裏切り者の帰還[12]
”ガニュメデイーロ”
それは皇帝に酒を注ぐことを許される唯一者 ―― 学校に入るまでは分からなかった。正確に言えばジャスィドバニオンが入学してくるまでは。
皇帝陛下が酒杯を掲げる場面に遭遇することはないに等しい。皇王族や大貴族、王族以外は。だから俺は一生皇帝陛下が酒杯を掲げられる姿を見ることはないと……見るのか? 帰ったら見るのか! ジャスィドバニオンの……
『ゾローデ、ジャスィドバニオンじゃねえ、もう一人のガニュメデイーロだ! 綺麗な顔した、ほとんど裸の男だ!』
「はい」
ジャスィドバニオンは爽やかな笑顔が特徴的な、ほとんど裸の後輩だ。
俺が六年の時に首席で入学してきた、皇帝陛下の酒の番人……じゃなくて、もう一人のガニュメデイーロ!
腰に巻いた僅かな布だけで男性の部分を隠し、長い手足を大きく動かし華麗に舞う ―― この人とジャスィドバニオンって血統を同じくしているんだろうな。動きがそっくりだ。
どれ程動いても上手く隠れる。頼む! 逃げないでくれ! 正直な気持ちとしては、逃げて欲しいが。なんだろうな、逃げて欲しいと頼むと近付いてきそうな気がするんだが。
……うわっ! なんか腰から尻にかけての部分だけ隠れていない、俺が追っているガニュメデイーロによく似た人が出てきた。俺の眠っている記憶って、その……同性愛者なのか? 見た事もない男の裸が次々と沸き上がってくるのは、それが原因か?
俺に隠れた性癖を教えようと……一生隠しておいてくれたほうが良いような。でも記憶の底から現れたと思しき、ほとんど全裸な御方と、部分的でありながら全裸な御方を見ていても、別になにも興奮しないというか。二人とも有無を言わせぬ美しさと、なんだろう……あ、この人たちもしかして、ケシュマリスタ系の皇王族?
突然二人が消えた? 白い肌に黒檀のような黒髪が特徴的な縦ロール。赤が目立つ唇に、しっかりとした眉。これは初代テルロバールノル王の第三王女リリアーナさま!
王族の顔はしっかりと覚えて……あれ? なんでリリアーナさまが、ガニュメデイーロとその身内と思しきかたと一緒に?
リリアーナさまが生きていた時代にはガニュメデイーロは居なかったはず。
ジャスィドバニオンが事細かくガニュメデイーロの歴史を教えてくれたから、これに関しては自信がある。
皇王族たちは知っているので、いまさら説明を聞く必要もなかっただけだが。ジャスィドバニオンは性格が途轍もなく良いので、俺が知らないことを気に病み、わざわざ時間をつくって教えてくれた。
ガニュメデイーロの歴史を聞いて、本業が疎かになりかかったが、それは俺の能力が足りないだけだろう。教えてくれていたジャスィドバニオンは、当然首席を維持したままで俺を見送ってくれたのだから。
そう言えば去年卒業したんだよな、ジャスィドバニオン。
皇帝陛下のお側でお酒……じゃなくて!
「クレスターク卿。リリアーナさまが見えるのですが」
『いい感じだ。そのまま行け』
「あのー腰から尻にかけて隠れていない人がちらちらしているのですが。この方はどうしたらいいでしょう」
”ちらちら”どころじゃないんですが、言うに言えない。
『それか。気にすんな』
丸出しでちらちら現れるので、気にしないのは無理かと。集中力の問題ではないような……最高クラスの帝国騎士ともなれば、この程度のことに動じることはないと。
俺は一体なにを見て……あっ! ガウ=ライだ! シセレード公爵家の始祖ガウ=ライ・シセレードが、丸出しでちらちらしている男性を注意している。なんだ? エヴェドリットに見えない。この注意の仕方というか、
”甥の結婚式だからといって、浮かれすぎじゃぞ、ソロトーファウレゼーニスクレヌ”
ここまで完璧なテルロバールノル語を喋るガウ=ライ……いや、ガウ=ライもガニュメデイーロが存在しない時代の人だから。
”そうですよね。浮かれてはいけませんよね。親戚が《不慮の事故で》亡くなったのですから”
《不慮の事故で―― 王が殺した。王として当然の決断。だから貴方の決断に異を唱えはしない》
なんだ? 今の声。
それにしてもこのガウ=ライ顔のテルロバールノル貴族? いや、王族かな……どこかでお目にかかったことがあるような気が。なんだ? ついさっきも会ったような?
随分と大きな廃墟だ。苔が崩れた塀を覆い、地面の割れ目から花が一輪。広大などこまでも続く海が眼前に広がる。
一人埠頭のような場所で夕日を見つめている、王に似た人。
”あーてーしーの ろばー”
あ、さっきの歌だ。でもなんだ? 笑いも楽しさもこみ上げてこない。なんだ、これ。
”ありがとうございます、母上。最高のお祝いです……泣かないでください”
抱きついてきた《母上》の頭の天辺は、分け目がけっこうガタガタだ。視線を降ろしたままの王に似た人に誰かが近付いてきて、
”帝太后、私がアデードを、亡き夫ラスタエフルメイ王太子殿下と同じように幸せにいたしますので”
語った……もしかして?
アデード。亡き夫ラスタエフルメイ王太子殿下。ケシュマリスタ。甥。そして帝太后 ―― ってことは、今喋っているのはケシュマリスタ王アデードの二番目にして最初の夫、フルティネストールコルア。たしかヴェルズクエス大公だったはず。ということは……まさか、いや……待ってくれ!
そして全てが消え去り、悲しさのない音程が外れた歌が響きだす。こみ上げてくる笑いと、得体が知れない恐怖。
『ゾローデ。合致したぞ』
クレスターク卿に言われて周囲を見回す。読めなくなっていた数値も普通に読めるようになり、モニターにイルドバリーダ板で作られた箱が映し出されていた。バラーザダル液の色に染まっていた箱だが、回路が繋がり薄紫ではなく灰色を帯びた青に変色。機動装甲を動かせる証拠でもある。
『よくやったな、ゾローデ』
侯爵からの声も聞こえてきた。
……なにがどうなったのか? さっぱり分からないが、笑っていいのか泣いていいのか分からない、感情とも呼べないような物をいだいたまま訓練は終わった。
本来ならばエヴァイルシェストの皆さんに挨拶をしなくてはならない……正確には挨拶を受けて”やる”立場らしいが。それはともかく挨拶しなくてはならなかったのだが、疲れてしまい後日にしてもらった。
飾り気のない、直線のみで構成された寝室。無駄なものはなく疲労回復用ベッドのみ。スーツを脱ぐのも億劫で、ベッドの天板部分にある操作卓で、肉体と精神の疲労を全快させることと、記憶に触れないようにすることを指示して横たわる。
何も描かれていない天井を見るのも、天蓋がついていないベッドに横たわるのも久しぶりだ。
内側に留まる”これ”
語るには足りなく、だが留めておくには辛い。だが誰かに喋る気持ちにも ―― 起き上がり疲労回復度合いを映すモニターを見ると快復率0.8%。
疲労が回復してから確かめたほうが良いような気もするのだが、このやるせない感情こそが真実に近付くのに必要であるような……。
「端末を一つ」
『畏まりました』
通信ボタンを押し、端末を持ってきてもらった。
透明な長方形型の端末。厚さが三センチほどの……帝星にあるのより、高性能だな。帝星のは厚さ五センチはある。
スーツを上半身だけ脱ぎ、手のひらを透明な箱に乗せると、回路が現れて光が走り、モニターが浮かび上がる。
「ララシュアラファークフについて。全部」
俺の問いを受け、端末が動き出し「ケシュマリスタ系僭主 ララシュアラファークフ公子」についての情報が現れた。
僭主については学校では習わない。それは必要がないからではなく、必須科目で入学前の予備試験の第一回目で問われるので、入学を目指すためには網羅しておく必要がある。
公表されている情報は全て、ほぼ丸暗記していて当たり前とされている。
「やっぱりそうだ」
さきほど俺が見た記憶は、俺が元から知っていることを元に作り出した記憶かもしれない……そう思いたいのだが、見たものが真実であれば、それは本当に眠っていた記憶だと認めなくてはならないだろう。
ケシュマリスタ王アデード。
おおよそケシュマリスタらしからぬ名を持つこの王、元は親王大公。二十三代皇帝の第三子で母親は平民出の帝后グラディウス。
容姿は父方の祖先、要するにケシュマリスタ王家の血が色濃く出て、アデード王の前の王マルティルディに良く似ていた。
マルティルディ王はテルロバールノル王子と結婚して、息子を一人もうけていた。それがラスタエフルメイ王太子。
アデード王のほうが一歳半年上で、彼は生まれる前、性別が分かった時点でアデード王との結婚が決まった。
二人は十八歳で結婚したが、結婚後わずか一年でラスタエフルメイ王太子が死去。彼以外の子は居なかったので、マルティルディ王は慣習に則り親王大公を次の王に添えた。それが王太子妃であったアデード。
王太子となったアデードはヴェルズクエス大公フルティネストールコルアという皇王族を夫として迎えた。
「ヴェルズクエス大公フルティネストールコルアについて。詳細を全て」
夫はケシュマリスタ系の皇王族だった。俺が知っているのはそれだけ。
王子や王女を迎えるのと違い、皇王族は一定の爵位が決まった順番で授与されるわけではないので、血統を覚えることは困難を極める。
……だから覚えなくていいというわけではないのだが、覚えていなくても”なんとかなる”
そんな俺だがヴェルズクエス大公フルティネストールコルアは覚えていた。僭主の祖父として ―― 人類が滅亡しかけた帝国最大の内乱《三十一番目の終わり》
第三十一代皇帝が殺害されてから始まった内乱は実に五十五年間。小休止など一切挟まず続いたその期間は《暗黒時代》とも呼ばれる。
内乱の原因は三十二代皇帝に誰が就くのか? シンプルにしてこれ以上ない理由が原因。三十一番目の終わりから暗黒時代を五十五年経て《三十二番目の始まり》と言われる終息を迎え、誰もが知る第三十二代皇帝が即位する。ザロナティオン、帝王と呼ばれる皇帝。
ザロナティオン帝が即位した当時は、まだ僭主は多く残っており、地方では僭主のほうが勢力を握っていた。幾度となくヒドリク朝 ―― ザロナティオン帝の祖先にあたる親王大公の名で三十一番目の終わりの皇室とは分けて考えられている ―― は脅かされたが、徐々に勢力を取り戻し、三十七代皇帝の御代に一気にその数を減らした。
三十七代皇帝シュスターク。ゲルディバーダ公爵殿下と瓜二つの容姿を持つ皇帝。その腹心であった帝国宰相が、その長い在位期間の間、休むことなく僭主抹殺、所謂《刈り》を命じた。
追い詰められる形となった僭主たちも大攻勢に出る。その結果、僭主と皇帝の最大の衝突があったのも、この帝国宰相が在位していた時代だ。
二度にわたる大勢力僭主との激突に帝国は勝利し、僭主たちは数を減らしてゆく。
そして四十七代皇帝が即位した時に「四十五代皇帝が」僭主の完全滅亡を宣言し、ここに僭主刈りが集結をむかえた。
ザロナティオン帝が正統を勝ち取ったわけだが、祖先に当たるヒドリク親王大公は皇太子ではなかった ―― それは別の問題で、今俺にとって重要なのは、他の僭主たち。皇帝の座を狙ったことによる内乱。皇帝の地位に手が届きそうな場所にいた人たち。
それは王の縁者や兄弟、親戚など。
ヴェルズクエス大公フルティネストールコルアの孫。僭主となった公子の名はララシュアラファークフ。
俺が賜ったマントの最後の一文字に該当する。
「父……ゾフィアーネ大公……この人について詳しく。いいや質問を変える。ガニュメデイーロであったゾフィアーネ大公について。映像も」
”該当者一名”
画面に現れたのは、俺が見た人だった。だが俺はこの人を見たことはない。特徴的な王家の容姿ではない彼。
目元が涼しげで、静寂そうな雰囲気をまとわせている……俺の眠っていた記憶にある彼の雰囲気とは随分と違うが。
俺の記憶の中で、甥と言っていた人物がいた。
「ゾフィアーネ大公マルファーアリネスバルレーク・ヒオ・ラゼンクラバッセロの兄弟について」
先程と同じく該当者は一名で、ガウ=ライそっくりの人が呼んでいた通りの名”ソロトーファウレゼーニスクレヌ”で、ゾフィアーネ大公の兄にあたる人物ジーディヴィフォ大公。
ガウ=ライ似のテルロバールノル貴族らしい人物は兄弟ではない。だが親族席にいた……ということは、あの人物は大公妃ということか?
「この人と、この人の配偶者の名と主要爵位」
俺はこの人たちのことはまったく知らない。だから、この二人が……
”ゾフィアーネ大公配偶者エシュゼオーン大公デッシェルファルネカルティト・ナスター・メルキュランタ。ジーディヴィフォ大公配偶者シャルトビエルフト公爵メディオン・ドートレルフィユ・エディルラージュ”
名前は出て来た。あとはこの二人の姿を確認するだけ。
「この四名がケシュマリスタ王アデードとフルティネストールコルアの挙式で撮影された映像。存在しない場合は、一年以内の映像」
映し出されたのは俺が見た通りの人たち。
俺は知らない。もしもどこかで知っていたとして、わざわざ強制的に見せられたのだとしても答えは同じ。
大皇陛下の”お か え り”
あれは俺個人にではなく、俺に流れる血にむけられた言葉だったんだ。
『自分が何者か分かったようだな』
四人の映像が消えて、クレスターク卿が現れた。
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