PASTORAL −109
あれは私が八歳の時、カウタは十六歳。
いつも大事にしている蟻の入った壜の蓋が開いた状態で転がって、そして叫んでいた。
「蟻さん踏んじゃやだ! 蟻さん潰れちゃう!」
当人は暴行されていた訳だ、自分の警護の奴等に。
その時私は、隠れて大量にカヌレを食べる為に警護を振り切った後だった。
今思えば、引き返して警護隊を連れて来れば良かったのだが、私は一人で行動に出た。それは私がまだ子供であったからであり、それ以上のことはない。
多対一ではあったが、帝国屈指の能力を持つ私は子供ではあったが奴等と渡り合う事はできた。そのうち私を探しに来た警護達が合流し、大混戦となる。
その混戦の結果、私は左手の骨を粉砕骨折した。私の戦闘能力に問題があったわけでも、戦い方に間違いがあったわけでもない。
一人がカウタを殴ろうとした、護衛の使う特殊棒で。
あれで殴られたら、カウタのバカな頭が破損して、怖ろしい程バカになってしまうだろうと咄嗟に手を出した。それで粉砕だ。私の手が粉砕骨折するくらいだ、カウタの頭など粉々になってしまっていたに違いない。
骨を修復した後、どうしてもお礼を言いたいというカウタと会った。
会いたくはなかったのだが、陛下が『会ってやれ。あれが、覚えているのは珍しい』と申された。当時の私はカウタが暴行されると、前後も含めて記憶がなくなる事は知らなかった
あのバカはとても嬉しそうだった。
『助けてくれてありがとう』
『別に』
当時の私には、あの行為が強姦であるという事は理解できなかった。ただ、カウタを苛めているものだとばかり、それもアイツの大事な蟻を踏み潰して苛められているのだと……。蟻を踏み潰して叫ばせるのに、下半身を露出する必要はないのだが、八歳の私には解らなかった。
陛下が即位なされてからは、カウタは一度たりとも暴行されてはいない。
本来ならば、一年の最低でも三ヶ月は領地に帰らなければならないカウタだが、あの通りの状態で周囲に信頼できる者が始終ついているわけではないので、陛下はカウタが帰還するのを免除しておられる。カウタの仕事は最低限度、我々兄弟で受け持っている。
完全に管理しても良いのだが、あんなのでもカウタはあの国の支配者。あまり蔑ろにするなと陛下は仰られる。
陛下はカウタを通常の人間と同じように扱い、背後で手を打たれる。誰もが陛下がなしている事と知りながらも、表面上はカウタが行った事となるように。あんな従兄でなければ陛下も、もっと気が楽であろうと常々思う。そのカウタも漸く退位が決まった。
次の王はカルミラーゼン兄上だと陛下は言われた。
そしてカウタは退位後、陛下が引き取られると言われたのだが、陛下のご負担になるのは目に見えている。
その上『あれの警護はエバカインに任せようと思っておる。我が友の警護を任せられるとなれば、主かエバカインしかおらぬからな』そのように言われた。
カウタの警護は、よほど信頼の置ける人間でなければならないのは過去が証明している。ロガ兄上は間違いなくカウタを守ってくださるであろうし、暴行などする筈もない。だが、どう考えてもご負担になる。
だから……陛下と皇君にご負担をかけないようにする為に、その権限のある私が引き取り警護を統括するのであって、別に好んであんな奴を引き取る訳では!
……ん、足音。来たか。
「大公」
私はベッドの上で、本を読んでいる姿勢をとっていた。
訪れたのはエリザベラ。
「何か用かでも」
私にとって、皇帝であり総帥である実兄を裏切った女など、生かしておく価値どころか、死を使ってやる価値すらない。
横になったまま、読んではいなかった本を脇に置いて部屋に入ってくるエリザベラを眺める。
容貌は美しい女だ。私は女性だからと言って、全てを否定するわけではない。美しい女性には、美しいと言える。ただ “それだけで” でもあるのだが。
「妻が夫の寝室を訪れてはいけませんかしら」
床に落ちた薄手のワンピース、白い脚。髪を纏め上げ、一糸纏わぬ姿。脚の形も良く、胸の形も整っているだろう。私には興味のない事ではあるが、その美しさは賞賛しようではないか。
「構いはしないが、私は貴女の身体には興味はないよ。裸になってどうするつもりだ」
エリザベラが口付けてきたとき、はらりと落ちてきた金髪がカウタを思い出させた。カウタと同じ、ケシュマリスタ系の髪。「人を狂わす黄金の如き」金髪を指で弄びながら、舌でそれに応える。
この女はリスカートーフォンらしさが皆無だ。二十五まで戦場で指揮を執ったことのない “王女” など、あの一族では稀だろう。この女は、殆どあの激情にも似た戦争に対する愛情を持っていない。人を殺す事を至福の喜びとする、あの一族特有の感情を。
無い方が普通なのかも知れないが、あの一族は戦争をすると、人殺しをすると言い張って皇帝の座に就かなかったのだ……その一族の末裔が、この体たらくでは。
この女の胸を掴みながら、カウタの頬の柔らかさを思い出す。頬だから、もっと肉の薄い部分だが、感触としては似ている。あいつは、どうして頬が柔らかいのか。
この女を抱けるのは、カウタに外見が似ているからだ。それだけは認める。
シュスターも、愛していないロターヌを抱けたのはエターナと瓜二つだからだったから……シュスターは元々は女性が好きだったようだが。
息遣いも荒く、隣で身体を投げ出している女。
この女の破瓜が私であったというのは、滑稽としか言い様がない。
その息遣いと、遠くから聞こえてくる足音。此処に盗聴器を仕掛けているとはいえ、見事なタイミングでカウタを放たれるな、カルミラーゼン兄上は。
頼りなく近寄ってくる足音がまだ聞こえないのか、女は上気して桜色に染まった頬と焦点の合わない目で、妙に陶酔しているように見える。
「ラス。一緒に寝よう」
現れたカウタに女は身体を硬直させた。
「お前は此処で休むがいい。私は国王の相手をしてくる」
身を離す瞬間の硬直。女から離れガウンを羽織り、カウタの肩を抱き部屋を後にした。騒ごうが物を壊そうが知ったことではない。暴言を吐いて、それを記録されて処刑されるも良し。
「ラス……」
「何だ」
「あのさ、カルミラーゼン大公が行っても良いぞって言ったんだけど、もしかして邪魔した?」
「いいや。私は身体を洗うが、一緒に来るか」
「うん!」
このカウタの行動で、エリザベラが本当に嫉妬するかどうかなどはどうでも良い。要は周囲が『エリザベラは嫉妬していたように見える』と感じればよいのだ。
私はあの女と身体を合わせ、その都度カウタと共に去る……普通であれば、この一度でプライドを傷付けられたとして、二度と私の寝所には来ないだろうが。ただ、そのプライドに固執して、死を選べるかどうかとなると又違うのだろう。
エリザベラは次の日も寝所に来た。
「ゼンガルセンが遂に兵を起こしたようだが、お前はどうするつもりだ。あの男にとってお前は最後の敵となる」
私に身を預け、守ってもらおうなどという考えを持っている女は、正直あの軍閥の長には向かない。
「守ってはくださらないの」
「陛下の御心による。あの男がお前の身柄を寄越せと言ってきた時、陛下が差し出すと言われる可能性もある。私、いや陛下ですら、ゼンガルセン側と全面戦争は避けたいと考えるのは当然だ。向こうにはシャタイアスがいれば、ナディラナーアリアもいる。あれ達を敵に回してまでお前を守る必要性はあるのか? あると考えているのならば、その根拠を私が聞きたいくらいだ」
お前が「兵を貸してください! 兵を率いる事が出来ないのでクロトハウセを貸して下さい」と陛下に懇願すれば、事態は少し変わるかもしれないが。
どうして最初から私任せなのだろうか? 不思議だ。自分の身を守る方法が、夫に抱かれる事だと考えているような女が、まだこの帝国に居るとは。皇族や王族は、権利も権限も身体能力も、殆ど差は無い。カッシャーニの基礎体力は私より上であり、ナディラナーアリアの腕力は私より上である。
生まれつきという面もあるが、リスカートーフォンに生まれついているこの女は、鍛えれば基礎体力は私に及んだはず。事実あの二人は、自ら鍛えに鍛えてその能力を得た、それらに関して私は尊敬し目標にもしている。
お前はただ、その才能を埋もれさせただけ。努力をすればゼンガルセンには及ばずとも、それ相応の事はできたであろう才能を、ただ緩慢に生きて今に至っただけ。
私がお前にしてやる事は、お前が処刑されるように陥れる事だけだ。
「私は死にたくない!」
「ならば陛下の正妃となれば良かったではないか。陛下の正妃であれば、あのゼンガルセンとて容易には攻めては来られなかったであろうが。自分で自分の身を守る術を放棄したお前の言葉は、真実味がまるでない。それとも、ゼンガルセンが攻めてくるという事すら考えられなかったのか? あの危険極まりない男が、大人しく玉座を諦めて家を出ると本気で考えていたのか? 自分より格段に劣る兄に最大軍閥の長の座を渡して婿にでもなると? だとしたら、随分と甘い考えだ。そんな考えの持ち主を一国の王にはさせられんな」
お前達が何も手を打たなかったため、此方でゼンガルセンに対して策を講じなければならなくなったのだ。
「……わ、私は」
自分が生き延びたければ、自分に良いような策を講じろ。我々皇族は、皇族に都合の良いように策を講じる。その結果、お前は処刑される事になった。
「お前は間違ったな。ゼンガルセンと信頼関係を築けば良かったのだ。そうしていれば、アウセミアセンを殺害した後、お前を即位させてくれただろう。もちろん即日退位という条件だろうが、それで継承権は破棄する事ができ、お前は晴れて自由の身になれた。それなのに……アウセミアセンと男女関係があった以上、アウセミアセンを殺害するゼンガルセンはお前を信じる事はない」
そしてカウタが訪れ、話しは中断する。
毎夜これの繰り返し。それを一週間ほど続け、最後を迎える。ゼンガルセンがタナサイド王を殺害したという報告が入った。
カウタとエリザベラと私で小さな酒宴を開いた。酒宴といっても、カウタは酒を飲めないため、マグカップに野菜ジュースだが。
私は陛下から与えられたワインをエリザベラに差し出し、
「陛下より頂いたものだ。召使の手など借りず、自らの手でコルクを抜き、私のグラスに注げ」
普通の王女であらば、こんな事を言われれば怒り出すのが普通だが、エリザベラは従った。私を怒らせたくないのであろう。それを拒否して私が怒ると考えるとは、私も随分と低く見られたものだと思う。
そう思われるようにしたとはいえ、王女を王女として扱わぬ皇子に従う王女など、最早奴隷でしかない。いや、奴隷以下であろう。
「ラス。あのね、あのねえ」
グラスに注がれるワイン……これを持ってきてくださったロガ兄上はまだ知らない……ロガ兄上は心を痛めるかもしれないが、それでも私は飲む。カルミラーゼン兄上が薬物の量を計算した……かなり危険な状態になるだろう。
下手をすれば死ぬかも知れないが……私はそれを飲み干した。
「がっ……」
喉が異様に熱くなり、胃から内容物がせり上がってくる。椅子から崩れ落ち、血を吐いた私。そして驚いたように見下ろすエリザベラ。
周囲が慌しくなってきた……一番騒がしいのは……
「ラス! ラス! どうしたの! 大丈夫!」
「……っ……」
カウタ、口から血の塊を吐いてる人間に向かって、大丈夫? は、ないだろう。ああ、全身が熱い……こうなるとは聞いていたが、かなり辛い。関節も一気に熱を持って、動かすと激痛が走る。
硬直していたエリザベラは我に返ったのか、近くにあった花瓶を掴み振り上げた。零れ落ちた水が冷たくて心地いい……これを機会に私に止めを刺そうとするか……それを振り上げて落としても、私には致命傷にはならな……待て! その位置から……狙っているのは……
「ラス! ラス! 確りして! 起きて! 起きてよ! ラス!」
「ばっ」
離れろ、カウタ!
「起きてよ! ケセリーテファウナーフ!」
Copyright © Teduka Romeo. All rights reserved.