藍凪の少女・後宮配属・寵妃編[10]

「おはよう、グラディウス。目が覚めたかい?」
「おはよう、おっさん。ごめんね、おっさん。お菓子と間違って指噛んじゃった。お菓子の匂いがしたから」
 サウダライトは噛まれた指を自分の鼻の近くに持って来て ”ああ、そうか” と納得した。サウダライトは起きてからグラディウスを抱えて椅子に座った、行儀悪く椅子に膝をたてるようにして、グラディウスの背中を押さえて書類を捲りながら頭を撫でたりしていた。
 そこにコーヒーが運ばれてきた。サウダライトはシナモンコーヒーを注文していたので、そのスティックでかき混ぜて口に運ぶ。その後にグラディウスの顔の前に手を持って来た所、勢いよく噛まれたのだ。
「そうだなあ、シナモンの香りはお菓子の香りだもんね」
「うん! ……ああ! あてし寝坊した!」
 テーブルにあったシナモンスティックを渡されて、嬉しそうに匂いを嗅いでいたグラディウスは、時計が目に入って驚く。
「昨日は色々あって疲れたんだよ」
「でも、あてし、お仕事……」
「グラディウスは眠っててもお仕事してたよ。おっさんはグラディウスを抱っこするの大好きだから」
 言いながらサウダライトは頭を撫でた。
 その瞬間グラディウスは、先ほど夢の中で頭を撫でてくれた ”とうちゃん” は ”とうちゃん” ではなく、サウダライトだった事に気付いた。少しだけ寂しく感じたが、同時に自分には頭を撫でてくれる人がいることに気付いて、
「おっさん! 大好き! あてし、頭撫でて貰うの大好きなの!」
 もっと撫でてくれとグラディウスにしては上手に言えた。
 死んだ人間は還ってこない、言い聞かせられたわけではないが、それはグラディウスも知っている。
 だが両親の死体を見ていないので、それは容易には現実味を帯びなかった。徐々に両親の死を現実的に感じ始めてはいるが、頼りないものであるのも事実。
 他人はもとよりグラディウス本人もが必死に勉強する意味に気付いてはいないが、根底には両親の死を直視するために必要な何かを求めていた。
 それを追い求めるために、グラディウスは勉強に精を出す。グラディウスは生涯解らなかった生と死に対する答え。

”あてし馬鹿だからそれでいいや”

 グラディウスは言った。 ”それ” が何であったのか、誰も解らないが。
 だが今のグラディウスは頭を撫でて貰うことが重要で、胸に頭をなすりつけて、必死に撫でてくれと体で表現する。
 楽しくなってきたサウダライトは、グラディウスの頭を笑顔で両手で撫でる。グラディウスも負けじと、サウダライトの頭を撫でて金髪をぐしゃぐしゃにする。
「おっさん負けないぞ」
「あてしだって!」
 髪の毛がぐしゃぐしゃになるまで撫であって一段落ついて、互いの顔をみて一頻り笑った後、グラディウスは迎えに来たリニアと共に浴室へと向かった。
「リニア小母さん、パジャマ着せてくれたの?」
「そうよ」
「ありがとう」
「どういたしまして」
 グラディウスは自分でパジャマを脱ぎ、お湯に飛び込む。
 下働きの頃、部屋のシャワーからお湯が出て来て ”火傷しちゃうよ!” と叫んでいた人物と同じとはとても思えない。
 浴槽でぷかぷかと浮きながら、昨日あったことをリニアに必死に語る。
「良かったわね」
 ジュラスと共に心配していたのだが、グラディウスは持ち前の ”馬鹿さ加減” としか言い表せない性格で、無事に対面を終えていた。
「本当に美味しかったんだよ、ごくじょうのかもにく」
「ルサ男爵も美味しかったって言ってたわ」
 これは完全に嘘である。ルサ男爵は味など全く覚えていない。
 部屋に戻って来る前に、お礼状に使う便箋などを用意して、机に向かい必死に唸っている彼に、リニアはカプチーノを淹れてそっと差し出した。
 彼はそれを飲み、突然机に崩れ落ちる。どうしたのか? と声をかけると ”味がした……味覚が壊れたのかと思った” そんな答えが返ってきた。何事か? と思い話を聞くと ”ごくじょうのかもにくを食す会” の経緯を空気ならではの正確さで語られ、リニアは絶句した。
 そんな彼、ルサ男爵はリニアにカプチーノ五杯淹れて貰い、飲みながら必死にお礼状を書き上げた。その後再び崩れて眠りに落ち、彼の背に脱ぎ捨てているマントをかけてリニアは部屋をあとにした。
 そんなルサ男爵はまだ眠っている。今日一日は休ませてやろうと事情を知っているおじ様が配慮してくれたお陰で。
「ごめんね、リニア小母さんにお土産もってかえってくるの忘れちゃって。あてし駄目な欲張りな子だ……とうちゃんがいっつも欲張るなっていったのに……」
 浴槽から上がり ”ごくじょうのかもにく” を自分の分を少し残して、持って帰ってくることを忘れたことを責めるグラディウスを、リニアは優しく抱き締める。
「そう思ってくれるだけで充分よ」
「でもね! でもね!」
「覚えている時に、持って帰って良い物を、ちょっとだけで良いからね」
 包まれた腕の優しさに、声を失ってにっこりと笑いかえす。
「へへ……リニア小母さん、かあちゃんみたいだ」
「そう言ってもらえるのは、嬉しいわねえ」

 こぽ……

 良い雰囲気だったのだが、
「あーまだおっさんの白いの残ってた。洗わないと!」
 グラディウスの内側から、サウダライトの白濁の残りが溢れて褐色の肌を伝い落ちてきた。
「そうね。綺麗にしておかないとね」
 一生懸命洗い終え、グラディウスは着替えてサウダライトと共に昼食を取りに向かった。
 送り届けた後、テーブルでフォークを持って笑っているグラディウス横顔を思い出し、リニアは溜息をついた。
 《”かあちゃんみたい” から ”ばあちゃんみたい” になるまで、そんなに時間かからなそうね……》

**********

 グラディウスとの楽しい昼食を終えて、サウダライトは仕事に向かうことになった。
 着替えている傍で、並べられている洋服を見て歩くのがグラディウスはとても好きだった。色とりどりの服にアクセサリー、サウダライトは扱えないが形式上腰から下げる細工の美しい剣など、見ていても飽きることのない芸術品の数々。その着替えが並べられる台の上に、よく見かける手袋の前でグラディウスは足を止めた。
 今までその手袋をみていたのだが、掌が上になっていたので気付かなかったのだが、
「おっさん、なんでこの手袋模様が違うの?」
 基本的な部分は同じなのだが、甲部分の模様が全く違う。
「それか? グラディウスは何で違うと思う?」
 サウダライトの問いに、グラディウスは手袋を握り締め、本人としては難しい顔を作って必死に考えた。
「布が足りなかった」
 そして出た答えは大貴族ダグリオライゼ、または皇帝サウダライトに最も相応しくないものだったが、サウダライトとしては満足がいった。
「それはねえ、生まれた時に両親が子供の血統を表すために作るものなんだよ」
 着替えに携わっている召使いなら誰もが知っている事だが、イネス公爵家では長子が誕生した際に、両親の血統を表すためにお互い自分の家紋を入れた手袋を作る。
「けっとーをあらわす?」
 血統が何か良く解らないグラディウスは、不思議そうにサウダライトを見つめる。その藍色の瞳は ”あてし馬鹿だから解らないよ、おっさん” と如実に物語っていた。
「んーそうだねえ、おっさんの父さんと母さんが、おっさんが生まれたお祝いに作ってくれたものなんだ」
 かなり意訳して伝えると、
「大事なもんなんだね!」
 グラディウスは嬉しそうに笑い、急いでそれをサウダライトの元に持って来た。
「おっさんのとうちゃんとかあちゃんが、おっさんのために作った大事なのだね」
 その笑顔に、サウダライトは折角梳かした髪をまたぐしゃぐしゃにする程、頭を撫でてから膝を落として目線を合わせた。
「それ、グラディウスにあげるよ」
「……だ、駄目だよ、おっさん! 大事なものでしょ!」
 サウダライトにしてみると ”癖” で持ち歩いていたもので、今は別に持つ必要もなく、特に思い入れもない。キャメル地の多い、サイズの合わない手袋。
「大事だから、グラディウスに大事に保管、保管って解る? 大事になくさないように仕舞っておくこと。グラディウスのお仕事だよ」
「……」
 《大役》 を言いつけられたグラディウスは、口をぱくぱくさせてから、何度も頷き手袋を胸元に抱き込んだ。

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