ALMOND GWALIOR −280
 ディブレシア、貴女はとてもチェスが強かった。皇帝である貴女は何時も白の駒で、我輩はいつも黒の駒だった。
 勝てた事は無かった。
 だから貴女はこの勝負も、自分が勝つとお思いだろう。
 我輩も二年前まではそう思っていた。我輩の負けは確実だと思っておりました。

 ですが違いました。

 我輩は貴女と勝負できる場所に座っていなかった。
 貴女と勝負をし始めたのは、貴女の歌声の効かない相手、奴隷です。小さな小さな奴隷は我輩達の可愛いザロナティウスの為に ”白き黒の王” を持ち貴女に立ち向かう。

 奴隷は何も知りません。

 ルールを知らない、何より貴女の前に座り、貴女と勝負していることすら知らない奴隷。
 我輩は何時も黒の駒だった。それを不服と思った事はありません。
 我輩は皇位継承権を持ちますが、皇帝の座に就こうと考えた事もありません。貴女は我輩の言葉を信用しては下さらなかったが。
 信用しないから、このような策と立場を与えた。

 貴女は初めて敗北するでしょう。

 我々を思いのままに動かせる歌を紡ぐ貴女だが、奴隷にはそれは効かない。
 たった一人の奴隷が帝国の呪縛を解くと言ったら、貴女はどのような顔をするでしょうな。
 我輩は貴女が負けたら死ぬでしょうな、全てが白日に晒されるのですから、死しかありませんでしょうな。
 それでも我輩は奴隷を応援しますよ。愚かですなあ。

 貴女と勝負をした瞬間から、我輩は愚かであったのですが。

 死者皇帝よ 貴女は今 生者奴隷と戦っている。ディブレシア 貴女は今 ロガと戦っている

**********


 ラティランクレンラセオに中和剤を投与したので、あとはタイミングを見計らってロガと引き合わせるのだが、その前にしなくてはならないことがあった。
「まだ居たのか? ザンダマイアス」
 ”皇君宮”の一角に住む、帝国のかつての主ディブレシア。この区画は人の出入りを禁じている。
「はい、ティアランゼ様。実は皇后に頼み事をされてしまいまして」
 椅子に腰をかけ、ヒールの高い靴を履いた足を組み、降ろされている豊かな黒髪が肩や胸元を飾る。
「なんだ?」
「ラティランクレンラセオに会いたいと」
 額が爪先に触れそうなほど近付いて膝をつき頭を垂れ、皇君はディブレシアに頼まれごとを教える。
「奴隷がかつての性奴隷に会いたいと?」
「はい」
「余には関係のないことだな」
「もちろん。我輩が今日ここに来たのは、我輩自身がティアランゼ様に会いたかったのです」
 皇君がゆっくりと顔を上げる。



「なんのために?」
「殺すために」
「言うのが遅くはないか? ザンダマイアスよ」



 豊かな黒髪で飾られていた胸元から白く鋭い物が突き出ていた。
 ディブレシアは血が滲む自分の胸元を見下ろす。椅子の背もたれごと、一気に突き抜けた皇君の白骨。
 ディブレシアの核と接している部分の皇君の尾は、無数の長い”棘”を出し、脊椎全てにダメージを与えている。
「我輩は鎖に繋がれ飼われた小象です」
 ディブレシアに近付き膝を付く。式典用の分厚いマントの下で注意深く白骨の尾を出し、音を立てぬように大理石の床をつき進み、ディブレシアの背骨を貫く。
 最初から人を殺すことに後悔も恐怖もなかった皇君オリヴィアストル。一生恐怖もなにも持たないだろうと思っていたのだが、いま彼は恐怖していた。
「そうだな」
 助からないことが解っているディブレシアは、慌てることはなかった。
 彼女はそのまろやかで魅惑的な口元に笑いを浮かべ、皇君の言葉を聞く。
「我輩は一生飼われて生きるのです。……だから、飼い主は優しいほうが良いです」
 体内を駆け巡る死の熱と共に、ディブレシアに沸き上がってくる喜び。
「余はそれほどまでに、怖ろしい飼い主か? ザンダマイアス」
 ”何時かは死ぬ”彼女は理解していた ――  誰でも死ぬが、理解して死ぬ者は少ない ―― 死ぬことに恐れはない。
 そしてどのようにして死ぬか? それについても、幾つも考えていた。
 いま自らが味わっている死は、彼女が望んだ死の一つ。皇君はそれを解っているのだろうと、ディブレシアは喉を駆け上ってきた血を口の端から零しながら笑う。
「ええ。貴女様ほど怖ろしい女性はいません。我輩も、そしてデウデシオンも貴女様のことを忘れることはないでしょう。貴女様は我輩にとって初めてにして最後の女性です」
 デウデシオンから自分が消えることはない、それがディブレシアの望む終わり。
「お前が殺してしまっては、デウデシオンから永遠に余は消えぬなあ」


 デウデシオンがディブレシアを直接殺せる日は来なかった。


「我輩は貴女様の忠実なる僕ですので。我輩はお役に立てましたでしょうか?」
 デウデシオンは僅かながらどこかをディブレシアに囚われたまま生きて行く ―― 皇君が自由になるために。
「お前は良い子だ、オリヴィアストル・バーティネイフィルディ・メーディンクロロッセウ」

 皇君はディブレシアの体内から尾を引き抜く。目を見開き血で濡れ鮮やかな唇に嘲笑いを浮かべたまま、彼女は息絶えた。


「お褒めにあずかれたこと嬉しく思います。さようなら、ティアランゼ・グレーディファヴリシ・バイゼンド=バイレンド様。本当にお世話になりました」


 皇君は自身がディブレシアを殺害したことを正当化するつもりはないが、自分が殺さなくても、どのような方法をとってもデウデシオンからディブレシアが消えることはないだろうと確信していた。
 自分が誰にも話さずにディブレシアを殺害する ―― これも彼女の選択肢の一つにあったであろうことも、手の内で踊らされていることも解っていた。
 ディブレシアの目論見を無にするためには、彼女に天寿を全うさせるしかないであろうことを皇君は感じており、そうするつもりだったのだが、思惑に乗っても危険を排除することに決めた。

 皇君は自分のマントをディブレシアの遺体に被せ部屋を出る。

「皇君様、明日のケシュマリスタ王のスケジュールです」
 ロガとラティランクレンラセオを会わせる際に、自分一人ではロガの身に危険が及びかねないので、キャッセルの協力も仰ぐことにした。
「ありがとう、キャッセル。どれどれ……そうだね、ここにしようか」
 笑いとその他のダメージから回復したラティランクレンラセオは明日から式典に参加する。
「分かりました」
 危険を極力排除するために、その合間を縫って会わせることにした。
 もちろん事前に予定を聞くことなどせず、突然行って話だけをさせる。余計な時間を与えて作戦を立てさせないように。
 会う際の注意事項やキャッセルの行動など”攻撃を加えてはいけないパターン”を教え込む。
「キャッセル。もう一つ頼みがある」
 ただ皇君はさほど真剣に教えはしなかった。
 ロガに攻撃しなければ、相手はラティランクレンラセオなので上手くかわすであろうし、キャッセルが居ると解れば無用な攻撃は仕掛けてこないであろうことも解っている。抜け目ない皇君の甥は、相手の実力を的確に判断することができ、皇君はそれに期待していた。
「死体の処理ですか?」
「ああ」
「片付けておきますよ」
 皇君は手招きをしてディブレシアの死体の側へと連れて行き、
「この死体なんだけれどもね」
 マントを剥がす。
 見開いたままの瞳は死してなお燦燦と輝き、死者には見えぬ艶めかしさを持っていた。
「ディブレシア帝に似ていますね」
 キャッセルは死体の顔を覗き込み、特に疑問など持たずに思ったままを口にする。上級階級は容姿が似た者が多いので、ディブレシア帝に似た者がいても驚きはしない。
「ご本人だ」
 皇君の言葉にキャッセルは振り替える。
「……皇君様、冗談がお上手ですね」
 目を丸くして楽しそうに”自然に応えてきた”キャッセルの頭を撫でて褒めながら、
「そうかい? そう言ってもらえると嬉しいよ、キャッセル」

 皇君は”ティアランゼ様を殺してよかったな”と、奇妙な喜びを感じる。

 キャッセルは死体がディブレシアであるとは思わず、いつも通り死体袋に押し込めて、肩に担ぎ無頓着に大宮殿内を歩く。
 彼の性質は有名なので、ほとんどの人は触れることはない。
 兄弟であっても”殺したのか?”程度は聞くが、中身を検分するのは精々デウデシオンかタバイくらい。
 詳しく聞くのは、アジェ伯爵シベルハムくらいのもの。
「慶事の最中には人殺さないように言われてるんじゃなかったのか? キャッセル」
 死体袋を持ち歩いている友人に”殺すのなら俺も連れていけよ”と言った口調で近付いてくる。
「私が殺したんじゃないよ、シベルハム」
「でも死体持ち歩いてると、お前が殺したと思われるぞ」
 シベルハムの一族は”慶事なら、より一層殺せ”がまかり通るが、キャッセルが属する側は”慶事には人をできるだけ殺さないように”という考えで動いている。

 キャッセルが属している側が普通なのだが――

「それは困るね。兄さんの胃袋が壊れたら大変だ」
「我が片付けておいてやるよ」
 胃が壊れるような兄も、困るような弟もおらず、大宮殿内のリスカートーフォン区画に死体処理施設があるので簡単に請け負った。
「そうか? それじゃあ丁重に、秘密裏に処理してね」
「お前がそんなこと言うなんて珍しいな」
 担いでいた袋を床に叩き付けるように降ろし、死体袋の口を開く。死体は俯き加減になっていたので、両手で顔を掴み乱暴に顔を上げて顔を見せる。
「ほら」
 目を閉じさせるようなこともなく、口の隙間から血が溢れ出した跡を拭うこともなくそのまま。
「……ディブレシア?」
 似た顔の者が多く存在し、実際似たような顔は数名いるのだが、シベルハムが”この顔を見て”最初に思い浮かべたのはディブレシアであった。
「良く似てるよね」
「まあな」
 本人のような気がするのだが、
「本人かなあ?」
「かもしれんが、どうでもイイよな」
 既に死亡とされている人間を再度殺したところで、何の問題もないだろうと、
「うん」
 殺すことが好きな二人は気にせずに、シベルハムが死体袋の口を閉じてキャッセルと同じように肩に担ぎ上げた。
「ところで、誰が殺したんだ?」
「えー内緒」
 キャッセルは誰かが殺した分も、自分でやったと申告することがある。人を殺しているのを知られたくないという考え方が良く解らないシベルハムには不思議なことだが、だからと言って深く追求するつもりはない。
 キャッセルを見送り区画へと戻ったところで、秘書たちに式典に参列する準備をしてくださいと告げられる。
「アジェ伯爵殿下。次の式典に」
「そうか。じゃあこの死体袋、第一保存室に入れておけ。厳重に保管しておくんだぞ」
 受け取った部下たちは死体袋の中身を確認することなく、指示に従い死体袋を冷凍保存庫へと丁寧に置き、しっかりと鍵をかけた。

 死体処理を買って出たシベルハムだが、この後しばらく「陛下のご成婚式典の最中にキャッセルから受け取った死体」について忘れており、処理をするのは一年以上過ぎてからになる。

 死や血、裏切りや別れなど全ての物を携えて、皇帝と皇后の挙式は続けられた。


「申し訳ございません、ティアランゼ様。我輩はもう少し生きます。生きていたいのですよ」


 死者皇帝はまことの死者皇帝となり、生者奴隷は皇后となる ――


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