスタと寝たことはないから分からぬが、昔からそのように言われておる。あの娘もそのことは知っておる。主に恋人がいたことが聞かされたかどうかは分からぬが、言った通り賢い娘じゃ。聞かなくともそのくらいのことは分かる。主だけではない、あの娘は誰と結婚しても同じように積極的に肉体関係を持とうとしたであろう。あの娘は己の結婚が政略結婚であることを理解しておる。己の体が政略結婚だけで終わらせずに、継続して続き最後には……まあ、まだ年若い娘ゆえに憧れることもあるのじゃろうよ」

 自分の過去の女性関係が王の皆様や皇帝陛下に知られていると考えると、冷や汗が噴き出してくる。悪いことなどしていないのだが……

「本人も焦っておるのじゃよ。もともとあの娘の結婚相手はサキュラキュロプスと目されておったのでな。あれはあの娘と個人的に親交もあるので、多少のことは多目に見てもらえると甘えておったようじゃが、大人の男性と一から関係を築くと同時に、自らが導く立場になったので、随分と焦っておるのじゃ」

 プー殿下……もとい、ギディスタイルプフ公爵サキュラキュロプス殿下と結婚したほうが楽だったろうが、後継者問題に関しては俺のほうが楽になるのだから。難しい問題だな。

「あのヴァレドシーアのことじゃから、主は聞かされておらぬじゃろうが、グレスは十八歳で王に即位することが決まっておる」

 もちろん聞いておりませんでしたとも。十八歳は譲位の最少年齢ですよね。

「もうすぐあの娘は十六歳。主が王婿になる為の準備期間も二年ということじゃ。……侯ヴィオーヴよ、ヴァレドシーアという男はな、王になる教育を一切施されておらぬ男なのじゃ。才能だけでこの十五年間渡りきってきたが、引き替えに精神がすり減っておる。グレスに地位を譲渡するまでは耐えるであろうが、その先は壊れるだけじゃ」

「その壊れるじゃが、狂うことができぬのじゃよ。あれは脆弱な性格だが狂えないように作られておる。主は王については一通り学んでおるから分かるじゃろうが、実子以外の者に王位を譲った王は君臨していた国から出なくてはならぬ。ほとんどが大君主となり、大宮殿に置かれる」

 二年後には現ケシュマリスタ王の助けを借りることは不可能ってことか。まずいな、俺は現ケシュマリスタ王の助けがあるからと、結構軽く考えてたのに。猶予二年で王婿か。……テルロバールノル王が語る”王になる教育を一切施されていない”と言うケシュマリスタ王に比べたら……。いや、でも……

「分かり辛いな。最初から説明しようか。ヴァレドシーアの兄、ボリファーネストはほぼ完璧な男であったが、唯一欠点があった。それは弟を失うことを極度に恐れたことだ。誰にでもある肉親を失う常識的な恐怖感ではなく病的であった。ボリファーネストは十歳の時に父を、十二歳の時に王であった母を失った。ただ一人の肉親を失うの恐れ、いつでも傍においていた。十三歳になってすぐに、同い年のハヴァレターシャと結婚しても、弟の扱いはそのままであった。儂は六歳の頃、ヴァレドシーアと会ったことがある。ヴァレドシーアは儂の婿候補の一人であったからな……ボリファーネストは手放すつもりはなかったがなあ。舌足らずで兄のマントの端を掴みくるまれているヴァレドシーアは年よりも幼く見えた。あれは本当に美の化身であった、今でもそうじゃがのう」

「現ケシュマリスタ王は0歳の時に父上を失い、二歳で母君と死別なさったのですよね」
 そして十六歳で兄を失ったと ――

「そうじゃよ。先代王は十二歳で即位したのじゃが、苦労したようじゃ。儂はヴァレドシーアと同い年ゆえに、その辺りの苦労については伝聞でしか知らぬが、王妃となったハヴァレターシャと、当時元皇太子の側近であった皇女フォルケンシアーノが必死で守ったそうじゃ」

「四十九代オーランドリス伯爵の?」

「そうじゃ。儂の継母にあたる。二人の協力と帝国宰相の力を借り、ボリファーネストは王としての地位を確立した。その後、皇女フォルケンシアーノは皇帝の命により儂の父と結婚した。二人ともヴァレドシーアのことは案じておったが、ボリファーネストの精神を安定させることを優先しなくてはならず、あまり独立心を育ててやることができなかった。ボリファーネストを善き王にするためには、兄弟同士で依存させておく必要があった。それは儂も許す。じゃがそこまでしたからには、ヴァレドシーアを残して死ぬなど言語道断じゃ。ヴァレドシーアは十六歳になるまで、何一つ自分で決めたことはなかったのじゃ。食べたい物も、聞きたい音楽も、散歩も歌うことも、絵を描くことも、文字を書くことすら、すべてボリファーネストが決めたのじゃよ! ボリファーネストは無責任じゃ。あの男は死ぬ前に弟であるヴァレドシーアを殺さなくてはならなかったのじゃ! 事故死などしてはならぬのじゃよ。当然のことであろう? 儂はボリファーネストを恨んでおる。ヴァレドシーアをごく普通に育てておったら、ヴァレドシーアはここまで追い詰められることはなかった」

「退位したヴァレドシーアのことは気にするな。儂が責任を持つ」
「テルロバールノル王……」
 なんの言葉も出て来ない。必要はないのだろうが……
「儂がヴァレドシーアを即位させたのじゃから、その責任は取らねばならぬ」

「ヴァレドシーアは拒否したのじゃよ。自分には無理だ、即位するならグレスだと。ヴァレドシーアは全てを搾取され、依存して生きておったが、頭脳は明晰であったため、現状を即座に理解してしまったのじゃ。ケシュマリスタ王家にグレスとヴァレドシーア以外に継承者がいないのであれば、それで良かったであろうがな。残念ながら継承権を持ち、虎視眈々と狙っていた者たちがおってな。やつらは喜んだ。自分ではなにもできぬヴァレドシーアと、泣き眠ることしかできぬグレスならば排除は容易であると。儂はヴァレドシーアにそやつらを殺すよう命じた。自らの手で殺せと。そうしなければ兄の娘は守れんぞと。”主を守ってくれるものは、そこにはもう居ないのじゃよ”となあ。残酷な台詞じゃなあ。儂とて言いたくはなかったわい。あれは綺麗なまま生きるのが似合いじゃと、王などという血濡れた存在になるものではないと。だがその時の儂には、ヴァレドシーアを守るには、ヴァレドシーアを王にするしかなかった」

「ヴァレドシーアは生き延び、グレスが十八歳になった時に王位を譲ることを条件に王となった。才能はある、あれは天才じゃよ。じゃがな王は天才というだけでは務まらんのじゃ。繊細な精神や、傷つきやすい性格などではやっていけぬ。ヴァレドシーアは傷つきやすくて、心の傷とやらが治らない性質でなあ。愚痴になったのう……主ならばケシュマリスタ王国を背負っていける。大君主としてヴァレドシーアはケシュマリスタ王国を去るが、儂はテルロバールノル王として君臨しておる……じゃから、共に帝国を歩もうではないか」

 テルロバールノル王は旗艦カルニスタミアに乗って帰国された ―― 俺は自分が想像していた以上に重い地位に就いてしまったようだ。

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