「あの男、天使について知らぬのか?」
「まだ教えてないよ。僕は教えるつもりはないけれど」
「では誰が教えてやるのだ?」
「クレスターク」
**********
夕食の後片付けを終えたゾローデとトシュディアヲーシュ侯爵は、ナイトヒュスカとヴァレドシーアの許可を得て二人で散歩へと出かけた。
空を彩る二つの月。その強い明かりの下、風を受けて海のように波うつ草原を歩く。
「アーシュとこうやって話すの、卒業以来ですね」
「そうだな」
二人とも今夜は戻らず、廃墟となった街で夜を明かすことにしていた。
「大皇陛下、強かったですか?」
「強い」
「お年なのに」
「俺たちに年齢はあんまり関係ないからな」
草原を抜けて明かり一つない街を少し高い位置から眺める。ケシュマリスタの廃墟王城アーチバーデとは違い、真にうち捨てられた街並。
雲の切れ間からさし込む月明かりに照らされた廃墟は美しさよりも、寂しさが漂っていた。惑星にある全ての街が廃棄されたのはゾローデや侯爵が生まれた年、今から二十五年前のこと。前年に皇后であったエレノシーアが死去し閉鎖が通達され、働いていた者たちの次の職場を決め生活基盤を移させて、この惑星にある街は廃墟となることを命じられた。
「思い出しますね。廃惑星調査」
二人が歩いて向かったのは、イヴルドーレンシュ星の城下町であった場所。
「そうだな。あれが城だ」
エレノシーアが存命であった頃は、この城に住んでいた。
街が見えた時から存在感のあった城。たまに月明かりに照らされるが、多くが夜の闇に包まれていて全容は見えない程の大きさ。
外壁が崩れている場所から街へ入り込み、繁華街と住宅が混在しているような通りを抜けて大通りを目指す。
「この店、ここにもあったんですね」
ゾローデは看板の一つに懐中電灯をむけて、ひび割れ色褪せた看板を読み、素直に驚きの声を上げた。
「そうみたいだな」
学生時代には同級生に奢ってもらい、卒業後はウエルダや恋人たちと共に足を運んだ《本店しかない》と言われていた帝星でも老舗のコーヒー専門店。
実際彼らが通った時には、すでにこの店舗は閉められていたので、本店しかないというのも嘘ではない。
大通りに辿り着き、街の正式な入り口の反対側の城を眺める。
「綺麗な建物ですね。見た事のない建築ですが」
「ルネサンス建築様式」
大宮殿を見たことがある二人にとってその城の大きさや美しさに驚くことはないが”よいもの”であることは一目で分かる。
ただ二人は城の正門前で腰を降ろし、二つの月を眺めながら、
「サリサレトのことはあまり知らないが、エレノシーアならそれなりに」
かつてこの城にナイトヒュスカと共に住んでいた皇后のことを語り、そして聞く。
「さっき言った通りサリサレトが殺されたことで、皇后の座がエヴェドリットに回ってきた。ちなみにエレノシーアは俺と血は近いが遠い親戚のようなモンだ」
「あー確かアーシュのお祖父さまと皇后エレノシーアのお父さまは、母親違いの兄弟でしたね」
エヴェドリット王が最初の妃との間に儲けた長子オルガレア。このエヴェドリット王が次に迎えた妃は皇妹で三人の子を産む。
二番目の子が五十六代皇帝トゥーヴェ。皇兄はエヴェドリット王を継ぎ、彼の娘が皇后エレノシーア。皇妹がロヴィニア王弟に嫁ぎ産んだのが皇太子妃サリサレト。
追い出された形となったオルガレアという人物は、バーローズ公爵家に婿入りし四人の子の父親となるが、その後離婚してトゥーヴェ帝の婿となる。父親であったエヴェドリット王に人生を玩ばれた男とも言われている。
「らしいな。あの辺りの血統、ごちゃごちゃしてて嫌いなんだよ」
侯爵は腰をかけている階段 ―― 一段がとてつもなく大きく、侯爵やゾローデが座ってもまだ成人五人が横並びで歩けるほど ―― に爪で家系図を刻んだ。
「そうなんですか」
「なんだ? ゾローデ」
「いやあ、アーシュでもそう思うのなら、俺が思っても仕方ないなと」
「本当に面倒だ。面倒以外の言葉が思い浮かばない。そこら辺は適当に。バルキーニに任せておけよ。あいつは得意だからな」
どちらともなく笑い出す。月にも届いたであろうというほどに笑ったあと、
「俺たちは近親婚しなけりゃならない理由があってな……詳細はそのうちな。それでエレノシーアのことだが、それなりに強かったから、軍帝も帰ってきて少しは気を抜けるようになったとか。厄介な女怪たちは皆殺しにはできなかったようだがな」
侯爵はそう言い笑いを収めて、階段に書いた家系図を削った。
**********
翌日ナイトヒュスカは三人が乗った戦艦を見送った ―― 無論、彼には他の物同様見えはしない。違うのは記憶にすら存在しないということ。
彼は戦艦を見送ったことはない。皇帝として在位していた頃も、皇太子であった頃も。通常皇太子は皇帝を見送るものだが、彼の母親であった五十六代皇帝は一度前線に出たきり。
五十六代皇帝は二歳の時に父親であるエヴェドリット王の手により即位させられた。以来傀儡幼帝として皇帝の座につく。
彼女は十八歳で第一子を産んだ。これがナイトヒュスカ。そして彼女は少しばかりの自由を手に入れた。彼女はエヴェドリット王女でもあったので、軍人となる必要があり、ナイトヒュスカ出産後に総指揮官として前線へと赴いた。
十六年間大宮殿から一歩も外へ出たことのなかった皇帝は、ここで自由を感じた。他者から見ればそれはひどく不自由な、制限だらけの生活であったが、彼女にとっては今まで感じたことのない自由な世界であった。
そこで彼女は一人の兵士と出会い ―― 徴兵されたごく有り触れた二十二歳の平民キュリフィルク。皇帝の一夜の相手で終わる筈だったのだが、皇帝が身籠もったことで夫として迎え入れられた。
彼女が前線に立ったのはこの一度きり。
彼女は開放感というものを恐れた。自分がなにをするのか分からない。締め付けられていた反動と、自分が取った行動を鑑みて、彼女は自らを自由にしないために大宮殿に篭もる。
一夜を共にした男キュリフィルクも、腹の子 ―― 五十八代皇帝エルロモーダとなる皇子 ―― も大切にした。それは彼女だけの責任であり、誰も頼ることのできない問題であった。
物心ついたナイトヒュスカが見送る相手はなく、視力を失うまで皇帝で在り続けたので誰も見送ることはなく。こうして音が去るのを聞くだけ。
「色々と見ておけば良かったな」
彼は視力を失ってから自分が見たものの少なさに気付いた。
皇帝として帝国を見つめていたのは事実だが、実際に見たものの少なさ。記憶している人々の表情はほとんどが固いか、憎しみに満ちたもの。
弟や妹たちが教えてくれた青い海の美しさも、夕暮れ時の空の美しさも、頷くだけで見ることはなかった。
唯一覚えているのは、いま彼の足元で風と共に波うつ草原。
生命維持装置の一部のようであったサリサレトを連れて、一度だけだが外へと出た時の記憶。
苦しげな呼吸音しか出せない乾いた唇。
『外に出てみるか?』
サリサレトの肌は乾き脆く、ナイトヒュスカが着用している軍服に触れただけで剥げてしまう。
ナイトヒュスカは服も手袋も脱ぎ捨て、上半身裸となって片手にサリサレトを赤子のように抱きあげる。
自分の肌に触れたサリサレトから熱を感じることはなかった。
巨大な生命維持装置を片手で難なく持ち、腕と長い黒髪で陽射しと風からかばいつつ外へと出た。
―― 外はどうだ? ―― サリサレトから返事はなかった。声を出せないことは知っていたので、疑問にも不服にも思いはしなかった。
サリサレトの呼吸音以外ない風景。それはまるで室内と同じ。だからナイトヒュスカは草原を薙ぎ払うように蹴った。草が風にたなびくような音がして ――
「しっかりと確認しておくべきだった」
彼が足首やふくらはぎを撫でる草の感触と共に思い出せるサリサレトは、生命維持装置が稼働している振動音だけ。
あの時サリサレトの気持ち知ろうとしていれば、いま何か違ったかもしれない。
後悔はこの草原を共にあるいたエレノシーアがもたらした。彼女はナイトヒュスカに愛されること以外で強い印象を残して死ぬことを望み、ありとあらゆる手段を講じた。
サリサレトと一度きりの散歩も、彼女が触れるまで思い出しもしなかった ―― そんな薄情としか表しようのない男。
「……グレスに連絡を入れるか」
孫に許してもらったと連絡を入れるため、彼は草原をゆっくりと引き返して通信室へと向かった。
**********
「ゾローデの昔の女について教えて、ジャセルセルセ」
ナイトヒュスカより「ゾローデに許してもらった」と連絡を受けてから、ティスレーネは我慢していた行動に出た。
夫となったゾローデの過去について。過去に人殺しをしていようが、強姦していようが窃盗していようが、そんなことはティスレーネにとって問題ではない。
「過去の女性関係ですか?」
ティスレーネの側近デオシターフェィン伯爵は、来るべき時が来た ―― 内心で溜息を吐きながら、気取られぬように受け答えをする。
「そう。僕知りたいの。ジャセルセルセなら知っているでしょ?」
「存じておりますが。知ってどうなさるおつもりで?」
試験勉強を理由にこの場にいないイルトリヒーティー大公のことを羨ましく感じながら、伯爵は最善を尽くすために主に尋ねる。
「えーどうするって、殺しちゃだめなの?」
「貴方の様の忠実なる僕として、命がけで忠告させていただきますと、それもまたヴィオーヴ侯爵に引かれる可能性が高いですよ」
「……なんで?」
心底分からないと表情を隠さず、声も疑問だけを乗せて端的に聞き返す。
伯爵は自分の髪先を指で玩びながら、
「ロターヌは嫉妬で有名ですから」
「ただ殺すだけだよ。拷問したり、一族皆殺しとかしないよ。それならいいよね?」
「普通の人は昔の恋人を殺したりしないのですよ」
「…………」
自分としては正当で、軽い嫉妬のつもりであった行動が、意外と重いことを知ったティスレーネは、
「後宮に行ってくる」
「はい」
立ち上がりよろよろとしながらケシュマリスタ王の後宮へと向かった。
立ち入ることができない伯爵は入り口まで付いて行き、扉が閉じられて姿が見えなくなってから、急ぎシラルーロ子爵とノーツに連絡を入れてから、通信室へと行き今度は自国の王子ギディスタイルプフ公爵に”予想範囲内”の出来事を報告してから、イルトリヒーティー大公の勉強の進み具合を確認するために彼の部屋へと足を向けた。
イルトリヒーティー大公が居るのは廃墟王城のなかでは比較的”崩壊が少ない部屋”。壁に大きな亀裂が幾つは走ってはいるが、隣室や外の風景がのぞくようなことはなく、机の左手に大きな長方形の窓があり、そこにはめ込まれている硝子はヒビ一つなく歪みもない。その透明な陽射しが差し込み、姿勢良く座っているイルトリヒーティー大公を照らしている。
伯爵に言葉はかけなかったが、大公は鉛筆を所定の位置へと戻して、机の上に置かれている召使いを呼ぶための呼び鈴を弾き、
「座れ、デオシターフェィン。儂とデオシターフェィンにいつもの」
やって来た召使いに指示を出してから机を離れ、色褪せた布がかけられた木製の来客用椅子に移動する。
大公はエスプレッソ、伯爵はカプチーノ。それらが運ばれる前に静かに一本脚のテーブルが運び込まれる。椅子とは違い大理石で作られたもので、天板はやや楕円で縁には透かし彫りで幾何学模様が施されている。脚も中程が緩やかに膨らむ曲線を持っており、床をとらえる六本の爪もカーブを描き、上部には天板と同じような彫刻がなされてた。
「お待たせいたしました」
大理石独特の模様が美しいテーブルに、カップが音もなく置かれる。
二人は取手に指を通し、一口含んでから ――
「エシケニエとテレーデアリアは消されるそうだ」
伯爵が前置きなく話し出した。
大公はカップに残っているエスプレッソを眺めたまま、
「もう一人は消されぬのか?」
ゾローデが以前付き合っていた二人の女性と、一人の婚約者の姿を思い浮かべた。大公からすると全員凡庸な容姿なので、ティスレーネの嫉妬から逃れられるのではないだろうかと考えていた。
「そっちはティスレーネ様のご気分次第」
「……消すのは主の主人の意向か?」
「ああ。エシケニエというのはあまり賢くない女だ」
エシケニエ・ラグーニ。ゾローデよりも三歳年上の二十八歳。
濃い赤茶色の髪を肩口までの長さに切り揃え、ややボリュームをつけて外はねにしている。肌は黄色味を帯びた色合いで、瞳の色は頭髪と同じく赤茶。
顔そのものは地味。化粧映えはするが、十人中十人が振り返らない、通り過ぎる顔立ち。
”ゾローデ卿は容姿を重要視しないのだろう”と、賢くないどころか、むしろ愚かな女について伯爵は曖昧な判断を下す。
あまり追求してゾローデの女の趣味が悪いと結論が出てしまうと、生命が危機に瀕してしまうためだ。
「主からすると、大体の者は賢くなかろうが」
大公は飲み終えたカップをソーサーに戻し、やや自らの身を抱きしめるかのような腕組みをして、伯爵に皮肉めいた笑みを浮かべ言い返した。
「では言い直そう。人が良いヴィオーヴ侯爵ですら、呆れて即座に別れるほどの馬鹿だ」
「ふん……それでは仕方あるまいのう。大方、かつて侯ヴィオーヴと付き合いがあったことを、吹聴して回ったのじゃろう。聞いてきたのが帝国宰相の手の者とも知らずにな」
エシケニエは殺されはしない。
ただその存在を抹消されるだけのことである。彼女は平民としての身分を失い、同時に奴隷となることもできず、公共施設を使用することもできなくなり ―― 生きていけないわけではないが、存在を完全に否定されることとなる。
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