普段は手入れされた庭を楽しみながら歩くことのできる渡り廊下だが、今日は両側に目隠しの重いカーテンが掛けられていた。
カレンティンシスが歩いているのを見られないようにするためである。
二人は手を繋いで歩いていた。
グラディウスの経歴や騒ぎを知っているカレンティンシスにしてみれば、手を離して歩かせるなどということはできない。
―― この大帝太后は、警備の目を”するり”とくぐり抜けて、誰も想像もしておらんかったような場所にいたりしたというかなら
初めて見る場所に驚き、足が止まりそうになるグラディウスを引きながら書かれていた場所へと近付く程に緊張するカレンティンシス。
「かりんちんしす様、あてし手が痛い」
グラディウスを握っている手にも力が入り、痛みを訴えられて慌てて力を緩める。
「済まぬな」
「緊張してるの?」
「そう……じゃな」
「かりんちんしす様は見るだけでしょ?」
「そうなんじゃがなあ……じゃが心配でな。もちろんカルニスタミアはなんでも出来る男じゃ。失敗することはない。解ってはおるのじゃが、解っておっても……やはり心配になるのじゃ」
「かりんちんしす様、優しいんだ」
「優しくはないわい! 儂は先代アルカルターヴァ公爵として、年の離れた弟がじゃなあ……」
「?」
「なんでもない。じゃが儂は優しくはない……なんじゃ、その顔は!」
「ほぇほぇでぃ様みてえだ。ほぇほぇでぃ様も”ぼくはやさしくない”って言うけどとっても優しいんだ!」
「マルティルディは……優しいからな」
―― お前にだけには ―― その部分をカレンティンシスは削った。”そんなことはない”言い返されるのが解っていたからだ。
「うん!」
「そうじゃな……それで良いじゃろうな」
両者にとって充分過ぎるほどの幸せであったのだ。
「かりんちんしす様、かるにちんたみあ様はなんでも出来る人なの?」
「そうじゃ。そうじゃなあ、デステハ及びサディンオーゼル大公並じゃと儂は思うておる」
「誰?」
「……そうか。今の段階ではガルベージュス公爵と言わねば解らんか」
「ガルベージュスさん! おっさんが、とっても賢いって言ってた。とっても優しいし、お友達たくさん! あてしもお友達!」
「そうじゃ。カルニスタミアは間違いなく匹敵する」
「そっか。かりんちんしす様の自慢の弟なんだね」
「……ああ」
指定された塔の入り口を開き、なにもない殺風景な部屋の中心にある浮遊する板に乗り、
「上階へ」
カレンティンシスが行き先を告げる。
『浮遊する板』は音声での返事や合図を送ることはないが、了解したと板に描かれている紋様に青白い光りが走り、ゆっくりと上昇を開始する。
「儂にしっかりとつかまっておれ、グラディウス」
「はい! かりんちんしす様」
グラディウスはしっかりと抱きつきながら周囲を見回す。
「綺麗だねえ。ここ何処?」
「……秘密の場所じゃから、教えられんな」
「えへへへ。そっか、秘密の場所なんだ。連れてきてくれてありがと! かりんちんしす様」
グラディウスは深くは追求せず、秘密の場所をキョロキョロと見る。
《この塔》はグラディウスが居る時代には存在しないので、カレンティンシスは教えなかった。
板は上昇を終え九十度回転しカレンティンシスたちを「前向き」にしてから水平移動を開始し内側をうかがうことはできない材質で出来た窓にぴったりとくっついて静止する。
「うわあああ! 旗がいっぱいだあ! ドラ様のお家の色の旗がたくさん!」
既にカルニスタミアは謁見の間でシュスタークにより叙爵されて、正式なアルカルターヴァ公爵になっている。
そのもっとも重要な式は見物人はほとんど居らず、式そのものもすぐに終わる。
爵位を受け取ってから行われる様々な式典があり、その一つを観るためにやってきた。
実子以外に爵位を譲った《四大公爵の当主》は、式に参列することはできず、観ることもできない。前者については法典にあるが後者は慣例。
実子以外に爵位を譲るとなると、半数は「簒奪」となるので、式に招かない方が両者にとって最良であるという判断からだ。
―― なぜ儂の子たちを殺さんのじゃ! ――
―― 殺すつもりはない。儂の次のアルカルターヴァ公爵は兄の子じゃよ。デキュゼーク殿下の婿も兄の子じゃ ――
―― 何を言っているのじゃ! 儂の子が子をなしたら、それは両性具…… ――
―― 生まれる前から決めつけるな。絶対に両性具有になるわけではない! ――
―― そんな危険な橋を渡るのは ――
―― 新公爵は儂じゃ。当主の意見には従え。これは命令じゃ、解ったな大君主リディカリュオン ――
もうテルロバールノル王国領へは決して戻ることのできないカレンティンシスは、
「うーふふ、うーふふ」
聞こえてくるカルニスタミアが歌うテルロバールノル王国国歌と、機嫌よく音程を外してハミングするグラディウスの声を聞く。
「素敵だね、かりんちんしす……どうしたの?」
国家独唱が終わり再度皇帝に頭を下げたカルニスタミア。グラディウスはマルティルディの男なのか女なのか解らない美しい声とはまったく別ながら引けを取らない男性の歌声に「ほう」と溜息をつき幸せな気分振り返った。
カレンティンシスの表情はグラディウスの想像していたものとは違った。片手で口を押さえて涙を流している。
だが目蓋は閉じてはおらず、カルニスタミアをずっと見続けていた。グラディウスに見上げられていることに気付いたカレンティンシスは、誰かに分けてもらったらしい真っ直ぐな髪の分け目に手を置いて撫でながら、
「悲しいわけでも痛いわけでもないから安心しろ。儂はただ……」
溢れ出した涙が顎を伝い滴り落ちる。
「嬉しいんだ!」
「そうじゃ」
グラディウスは精一杯背伸びをして手を伸ばす。
「何をしたいのじゃ?」
「あてしもかりんちんしす様の頭撫でるよ。だから頭を下げてください」
「誰が! 儂は頭は下げんわい!」
「思い出したの」
「なにがじゃ?」
「キーレ様言ってたの。アルガルベーはがんこで素直で泣き顔観られるのが嫌だから、泣いている時は観ないように、でも泣き止むまで怒られても傍にいるんだよって。あてし、かりんちんしす様の泣き顔もう観ないように後ろに立つから、かりんちんしす様少ししゃがんで。そしてあてしは後ろから頭を撫でてお式を観るよ」
「……貴様に気をつかわせるとは……儂も……」
「グレスって呼んで、かりんちんしす様。あてしの大事な名前なんだ、グレス」
「解った。ならば呼んでやろう、グレス」
膝をつくように、そして新公爵に頭を下げるようにしてカレンティンシスは泣いた。望みに望んだカルニスタミアが公爵として大任を果たしている晴れ姿を観ることのできるせっかくの機会だったのだが、それ以上カレンティンシスは観て居られなかった。
部屋に戻る途中の渡り廊下でも泣き続けていたカレンティンシスだが、部屋に戻る直前に涙を止めた。
部屋に入り通信で指示を出し、小分けに包装された焼き菓子が詰められた箱が部屋の扉前に届けられた。しばらくはカレンティンシスがいる部屋に入ることは禁止されており、指示も「絶対に部屋のドアを開くな」であったので、彼らは忠実に守ったのだ。
普通であればグラディウスに廊下に置かれた箱を持って来るように命じるところだが、存在を明かにするわけにはいかないのでカレンティンシス自ら運び入れる。
「なに? これ」
「焼き菓子じゃ。この箱に焼き菓子を入れて、この部屋の隅に置いておく」
そう言いカレンティンシスは部屋の隅に置き、
「グレスの為に用意した菓子じゃ。いつでも、儂がいなくとも食べるがよい。お前にひもじい思いなどさせんからな」
「ありがと! かりんちんしす様」
※ ※ ※ ※ ※
帝后宮あるいは帝君宮。
揚羽蝶の庭なる異名を持つこの宮には、他の三つの正配偶者宮にはない特徴があった。
それは正寝室(皇帝の私室と繋がっている寝室)の隅に焼き菓子の入った箱を置くことが義務づけられているのだ。
木箱で底には菓子の味を調整する機械が置かれている。角があることは許されない。中身は小分けにされた焼き菓子が二十五種類に軍用の缶詰が五種類。寝室の武器になるものを持ち込むことは禁止されているが、特例として許された古い形の缶切り。
飲み物も絶対に用意しなくてはならず、その飲み物は外気温には左右されず”ぬるめ”以外は認められていない。
なんの為に用意されているのか? 答えは一つだけ《相手には解っているから知る必要はない》
では誰がこれを始めたのか? これには諸説ある。一人はカレンティンシス、もう一人は……
※ ※ ※ ※ ※
全身全霊で喜び泣いたカレンティンシスは疲れて座っていたソファーで崩れるようにして眠ってしまった。グラディウスはベッドからシーツを引っ張り、最大限に気を使って起こさないようにかけた。
そして足元で焼き菓子を頬張っていた。
「邪魔する……」
またノックをして返事を聞かずに入って来たカルニスタミアは、眠っている兄と足元で、
―― ああ、これが噂の”もぎもぎ”か
カレンティンシスの優しさがつまった焼き菓子を、満面の不細工な笑みで食べているグラディウスに遭遇した。
普通の人間なら笑い転げるか奇妙な声を上げるところだが、カルニスタミアはガルベージュス公爵に匹敵する笑撃耐性を所持しているため、
「兄貴は寝ておるのか?」
「うん!」
「ついて来い、グラディウス」
「はい!」
何事もなかったかのように振る舞い、一人で軽食を取る為に用ための部屋へと連れてゆき、料理の前に座らせて”魅惑のもぎもぎ”を堪能することにした。
「食べぬか?」
「かるにちんたみあ様も一緒に!」
「解った。足りなかったら運ばせるから言え、グラディウス・オベラ」
「グレスって呼んでください、かるにちんたみあ様」
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