ALMOND GWALIOR −279
翌朝、皇君は侍従長によって起こされた。
「君が起こしにくるなど、余程のことがあったようだね」
「陛下と后殿下……いいえ皇后が」
「何事かね」
皇君はまだ眠っているキャッセルの眦にキスをしてベッドから降り、ガウンを羽織って急いだ。
「着換えは」
「陛下を待たせるわけにはいくまい。平素ならば失礼な格好は避けるが、今日も挙式だ。時間がない」
ゆったりとどれ程危機的状況でも急くことなく歩く皇君だが、この時ばかりは侍従長を置き去りにするほどの速さで進み、召使いたちが着換えを持って立っている扉の前で”離れろ”と指示を出して、息を整える儀式として深呼吸して扉を開かせて、
「如何なさいました、陛下」
”いつもと変わらない皇君”として姿を現した。
「余と一緒に暮らそう!」
皇君が予想してもいなかった言葉。それが傍に立つ、シュスタークの姿に隠れてしまいそうなロガの発案であることは解った。
「皇君さま……あ、陛下」
何事か? とやって来たキャッセルの姿を見て、
「キャッセル? …………余は知らなかったが、皇君とキャッセルは恋人同士だったのか!」
シュスタークは複雑ながらも喜んだ。
「我輩とキャッセルはそのような。ガウンを持て」
皇君は手を二度叩き、ガウンを運ばせる。
キャッセルは皇君の耳元に”全裸はまずかったですか?”と尋ねる。
「そうなんです、陛下。私と皇君さまは恋人同士なんです」
皇君は”当然だ”と笑いを含んだ声で返事をして、キャッセルの肩にかけてやる。
「ではキャッセルからも頼んでくれ!」
「なにをですか?」
「皇君宮、今日からは皇后宮となるここで一緒に暮らそうと説得しておるのだ」
「皇君さま、陛下に説得なんてさせるほど頑なに出て行こうとしなくても。折れるべきところではあっさり、ぽっきり、ぱっきり、枯れてる大人らしく折れてください。皇后、こちらを向いても大丈夫ですよ」
皇君とは違うモスグリーンで、裾を引きずるガウンを着たキャッセルが、全裸に驚きシュスタークの影にかくれてしまったロガに声をかける。
「我輩はたったいま聞いたのだが、それでも我輩が悪いのかね? キャッセル」
皇君は黄金髪を右手でかきあげて笑う。その笑いには毒気も狂気もなく、ただ楽しげに《困ったな》と。
「もちろん」
「あの! 私からもお願いします。一緒に暮らしましょう」
「舅と一緒に暮らすというのは、息が詰まると思いますが」
「そんなことありません!」
「大丈夫ですよ、皇君さま。皇后の息が詰まるようなことがあったら、あの有能な女官長さまが、さっさと皇君さまを叩き出しますから」
「それはそうだね」
「半分だけでいい。余がいる帝星に半分、あとの半分は自由に暮らしてくれていいから。出ていかないでくれ」
―― お前はもう用無しだ、ザンダマイアス。大宮殿から出て行ってよいぞ ――
「皇帝と皇后にここまで請われて、出て行く愚か者もおりますまい」
「ありがとう! ロガ!」
シュスタークは喜びを露わにしてロガを抱き上げて、くるくると回る。
「ナイトオリバルド様」
「言って良かった! 良かった!」
「陛下、回し過ぎです。后殿下……じゃなくて皇后の目が回ってしまいます」
「あ! すまんロガ」
「いいえ」
床に降ろされたロガは、足元がおぼつかなく、黙って立っている事ができない状態ではあったが、具合は悪くなかったのでもう一つの目的を告げるため、必死に皇君に近付いた。
「大丈夫ですから、ナイトオリバルド様。あの……皇君様ちょっと……」
「はいはい。なんで御座いましょう?」
「ソファーかなにかあったら、横にならせて欲しいのです。そこまで連れていってください」
「畏まりました。キャッセル、陛下をテラスにご案内しなさい。陛下、我輩が皇后をお連れしますので、そちらでお待ちを」
「わかった。ロガあのな……」
「喜んでもらえてとても嬉しかったです」
「皇后、陛下は少し離れました。なにか我輩に?」
「気付いてもらえて良かったです」
「お褒めにあずかり光栄です」
「あのですね。挙式の間にケシュマリスタ王と会いたいのです。陛下や帝国宰相閣下には内緒で」
「理由は聞きませんが、会わせたくはありませんな……ですがその表情からすると、我輩の意見など聞き入れてはもらえませんでしょうなあ」
「どうしても、私一人で会う必要があるのです」
「我輩とキャッセルが護衛に付くことを許して下さるのでしたら、二日後にでも会えるように取り計らいましょう」
「お願いします」
「皇后、朝食の用意が整いました」
―― お前はもう用無しだ、ザンダマイアス。大宮殿から出て行ってよいぞ ――
「貴方様から用無しと言われた我輩ですが、陛下と殿下にまだ必要とされておりますので、残ることに致します。死者皇帝よ、生者皇后の勝ちです。完全勝利といっても良いのではないかと、我輩は思います……もっとも、貴方様は勝ち負けすらどうでも良かったのでしょうが」
ロガの希望を叶えるべく、未だ笑い薬を投与されてベッドの上で笑い転げているラティランクレンラセオに中和剤を投与しなくてはと、皇君はキャッセルに注文し品が届くまで、詩集を嗜みながら待っていた。
「皇君殿下」
「キャッセルから届いたかね?」
「いいえ。ライハ公爵殿下より書状です」
従僕が浮き彫りで蒲公英が描かれた紅縞瑪瑙の箱を差し出した。
「見事な品だねえ……文字もそれに劣らず見事だ」
紅縞瑪瑙の箱の蓋を開く。内側は緋色に染められた、肌触りのよい子羊の革が張られている。
微かに感じるアイビーの香りは認められた文字から。
美しいというよりは”完璧”と評したくなるカルニスタミアの文字と文章に目を通した皇君は丁寧に折りたたみ、箱へと戻した。
皇君は届いた手に中和剤を持ち、ラティランクレンラセオに付き添っているキュラティンセオイランサの元へ――
**********
キュラティンセオイランサはラティランクレンラセオが引き笑いを続けている病室の前で、長椅子に座り嫌々警備をしつつ、小説を読んでいた。
もともと読みたかった本ではないのだが、それにしても内容が頭に入ってこないのは、聞こえて来るラティランクレンラセオの笑い声のせいである。
完全防音ではないのは、廊下にいる者に用を言いつけることもあるので、敢えて声の通りがよくなるように作られている。
笑い続ける以外は至って健康なので、病棟に待機しているのはキュラティンセオイランサだけ。
「……?」
この姿をさらしたくはないということで、近付いたものは容赦無く殺害するよう、笑い過ぎて苦しい息のもと命じられたキュラティンセオイランサは、足音を聞き、まったく頭に入っていない小説を栞も挟まずに閉じ顔を上げる。
「キュラ、王の様子はどうだね」
ラティランクレンラセオの笑い声を効果音に現れた、何時もと変わらぬ薄笑いを浮かべた皇君。
―― 皇君様に笑い薬投与するとどうなるんだろう? この独特の薄ら笑いを貼りつけたまま……何時もと変わらないじゃないか
「皇君さまの方がご存じでは」
そんなことを考えながら、キュラティンセオイランサは”知っているでしょう”とばかりに答えた。機動装甲操縦席内で原液を投与され、肋骨が折れるほど笑い出したラティランクレンラセオ。
その後、素直に中和剤を打てば良かったのだが”こんなに笑っているのを一気に止めてしまうと、体が驚いてしまうに違いない。ここは笑い薬を徐々に薄めて、ゆっくりと笑いを収めるべきであろう”と、何時も薄めた笑い薬を服用されているのですか? と問われかねない皇君が提案した。
皇君の言い分は誰が聞いても”そりゃないだろう”であったのだが、思うのと意見は別である。
『そうかもしれないな』(ランクレイマセルシュ)
『そうだな』(ザセリアバ)
『ここは年長者の意見に従うべきだな』(デウデシオン)
シュスタークとロガ以外、ラティランクレンラセオが居ようが居まいがどうでも良いので、皇君の好きにさせることにした。
カレンティンシスはこの場にいなかったので、決定に意見することはなかった。精神が感応しているので、笑い転げているラティランクレンラセオの近くにいると、一緒に笑ってしまうため、出来る限り離れているのだ。
もっともこの場にいたとしても、意義は唱えなかったであろう。
『ぎゅほへあああ(貴様!)」
『ほらほら、落ち着いて、ラティランクレンラセオ」
そしてラティランクレンラセオはデウデシオンに……なる運びとなり、未だ笑い薬を投与されて透き通るような声で、異様な笑いを叫んでいる。
「まあね。そうそう、我輩は大宮殿に残ることになってね。王のお怒りを和らげるために、中和剤を持って来たんだ」
「……どうぞ」
キュラは扉の前から身を脇にうつして”どうぞ”と手で合図をおくる。だが皇君は動かず、手元の薬を眺めながら、聞いて欲しいのか? 言いたいだけなのか? 判断し難い態度で、キュラが聞きたいとも思わない話をし始めた。
「キュラ」
「はい」
「我輩はこの通りザンダマイアスで居場所がなくて、居場所を得るために色々なことをしたよ」
ケシュマリスタでは《ザンダマイアス》は両性具有と同じく隔離される。その皇君がいかにして”皇君”となったのか?
「……」
キュラには”解らない”
多くの者は知らず、帝国宰相であるデウデシオンも知らない。皇君がここへ来て”皇君”となった理由は日の目を観ることなく、消えてゆくのが最良だとキュラは思った。
ケシュマリスタではザンダマイアスに名を付けることはない。だが皇君はオリヴィアストル・バーティネイフィルディ・メーディンクロロッセウという、いかにもケスヴァーンターンらしい名を持っている。
だがその名を先々代の王が与えていなかった。では誰が王の子に名を付けることができたのか?
名を持たなかった王子に名付けた人は、皇君を”皇君”として迎えた人物 ―― 皇帝 ―― 以外考えられない。
だからキュラは解らない振りをする。そうしなければ死ぬと、覚えのある感覚が肌を覆うからだ。
「その結果、我輩は居場所を手に入れることができた。だがこれが他者の不幸の上にあることも知っているから、手放す覚悟を持って生きてきた。大宮殿を出る際にすべてを失うだろうと思いながら。切望していた居場所ではあったが持つと意外に辛くて、手放せること少しだけ嬉しくも思っていたのだ。だがね、陛下と皇后が残ってくれと言ったので、残ることにした。面倒に巻き込まれて、これからも必死にこの居場所に縋るのだ」
「……」
―― まさか陛下の祖母の死に……これ程の人が関係していたとは
キュラは懺悔ではなく、あったことを懐かしむように語る皇君の言葉を前にし、早くこの場から逃げたいと感じていた。
シュスタークに暗示をかけた罰として処刑されたラグラディドネス。それに深く関わったディブレシアの夫たち。そして処刑した王たち。
「みんな罪人だと言っておこう。だから気にする必要はない。誰も彼も罪の見返りとして場所を手に入れた」
「……」
ディブレシアが言われている通りの女ではないことは、シュスタークの暗示解除宣言でキュラも解っていた。それ以上深入りしてはならないことも。
「我輩もキュラもこういう形でしか居場所を手に入れられないのだ。不幸の上に得た幸せであろうが大丈夫だ。胸を張って享受するが良い」
「なにがですか?」
「カルニスタミアが呼んでいるよ。行ってきなさい。ラティランクレンラセオのことは任せておきなさい」
「……失礼します」
「カルニスタミアが一緒なら大丈夫だろう。カルニスタミアにとってもね」
扉を開き皇君は笑いで体が暴れるために縛られているラティランクレンラセオの傍へと近付き、
「ラティランクレンラセオ、良い薬を持って来たよ。はいはい、今度は間違わないから。大丈夫、エーダリロクに調整してもらった物だから。すぐに良くなるよ」
耳元で囁き、先日”間違って”投与した時と同じように注射器にセットして首筋に打った。
―― アメ=アヒニアンの子だったらしいけどね ――
**********
ラグラディドネス皇太后を処刑した理由は《公にできないもの》だったのだよ。
陛下に暗示を掛けるようにティアランゼ様に依頼したから? 確かにそうだが、あの暗示は必要だとも感じていた。
だが罰するとティアランゼ様は言われた。
《公にできない理由を作る》とな。
ティアランゼ様はクルティルザーダ帝のただ一人の御子であった。だからティアランゼ様が皇位継承権を喪失すると帝国は混乱してしまう。
確かに「ディブレシア帝」ではあったが、あることでその権利は失われてしまう。
そう、親が子を産むとね。再婚はいいけれども子は駄目だ。
ラグラディドネスがクルティルザーダ帝以外の男の子を孕めば、ティアランゼ様の皇位継承権は失われる、即位していたとしても。
そうだ、彼女は妊娠した。妊娠させられたと言ったほうが正しいだろうね。
皇帝の母君に暴行する、その役割を仰せつかったのは……ねえ。
もちろん困るよ。王家としてはティアランゼ様から皇位継承権が失われてしまっては。そうだよ、折角誕生したシュスターク陛下の継承権まで失われてしまうのだ。
だから抵抗はしたのだけれど、
「余に犯されるか? 王ども。貴様等全員を搾り取って殺すことなど容易いぞ。ここにいる夫どもを殺そうか? そして次ぎに貴様等の息子をもらおうとするかな。貴様等が子を作る速さと、余が貴様等の子を搾り取り殺す速さ、どちらが上かな? 貴様等なら解っているのではないか?」
ラグラディドネス一人の命と王家の存亡だ、天秤にかけた者は誰一人いなかっただろう……そう我輩は思うね。
王たちは陥落して、ティアランゼ様の忠実なる僕である私たちが向かったよ。向かう前に一つだけ頼んだ。
それは”誰の子であるか?”を絶対に調べないで欲しいということだ。
ラグラディドネスを殺すために誕生した命は、ラグラディドネスと共に去った。誰の子かは解らない。
後悔? していないよ。
我輩は後悔などはしないタイプでねえ。嫌ではあったかもしれないけれど、自分がもう一度ティアランゼ様の寝所に入ることを考えれば、むしろ率先して行動していたかもしれないね。
ラグラディドネスが自らあんなことを仕掛けなければ、おそらく……デキアクローテムスが同じ目に遭っていただろう。幼帝である陛下から”外戚血統による後ろ盾”を奪うのが目的だから。そう、ティアランゼ様は最初から帝国宰相はデウデシオンと決めていたのだ。
皇帝陛下がお決めになったことだ、我輩はただ従うしかなかったのだよ。
―― 昔話、楽しんでくれたかね? エダ公爵 ――
病室に入り全身を拘束され、笑い続けているラティランクレンラセオに近付き耳元で囁く。
「ラティランクレンラセオ、元気かね」
笑い続けるラティランクレンラセオは答えなかった。
「中和剤を持って来たよ。いま打つからちょっと待ってくれたまえ。そうそう、ブラベリシスがねえ、フォウレイト侯爵に暴行を働こうとしたから我輩が殺したよ……君には関係ないか」
笑いが収まり襲いかかってくる眠気に朦朧としながら、ラティランクレンラセオは皇君の話を聞いていた。
**********
キュラティンセオイランサは指示通りにカルニスタミアの元へと行き、許可書を手渡された。
「兄貴が許可してくれた。これで正式につき合うことができるな、キュラティンセオイランサ」
「なんでそんなに正面切ってくるかなあ、カルニスタミア。大体僕さあ……」
「儂は全てを受け止める自信はあるから、いくらでも過去をさらけ出して良いぞ」
なんでも受け止めると言われたら、キュラティンセオイランサには逃げ道はない。
「ありがと……あのさ、僕一人でカレンティンシス王に挨拶してきたいんだけど、いい?」
「構わんぞ」
カルニスタミアが連絡を入れ、許可を取りキュラティンセオイランサを連れてゆく。ドアを開き入るように促し、カルニスタミアはドアを閉めて去った。
室内にはカレンティンシス。
―― ローグ公爵の気配すらないな。不用心だなあ
「何用じゃ?」
「えーと。どうして僕とカルニスタミアのことを許可したんですか」
「貴様には関係無かろう」
「当時者なのに関係ないと言われると……」
「言いたいのはそれだけか?」
「いいえ。僕、あなたのことレイプしたんですけれど、それでも良いんですか?」
カレンティンシスは立ち上がり、キュラティンセオイランサの元へと近寄り、襟首を乱暴に掴む。
「ラティランクレンラセオに命じられただけのくせに、よう言うわい」
目の前にいるのは両性具有だが、テルロバールノル王だと。キュラティンセオイランサは息を飲みその姿に釘付けとなる。
「……」
「我が身可愛さでしただけのくせに、取引材料に使えるとおもうたか?」
キュラティンセオイランサは自分の膝が自然に折れたことを、不思議とは感じなかった。同じ目線に立つことが許されない相手。
力抜けるように跪き、仰ぎ見る。
「儂を誰だと思うておる。人造人間ごときが対等に取引してもらえると思うな」
王にはなれない両性具有であることを、キュラティンセオイランサは知っているのにも関わらず。
「王と対等に取引しようとした僕が愚か者でした。申し訳ございません」
ラティランクレンラセオがカレンティンシスに執着する気持ちが分かった。同時に自分がこの王の実弟に執着する理由も分かった。
悲しくなるほどに自分はラティランクレンラセオの弟であり、人造人間なのだ。何度も何度も突きつけられる事実だが、このときほど痛感したことはない。
「退出することを許していただけますでしょうか?」
「儂に礼をしないつもりか? この痴れ者が」
掴まれていた襟が自由になったキュラティンセオイランサは頭を下げて、カルニスタミアと付き合うことを許してくれたことに対して感謝を述べた。
八回ほど言い直しを強要されたが、無事に受け入れてもらうことができた。
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