君雪 −19
 [意識]が戻ったカウタマロリオオレトの元へ、クロトハウセは向かった。
 部屋には外出服に着替えたカウタマロリオオレトが「今か今か」とクロトハウセの到着を待っていた。クロトハウセが室内に入った後、サベルス男爵は全ての者に部屋から出ることを命じ、最後に当人も無言で頭を下げて部屋を辞した。
「ラス!」
 右足を引くようにしてクロトハウセに近寄ってきたカウタマロリオオレトの笑顔は、
「……」
「あそぼ」
 クロトハウセが暴行を加える前と何一つ変わらない。
 忘れて欲しいと願い脆弱と言われる身体を痛めつけ、脳にダメージを与えたが、
「……ん……何をする予定だったか思い出せるか?」
「うん、雪遊び」
「正解だ………………」
 カウタマロリオオレトは忘れていなかった。
 変わらない笑顔を前に、クロトハウセは喉の奥からこみ上げてくるものがあった。それを一言で表すならば[涙]
 顔が変色するまで首を絞めて、殴り続けた相手が泣いて良いはずも無く、それを誰よりも理解しているクロトハウセは手を握り締め上を向く。クロトハウセより背の低いカウタマロリオオレトは表情が見えない。
 目の前にある黒い髪が微かに震え、上を向いたことにより露わになっている首が何かをこらえるかのよう、力が込められていることが視覚から理解することが出来た。だが彼が何をしているのか “彼” は理解できていないのかどうか、判断を下せる者はその場にはいない。
 だが “彼” は周囲に皇帝がいないことは理解している。皇帝がいなければ、自らの努力で意思を伝えなければならない事も。
「どしたの? ラス」
 手を伸ばし、頬を両手で包み込む。
「何も……何も……」
 彼は泣いてはいなかった。ただ己の愚かさと “彼” の強さ、そして自分の考えていることを実行してしまいそうな己の弱さに、ここにいない誰かに助けを求める。
 彼が何かに悩んでいることを理解できた “彼” は言う。
 数年前に言われたことの答えを今告げる。
「あのね! ラス。あのね……ラスが嫌じゃなければ、クロトロリアの子って呼ぶよ」

 クロトハウセ
− 答えはずっと昔からあったのだ、クロトハウセよ。そなたが余を総帥と呼ぶことに理由があるように、あれはそなたをラスと呼ぶことに理由がある −
 クロトロリアの子の意味を持つ名

 母であった皇后は、恨みもあるがそれ以上に愛した男の名を彼につけた。だが名付けられた息子にとって何の意味もないどころか、心の内で鬱屈とした感情を育て思いつめることになった事、彼女は知らない。
 幼少期から「ラス」であったため、誰もおかしくは感じなかったが “彼” は彼を理解していた。
 皇帝が “彼” に暴行を加えなければ “彼” は彼をクロトハウセと呼びかけた。クロトハウセとは言えずとも「クロト」と呼びかけていただろう。
 “彼” は我が永遠の友と意識のやり取りにより、彼がその名を嫌っていることを知り、そのように呼びかけないように決めていた。
 数年前、そうエバカインがまだ生きていた頃に大怪我をした際「ラス」以外の呼び方で思い浮かんだのは「クロトハウセ」
 “彼” は「クロトハウセ」と彼に助けを求めることは出来た、だが “彼” はその名で呼びかけるくらいならば、助けを求めない方が良いと判断する。
 彼に「クロトハウセ」と呼びかけても、彼が助けてくれただろうこと “彼” は理解している。
 だが “彼” は潰れて血が流れ出し、死の足音を聞いても彼を「クロトハウセ」とは呼ばなかった。
 自分が「クロトハウセ」と呼びかけることを、彼が何よりも嫌っていることを知っているから。
「お前は口にするのは嫌ではないか?」

− 直接聞け −

 彼は頭の奥から兄である総帥の声が聞こえてきた気がした。
 彼は “彼” に視線を合わせ、彼の父を否定する声で尋ねたが “彼” は笑顔で答えた。
「ぜんぜん。だってラスのお父様でしょう。私は忘れない」


− あれは忘れない。決してそのことを忘れない。度重なる強姦も、あれは忘れない。何故か? その傷こそがあの男を忘れない手段だからだ。あれを壊す原因でありながら、あれは決してそれを捨てずに、深い底の見えぬ傷をあれは真直ぐに見つめる。あれがあの男を忘れない理由、それは我等の父であるからだ。あれも手段を選ばぬ男よ、覚えておく為ならば自らが犯されたこともそのままに、隠そうともせぬ −


 それが[赦し]であるのか違うのか、彼には解らない。
 ただ、彼の父親を忘れない為だけに “彼” は自分を暴行した男を覚えている。生涯彼に向かって “クロトロリアの子” と呼びかけることがなかろうが “彼” は忘れるつもりはなかった。
 “彼” が覚えておけることは少ない、彼の全てを覚えるために、彼は自分の中にある他を破壊する。“彼” が壊れ行く存在になった原因となった男であっても “彼” は彼を思うから忘れない。
「自分個人としては、ケセリーテファウナーフの方が好きだ」
「そお? じゃあ……ファ」
「ラスでいい」
 言いながら彼は “彼” を抱きしめ、そして彼は諦めた。
 “彼” の中から自分を消し去ることを。
「どしたの? ラス」
 本心から不思議という声で尋ねながら “彼” は彼の背中に手を回す。
「なにも」

【私はあの日「クロトハウセ」としか呼びかけることが出来なかった。だから、その名で呼びかけるくらいならと、助けを求めなかった。潰れた足と身体から外れてゆく骨と流れ出す血、背骨を触ってみると、自分の指先にしか解らない蠢くものを感じた。そろそろ羽が出てきてしまうのだろう、これが出てしまえば[死]しか残っていないことは解っていたが、それでも「クロトハウセ」と呼びかけることはしなかった。私がその名を呼び、ますますケセリーテファウナーフが父帝のことを嫌うようになったら嫌だったからだ。その後、私は太陽の瞳に助けられた】


「遊ぶの嫌? ラス」
「そんな筈ないだろう、カウタ。遊ぼうな」


【私は弱かったのだ。私は父帝を嫌うケセリーテファウナーフを見たくないがために、死を選ぶところであった。違う、例え彼が父帝をますます嫌おうとも、その姿を受け止めるのが何も出来ない私の取るべき道だった。そう、死んでしまってはいけないのだ。太陽の瞳、彼がいなくなった時、私は知った。死は何の解決にもならぬ、私の父が死んでも何一つ謝罪にはならなかったではないか。赦されざる存在である父が逃げ込んだ、同じ道を歩むところであった。父が通った道を歩くのは楽だろう、この私であってもなんの苦も無く歩けたであろう。だが私はこの足を引きずってでも、たとえ這ってでも父と同じ道は歩まぬ。私が歩く道は、レーザンファルティアーヌと同じ道。だがたどり着く場所は違う、レーザンファルティアーヌは皇帝としての目的地に、私はケセリーテファウナーフの傍に】

 クロトハウセはカウタマロリオオレトの身体をゆっくりと離して、上着を着せて手を引いて外へと向かった。
 どこまでも続く雪原と青空。
 大地を覆っている雪は硬質な音を上げるほど細やかでもなく、濡れすぎた重い雪でもない。頬に突き刺さるような冷たさでもなく、まとわり付くような寒さでもない。
 空は青くそして白く、雲ひとつ無く。
 高貴なる生まれも無数の権力も、空と雪の境に吸い込まれていってしまうかのように。

「眩しいね、ラス」
「そうだな」

 雪原で二人が手をつなぎ、ぽつんと立つ。その瞬間、クロトハウセは決めた。


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