繋いだこの手はそのままに・1
 密猟で生計を立てていた頃の自分では、想像もつかなかったことだと思いながら、リオンテは大宮殿の廊下を歩いていた。
 行き先は皇后の部屋。
 部屋の一つ一つが大きいことには慣れた彼女だが、その部屋の中心に主として座るのが貴族以外の人物であるのを見るのは初めてであった。
 背もたれの高い椅子に腰をかけ微笑んでいる、両目の色が同じ琥珀色をしたロガ。体は小さく細く、存在感があるわけでもない。内側からあふれ出る知性や気品というものがあるのかどうか? それは彼女には解らなかった。
 ただ納得できた。
 奴隷であるロガが皇帝の心を射止めたことは、ロガを見て本心より納得することができた。
「リオンテ・フィレンギラです」
 隣にいるメーバリベユ侯爵が彼女を紹介する。
 リオンテは荷物を脇におき、跪き頭を下げた。
「顔を上げてください」
 貴族達の美しく通る声とは違う、平民である彼女の耳に馴染む優しげな声が掛かる。言われた通りに顔を上げてロガを見上げる。
 貴族の中にいるたった一人の異分子。
 彼女はロガにとても親近感を持った。もちろんロガは皇后なので、彼女の心の内だけに収めて、人に言うことなど思いもしなかった。

 鋭いと評判のメーバリベユ侯爵にすぐ気付かれてしまうのだが。

「シャッケンバッハです」
 リオンテは荷物からシャッケンバッハを取り出した。
 十五年以上前にエーダリロクが欲して、メーバリベユ侯爵から譲ってもらった亀。
「これが……”かめ”なのですね」
「はい。シュルカリアンガメの雌です」
「立派な名前ですね」
「はい。正式名はシャッケンバッハ・オルドノーダンブレード・リクラコフと言います」
「……」
「……」
「皇后。そこは笑って下らさないと、リオンテが言葉に詰まってしまいます」

 『台本』通りには進まなかった。

 ロガは両手で頬を隠して、
「ごめんなさい」
 顔を振る。
「謝られるようなことでは……」
「皇后、謝罪されるとリオンテがますます困りますわ。リオンテ、シャッケンバッハを連れていらっしゃい」
 彼女はメーバリベユ侯爵の指示に従い、亀を皇后の眼前に差し出した。
 捕まえた頃はポケットに入ってしまうくらいの小さな亀であったが、十五年以上の歳月が経過した今は、体長75cmほどの大きさに成長していた。
「ここが……頭ですね」
「そうです」
「触っても大丈夫ですか?」
「噛みませんので」
「私、亀って見るのも触るのも初めてなんです」
 初めての亀に触れてロガは笑い声を上げる。

―― 透き通った鈴が鳴り響くような笑い声だった。決して大きくなく。そう、鈴蘭が揺れたときに鳴る音に相応しいような

「それにしても、とても長い名前ですね」
「はい。由来もあるのですが、その由来も長くて」
 名前をつける時、悩むエーダリロクの姿と、ロガの隣にいるメーバリベユ侯爵を重ねて、彼女はやや苦いものの幸せな気持ちになる。
 エーダリロクのことは変わらず愛しているが、妻はメーバリベユ侯爵だという理性が自分の気持ちよりも勝る。
「由来?」
「理由ですよ、皇后」
 無理をしているというのではなく、自然と”そうなった”のだ。
 彼女自身明確に気付いていないが、エーダリロクの言葉の端々からメーバリベユ侯爵に対する気持ちを感じ取ったことも大きい。諦めはできないが、幸せを祈る。王子を王子として幸せにできるのは、やはりメーバリベユ侯爵だけ。彼女が出来るのは、エーダリロクの趣味の一つに協力できること。
「理由ですか。名前つけるのに理由って……そうでしたね、ゼークゼイオンは《不均衡の翼》という意味がありましたね」
「いまでは《不和の象徴》ですけれども」
「ゼイオンが不和で、象徴がゼークなんですよね」
「そうですよ、皇后。ただしこれは造語の一種なので、ゼイオンゼークでも構いはしません」


―― デキュゼークはどうでしょう? 左右対称の翼。いつかは調和の象徴となれば ――


 その後彼女はロガにボーデンの名前の由来を聞くなどして、規定の時間を過ごして部屋を辞した。シャッケンバッハを建築中の大宮殿爬虫類園へと連れて行く途中、アシュレートと遭遇した。
 この辺りは式典には一切関係なく、王子として式典に参加、また警備担当者の一人でもあるアシュレートが居る理由は”彼女”しかなかった。
「リオンテ」
「はい、ジュシス公爵殿下」
「エーダリロクは何か欲しがっていないか?」
 彼女に向かって欲しいものを尋ねるということは《爬虫類全般》をさす。
「いつも色々な爬虫類を欲しがっていらっしゃいますが、勝手に受け取るわけには参りません」
 中性的で恐怖を与えない顔……だと、今の今まで彼女は思っていたが、それは間違いであったと知る。
「安心しろ。楽しませてもらった礼だ ―― そう言えば、黙って受け取る」
 ラードルストルバイアと戦ったことを反芻しながら語るアシュレートの表情は、見慣れた別物になっていた。”つくり”はまるで違うのに、そこにあったのはビーレウストとよく似たエヴェドリット。
「……はい。ではあとで幾つかのリストをお届けします」
「シャッケンバッハを置いたら、ついて来い。折角だ式典の一つでも見てみろ」
「はい」
 彼女はアシュレートに連れられ、皇帝と皇后の挙式の一つを遠くから眺めた

―― 自分は平民で相手は王弟だ、そばで見ていられるだけで幸せだと納得させた。

「どうした?」
「皇后さまが幸せになればいいなと……」
 殺気をおさめたアシュレートは、彼女の答えを聞き組んでいた腕を解き、癖のない髪を指で梳きながら宣言した。
「陛下ならば大丈夫だ」
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