君雪 −18
「明日には意識が戻られるそうですよ」
 クロトハウセに大怪我を負わされたサベルス男爵は、治療してすぐに仕事に復帰した。
 復帰といっても、主である大君主が未だ集中治療室に入っているので、急いですることはない。
 そんなサベルス男爵が、苛立ちとはまた別の感情を抱えて憮然と椅子に座っているクロトハウセのもとに向かったのは、カウタマロリオオレトの治療の状況を伝える為だけではなかった。
「そうか」
 怪我を負わせた相手だが、クロトハウセは特に謝罪するわけでもなく、サベルス男爵もそんなものは求めてはいなかった。
 彼は怒り、彼は仕事をしたまで。近寄れば殺すと言われた相手に近寄り、大怪我で済んだのだから貴族社会としてはそれに関して触れる者はいない。
 膝をつき、頭を下げたままサベルス男爵は肩の力を抜いて、クロトハウセ語り掛けるように話しかける。
「絶対に大君主殿下は覚えていらっしゃいますよ」
「サベルス……」
「私は大君主殿下の側近ですから、主が身の危険に晒されていれば身を挺して守りますし、相手を攻撃もします。むろん私如きが本気になった程度では、親王大公殿下にかなうわけありません。それでも庇い守るつもりはありました、私が弾き飛ばされて骨折するまでは」
 サベルス男爵の視線の先にあるのは幾何学模様のカーペットだが、脳裏にあるのは死んだエバカイン。
 クロトハウセの視線の先にあるのは、サベルス男爵の頭頂部だが、脳裏にあるのはやはり死んだエバカイン。
 『兄亡き後』私事を一切語ることなく一年を過ごした相手。身分からすればそれはおかしくは無いが、意図的に会話を避けていたことは両者共認めるところだった。
「…………」
「当然ながら動けなくなりましたが、同時に親王大公殿下が大君主殿下に対し本気ではないことが解りました。私は一撃で右半身の骨が三倍に増えるくらいに折れたというのに、大君主殿下は折れやすい舌骨もなにも折れていない。私が守らなくても、殺されることはないとその時実感しました」
「貴様とカウタを同じには扱わん」
 二人の間にあったのはエバカイン。だがそれは既に無く、今二人を介するのはカウタマロリオオレト。
 サベルス男爵は咄嗟にカウタマロリオオレトを助けようとし、そして怪我を負った。自分が一撃で動けない、すぐに治療しなければ死ぬ程の大怪我をしたのに、クロトハウセの下で殴られているカウタマロリオオレトは数発殴られ、首を絞められて顔が鬱血していても抵抗することができていた。
 クロトハウセが本気で、サベルス男爵を弾き飛ばした力で殴っていれば、カウタマロリオオレトの頭はとうに砕けている。弾き飛ばされたサベルス男爵は、痛みに持っていかれそうな意識の下で思った。
 『大君主殿下が抵抗している理由は、もしかして……』
 痛いことや恐怖ではなく、無意識もあるが『親王大公殿下が後で辛い思いをしないように』抵抗しているのではないか? そうでなければ、カウタマロリオオレトは周囲に助けてと叫ぶはず。だがカウタマロリオオレトは助けてとは言わなかった。
 そして『やめて』とも言わなかった。

 − やめなさい −

 その穏やかだが確かな命令口調は、カウタマロリオオレトの中に最後まで残っている年少者を思いやる、優しい感情だったのではないかと、サベルス男爵は思う。
 カウタマロリオオレトは一言も助けを周囲に求めなかった、暴行を働いているクロトハウセに対しても決して助けは求めなかった。ただ『やめなさい』と言うのみ。
「そりゃそうでしょう……私でも解ったのですから、大君主殿下は親王大公殿下の本心を理解していると思いますよ」
「さあな。理解していようと、壊れてゆくのは事実だ。貴様が余計なことをしなければ良かったのだ」
 意志が強いと皇帝から聞かされていたサベルス男爵は『やめなさい』の一言を聞き確信し、最後まで「大君主の意思」に従おうと決意した。
 たとえ親王大公に恨まれても。『俺は元々、あんま好かれてないしな』と心で呟きながら。
「余計なのかも知れませんが、大君主殿下が余計だと思われない限り、私は大君主殿下に従います。“ついで” と言えば失礼ですがクロトハウセ親王大公殿下、一つお礼を申し上げておきたく」
「礼? 貴様から礼を言われる覚えは無いが」
 それはサベルス男爵の言葉であるが、サベルス男爵一人の言葉でもない。
 夢を見たわけでもないが「彼」は絶対に喜んでいることを、どうしてもサベルス男爵は伝えたかった。
「礼と言いますか、このように言うしかないのですが……先年の会戦、ご無事でなによりでした。ゼルデガラテア大公、いいえ、エバカインも親王大公殿下が生還なされたことを、心より喜んでいることとはっきりと言いきれます。もしも、あなたが先年亡くなられていたら、私は今もエバカインを友人として慰めていたでしょう。ゼルデガラテア大公はクロトハウセ親王大公の死をすぐに振り切れても、エバカインはケセリーテファウナーフの死を受け入れるには長い年月が掛かったと思います。もう戻ってこない相手ですから……あなたが生きて、エバカインが悲しむ姿を見なくて良かった、それに関してのお礼です。エバカインが生きて帰ってきていたらまた別のことを思ったでしょうが、今この場で言いたいのは、あなたが生きていることをエバカインにかわり、心より喜ばせていただきたい」
 「彼」ことエバカインは間違いなく、弟の親王大公の生還を喜んだはずだ。
 「もしも」は世界に存在しないが、それでも「もしも」と考えエバカインが生還し、クロトハウセが戦死したらなら、彼は死ぬ程悲しんだに違いない。
 おそらく皇帝が慰めてくれるだろうが、皇帝はエバカインを失った時と同じく、決して悲しみを表に出さない。その皇帝を前にエバカインは「ゼルデガラテア大公」として悲しみを押し殺す。だがエバカインは皇帝ではないから、悲しみは我慢しきれないだろうと。
「勝手にしろ。それと、喋る時はロガ兄上に話しかけていた時と同じような口調で構わぬ。貴様の気を使った口調は聞きなれぬ」
 最早エバカインは帰ってこない。
 だから『彼が悲しむ姿を見なくて良かった』と、サベルス男爵は本心から思う。だが思いつつも頬を涙が伝う。
「そりゃまあ、ずっと俺とエバカインの会話を御盗聴してくださってた親王大公殿下でいらっしゃいますから、違和感もおありでしょうよ」
「そうだ。だが、貴様に何と言われようと私は後悔している」
 失礼だと知りながら、サベルス男爵は頭を下げたままカーペットに落ちる涙を眺め、クロトハウセはそれに関しては何も問わない。
「でも親王大公殿下。もしもですよ、もしも親王大公殿下が先年戦死なされて、エバカインが帰還したとしますよ。私とエバカイン二人っきりにしておいても良いんですか? 未だに俺のこと信用してないでしょう?」
「それは、それだ」
「亡くなられた親王大公殿下が心配で宮殿に戻り皇君宮に様子を見に来ます。そこにいるのは陛下と大君主殿下とエバカインと俺、もしかしたらゼンガルセン王やオーランドリス伯爵などが混ざっているとしましょうよ。そうなると俺以外、親王大公殿下は見えないんですよ」
 話しながら想像し、あまりにも簡単に想像できる状況に、サベルス男爵は口に笑みを浮かべて涙を止める。
「そうだな」
 サベルス男爵は顔を上げなかったが、クロトハウセも少しだけ笑い “気付かれないでゼンガルセンを殴れるのはいいな” などと口にする。
 おっかないこと言わないで下さいよ、と言って笑った後に、
「でも被害被るの俺だけなんですよ。困りますよ、幽霊にまでなった親王大公殿下に付きまとわれるの。その点、エバカインのヤツは薄情で……顔見せもしませんよ。エヴェドリット王妃が “あの子のことだから、死んだことに改めて気付くのに百年くらいかかるから、顔を見せに来るのは無理よ” とねえ。そんな気がするし、そういうヤツでしたよ」
 後姿くらいみせてくれてもいいのに、迷惑かけたと礼言われるくらいのことはしたはずなのに、あいつなあ……言いながら肩を小さく震わせるサベルス男爵を見つめながら、クロトハウセの中にあった、ある感情が表に出来た。
「サベルス」
 声をかけれ、頭を上げるサベルス男爵の前にいたのは【死】を望むかのような表情の男。
「はい」
「どの道、私はお前より先に死ぬから、被害を被る覚悟をしておけ」
 長い年月の間、自分で殻に閉じ込め、絶対に表に出さないようにしていた感情。
「嫌ですねえ」
「いや、覚悟をしておけと言ったが……もしかしたら、覚悟しなくても良くなるかもしれんな」
「…………」
「どうなるかは解らんが……半分程度は期待しておけ」
「はい。お会いできることをいつでも恐怖しつつ期待して、夫婦共々楽しみにして待っております」
「そういえば、貴様の傍にはナディアがいたな。殴り飛ばされたら敵わぬな」


 サベルス男爵は結末を聞いた時、あの時決意したのだなとすぐに解った。
 彼はその時の会話を誰にもすることはなく、偶に周囲を見回したが、
「心配する相手もいませんしね……ちょっと残念な気がするのは、気のせいだよな」
 一度たりとも見かけることは無かった。


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