帝国夕凪ぎ 藍后微笑む[215]
「僕はあの子を喜ばせることはできるけれど、あの子は両性具有と直接会えることを喜ぶ。僕には感謝するだろうけれどもね」
マルティルディは支配者である。完璧な支配を敷いたとして、人々はマルティルディの統治に感謝し尊敬しても、幸せを分かち合うのは別の人。
マルティルディは人々が幸せである生活を見て満たされるような性格ではない。
今までもこれからも ―― だが例外が現れた。
「あの子、隠しきれない喜びを満面の不細工な笑みで表して飛び付くだろうね」
グラディウスが喜ぶ姿を見るのは好きだった。
「失礼いたします」
皇帝が私室にいることを知る警護の責任者ガルベージュス公爵がドアを開かせ一礼する。
「ああ。入って来ていいよ」
サウダライトは立ち上がり、彼が立っている入り口へと近付く。
腰まである夜空の星を散りばめたかのような輝きを放つ黒髪。深い蒼と翠の瞳。切れ長の目元、通った鼻筋、そしてマルティルディと同じく血の気のない薄い唇。
「どうしたんだね? ガルベージュス公爵」
軍人を表す黒地のマント。長さは足首まであり、それにより階級と血筋が表される。
胸元から腹部までを飾る階級章。腰にぶら下げられたやや鋒が反り返っている軍刀。その軍刀を収める鞘は、飾り気が一つもないことが逆に存在を目立たせていた。
「アディヅレインディン公爵殿下に提案した、陛下とルリエ・オベラと遊覧計画書をお持ちいたしました」
「ダグリオライゼ、それ実行しろ。準備に取りかかれ」
ガルベージュス公爵は飛行船で大宮殿と帝都上空を遊覧する計画書を手渡し、半身体をドア側に下げてノックする。
外側に控えていた召使いたちがドアを開き、
「畏まりました」
軍服のゾフィアーネ大公が胸に手を置き一礼し、サウダライトを案内する。
「ドアを閉じて、君たちも下がりなさい」
皇帝サウダライトの指示に従い召使いたちはドアから離れ、
「座って計画書に目を通したいから場所の用意を頼むよ、ゾフィアーネ大公。あと君のことだからもう計画書に目を通しているだろう? 私が読んでいる間に必要な人員を呼び出しておいてくれないかね」
「畏まりました」
皇帝の居住区を抜けて廊下に設置されているベンチに腰を下ろして、計画書を捲った。
皇帝の私室に残った二人。かつてどちらかが二十三代皇帝になると言われた者同士。
マルティルディは座ったまま、ガルベージュス公爵は立ったまましばし見つめ合う。そしてガルベージュス公爵がマントの両側を両手で掴み、広げるように歩き、マルティルディの前で膝を折った。
「やめろよ。僕は皇帝じゃない」
ガルベージュス公爵はまっすぐではなく、右側にやや斜に構えるようにして顔を上げ、
「そうですね」
楽しげに口元を緩めた。
「君、皇帝の夫になりたかった?」
ガルベージュス公爵の頬にかかっている黒髪にマルティルディは指を伸ばし、つまんでから手のひらを差し入れ、やや握るようにして髪を梳く。
「はい」
ガルベージュス公爵は自分に少々覆い被さっているマルティルディの豊かな黄金髪に手を伸ばす。
「本当?」
自分の夫と良く似ている男にキスが出来るほど顔を近づけ、口の形だけで”うそつき”と表す。対するガルベージュス公爵も同じように口の動きだけで”ええ”と答え――
「僕ともう一回寝る?」
※ ※ ※ ※ ※
「イレスルキュラン様のおっぱいすごかったです」
部屋割りをしたのは良いが、結局一部屋に三人集まり、本日の散策で起こった事の報告会を開いている。
ジベルボート伯爵の報告は、イレスルキュランのおっぱいについてだった。
「クレウ、その手の動きはなんだ?」
二人の前で何かを受け止めるかのような手のひら、そして少し動く指。
「解りません。ですがイレスルキュラン様のおっぱいを脳裏に描くと、無意識に手がこのように動くのです。ヴァレンやシクも動きませんか?」
ジベルボート伯爵の幸せそうな手のひらの動きを見てから、
「……」
「……」
素直に二人とも目を閉じて、夕食会で見たイレスルキュランの胸を思い出してみる。
「やっぱり動いてますよ! 本能ってヤツですよ!」
言われて目を開いた二人は、自分の殺戮に使われる手が、やたらと生き生きと何かを揉もうとしている動きに驚く。
「クレウ」
「なんですか? ヴァレン」
「この本能が甦ってしまったら、我もクレウも悲しい思いをするのでは?」
バベィラ=バベラ。それは鋼鉄の如き胸を持つ女性。
ケシュマリスタ女性。それは真っ平ら。
「……っ! シク、どうしましょう!」
独身を明言している子爵に縋ってくるジベルボート伯爵を見ながら、
「どうするも、こうするも……自ら封じ込めるしかないだろう」
どうにかしてやりたい気持ちはあれど、どうすることもできないの。
「でも研修中、ずっとイレスルキュラン様のおっぱいを見ることになるんですよ!」
目に焼き付く、あのおっぱい――
「おっぱいは硬いものだよね、シク」
「そうだなヴァレン。どれほど女性らしい胸の形をしていようとも、柔らかさなどない」
エヴェドリットは胸のある女性はいる。それが硬いだけであって、胸はある。
「二人ともずるい! 僕の実家はつるぺ……あああああ! 新妻フェルガーデ様が極貧乳だなんて、そんなことカロラティアン伯爵は言ってません!!」
そんな研修を続けていたケーリッヒリラ子爵やヨルハ公爵にジベルボート伯爵。
「どうしたんだ? ジベルボート」
「ああ! エルエデスさん」
ケディンベシュアム公爵に、
「ザイオンレヴィ元気にしてるかな〜と思いまして」
「連絡したらいいだろ?」
「そうなんですけれども、ザイオンレヴィに直接聞いても正直に答えないっていうか、答えられないっていうか、精神攻撃食らってるって言えるわけないっていうか」
「……そうだな」
「儂が聞いてやろうではないか」
リュティト伯爵がロヴィニアで研修をしていた頃 ――
『と言う訳じゃ。ギュネは元気にしておるか? イヴィロディーグ』
ザイオンレヴィの様子を気遣い、ロヴィニアに行った面々が連絡を取った。
「元気なようじゃ」
『ようじゃ? 一緒にいるのではないのか? イヴィロディーグ』
「ギュネは事情があって、少々遠くに一人でいる」
『なんでまた……とは言わんでおくか。マルティルディが原因なんじゃろう?』
「ああ」
『まあ一人でおるのならば、精神攻撃に晒されず無事であろうな』
画面の向こう側にいるメディオンに、ヒレイディシャ男爵は真実を言うことができない。
「恐らく無事だ」
マルティルディが両性具有を妊娠したこと。
『殿下はどのように過ごされておるのじゃ?』
それによりマルティルディとイデールマイスラの関係が更に悪化したこと。
「マルティルディとの諍いが……ガルベージュス公爵がいるから、深刻化は避けられそうだが」
『そうかえ……言えないが我慢できないことがあったら儂に言え』
「心配してくれて感謝する。じゃが儂は大丈夫じゃよ」
メディオンがロヴィニアでも変わらぬ笑顔を浮かべている姿に、ヒレイディシャ男爵は少しばかり救われ、メディオンに事実を気取られなかった自分の鉄仮面にも救われる思いであった。
「僕の腹にいるのが両性具有って確定なの?」
「本日確定いたしました、アディヅレインディン公爵殿下」
マルティルディに事実を告げたのは腹の子の父親であり、夫であるイデールマイスラではなく、
「そうかよ」
「これから脊椎核を持つ女性が両性具有を出産する際に起こる出来事を説明いたします」
ガルベージュス公爵であった。
イデールマイスラは己の子が両性具有であるという事実に耐えきれず、妊娠初期の段階でマルティルディの元から遠ざかっていた。
同時に彼はザイオンレヴィをマルティルディの愛人だと言い ―― 彼としてはそれが最良だと考えたのだ。妊娠していたことが隠しきれず、出産したがなかったことにされたとき、生まれたのが夫との間にできた子ではなかったから存在しない扱いになったと。
ただ弱い彼は自分自身もその噂に縋り、最終的にその嘘に縛られ逃げられなくなる。
「両性具有の出産について、秘密の一般論ですが」
「なにその、一般論」
腹を撫でることもなく、胎動を楽しむでもなく、何時もと変わらない態度でマルティルディはガルベージュス公爵の話に耳を傾ける。
「……となり、脊椎核を持った女性の両性具有出産は非常に重くなります」
「実際最近死んだ例は?」
「陛下の妹君にしてロヴィニア王妃であったサズラナシャーナ殿下」
「一人目で?」
「はい」
「僕よりずっと脊椎核少ないのに」
「はい」
「生存例は?」
「陛下の妹君にして、わたくしの母であるサディンオーゼル大公」
「……知らなかった」
「当然かと。両性具有は存在しませんので、五つくらいまでは生きましたね」
「だから君の両親が来るんだ」
「はい。大急ぎで仕事を片付けてやってきます。それまでの間、わたくしが」
「……ねえ、ガルベージュス」
「なんでしょう?」
「僕、死んじゃうのかな?」
「分かりません。ただ、両性具有の出産で死亡しますと酷い姿になります」
「もしも僕が死んじゃったら、ザイオンレヴィに僕の姿は見せないで。そして殺して」
「畏まりました」
その時ケシュマリスタで起こった出来事を、ロヴィニアで研修をしていた五人と、
「わりと研修のんびりできていいもんだなあ」
ケシュマリスタの主星から離れた場所で一人研修を行っているザイオンレヴィは知らなかった。
彼らだけではなく、大半の者は知らない。
「ロヴィニアに行ったみんな元気かなあ。マルティルディ様、お元気かなあ」
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