雨の墓地、一人の男が墓の前で佇んでいる。
片手に傘、もう片手には花束。
傘は暗めの灰色で、背広は黒。墓を参るには、適切な格好とも言える。
明るめの薔薇の花束が映える。
「……」
耳の奥に響く雨音だけが、男の全てだった。体は冷え切っているが冷たさなど感じず、裾も濡れているが気にする事はない。
「クレメッシェルファイラ」
墓石に刻まれた名を呟いた口元には、何の感情も浮かぶことはない。
「……」
雨音の中に”なにか”が聞こえたような気がした男は振り返る。
「……空耳か」
なにも見えなかったが、視線を向けた方角を見続ける。いないとは解っていても、もう墓石に向き直りたくはなかった。
―― クレメッシェルファイラ ―― という存在の喪失を直視するのは辛かった。他者からしてみれば「もう過去にしろ。いい加減にしろ」と言うほどの歳月を経ているが、まだ男は直視できないでいた。
「……」
「み……みぃ〜」
「ん? 猫か」
男は花束を墓の前に放り投げた。
男が墓の前に花を添える何時もの行動。いつもならば、そのまま駐車場へと戻るのだが、今日は声がしていると思しき方向に足を向けた。
「子猫……生後間もないようだな」
手のひらに乗るほど小さい黒猫が、雨粒の重さに耐えながら歩き、生き延びるために必死に鳴いていた。
男の姿を見つけた黒猫は近寄ってくる。
男は逃げようとしたが、その黒猫の左右が違う瞳を見て、
「クレメッシェルファイラ……」
今は亡き彼女を思い出し足を止めた。
裾にすがりつく猫と雨。冷え切った手のひらに、濡れ震える子猫。