帝国夕凪ぎ 藍后微笑む[197]
 グラディウスは目を覚まし、ルグリラドがまだ寝ていることを知り、気をつかってベッドから静かに降りた……つもりだったのだが、
「ご、ごめんなさい、おきちゃきちゃま!」
 気を使いすぎて、足がもつれサイドテーブルにぶつかり、スタンドを落としてしまった。
「怪我しておらぬか? グレスや!」
 もさもさと降りる姿を薄目で眺めていたルグリラドは、ベッドから飛び降りてグラディウスの体を気遣う。
「平気」
「そうかえ。……では、身支度を調えて朝食にするか」
「はい!」
 テーブルから落ちた【落としても欠けたりしない】ことが売りのスタンドを拾い上げてテーブルに戻して、
「先に顔を洗うがいい。儂はパンを見て来る」
 グラディウスは洗面所へ、ルグリラドはキッチンへ。前の晩に用意しておき、朝に焼き上がるようにセットしておいた食パンの出来を確認する。
 分量は間違っていないと言い切れるが、焼く道具が壊れる可能性もある。
 焼きたてパンだよ! と蓋を開けた先に、黒こげの物体があったり、焼けていなかったりしたらグラディウスがそれは悲しむ――ということで、先に確認しにきたのだ。
「無事に焼けておるな」
 パンの無事を確認したあと、メディオンに連絡を入れる。
「しっかりと焼けておる。そっちも無事に焼けたか、それはメディオンが食べるのじゃ」
 もしも失敗したことを考えて、同じ材料でメディオンにパンを焼いてもらっていたのだ。
『はい。ルグリラド様、楽しんでいらっしゃいますか?』
「おう」
『それは良かった。今日もお楽しみください』

 主人の弾んだ声にメディオンは頬を綻ばた。

 朝の身支度を終えた二人は、
「ほれ、コーヒー豆を挽くぞ」
 朝食の準備にとりかかった。改良され手動ながらにとても簡単に豆を挽けるミルで、
「ごりごーり。たのしい!」
 コーヒー豆を挽く。
 ただしグラディウスは、コーヒーは苦手である。サウダライトがブラックで飲んでいたコーヒーに興味を持ち、一口貰ったあと大人の味に悶絶し、以来近寄らない。
「あてし、苦手」
「分かっておる。儂が主にも飲めるようにしてやるから、待っておれ」
 ルグリラドは伝統的にエスプレッソ一辺倒なのだが、グラディウスの為にメディオンと共に、ミルクや甘みを研究し……
「カフェ・ラッテじゃ」
 牛乳多目で甘みも足した、ルグリラド特製のグラディウス用カフェ・ラッテ。
 ルグリラドの美しい手から直接渡されたカップ。グラディウスは少し緊張するも、ルグリラドのことを信じ、
「いたたきます!」
 ”ずずずず”と、行儀悪く音を立てながら自分の肌よりも薄い色合いになったコーヒーを啜った。
「どうじゃ?」
 グラディウスの口に合うつもりで作ったが、本人に飲ませるのはこれが初めて。口に合うという自信はあるが、その自信と同じくらい”合わないのではないか?”という不安もある。不思議なことに、この感情は同時に同程度、ルグリラドの中に存在する。
「おいしいです!」
 嘘をつけないグラディウス――の、満面の笑み。
 熱いので少しずつ息を吹きかけ啜っては、ルグリラドの方を見て笑い、また啜る。
 幸せに浸りながらルグリラドは自分のコーヒーを飲み、そして朝食作りに取りかかることにした。
 取り出した焼きたてパンにグラディウスが目を大きく開き、藍色の瞳が期待に満ちる。
 パン切りナイフを持ったルグリラドは、ふと思い立ち、
「グレスや」
 焼きたての黄金色の食パン一斤。
「なに? おきちゃきちゃま?」
「これ、このまま食べぬか?」
 一斤の食パンにかぶりつくグラディウスというのを想像したルグリラドは、どうしてもその姿が見たくなってしまった。
「食べていいの?」
 村にいた頃、はっきりとではないが、パンにかぶりつくことができたら――そうグラディウスは思ったことがある。
 村にいたころのパンは、今グラディウスに手渡されたような柔らかく薫り高いものではないが。
「もちろんじゃ!」
 食パンを手渡したルグリラドはグラディウスよりも楽しそうな顔で見つめる。
「それじゃあ、いただきます!」
 長方形の食パンに目を閉じて幸せそうに噛みつき、頭と首で必死に引っぱり千切り、そして頬張る。
 食パンにかぶりついているだけの姿なのに、ルグリラドはとても幸せだった。
 ずっと食べている姿を見ていたいと思う程に、必死に噛みつき、そして頬張る。食パンに頭を突っ込み埋もれていたグラディウスが”がばり”と顔を上げて、
「おきちゃきちゃまも食べよう!」
 自分が食べていた反対側を高くい、ルグリラドに差し出す。
「そ、そうじゃな! 儂も食うぞ!」
 食パンを掴みルグリラドもグラディウスに負け時と頬張った。
「美味しいね、おきちゃきちゃま!」
「そうじゃなあ」

 朝食はサンドイッチ ―― 具材を用意してきて、好きなように具を挟ませる ―― 予定だったのだが、二人で食パンにかぶりつくのが楽しくて、気付いたら二人で一斤食べきり、満腹になってしまった。

「おきちゃきちゃま、朝ご飯美味しかった!」
「そうかえ。儂も美味かったわい!」

 そんな質素なのか豪華なのか、行儀悪いのか楽しいから良いのか? 他者が判断するべきことではない朝食が終わり、二人は外へと出た。
 そこには既にルグリラドのハープと椅子が用意されている。
 今朝方ガルベージュス公爵が運び込んだのだ。
「おきちゃきちゃま! あれはなに?」
 一般人はハープの存在を知らない。テルロバールノル貴族以外の上級貴族は直接見ることはできるが、原則として触れることは許されていない。
 もちろん隠れてつま弾くことはできる。
 才能がありテルロバールノル王家に申告し、認められれば晴れて堂々と弾くことはできるが、そうでないものは知られぬように隠れて弾く。
「ハープじゃよ」
「はーぷ?」
「儂の楽器じゃよ。エリュシが来たら弾いてやるわい」
「あてし楽しみ!」

 家と塔の境で人の声がしたので、リュバリエリュシュスは螺旋階段を下り一階へとやってきた。
 リュバリエリュシュスの姿を見たグラディウスは、
「エリュシ様! エリュシ様! おきちゃきちゃまが特別にはーぷを弾いてくれるよ!」
 喜びを露わにしながら、これから聞かせてもらえる音を心待ちにしていた。
「ハープ……それがハープですか」
 リュバリエリュシュスは”ハープ”という単語と、それがテルロバールノル王国の楽器であることだけは知っている。
「そうじゃ」

 ルグリラドは椅子に腰を下ろして、弦に指をかける。

 彼女の奏でる音はマルティルディとは正反対。
 美しい音だが決して周囲の音をかき消したりはしない。近くを飛ぶ小鳥の鳴き声や、風がそよぐ音などはそのまま聞こえている。
 だがその音は彼女が奏でる音と調和し、音ではなく音楽に変わる。
 巴旦杏の塔を覆う蔦の葉がこすれる音も、彼女の指から生み出される音と重なりあい、透き通る音となる。
 彼女が奏でる音は他の音を認め、そして共にあり、それらを美しく輝かせる。

 音はよく本人の本質が現れる ―― 彼女、ルグリラドは自分の音の評価を聞くのは嫌いである。”儂は他人なぞ、認めん”と。

 グラディウスが音の美麗さに我慢できず、終わってもいないのに拍手をする。その拍手もまた音楽の一部となり、辺りに響き渡る。

 弾き終えたルグリラドと、拍手をし続けるグラディウス。拍手をし始めたリュバリエリュシュス。
「なんか、すごく、なんだろう……」
 グラディウスは拍手をしながら、何と言ったらいいのだろうか? 困り果てていた。
 ルグリラドは美しいのだが、彼女の美しさはマルティルディとはまったく異なる。容姿も、そして奏でた音も。
 グラディウスはマルティルディの歌を美しいと言った。ルグリラドの音も美しいのだが、マルティルディとは違うので、別の言葉で自分の気持ちを伝えたかったのだが――グラディウスの乏しい語彙の中に適切な言葉はなかった。
「その拍手だけで充分じゃよ、グレス」
 手が痛くはないか? と尋ねたくなるほどに拍手をし続けるグラディウス。ルグリラドはそれだけで満足であった。
 リュバリエリュシュスもなにも言うことができなかった。
 ルグリラドはその後「藍凪の少女」という歌があると、それがまだできあがっていないと聞き、助言をすることにした。

「一度楽譜に起こしてみると良かろう」
 リュバリエリュシュスは作曲などをしたことがない。ケシュマリスタなので自分の内側から溢れ出す音があり、それが曲になるのだが――
「あの……」
「一代で消すのかえ? 塔に入る誰かのために、曲を残してみたらどうじゃ?」
 なにも残すことができない両性具有だが、何かを残すことが出来る。
 その誘いはリュバリエリュシュスに強い衝撃を与えた。
「ですが、我は……楽譜というものを知りません」
「教えてもらえば良かろう」
 ”誰に教えて貰えばいいのだろう……”動揺しているリュバリエリュシュスを残し、二人は一度室内に戻った。

「エリュシとやら」

 戻ったはずのルグリラドが玄関から顔を出す。
「ケーリッヒリラという男、おそらくおじ様と呼ばれておる、栗毛を後ろで一本にまとめた、落ち着きはらった男。あれは教えてくれるじゃろう」
「あの」
「儂の独り言じゃ!」

 リュバリエリュシュスが声をかけると、ルグリラドは急いで室内に引っ込んだ……のだが、なぜかまた顔を出し、

「儂が教えたと言うではないぞ! じゃが! ケーリッヒリラが教えないといったら、儂の名を出すが良い!」
「あ、あの……」
「別に儂は貴様の作った音楽を聴きたいわけではなく、その……いいか! 絶対に言うでないぞ! じゃが、言うのじゃぞ! エリュシや!」

 ルグリラドの王女然とした顔が徐々に赤く染まり、真っ赤になったところで、また部屋へと引っ込んだ。

 一人残されたリュバリエリュシュスは、グラディウスに感じる可愛らしさとはまた別の可愛い
? のかどうかはっきりと解らないが、なんとなく幸せでありながら不思議な感覚に包まれ少しばかり笑顔になった。


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