帝国夕凪ぎ 藍后微笑む[199]
驢馬車に揺られながら、グラディウスとルグリラドは日よけを広げ、荷台で昼寝をしていた。ほとんど揺れない荷台と、心地良い程度にひんやりとした空気。
柔らかなクッションが敷き詰められた荷台で横になり、話をしていると睡魔が木漏れ日と共に肌を撫でる。
必死に遊んだグラディウスが先に眠り、寝顔を見ながらルグリラドも目を閉じた。ルグリラドの場合は肋骨の治療の為に睡眠が必要でもあった。
二人が静かになったので驢馬は足を止める。遠くで鳴く鳥の声とともに、後ろから寝息が聞こえてくる。
安らかな寝息をしばし聞いたあと、驢馬は歩き出した。休憩を取る前よりも遅く。決して疲れたわけではない、この時間が続くようにと考えてのこと。
緩やかな時の流れと、近くにある温もり。
先に目を覚ましたのはグラディウスであった。目を擦りながら起き、眠っているルグリラドの顔を見て、口を開けて大きな目を細めて笑う。
以前マルティルディに感じたような悲しさを伴う美しさではなく、純粋に「綺麗」と言って言いルグリラドの寝顔に、グラディウスの表情は明るくなる。
ルグリラドも目を覚ましたのだが、グラディウスがあまりにも嬉しそうに自分の寝顔を見ていることを薄目で確認し、しばらくこの体勢を維持することに決めた。
長い睫の向こう側に見える、賢くなさそうな笑顔を浮かべる少女。
ルグリラドが眠っている振りをしているとは知らないグラディウスは、その額に軽く口ける。
「おやすみ、ど、どりゃさま?」
かつて母親がしてくれていたように(母親はグラディウスの名前が疑問系になったりはしないが)額にお休みのキスをして、グラディウスはもう一度寝転がった。
ルグリラドは目を開けようかと思ったが、薄目で確認すると自分の胸元で口を手で覆い隠しながら喜んでいるので……知らぬ振りをすることにした。
ルグリラドは潔癖症だが、グラディウスに触れられるのは嫌ではない。不快感は沸き上がらず、それどころか愛しさとも違う切なさがこみ上げてくる。
※ ※ ※ ※ ※
予定時間通りに驢馬車はグラディウスの館に到着した。
あれから転がるだけで眠っていないグラディウスと、同じく寝たふりをしていたルグリラド。二人は起き上がり、互いの額を押しつけて、目覚めの挨拶代わりに笑い声を上げる。
出迎えの為に待機していたケーリッヒリラ子爵とメディオンは、二人が休暇を楽しんだことを確信した。
巴旦杏の塔に到着したときと同じく、グラディウスは飛び降りてルグリラドに手を差し出す。少々自慢気で、そしてかなり照れている。
なぜそんな気持ちになるのか? グラディウスは考えたこともない。
だがルグリラドの美しい指先に触れると、村で生活していた時には知らなかった感情が控え目に姿を出す。
「とっても楽しかったの!」
「それは良かったな」
ケーリッヒリラ子爵が普通に返す。
彼はグラディウスが臨席していない場合には丁寧な言葉を使うが、一緒にいる時は、わかりやすさも兼ねて普通に話をする。
「追いかけっこしたの! おきちゃきちゃまがね! エリュシ様も一緒にねえ」
「うおああああ!」
隠し事ができないグラディウスの口から漏れた名前に、ルグリラドは容姿とは真逆の雄々しき咆吼を上げる。
「どうしたの? おきちゃきちゃま?」
二人きりならば良いが、メディオンやその他の貴族の前で両性具有に声をかけて遊んだなど知られたら困るのだ ―― ルグリラドの性格上。
もっとも家臣であり幼馴染みであり従姉妹のメディオンは、ルグリラドが両性具有を無視できるような性格ではないことを知っているので、聞いても驚きはしない。
だが「知っていますよ」などとは言えるはずもない。
ケーリッヒリラ子爵はルグリラドの人となりは詳しくはないが、グラディウスが飛び跳ねて喜びを露わにしているのを見て、リュバリエリュシュスに優しくしてくれたことは簡単に想像でき、それを顔に出してはいけないことも分かった。
グラディウスは賢くなくて正直なので、顔や態度にすぐ出てしまう。
だから隠しようがない。
ルグリラドもグラディウスから発せられる喜びに満ちた空気を好ましく思うのだが、それが顔見知りに知られるのは恥ずかしい ――
「グレス、遊ぼう!」
そこにやって来た救世主は顔色が悪かった。ついでに肉付きも悪かった。そして案内役のガラード、ケルディナ両中尉の顔色も悪かった。
「ヨリュハさん!」
両中尉はヨルハ公爵の後ろに立つ……と、そこには背負われたヨルハ公爵にそっくりな娘。父と娘は背中合わせになっているので、娘の”にたあ”な表情は遮るものが何もない。
乳幼児らしく歯はないのだが、その眼帯と表情が、普通の帝国貴族中尉たちに恐怖を存分に与えてくれる。
二中尉は恐怖などまったく欲していない。
―― 早く帰りたい
―― 怖えぇ……
それでどうなったのか? ヨルハ公爵の提案で、この場にいる全員で追いかけっことなった。
「こうやって遊んだんだよ!」
全力で走って逃げるグラディウス。
「そうなんだ!」
「……(にたあ)」
追うヨルハ親子。
他の参加者は、案内してきた二中尉にケーリッヒリラ子爵、そして呼ばれたルサ男爵とリニア。ヴェールを被って参加のジュラスに、
「本当に貴方って空気読めないっていうか、駄目な男よねえ」
開始早々全力でグラディウスに触れてしまった”最初のおに役”のザイオンレヴィ。
「いや、でも、あの子喜んでたと思うよ」
「そういう問題じゃないでしょう」
確かにグラディウスは喜んだ。なにせ始まって直ぐ、気付かないうちに捕まったので驚いて大はしゃぎした。だがそれが許されるのは一度だけ。
何度も気付かないうちに捕まっていては面白くはない。その点ヨルハ公爵は上手に追いかけ、グラディウスを遊ばせている。
「ねえ、ザイオンレヴィ」
「なに? ジュラス」
「あの背負われてるドノヴァン、どうして笑い顔だけで声がないの?」
「……さあ?」
父と同じく艶のないボサボサの髪の下、隈が目立つ目と眼帯。そして目立つ亀裂のような口。
無言でご機嫌なおちびちゃんの首は、激しい動きでガクガク揺れていたが、ヨルハ公爵の娘なので問題にはならない。
「怖いと思うが、付き合ってくれ」
――悪いことしたな
思いながらケーリッヒリラ子爵は二中尉とルサ男爵、そしてリニアに声をかける。
ごくごく普通に生きてきた人にとって、ヨルハ公爵に追いかけ回されのは、遊びであっても丁重に辞退した事柄なのだが、皇帝の寵妃と楽しげに遊び、それに加わるよう言われたからには断ることはできない。
―― しっかりと怪我なんてさせないで、遊べるとは思うが……一応な
※ ※ ※ ※ ※
ヨルハ公爵に後を任せて急いで帰途についたルグリラドとメディオン。
だが途中で肋骨を骨折し、放置したままだったことを思いだしたルグリラドから話を聞き、近くの医局へと向かった。
「儂にお任せください」
「おう」
設備は使うが執刀はメディオンである。
治療方法は様々あるが、切開してつなぎ治しという原始的な方法を採用した。回復能力は個体により差があり、人によっては原始的な治療方法のほうが良い場合もある。
麻酔を打ち、切開して骨を削り調節する。
ルグリラドは仰向けの体勢で意識はあった。
「治療してもらうのは初めてじゃが、上手いのではないか? メディオンや」
「はい! これに関しては自信ありますのじゃ!」
「帝国の上級士官学校で習ったのかえ?」
帝国上級士官学校はありとあらゆる事に精通することが要求される。
治療器が壊れた際の応急処置も当然ながら習いう。それは人を治療するだけではなく、自分自身も治療される。
「はい! 儂はこの授業が好きでした……変な意味ではなく、治療などが出来ることが楽しくて!」
「分かるわい。人を治せるのは嬉しいのう」
「はい。儂が組んだ相手はエルエデスでした、今は亡きシセレードの公女です」
「ケディンベシュアム公か……あれは治療の練習には向かぬのでは?」
「ええ。儂は特別に講師を解剖治療することになりました。エルエデスは治されるのは免除で、儂の治療だけで単位を貰っておりました」
”面倒だな。こんなに手間暇がかかるのか? 痛くはないか? ……ならいい”
「そうかえ。それは良かったのう」
「はい」
メディオンはしっかりと治療を終えて、ルグリラドに少し此処で休むように進言した。
治っているのだから直ぐに戻っても良いのだが、その言葉を聞き入れて、
「儂は一人で休みたいのう。少し席を外してくれるか? メディオンや」
「はい」
ルグリラドはメディオンを一人にしてやることにした。
額に手をあてて溜息を吐き出し、目を閉じる。
部屋から出たメディオンは、治療器具を戻しながら少しばかり泣いた。
”お前、もしかして内臓触るの怖いのか?”
”儂が珍しいのではないぞ! 主等が珍しいのじゃからな! 覚えておけ”
”解った解った。だから動くな、別の箇所が切れる。それにしてもひどい授業だな。大貴族の姫君すら傷つけられて素人治療の実験台兼単位にするとは”
”主とて大貴族の姫ではないか。傷はつかぬが”
※ ※ ※ ※ ※
うとうととしていたルグリラドは気配を感じ、眠りに落ちそうであった意識が覚醒する。メディオンでないことだけはすぐに解った。
気配や空気がまるで異なるからだ。
部屋に入ってきたのはガルベージュス公爵。
彼が本気であればルグリラドに気付かれないように近付くことも可能なのだが、彼はわざと気配を消さずにやってきて、ルグリラドの顔を覗き込みながら近づける。
互いの唇が触れそうになった所でルグリラドは、目蓋を開く。
目を閉じていただけ――そのことを知っていながらのガルベージュス公爵の行動。
ルグリラドは怒りはしなかった。
「ガルベージュス公爵や」
「はい」
「姫は口づけで目覚めるが、儂はもう姫ではない。正妃じゃ」
「そうですね」
ガルベージュス公爵は片手を差し出し、その手に手を置きルグリラドはベッドから降りた ――
《七章・終》
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