「……」
”おちび”は空腹を覚えて起きた。
イレスルキュランのところで満面の笑みのグラディウスからもらった離乳食は、Y字バランス疲労により使い果たされている。
腹が減ったら目の前にある物を食べるのがエヴェドリット幼児……なので、食べられる物はないかと周囲を見ると、リュックサックを持っている手を発見した。
見慣れない手だが【食べちゃだめだよ】と言われているグラディウスの手よりは遥かに大きい。頭をぐりぐりと動かし、上を見る。
肌は白く、下から仰ぎ見る顎は先程の腰布兄弟たちと似ていたので「これは噛みついてもいい」と理解して、食べるために本気で噛みついた。
「……」
「起きたのか」
だが、さすがの狂人ドノヴァンおちびの顎を持ってしても、帝国上級士官学校を首席で卒業できる身体能力を所持している男の手を噛みちぎることはできなかった。
「腹減ったのか。もう少しでエデリオンザのところに着くから、それまで暇なら手噛んでろ」
ちびは噛みつき、ちぎることのできた手袋を”敗北”として味わった。その敗北を味わっているおちびを連れてデルシの宮に入り、庭で多くの娘たちと話をしている彼女を見つける。
キルティレスディオ大公が来たことはデルシも報告を受けているので、少女たちに下がるように命じて彼の到着を待った。
二人が会うときは、ほとんど二人きりである。
「エデリオンザ。乳吸わせろ」
普通の少女ならば意味が解らず顔を真っ赤にして文句を言ったり、怒り出して叩いて叫んだりするところだが、帝国の重鎮である五十半ばの王女は、元婚約者を理解しているのでこの程度のことでは驚かない。
しっかりと周囲を見て、
「ちびを連れてきてくれたこと、感謝する」
「おう。感謝しろよ。腹減ってるみたいだから、早く飯食わせてやれよ」
キルティレスディオ大公は裂けた手袋を見せてから、ちび入りリュックサックを渡し、勧められてもいないのに椅子に腰を下ろす。
デルシはちびの世話係を呼び渡し、
「あと取り置きしておいた菓子を持ってこい」
「畏まりました」
キルティレスディオ大公用に用意しておいた菓子を運べと指示を出す。
「まさか六十近くなって、お前の手料理を食べることになるとはなあ」
「そうだな」
焼きプリンを食べながら、キルティレスディオ大公は彼なりに気を使った。デルシの焼きプリンは”普通の味”
普通の味であることはデルシも重々理解しており、彼女はあまりどころか一切世辞を好まない。前皇帝相手でもずけずけと本当のことを言い、言われていた彼女に対して下手な世辞など言ったら
―― まあ、これ以上下がることはないだろうがな。俺の評価
変わりはしないのだが。
「ディウライバン大公殿下。ベクセスライ伯爵閣下のおむつは通常のものにしますか?」
”ベクセスライ伯爵”とはかつてヨルハ公爵が、ヨルハ公爵の子であったころに与えられていた伯爵位で、今はちびの爵位となっている。(正式叙爵ではなく、養育費的な面での爵位)
「まだハロウィンは続く故に、かぼちゃタイプにしておけ」
「畏まりました」
下がったおちびと、
「手袋だ」
「おう」
通常幼児ならば涎でべとべと……だが、エヴェドリット幼児の鋭い歯茎により引き裂かれた手袋の替えを渡す。
キルティレスディオ大公は焼きプリンを食べ終えて、下手に「美味い」とも、調子に乗た+照れ隠しで「不味い」とも言わず、
「帰る」
「そうか」
黙っていれば美形――を崩さないようにして帰ることに。デルシが見送りに玄関まで共に歩く。
「おい、ところで、明日お前、俺のところに来るのか?」
「酒を飲んでいないか? の確認を兼ねて寄らせてもらうつもりだが」
「そうか」
キルティレスディオ大公はポケットに手を突っ込んで歩き、デルシが部屋へと戻ったのを気配で感じ取ってから振り返り、
「お菓子くれなけりゃ……帰るか」
呟いてから帰宅した。
キルティレスディオ大公が帰ったあと、デルシはまだ眠らずにごろごろとしているちびを抱き、
「下がって良いぞ」
「はい」
世話係たちを下げ、窓際に立つ。
「我が死んだあと、ミーヒアスのことを頼むぞ……ちび」
デルシの心配事は尽きないのである。
**********
軽微で素直な馬鹿は、馬鹿という自覚があっても馬鹿ゆえに、馬鹿な行動を取る。何故ならば、馬鹿だから!
ルグリラドはお泊まり用に用意したグラディウスの洋服を、次から次へと引っ張り出す。
―― ルグリラドとグラディウスのお泊まりについては本編で ――
たくさんの服を用意させていたのだが、こんなに気合いを入れていることを知られるのは恥ずかしいので、
「睫のおきちゃきちゃま、このパジャマ、あてしにぴったりだ!」
「それはな。貴様のために特別にあつらえた物ではなく、仕立屋が間違ったのじゃ。そう、仕立屋が間違ったのじゃよ! 決して、主のために作らせたわけではな……」
台詞は何時ものルグリラドなのだが、側にいるのがジータ公爵家の三姉妹であったのが……
「なんと! 殿下の依頼に間違いですと!」
「成敗してまいります!」
「成敗じゃ! 成敗するのじゃ!」
馬鹿なのでルグリラドの照れ隠しが《すんなりと》通じない。
脇にメディオンがいて「今のはルグリラド様の照れ隠しじゃから、本当のことではないのじゃからな」と言ってやれば、これまた素直に言う事を聞くのだが、周囲に言ってくれる人がいないので《仕立屋を極刑に処さねばならぬ! 忠義じゃ、忠義じゃ!》になってしまうのだ。
「いや、待て。これは儂の発注ミスじゃからして……」
この三姉妹が素直なことはルグリラドも理解している。悪気がないことも。そして、自分が素直に言えば、この姉妹はこんなことを言わないことも重々理解しているので、責める気にもならない。
「いや! 殿下が発注ミスなどする訳がないのじゃ!」
「儂等の誰かがミスしたのじゃ!」
「殿下! 儂がミスしましたのじゃ! 殿下ではないのじゃ!」
ミスがルグリラドの物だと理解した三人は、今度は《殿下に恥をかかせてはならぬ! 忠義じゃ! 忠義じゃ!》とばかりに、自分たちが発注ミスしたと言い始める。
その三姉妹を宥めてグラディウスを伴い寝室へと向かい、ベッドの中でこれまたお泊まり用に用意しておいた絵本を朗読してやる。
二人で俯せになり、絵の美しさを語り合い、美しく慈愛に満ちた声で文章を読む。
グラディウスはベッドの柔らかさと、ルグリラドの体温と、声の心地良さに、
「お話……もっと……」
ずっと聞いていたいと思いながら、眠りに落ちた。
ルグリラドは脇に控えている三姉妹(盾になれるくらいには強い)に本を渡す。
「殿下」
「なんじゃ?」
「ガルベージュス公爵が警備で参りました」
「……」
ルグリラドは幸せ一杯で眠っているグラディウスの額に軽くキスをしてベッドから降り、三姉妹に、
「グラディウスの側についておれ」
「はい!」
寝室にいるように命じて後にした。
ガルベージュス公爵は大きな篭を足元に置き、玄関に待機していた。彼は今日、お菓子をもらって歩く側だったので、自作の竹篭を背負い彼方此方を練り歩いていたのだ。
ちなみに彼の格好は、ジュラスに可愛いと言ってもらおうと(マルティルディの宮待機)シンプルにハロウィン顔が描かれたシーツを被ったオバケだったのだが、立ち居振る舞いが貴公子過ぎて、可愛らしさは皆無で、もちろん可愛いなどとは言って貰えなかったが、そんなことで落ち込むような彼ではない。
もちろん今はその仮装シーツも脱いで、畳み篭に入れている。
それと、砂に埋もれているライバルに迫り、追い立てマルティルディへと渡して去ってきた。そこら辺はこのガルベージュス公爵の仕事とも言えよう。
「ガルベージュス公爵」
「セヒュローマドニク公爵殿下。まずはお詫びから」
「なんじゃ?」
ガルベージュス公爵はグラディウスが来るのが遅くなった理由をしっかりと説明し謝罪をした。
「わたくしが代わりに謝罪させていただきます」
「そうか。許してやる」
「メディオンが戻って来るまでの警備はわたくしが担当いたしますので、ご安心ください」
「良いのかえ? 菓子を貰いに巡り歩かんで良いのか?」
「もう全て回り終えましたので。公爵殿下はゆっくりとお休みください」
「……まだ全部回ってはおらんじゃろう。儂の所を最後にするとは、良い度胸じゃ。付いてこい」
「畏まりました」
ルグリラドはガルベージュス公爵を連れて、菓子を用意するために、石窯のあるキッチンへと向かう。
まだ材料は山ほど残っているので、幾らでも作ることはできる。
人気も明かりもないキッチンで、そう言い生地を取り出した。先程まではグラディウスが来るので明るくしていたが、貴族は夜目が利くのが大前提なので、普段は特に明るくすることはない。
「そこに座って待っておれ。儂が直々に焼いてやるからな」
ガルベージュス公爵はその生地を掴み奪い、テーブルへと置く。
「なんじゃ?」
「お菓子を下さらないのでしたら、悪戯させていただきます」
「だから今作ると言う……」
ルグリラドが言い終える前に、彼女の細い体を少々乱暴に両手で抱き締める。
「お菓子がないようなので、悪戯させていただきました」
「……」
きつく抱き締められたルグリラドは、ガルベージュス公爵を見上げることはできず、体に顔を押しつけるしかできなかった。
「お菓子をくださいますか?」
「まだくれてやる気にはなれんな」
「そうですか。くださる気持ちになりましたら、教えてください」
然程長い時間ではなく、さりとて短い時間でもなく。
「そろそろ菓子をくれてやるから、離れろ」
「ありがとうございます」
何事も無かったかのように離れ、ルグリラドはピザを焼き、ガルベージュス公爵はそれを食し、
「では寝室までお伴させていただきます」
手を取って寝室へと向かった。
「それでは」
「ああ、それではな」
ルグリラドが寝室に入ると、何故か三姉妹がグラディウスと一緒に寝ていた。《なにをしておるのじゃ……》と思いつつ、三姉妹とグラディウスが幸せそうな寝顔を浮かべていたので、
「やれやれ」
起こす気になれず、寝室の扉をノックしてガルベージュス公爵に開けさせ、
「副寝室にゆく」
別の寝室へとゆき、ベッドに入ることなく扉に撓垂れ掛るようにして朝まで過ごした。