帝国夕凪ぎ 藍后微笑む[158]
 「その時」は「降臨した」と伝えられている。

 「その時」が訪れるタイミングは”こう”であった。
 まずグラディウスがデルシ=デベルシュと話ている最中に、イダ王が会場に訪れる。王は基本的に皇帝関係の式典でもない限り時間よりも遅れて到着するのが習わしだ。
「キーレンクレイカイム」
「姉上」
「次がくるぞ」
 領地に戻っているために今回のパーティーには参加しないエヴェドリット、テルロバールノル両王をのぞけば、ロヴィニアのイダ王こそが最高の地位を所持しており、もっとも遅く会場に到着するところだが、
「畏まりました。アディヅレインディン公爵殿下がいらっしゃるぞ」
 皇帝に”来るな”と命じることのできる暫定皇太子マルティルディにその地位を譲った。
 イダ王はマルティルディのことは嫌いだが、正妃たち主催のパーティーの参加で不和を奏でなかったマルティルディに対してある程度譲歩した。基本衝突を辞さす、利害では引かないイダ王だが、引くべきところは引く王でもあった。
 せっかくグラディウスがやって来ているパーティー会場で、女の争いを繰り広げる必要は無いだろうと。
 そんな会場の動きなど気付かずグラディウスはデルシ=デベルシュと話ている。
 ちなみにグラディウスは会場にキーレンクレイカイムがいることは気付いていない、キーレンクレイカイムが上手く隠れて仕事をしていた。キーレンクレイカイムとしては近寄ってきてくれると面白いので楽しいのだが、壇上から妹の嫉妬の視線を浴びるのは避けたい。女の妬心は男の身を滅ぼすことを彼は良く知っている。
 だが”近寄っちゃだめだよ”というのも、グラディウスに気を使わせるだろう考えて、帰る頃に顔を見せて「楽しんだか」と話しかける予定であった。その為、得意な司会を別人に任せた。
「お待ちしておりました、アディヅレインディン公爵殿下」
 いまは壇上にグラディウスがいるので人混みを制御する必要もないため、会場から出てマルティルディを出迎える。
「ふーん」
 頭を下げるキーレンクレイカイムを無視し、マルティルディはそのまま会場へと向かった。
 マルティルディの格好はケシュマリスタ型の正装。脇から足首まで一切の締め付けがなく、真っ直ぐなラインのドレス状のもの。その下に普通はズボンか、長いブーツを履く。その着衣が純白なのが人目を引き権力を誇示する。
 ただ「白」だけで訪れたのではなく、上着とマントが一緒になった長衣をまとっている。その長衣はケシュマリスタの王太子なので「緑地」で刺繍はもちろん「朝顔」
 生地はエメラルドを縫い込み、刺繍も色取り取りの宝石を縫い込んだもの。本来ならば白の朝顔だけなのだが、

―― カラフルなほうが喜ぶかなあ。喜ぶよなあ。柄全部違うの、一個でも同じのあったら殺すよ。全員を ――

 マルティルディの命令で、一つとして同じものはない朝顔の刺繍が施された。その引き摺る部分の長さ、実に三メートル。ニメートル少々のマルティルディが着用するので、約五メートルの布に施された朝顔の刺繍の数十万個、葉の数はもっと多く、使われた宝石の総重量は《普通の人間では》着ようものなら体が潰れてしまうほど。
 ただその長衣、それらに隠れて目立たないのだが裾にある細工があった。
 手で掴まれそうな場所が二箇所存在するのだ。
 そのマルティルディが会場に一歩足を踏み入れると、誰もが会話を止めて一斉に頭を下げる。そう会場が静まり返るのが何時ものことであり、当たり前のことだった。
 その静まり返った会場こそが「その時」であり、続くのが「降臨」である。何が降臨したのか? それは伝説だった。


「馬鹿なんだってね、でかいお乳のおきちゃきちゃま!」


 帝后には嫌味は通じないという伝説の最初の出来事こそが、この時であった。

 ロヴィニアの若き正妃、イレスルキュランは馬鹿とは程遠い。生来の賢さもあれば勉学でもその才を見せている。
 正妃三人の中で「もっとも頭が良いのは誰か?」とマルティルディに尋ねたら、即座にイレスルキュランと返ってくる。
 あのサウダライトに質問した場合であっても誤魔化さずに「イレスルキュラン様だと思うよ」と答える程に頭脳は優れている。
「は?」
 ただ馬鹿とは程遠く、頭が良くても予想外のことは往々にしてある。
 今回も ―― 挨拶されたら答えてやって、手紙を運んだことをもう一回褒めてやって、もっさりとしたリュックサックを褒めて、遊びの誘いを忘れたら話しかけるとして、どうやったら話を持って行けるかなあ ―― 様々なシミュレーションを繰り返していたイレスルキュラン……に向かって「馬鹿」
「あのね、あのね」
 マルティルディも認める程の頭脳の持ち主に向かって、見るからに「馬鹿」なグラディウスが「馬鹿」と。
「ゆっくりで良いんだぞ」
 イレスルキュランはグラディウスが本当に馬鹿なことを知っているので、これは誰かに何かを言われたのだろうと待った。
 グラディウスの肩越しに見えるアランとダーヴィレストの表情に、二人が関わっているらしいことは解ったが、ここま黙って答えを待つ。
「あのねえ、さっきお姉さんがね! 教えてくれたの!」
 マルティルディの登場で緊張を持って静まり返った会場は、一気に冷えてゆく。それに気付かないグラディウスは、両手を振って必死に思いだし言葉を繋げる。
「なんて?」
「おっぱい大っきいと、馬鹿なんだって!」
「へえー」
 イレスルキュランは言いたいことを理解した。
「だからお姉さんはあてしのことを馬鹿だってすぐに解ったんだって! 凄いよね!」
 言われたグラディウスは自分のことを馬鹿だと理解しているので”すごいな”と邪念一つなく感心して、それを自らの知識として取り込み、馬鹿故に誤った答えを導き出した。
「そうだな」
 ちなみにグラディウスが言われたのは《胸が大きいと下品で馬鹿なのよ。でも馬鹿はそのことに気付けないから教えてあげたの。感謝しなさいよ下品な馬鹿》
「だから、でかいお乳のおきちゃきちゃまも、馬鹿なんだよ」
 悪口を言われた自覚がなく、だが部分は覚えているので《胸が大きいと馬鹿だから、教えてもらわないと駄目なんだ》そのように理解した。
 下品という部分は、グラディウスには理解できなかった。
「……バレてしまっては仕方がないな。実は私はグレスほどではないが馬鹿なんだよ」
 イレスルキュランは大きいアーモンド型の目を細めて笑いかける。悪意のない馬鹿に悪意を向けて自爆した奴等の処理方法を考えながら。
「大丈夫だよ! でかいお乳のおきちゃきちゃま! あてしと一緒に勉強しよう! ルサお兄さん教えるの上手だって、おじ様言ってたから! 一緒に! 一緒に!」
「そりゃあ、ありがたい。是非今度から一緒に勉強しようじゃないか。私もルサに教えて貰うとするか」

 その時ルサは背筋が”ぶるっ”とした。

 グラディウスとイレスルキュランの会話を聞いていた美しい微乳のルグリラドは”おのれ、イレスルキュランめ”と言った顔で睨み、
「胸囲という数値だけで判断したら、我のほうが大きいのだがな」
 ”おっぱいが大きい”ではなく”胸板が厚い”デルシ=デベルシュは残念がる。デルシ=デベルシュに乳房の膨らみなどは一切ない。
 静かな故に全てが響き渡ってしまった会場でマルティルディは、
「さすが、馬鹿。ひと味違うなあ」
 当人に向けられた嫌味の意味が解らないで、話を大きくしてしまったグラディウスの行動が楽しくて仕方なかった。
「ところで、グレス。聞きたいことがあるんだが」
「なんですか? でかいお乳のおきちゃきちゃま!」
「胸が大きいと馬鹿って教えてくれた人は誰だ?」
「あのお姉さんだよ」
 アランとダーヴィレストは離れ、指さされたのはアラン。
「そうか、ありがとう」
「でかいお乳のおきちゃきちゃまとお勉強。楽しみ」
「私も楽しみだよ。《いろいろと》な」
 その後、考えていた挨拶やら、
「明日遊ぼうな」
「いいの!」
「ああ」
「やったー!」

 会話を終えてルグリラドの方へと挨拶に向かわせた。

「睫のおきちゃきちゃま」
「よく来たなグレス」
「これ睫のおきちゃきちゃまのご飯?」
「違う。作ったから持って来ただけだ」
 潔癖症のルグリラドは立食パーティーに並ぶ料理は食べられない。誰のものでもない料理の傍で会話し、唾が飛ぶのをみると、テーブルごとひっくり返したくなる程。
 給仕が持っているシャンパンもしかり。
 誰かが触ったり、そのグラスの上で会話したりというのが耐えられないのだ。その為立食の際はルグリラドは専用の覆われたワゴンを用意している。
 実はルグリラドは料理が上手い。上手になりたかった訳ではなく、思春期の頃潔癖症がやや行き過ぎて、料理人が触ったのがイヤだと感じて、全てを機械で料理させたこともあった。だが本当に全て機械で、人が一切触れていないかどうか? 確認しないことには信用できない。その強迫観念のため三食の料理が作られるまでを監視しているとさすがに疲れてきた。
 その時に自分でも作れたら監視しなくても良いことに気付き、生来の負けず嫌いもあって「料理の専門家」と名乗っても言いほどの腕前になった。

 もちろんルグリラド、料理の専門家などとは名乗らない。彼女は名乗るのは皇帝の正妃、もしくはテルロバールノル王女。

 思春期を脱して落ち着いた今では、気遣い作る料理人の料理を口に運ぶことはできる程に回復はした。
「綺麗で美味しそうだ」
「まあ、お主に特別に食べさせてやろうではないか」
 いそいそとケースを上げて、
「どれでも好きな物を食べていいぞ」
 ”さあ食え! さあ食え!”と勧める。
 ルグリラド、グラディウスに食べさせようと三日間かけて下ごしらえから調理まで全て一人でこなしてきた。
「これ、もらっていいの?」
 一口サイズの野菜タルトを持って、にこにこしながらルグリラドを見つめる。
「ああ、構わんぞ。一つで良いのか? もっとあるぞ、それとかそれとか……」

 グラディウスが壇上でルグリラドの料理を選んで食べている最中、会場にはかのガニュメデイーロことゾフィアーネが現れた。
 彼は今日は私人として、軍服ではない正装で。
 見た目は凛々しく美しい男だが、ブリッヂ状態で頭を少し浮かせて、手を体の上へと伸ばし、踊りのように手首を返し動かす。腹部にはトレイとシャンパンが注がれたグラス、そして薄いピンク色の秋桜を載せてすり足でやって来た。
「相変わらずの身体能力の無駄使い……じゃなくて、バケツ」
 キーレンクレイカイムはこれから起こるだろうことを予測し、シャンパングラスが捨てられるための豪華なバケツを運ばせて、自分で持ちマルティルディの傍へと近付く。
 ゾフィアーネはマルティルディの傍に音もなく、だが異様に目立ちながら近付きシャンパングラスを差し出す。
 マルティルディはそれを受け取る。受け取りたくはないのだが、受け取らないと彼がこの体勢で付いて回るので、黙って即時帰宅させるためには受け取るのが最善の策なのだ。
「アディヅレインディン公爵殿下。貴方に楽しい時間が訪れることを願って、このガニュメデイーロ、幸せを運んで参りました」
 ガニュメデイーロが運んだ酒を飲むと幸せになれると言われているのだが、
「たしかに君が来ると”楽しい”けど、来ない方が幸せだね」
「貴方の頑なな心を解きほぐす、奇跡に乾杯」
 特に誰も幸せにはなれてはいないどころか、確実に不幸になる人はいる。その人はガニュメデイーロの名目上の主、サウダライト帝。
 サウダライトは毎回行われる”これ”でマルティルディに叱られるのだ。
 だがマルティルディも止めさせろとは言わない。あの暑苦しい集団のトップ3の一人がサウダライトが言った程度で止めないことは理解しているからだ。
 マルティルディにちょっと上体を起こしてグラスを渡したゾフィアーネは、そのままエンディラン侯爵に近寄り、
「私たちガルベージュ公爵《ローデ》閣下からのささやかな贈り物です」
 秋桜を差し出す。
 フルネームがすでにささやかな贈り物から外れている男からの贈り物。余計な気を持たせないためにも受け取らないのが最善の策だろうが、贈り物が「秋桜」である以上、下手に扱うことはできない。
「ありがとう」
「それでは、私はこれで」
 ちなみにゾフィアーネはこのパーティーの招待状は持ってはいないのだが、ガニュメデイーロは大宮殿で酒が振る舞われる場所であれば何処にでも行って良いとされているので、問題にはならない。
 頭を浮かせたブリッヂ状態のまま会場から音もな去ってゆく彼を見送る、バケツを持ったキーレンクレイカイム。
 ガルベージュスの名誉のために断っておくと、彼は捨てられないようにするために秋桜を贈るのではなく彼が贈ることができる花は”薄いピンク色の秋桜だけ”と決まっているので、それを贈るのだ。基本王族や皇族は自分が使用してよい花というものがあり、それ以外は贈らないようにと言われている。サウダライトのように自らの花が”一応”白い秋桜が、グラディウスにチューリップを贈るように守らない者もいるが、ガルベージュスが違反をするはずもない。そこら辺はエンディラン侯爵も解っているので”あざとい”などとは考えたこともない。
 それと上級士官学校次席卒業ゾフィアーネの名誉になるかどうかは不明だが、彼があの体勢で非公式や招待されていないパーティーに現れるのは、目立たないようにするためである。
 彼はあれでも”本気で”人混みのなかに紛れているつもりなのだ。


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